雑録2009.10.6 茶道と正座
 

最近、“抹茶(まっちゃ)に親しむ会”で、抹茶の()て方と飲み方を習い始めた。教室は、禅道場で月一回開かれる。最初に「茶の湯」について書かれたプリントを読んだり、生け花・茶器などの説明を受け、そのあと実技に入る。先生(女性)の流派は「有楽流(うらくりゅう)」である。

千家系の流派を中心とする町方(まちかた)の茶道に対して、有楽流は、武家茶道(ぶけさどう)あるいは大名茶と称されている流派の一部である。大名茶の流派として、ほかに遠州流、石州流、上田宗箇流、小笠原家茶道古流などがある。

有楽流は、千利休(せんのりきゅう)の弟子で織田有楽斎(うらくさい)が始めた流派である。織田信長の父、織田信秀には127女の子供があった。織田信長は次男、有楽斎(うらくさい)と号した織田長益(ながまさ)は11男であり、信長とは兄弟である。

稽古(けいこ)の時間は90分。お尻の下に二つ折、四つ折りした座布団(ざぶとん)を敷いてもよいことになっており、敷いてはいるが、我慢しながらほぼ正座で通す。

茶道というと、女性の和服姿での野点(のだて)、正座してのお点前(てまえ)のイメージが浮かぶ。しかし、最近読んだ丁宗鐡(ていむねてつ)著『正座と日本人』、矢田部英正著『日本人の坐り方』には、この私のイメージをくずすことが書かれている。

 

茶道と女性

江戸時代、女性が茶道(茶の湯)をすることはなかったという。明治に入ると文明開化の(あお)りを食い、茶道は前時代の古い文化と見なされ、また茶道をたしなむ層は武士の一部と富裕な町人などに限られていたため、茶道の人気は没落の一途(いっと)をしばらくたどった。それが女子教育に茶道が取り入れられ、茶家にとって起死回生の順風が吹き始めた。『正座と日本人』では次のように述べている。

 

<<江戸時代には、女性が茶の湯をすることはほとんどなかったはずです。茶会は武将たちの面接の場であり、茶の湯は武将たちのたしなみとして発展しました。そこに女性の入り込む余地はありません。また、狭い茶室で師匠である男性と女性が一緒にお茶を飲むのも、ありえないことでした。

それを変えるきっかけの一つは、女子教育の中に茶道が取り入れられたことです。1875(明治8)年、跡見花渓(あとみかけい)は跡見女学校を創設し、そこで茶道も教え始めました。当初、跡見女学校に集まった生徒は良家の子女が中心で、その後、跡見女学校は跡見女子大学などに発展していきます。

明治の半ば以降、跡見女学校に続くように、華族女学校(のちの女子学習院)や共立女子職業学校でも茶道が教えられるようになります。裏千家でも、明治の末頃には十四世淡々斎宋室が京都第一高等女学校へ指導に出向き、高等女学校茶儀科教員の資格が与えられるようになります。

こうして、いわゆる良家の女子を中心に、茶道は女性のあいだにも広まっていきました。その際、茶道は正座をして行われました。アグラや立て膝をして行われることはありませんでした。>>

現在、茶道をたしなむ人は、女性のほうが多いと思われる。しかし、室町時代の村田珠光(じゅこう)千利休(せんのりきゅう)から連なる茶道は、男性中心に伝えられ、明治になるまで女性には無縁であったとは驚きである。

 

茶道と正座

茶道は、昔から正座で行っていたと思っていた。しかし、先の『正座と日本人』では、茶人はもともと正座をしていなかったと強調している。

茶道を大成した千利休、利休の師にあたる武野紹鷗(たけのじょうおう)千家三代目であり三人の息子たちがそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家を興した千宗旦(せんそうたん)江戸時代に江戸千家を創始した川上不白(かわかみふはく)などの肖像画や木像は、“アグラ”や坐禅の座法である“半跏趺坐(はんかふざ)”である。さらに千利休の(まな)弟子であった細川三斎(ほそかわさんさい)の伝書『細川茶湯之書』には、「客が安座してくつろいでいる時は、主人は片膝を立てていた」と記している、などの例をそれぞれ詳しく説明し、次のように述べている。

 

<<これらを総合して考えると、寺院の儀礼的な飲茶茶礼から亭主と客が心を通わせる茶の湯、さらには精神性を高めた茶道へと発展する過程に、正座はまったく関与していなかったといえそうです。少なくとも江戸時代後期までは正座と茶道を結びつけるものはないと考えるのが妥当です。また、茶会における座り方は明治時代になるまでは自由だったと、多くの専門家が指摘しています(『文化としてのマナー』熊倉功夫、岩波書店)>>

 

『正座と日本人』の著者は、正座が武家を中心に広まったのは江戸時代中ごろから後半であると推測している。

江戸城内では刃傷沙汰(にんじょうざた)がときどき起きていた。そのため、刃傷沙汰を防止する意味を含めて、足がしびれ、刀が抜きづらく、機敏な動作に支障をきたす作法が注目された。やがて各大名が将軍に拝謁(はいえつ)する際、動きづらい長袴(ながばかま)を礼装にして、正座をとらせるようになった。これが八代将軍・吉宗(16841751)の代からとしている。

この支配階級(=武士階級)の作法である正座を、明治新政府は、正座の習慣がなかった庶民にも、正式な作法として勧めた。これが、女子教育の茶道にも取り入れられた。茶道と正座の関係は、思っているほど深くはないようだ。

矢田部英正著『日本人の坐り方』ではつぎのように述べている。

<<「正坐」という坐り方についての常識も、私たち日本人の頭のなかに刷り込まれた「近代の偶像」なのではないだろうか。「これこそが正しい坐です」という基準が定まってしまうと、それ以外の坐り方は「正しくない」「不作法である」という風にイメージは連鎖して、「崩し」や「(くつろ)自由てい

「立て膝」が正式な作法であった江戸時代初期の茶道では、形にとらわれて窮屈な姿勢で点前(てまえ)をするよりも、本人にとって自然であることの方をより大事にする思想を、千道安や片桐石州らがもっていたとされる。歴史に学んでいたならば、日本人にとっての美の基準は「自然であること」を指針としてきたはずで、それは茶人が追求した「崩しの美学」における人為性の排除にもあらわれているはずなのである。>>

 

追記1 坐と座と座法

現在、「坐」と「座」の漢字は、「座」に統一されている。本来、「坐」は「すわる」の意で動詞的に用い、「座」は「すわる場所」の意で名詞的に用いた。

 今日、“正座”と呼ばれる座法は、本来は「かしこまる」とか「つくばう」「跪坐(きざ)」「端坐(たんざ)」などと呼ばれ、主として神前、仏前での儀礼的な場面で行われ、また主君に対して家臣がかしこまる姿でった。そして庶民が日常的に正座をするようになったのは、畳の普及や座布団(ざぶとん)の使用が正座を広めた側面あり、それらが庶民に普及し始めた明治末ではないかという。

歴史上の女性の座り方については、源頼朝の正室・北条政子はアグラ、豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ)の出家姿は右立て(ひざ)姿、上杉謙信の姉が右立て膝姿、さらに、徳川家康の長女亀姫、徳川二代将軍・秀忠夫人の小督(おごう)の方、五代将軍・綱吉の生母桂昌院などなどが右立て膝姿であったことを、後世に残す正式な姿として作られた肖像画や木像によって正座と日本人の著者は検証している。

明治になって正座の基準が定められたことで、日本にあった“坐の文化”がすたれてしまったと、先の『日本人の坐り方』の著者は次のように述べている

<<「正しい基準」というのは、それが定まると同時に基準と対立する「正しくないもの」を排除してしまう。近代以前は、「胡坐(あぐら)も「安坐(あんざ)も「立て(ひざ)有用り方生活位置てい、「坐」しい基準ってというの、い基準作法」レッテルったる。永い日本の伝統最近近代文化基準ない、という本当ないろうか。>>

立て膝やアグラは、行儀が悪い座り方、くつろいだ座り方とされている。しかし、これらもかっては“正座”であったのである。

 

追記2 喫茶法の分類

張建立著『茶道と茶の湯―日本茶文化試論―』の中で、日本における喫茶法を分類している。まず、茶葉を食する喫葉法と、湯水で茶葉より抽出した成分を飲む喫汁法に分けている。現在、広く行われている茶道は喫葉法、家庭などで急須に入れてから飲むお茶は喫汁法になる。

 

喫茶法

喫葉法

喫汁法

煎茶法

点茶法

煎茶法

(りん)茶法

茶葉の形状

葉茶か抹茶

抹茶

葉茶

葉茶

摂取内容

茶葉の全て

茶葉の全て

茶汁

茶汁

 

 

摂取方法

釜などで煮て茶葉そのものを全て喫す方法

茶碗などの器に入れ、湯を注ぎ茶筅(ちゃせん)と同じ機能を持っている道具でかき混ぜて喫す方法

釜などで煮て茶葉からの煮出し汁だけを喫す

釜で煮ることなく急須のような器に茶葉と湯を前後あるいは交差して入れて浸し、茶の成分を湯に移し、その湯を飲む

文献に現れた時期

平安時代

平安時代

平安時代

鎌倉時代後期

 

その後の発展

バタバタ茶ブクブク茶などの茶俗の喫茶方法として定着、今日まで

闘茶や茶の湯(茶道)の喫茶法として定着、今日まで

 

日本の煎茶道の喫茶法として定着

張建立著『茶道と茶の湯―日本茶文化試論―』から抜粋

 

参考

丁宗鐡著『正座と日本人』講談社

熊倉功夫著『文化としてのマナー』岩波書店

張建立著『茶道と茶の湯―日本茶文化試論―』淡交社

桑田忠親編『茶道人名辞典』東京堂出版

矢田部英正著『日本人の坐りかた』集英社新書


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