雑録2006.2.8 救急車
 

1月22日の日曜日の夕方、妻が、胸が締め付けられると訴えた。これまで何回かこの症状がみられたが、10分ぐらいで(おさ)まっていた。今回は30分ぐらいたっても治まらない。救急車を呼ぶことにした。5分くらいで救急車は来た。循環器科がある救急病院の何ヶ所かに連絡を取ってくれたが、ベットに空きがない、担当の先生がいないなどで、病院が決まるまで30分以上、回転灯を回した救急車を自宅の前にとめていた。自宅の前に住んでいる妻の幼なじみが、救急車のガラス越しに心配そうに、「ひろ子ちゃんなの、ひろ子ちゃんなの」、と妻の名を私に問いかけてくるのにうなずく。

この間、車内では、脈拍計を取り付け、酸素マスクを用意し、また、これまでの経過や、コレステロール予防の薬を服用していることを話し、書類に住所・氏名・生年月日その他を記入したりした。

 

運ばれた病院は、新大久保駅近くにある総合病院である。

救急病棟の診察室の前のベンチに、60歳代の婦人が座っている。「救急車で運ばれたんですか」と話しかけると、ご主人が救急車で運ばれてきて診察室にいる。二週間後にこの病院で心臓手術をうける予定になっている。夕方、酒を飲み、ニトロ(狭心症の薬)を飲み、風呂に入って倒れ、大騒ぎになって連れてきたという。カーテンを(へだ)てた診察室から、回復した豪快なご主人の声と医者の声が伝わってくる。奥さんは「なんだったんでしょうね、あの騒ぎは」といいながら、呼ばれて診察室に入っていった。靴下をはいてという奥さんの声に、「いらん」と言いながらサンダル履きのご主人が出てきた。

 

呼ばれて妻のいる診察室に入る。妻は容態が治まりベットに腰掛けている。医師は、心電図をとり、血液検査とレントゲン検査を行ったが異常は見つからないという。

5年前に自宅近くの総合病院で、傾斜して動くベルトの上を歩く“トレットミル検査”をしたが、心臓には異常が見つからなかったこと。誕生月健診を受けた医院の医師の指示により、2年ほど前からコレステロールの値を下げる薬を服用していることなどを妻が話す。医師は狭心症かもしれないが、この病気は、エコー検査でも、MRI検査でも見つからないことがある。正確な判断をするには心臓カテーテル検査しかないという。ニトロ錠を出すので、また症状が出たらのんで様子をみてくれといわれ、帰宅した。

 

翌日、以前インターネットで調べた、六本木にある循環器専門病院に電話をしてみた。電話で受け付けた人は、妻が話すこれまでの症状や昨日の経過を聞き、次のように(すす)めてくれた。

「その日の内に帰宅させたのだから、重篤(じゅうとく)な状況であるとは思えない。症状が再び出て、ニトロ錠をのんで回復したなら心臓の病気の可能性があるので来院して下さい。もし、回復しないのであれば、心臓病以外の原因も考えられるので、総合病院のほうがいいと思います」。

現在は、漢方薬系の心臓薬「救心」を服用して、様子を見ている状態である。

 

今は移転したが、自宅から歩いて10分ほどのところに、循環器専門の榊原記念病院があった。

妻の父は、朝、胸の痛みをガマンしながら、一人で歩いてその記念病院に診察を受けに行った。医師が、よくここまで歩いて来た、即入院だと言う。会社に行かねばと答えたところ、あなたは死にたいのかといわれ、入院した。心筋梗塞で心臓の三分の二近くが機能停止しているという。手術もできない状態で、その日から退院するまで7ヶ月かかった。昭和53年の60歳のときである。

うなぎは4分の1、マグロのトロはふた切れ、好きな酒はだめ、などと食事制限を言い渡され、当初は妻のつくる食事を守っていた。階段を上がる時に息は切れたが、日常生活は、ほとんど影響がないように見えた。

それから12年後に発作がおき、榊原記念病院に救急車で運ばれた。動脈瘤破裂をおこしており、病院に運ばれてから2時間後に亡くなった。この時期の体形は、心筋梗塞の起こる前の恰幅(かっぷく)の良い姿にもどっていた。

 

私の父は、60歳半ばに狭心症にかかった。それ以来、ニトロを持ち歩き、ベットの脇には、酸素ボンベを置いていた。発作のたびにのむニトロの劇的な効果が、慢性化して効かなくなるのではないかと自分で判断し、ニトロ錠剤を分割して、のんでいたのが記憶にある。減塩しょう油などを使用していたが、いつのまにか止めてしまった。酒が好きで、晩酌一本ぐらいなら体に良いと医者から言われたといって、近所の瀬戸物屋で一番大きな徳利(とっくり)を自分で買ってきて、毎晩自分でお燗し、時間をかけて飲んでいた。私が実家に帰ると、生協から取り寄せている酒の一升瓶の(から)が、いつも並んでいたのを覚えている。

「婦人科以外の診療科にはすべてかかった」と半分は冗談で言っていた父は、丈夫な母が先に亡くなるとは思ってもいなかったと、母が亡くなったあとで話していた。老い先が短いんだから楽しみをガマンすることはないと、タバコは制限なく吸っていた。

そのうち発作も起きなくなり、酸素ボンベはホコリをかぶり、父は、平成7年88歳で亡くなった。

 
 “雑録”にもどる
 トップページにもどる