稽古(けいこ)(11.7.30掲載) 
 

稽古事・習い事の心構えとして、「相手が自分より技量が劣ると思う場合は、相手と自分の技量の差はなく、自分と同じだと思う場合は相手の方が優れている。自分より優れているなと思う場合は、その技量には数段の差があると思え」、というような意味のことを以前読んだ覚えがある。慢心を(いまし)める言葉である

インターネット辞書「コトバンク」で、“稽古(けいこ)”を検索すると次のように説明している。

<<本来は中国語で「稽」は考える、「古」は昔のことを意味する。つまり、昔のことを考え調べて今どうしたらよいかを知るという意味で、そこから書物を読んで学ぶことという意味になった。これが日本では中世以降、学問から離れて芸事や武芸に限定して、習うことという意味で用いられるようになった>>、と書いてある。

ちなみに、“習う”とは、繰り返し練習して知識や技術を見につけることである。また“習うより慣れよ”ともいう。これは、物事を身につけるには、人から教えてもらったり習ったりして頭で覚えるよりも、実際に経験を積み、からだで覚えるほうが早く身につくということである。自分で、様々な体験をし、少しずつ体得し、創意工夫を加えていく。このようにすることが、自分のものになりやすくなるということであろう。

稽古とは昔のことから学び、今どうするかを知ることでもあるという。稽古に関して書物から興味を引いた言葉を記してみる。

 

 上手(じょうず)下手(へた)の手本、下手は上手の手本なり”

これは、『花伝書(風姿花伝)』に述べられている言葉である。南北朝時代から室町時代にかけて、それまで卑俗(ひぞく)滑稽物(こっけいもの)まねの芸能とされていた申楽(さるがく)能楽(のうがく))を、観阿弥(かんあみ)は芸術にまで高めた。その観阿弥(かんあみ)が口述したものを、長男の世阿弥(ぜあみ)が筆記したものである。

600年前に書かれたこの『花伝書』は、秘伝の書とされ、長い間世に知られずに過ぎていた。これが明治後期になって初めて一般に知られるようになり、能楽の世界に新しい光を投げかけたという。

世阿弥編・川瀬一馬校注、現代語訳『花伝書(風姿花伝)』から、この箇所の引用である。

<<どんな変てこりんなシテ(主役)でも、もしよいところがあると思ったならば、上手な者もこれをまねするがよい。これが上達する第一の方法だ。もし他人の善いとこを見たとしても、自分より下手な者のまねはすまいと思う手前勝手な気持ちがあるならば、その心にしばられて、自分の悪いところも恐らく知らぬに相違ない。これがつまり、道を究めぬ心情というものだ。また、下手な者も、上手の悪いところがもしわかったならば、上手でさえ悪いところがある。いわんや未熟な自分のことだから、さだめし悪いところが多いであろうと思って、それに気を付けて、他人にも尋ね、自分でも工夫するならば、それが益々(ますます)稽古になって、能は(すみ)やかに上達するであろう。もし、そうではなくて、自分はあんな風にへまなことはしはすまいものをと、慢心するならば、自分の善いところをも、本当には知らないシテであろう。善いところを知らないから、悪いところをもよいと思うのである。そこで年はとっても能は上達しないのである。これが下手の心情というものだ。

こういう次第だから、上手な者でさえもわがまま勝手な気持ちでいると、能は(さが)ってしまう。いわんや未熟な者の手前勝手はなおさらのことだ。そこでだれもみなよくよく反省するがよい。上手は下手の手本、また下手は上手の手本になるものだと思って工夫するがよい。下手の善いところをとりあげて上手の得意芸に組み入れるということは、なんとうまい考えではないか。他人の悪いところを見るのさえ自分の手本になる。いわんや善いところを見ればなおのことだ。まえに「稽古はうんとやれ、自分勝手はいけない。」と言ったのは、このことだ。>> 注:〈 〉は、引用者記

 

 七分(ななぶ)の心を(きょ)の手に置け”

これは『茶味』に記されている言葉である。ここ2年ほど、有楽(うらく)流の茶道(さどう)を習っている。月一回の稽古なので、点前(てまえ)の腕は遅々として進まない。しかし、皆勤賞として、奥田正造著『茶味』を先生からいただいた。大正9年に書かれた本である。茶道の由来から、茶道に対する心構え、千利休(せんのりきゅう)やその他の茶人に関する逸話(いつわ)などが書かれている。この言葉が出る箇所からの引用である。

<<扱い運び等の所作(しょさ)に於いて、体に働く部分と働かぬ部分とがある。この働く部分を実、働かぬ部分を虚という。手でいえば実の手は仕事をする(だけ)に注意が集まり、従って、見苦しいことはないが、虚の手は忘れ果てられて乱れが出る。それで七分の心を虚の手に置けと(いまし)めてある。>> 

茶碗に添えるだけの手、(ひざ)に置くだけの手などの動かさない手にこそ、意識を持つべきだという。何もしない手、目の視界から外れた手は、とかくなおざりになりがちである。

 

“所作は、重きを軽く、軽きを重く”

これも『茶味』からの引用である

<<重き物を苦しそうに扱うは、(ただ)に見る目に粗慢(そまん)で、威儀を損ずるばかりでない。見る心に安易の情を起こさしめない。軽き物を軽々しく扱う心のゆるみは意外の失策を招く原因である。『強きに弱く、重きを軽かれ』という(ごと)く、(かま)水指(みずさし)(ごと)き重きものを運びては、従容(しょうよう)の姿を失わず、茶杓(ちゃしゃく)羽箒(はぼうき)(ごと)きを軽きものを動かしては、荘重の心を忘れないように扱うがよい。『小は大に、大は小に』という戒めもまたこの半面である。>>

茶筅(ちゃせん)を置くときは重いものを置くようにゆっくりと、(なつめ)(茶入れ)の清めには全力で、七寸の茶杓(ちゃしゃく)を清めるには、百間(ひゃっけん)長柄(ながえ)をという心持で、いずれも呼吸に合わせての所作を、心がけるように注意されている。

 

その道を究めた人のこれらの言葉を()みしめ、稽古に活かし励みたい。

 

参 考

世阿弥編 川瀬一馬校注、現代語訳『花伝書(風姿花伝)』講談社文庫

奥田正造著『茶味』方丈堂出版

 
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