雑録2011.1.26 お雇い外国人
 

最近、新聞や雑誌・テレビで、定年退職した技術者やリストラされた技術者が、中国企業から高額な契約金で雇われる。その結果として日本の技術流出が懸念される、との報道が続けてなされていた。

朝日新聞は「向龍時代」という連載のなかで、20101122日に「製造の現場」と題して、次のような記事を載せている。

<<自主創新のかけ声のもとで激しさを増す中国の技術取り込みに、米国では「未曾有の規模の技術窃盗計画」(全米商工会議所報告)との批判が強まる。その源流は中国企業が2003年ごろ、日本の家電大手などが行った、大量の早期退職募集や、「事業の選択と集中」を掲げて事業部門ごとに撤退したなどで、リストラされた日本人技術者をスカウトしたことだった。

ある大手メーカーの50歳代の技術者には「年収5千万円、2年契約」の条件で求人話がいまも続いている。

企業側の依頼で日本人技術者に接触してきたスカウトが見せた「欲しい人材リスト」には、同じ社の技術者の名前がずらり。経験や所属部署、技術の専門、社内的立場、評価、さらには「技術は持っているが、ポジションなどに恵まれていない」など境遇まで書かれていた。引き抜いたOBから聞いてまとめたものだった。「会社を売るようなことはしたくないが、定年も近づいてくるし、これからの生活を考えると」

家電大手の広東格蘭仕集団(広東省仏山市)は03年当時から、日本、韓国の技術者を数十人規模で招いてきた。・・>>と書いてある。

 

NHKの報道番組「追跡 A to Z」で、20101113日と1230日に「日本の“頭脳”はどこへ行く」が放送された。この中で、大手家電メーカーで薄型テレビにかかわっていた技術者(51歳)がリストラされ、中国企業に職を求める顛末(てんまつ)が放映されていた。中国最大の家電メーカーでもある中国企業が、採用する条件として、技術者のもっているノウハウをレポートにして提出させ、それで採用するかどうかを判断するという内容であった。

 

定年退職し、あるいはリストラで職を失い、日本企業への再就職が難しい現状など、日本の国内事情からくる流れが中国へ向かわせる。数千万円の金額を提示され、ひと稼ぎしようとする人もいるが、なかには(つちか)った自分の技術が()かせ、役に立ち、“日本に戻れば歯車の一つ、中国でなら、歯車の軸になれる”(1)()甲斐(がい)を見出す人もいる。

中国企業が求めるものは、技術そのものから、生産技術、品質管理、人材育成などの目に見えない「日本式ノウハウの要求」に広がっているという。

かつて日本でも高給で外国人を雇い入れ、近代化をすすめた時代があった。幕末から明治にかけて国策として行われた、いわゆる「お雇い外国人」である。

 

お雇い外国人

1840年(元保11)英国とのアヘン戦争に敗れた清朝が、賠償金の支払い、香港(ホンコン)の割譲、上海(シャンハイ)厦門(アモイ)寧波(ニンポー)など、5港の開港を強制されたことは、日本にも衝撃をもって伝えられた。

さらに1863年(文久3)鹿児島湾で起こった薩摩藩とイギリスとの薩英戦争、1864年(元治1)に長州藩が、英・仏・蘭・米の四カ国を相手に下関海峡で起こした下関戦争などによって、欧米諸国の軍事力の実力を見せつけられた。とくに攘夷(じょうい)運動が盛んであった長州藩では砲台が次々に粉砕され、砲台を占拠される事態になった。これらは統治権力を統一して、外国からの脅威に対処しなければならないとする、1867年(慶応3)に起きた明治維新の遠因となった。

欧米諸国の軍事力は、近代的な国家基盤、経済基盤、産業基盤に裏打ちされている。外国からの脅威を除くため、軍事力を増強するには、それらの基盤の整備が緊急な課題であった。強兵のために富国にする、いわゆる「富国強兵」策である。

この当時の時代の状況を、梅渓(うめたに)昇著『お雇い外国人』のなかで、『渋沢栄一自叙伝』を引用しながら、次のように記している。なお、渋沢栄一は、元幕臣であったが、1869年(明治2)、大隈重信から大蔵省に任官するようすすめられる。自叙伝はその時の話を伝える。

 

<< 渋沢栄一が大蔵省に任官するとき、大隈重信から次のように説得されたと語っている。

「現在の政府当局は、(すべ)てを新しく建直しているのである。総ての旧套(きゅうとう)を脱して(ことごと)く新しく生み出さなければならぬ時代であるから一人でも多くの人材を必要とするのである。君は大蔵省の仕事に対しては何等の経験もないというが、その点については、この大隈にしてもぜんぜん無経験であり、伊藤小輔(しょうすけ)(博文)とても同様である。今日の状態を(たと)えていえばわが国の神代時代に八百万(やおよろず)神々が(つど)うて御相談をせられ、もろもろの施設をされたと同様な訳で、衆知を集めて新しい政治を行おうとする場合なのである。君は幸いフランスにも洋行したし、ヨーロッパの各地の状態も視察しており、財政上の知識にも長じているから、このさいぜひ中央政府に入って、創生時代の立て直しに尽力してもらわなければならぬ」(『渋沢栄一自叙伝』)

大隈のいうように新日本の建設に当たって、何から手をつけてよいかわからないというのが実情であった。そこでかれらは、近代化政策を推進するに当たって、すでに幕末、幕府が行っていたように、多くの外国人を招聘(しょうへい)せざるをえなかった。西洋文明の発展度から、いちじるしく遅れていた後進国日本としては、外国人の指導、援助を受けるよりほかに、急速にその政策を推進させる方法がなかった。近代化の及んだ方面は、多方面であり、かつ民間も政府の方針に呼応したので、お雇い外国人はきわめて多数にのぼった。>>

 

欧米人の立場からいえば、交通不便な極東の非文化国で、最近まで攘夷(じょうい)思想が横行し、別手(べつて)(一種の警察官)に護衛されて外出しなければ命が危ない国であった。明治政府の指導者たちは「富国強兵」の目的のために、明治初期のとぼしい財政事情の中で、優先して「お雇い外国人」に出費し、相当の好条件で外国人を(つの)った。往復の旅費などを政府が負担したのはもちろんのこと、高価な住宅を建築、無償貸与し、高額の月給を支給した。

<< 「先進文化国と競争と(まで)は行かなくとも、追い付く(まで)には(すべ)ての犠牲を払わねばならぬ。それには俸給の高価なことなど(いと)うところではない。(いわん)やその為殖産業が発達して国益が増進すれば打算として損は無いという考え」(尾佐竹猛「御雇外国人一覧解題」、『明治文化集』第十巻、外国文化編)から、財政上の苦境にかかわらず、甘んじて格外の出費をしたところに、外国の先進文明の移植に対する徹底さがうかがわれるというものである。この出費は、日本が近代国家に到達するためのハイウェイに乗り入れるさいの高価な通行税であったといえよう。

>>・・梅渓昇著『お雇い外国人 概説』

 

それでは、「お雇い外国人の月給」としていくら払い、そして「お雇い外国人の時代」はいつまで続いたのであろうか。以下に示す統計は、梅渓昇『お雇い外国人』、『お雇い外国人 概説』からの孫引きである。

 

お雇い外国人の月給

政府雇い外国人の最盛期である1874年(明治7)、1875年(明治8)には、500名以上の「お雇い外国人」がいた。

1876年(明治9)ごろまで太政(だじょう)大臣級相当の800円以上の月給を得ていた人が10人前後、右大臣級相当の600円以上が15人前後、参議または(きょう)相当級の500円台が10人前後いた。また、1874年(明治7)をとると、その年のお雇い外国人の総人数は524人。そのうち約半数が300円以上の月給をもらっていた。

官庁別の「お雇い外国人」経費のベスト3は、工部省、文部省、内務省の順で、なかでも工部省はずば抜けた金額であった。1874年(明治7)では、工部省各局外国人技師への月給支出の総額766888円は、同省通常経費(2271866円)の33.7%にのぼっている。

当時の月給はどのくらいの価値があったのだろうか。ドイツ人ルドウィヒ・リースは月給を350円もらっていた。そのリースを父とし、日本人を母とする加藤政子は『わが父はお雇い外国人』を書いている。リースは、今の東京大学文学部の前身、帝国大学文科大学でお雇い史学教師として、1887年(明治20)年から15年半にわたり在職した。リース家は、母方の祖父母、母、3人姉弟、知人のお手伝い、女中、コック、車夫夫妻など15人近くの大家族であった。リースの月給350円は、これだけの使用人をかかえてなお余裕があったという。

1に明治初期の官吏月給を、表2には著名な「お雇い外国人」の月給を示す。

      表1 日本官吏月給表

人 名

官  職

等 級

月給(円)

三条実美(さねとみ)

太政(だじょう)大臣

1

800

岩倉具視(ともみ)

右大臣

1

600

大久保利通

参議

1

500

山尾庸三

工部大輔(たいふ)

2

400

山口尚芳

外務少輔(しょうふ)

3

300

芳川顕正

工部大丞(たいじょう)

4

250

畠山義成

文部少丞(しょうじょう)

5

200

星亨

租税寮権助(ごんのすけ)

6

150

名村泰蔵

司法省7等出仕

7

100

浜尾新

開成学校8等出仕

8

70

      注)1874年(明治7)『掌中官員録』による。1等〜3等は勅任、4等〜7等は奏任、8等以下       は判任官である。


     表2 著名な官傭(かんよう)外国人月給表

人  名

職   名

月給(円)

就職年

キンドル

造幣首長

1,045

明治3

ダイエル

工部大学教頭

660

明治6

フルベッキ

南校教頭

600

明治2

ジュ・ブスケ

左院雇

600

明治4

モルレー

文部省学監

600

明治6

ロエスレル

外務省顧問

600

明治11

エアトン

工部大学校教師

500

明治6

ジャンド

紙幣寮雇

450

明治5

デニソン

外務省顧問

400

明治13

ドウグラス

海軍兵学寮教師首長

400

明治6

コンドル

工部美術学校教師

350

明治10

モース

東京大学教師

350

明治10

フェノロサ

東京大学教師

300

明治11

フォンタネージ

工部美術学校教師

277

明治9

ワグネル

大学南校教師

200

明治4

     注)1ドル=1円として換算

お雇い外国人の時代

「お雇い外国人時代」の盛期は、1870年(明治3)より1887年(明治20)前後までである。それ以降は衰退期に入り1897年(明治30)前後には、歴史的な意義をほとんど失ったという。なお、第十九回『日本帝国統計年鑑』(明治33年刊)以後、官傭私傭(かんようしよう)外国人の項目は統計年鑑から消える

1872年(明治5)から1885年(明治18)の国籍別のお雇い外国人の人数は、英、仏、米、独が多くを占める。途中、英国以外の人数の順序の入れ替えがあるが、つねに人数は英国が抜きんでている。イギリス人は工部省(技術)、フランス人は工部省(技術)・陸軍省(軍事)、アメリカ人は文部省(教育)、ドイツ人は文部省(教育)関係において、それぞれ最も多くの人が活動し寄与している。年齢としては30歳前後が多い。

また、お雇い外国人の質としては、本国で食い詰めた者や、いかさま者がまぎれ込むこともあったが、全体としては、高度の教養、技術をもったお雇い外国人がそれぞれ専門の分野で、熱心着実に明治日本の建設に協力し、その発展の基礎を築いたことは明らかな事実であって、彼らのなかには、帰国後重要なポストにつき、それぞれの分野で輝かしい業績をあげたものも多かった2

 

梅渓昇は「お雇い外国人の時代」について次のように評価をしている。

<< わが国が近代産業技術の移植にさいし、お雇い外国人技師に対して、徹底した依存を続けながら、その中からわずかに15年間という短期に技術面における自立化を達成するのに必要な人材を養成しえたことは特質すべきことであろう。(略)

かれら(お雇い外国人)の日本の近代化政策そのものへの寄与に関していえば、かれらは、あくまでも助力者であり、助言者(helper)であったもので、それ以上のものではなかった。政策決定の主導権は、明治新政府の指導者たちが、堅く維持したところである。(略)

日本の近代化という観点からながめると、その政府雇い外国人が最も重要な歴史的存在であった。

その理由は改めて言うまでもないが、日本の近代化は、明治新政府が主体となり上からの指導によって行われたもので、そのさいの近代化の根本目的は、「国家の近代化」、近代国家の建設ということであって、社会や個人の近代化あるいは民主化ということに主眼がなかったからである。社会や個人の近代化ないし民主化は、「国家の近代化」という枠内において、それに必要な限りにおいて考えられたものに過ぎなかった>>・・梅渓昇著『お雇い外国人』

 

明治新政府が、外国からの脅威を除くため「富国強兵」策を強力に推進した歴史がある。この歴史からも学ぶべきものは多い。

現在、日本では急激な高齢化社会、国債の未曾有の借金、経済の停滞など国の衰退が止まらない。「今の生活を維持しようとして、将来の子供たちに負担を残してはならない」。これを国民の合意・目標として、諸政策を遂行するための智慧を出し合うべきである。“総論賛成、各論反対”ではなく“小異を捨て大同”につく時である。


 <参考> 官傭外国人の延総人数(職業別) (単位:人)

  職務

年次

学術

教師

技術

事務

職工

月給計

(円)

1872(明治5

102

127

43

46

51

369

83,805

1873(明治6

127

204

72

35

69

507

109,004

1874(明治7

151

213

68

27

65

524

116,211

1875(明治8

144

205

69

36

73

527

115,288

1875(明治9

129

170

60

26

84

469

97,712

1877(明治10

109

146

55

13

58

381

81,528

1878(明治11

101

118

51

7

44

321

70,497

1879(明治12

84

111

35

9

22

261

61,898

1880(明治13

76

103

40

6

12

237

57,986

1881(明治14

52

62

29

8

15

166

45,479

1882(明治15

53

51

43

6

4

157

43,421

1883(明治16

44

29

46

8

5

132

38,042

1884(明治17

52

40

44

8

7

151

38,997

1885(明治18

61

38

49

-

7

155

41,720

1886(明治19

59

48

53

-

9

169

47,163

1887(明治20

81

56

52

-

6

195

53,885

1888(明治21

105

44

61

-

5

215

55,451

1889(明治22

109

42

64

-

5

220

55,337

1890(明治23

92

35

68

-

5

200

43,446

1891(明治24

87

33

43

-

7

170

36,283

1892(明治25

66

18

40

-

6

130

29,601

1893(明治26

67

14

23

-

-

104

25,209

1894(明治27

59

10

16

-

-

85

21,295

1895(明治28

55

8

16

-

-

79

21,250

1896(明治29

53

8

16

-

-

77

19,076

1897(明治30

69

7

16

-

-

92

23,878

1898(明治31

78

7

15

-

-

100

27,357

人数計

2,265

1,947

1,187

235

559

6,193

 

注)第4回〜第18回『大日本帝国統計年鑑』による

*第2回年鑑によると、5253331019、計167となっている。

 月給計は月給のほかに雑給をも含む。

 

参 考

1『「日本式」が中国を変える』AERA11.1.3-10号 朝日新聞出版

2梅渓昇著『お雇い外国人』講談社学術文庫

梅渓昇著『お雇い外国人 概説』鹿島出版会

加藤政子談話筆記 L・リース書簡集『わが父はお雇い外国人』合同出版

嶋田正編集代表『ザ・ヤトイ お雇い外国人の総合的研究』思文閣出版

その他

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