雑録2012.4.29 終末期医療(ターミナルケア) 
 

終末期医療に関する本を読んでいて、昨年亡くなったAさんのことを思い出す。一時上司であったAさんとは、Aさんの退職後もお付き合いさせていただいた。一年に一回、ゴールデンウイークの前後に、Aさんの自宅の最寄り駅で待ち合わせ、共通の話題となる私が用意した情報をもとに、Aさんの意見を聞き、私の意見を述べ、喫茶店と居酒屋をはしごしながら半日を過ごした。喫茶店では、コーヒー一杯で長居しすぎると思い、二人とも二杯目を注文したものである。

昨年頂いた年賀はがきには、「チリ鉱山の地下からの救出劇圧巻でしたね。情報集まりましたか。今年も楽しみにしています」との、添え書きがしてあった。

昨年4月、いつものように会う期日の都合をメールで問い合わせたところ、奥さんから返信があり、「毎年、木村さんにお会いするのを楽しみにしていましたが、実は主人は癌が全身に転移しているような状態です。驚かせてごめんなさい。いつも有難うございました」と書かれていた。

 

後日、Aさん宅へ伺い、奥さんから話をお聞きした。

体調を崩し、4月に最寄りの病院で診察をしてもらったところ、すでに全身にガンが転移していることが分かった。この病院では、在宅医療に努めていることもあり、本人が自宅での療養を希望し退院した。今後の治療方針の説明のなかで、痛みだした時の、痛み止めの貼り薬の使い方なども教わった。この貼り薬は、使用済みのものも病院に戻す必要があるなど、管理が厳しい薬だそうだ。そして、「もし救急車を呼ぶようなことになったならば、かならずここの病院を指定して下さい」、と言われたという。

奥さんのお話では、貼り薬のおかげもあり痛みに悩まされることもなく、5月中旬、望んだ自宅で家族に看取られながら亡くなった。77歳であった。

 

人はそもそも死亡率百パーセントの存在である。であるならば、治療による回復が不可能で死が迫っている、あるいは老衰による死亡を妨げることになる、そのような死期を単に引き延ばすためだけの、治療として有効ではなくなった措置や延命措置は受けたくはない。

病院長や勤務医であった医師が、退職後、老人介護施設の配置医師あるいは施設長として、勤務してからの体験談を書いている本を何冊か読んだ。老人介護施設に勤務してから、人の死に対しての考えが大きくかわったことを、異口同音に述べている。延命措置を差し控えた人達の、病院では見られなかった、枯れるように亡くなっていく老衰死を語っている。

日本では、死亡者の80%近くが病院で亡くなっている。老人介護施設も終末期には病院に入院させ、施設で亡くなることは(まれ)だという。上記の「病院では見られなかった、枯れるように亡くなっていく老衰死を語っている」も、勤務した配置医師や施設長が、その施設の看護師・介護福祉士を説得し、家族の了解を得て、施設で看取ることができるようにしたからである。

病気は何らかの理由により故障した状態であり、その故障を治すことが治療行為である。しかし老衰は故障ではない、機械に寿命が来たのである。老衰による自然死では、食欲がなくなり、給水も受け付けなくなり、そして穏やかに亡くなるような仕組みになっているという。しかし多くは、その仕組みを無視して、無理やり栄養を与え、点滴などで給水をする。私はしてもらいたくはない。

 

実  情

― 欧州 ―

老衰について、欧米ではどのようにとらえているのだろう。

石飛幸三著『「平穏死」のすすめ』参考1には次のような記述がある。

<< ある特養の施設長が、オランダのホームを見学した時の話です。認知症の老人の口を開けてスプーンを入れようとしたところ、現地のワーカーから「あなたは何ておそろしいことをするのか。この人は食べたくないのに、あなたは老人の自己決定を侵している」と怒鳴りつけられたそうです。さらに、この施設長は帰国後にも、追いかけるようにそのワーカーから、「私たちは、食事は並べるが、無理に食べさせたり、チューブを入れたりしない。そのままでも安らかに死ねる」と手紙が送られたそうです。

こういうのもあります。

「ドイツのある養護老人ホームでは、入居者はそのホームで死を迎えることがほとんどで、病院に移されることは稀だ。多くの場合、徐々に食事がとれなくなって衰弱して来る。老衰と判断され、そのまま見守っているうちに静かに息を引き取る」(坂井洲二『ドイツ人の老後』法政大学出版局、1991年、9293ページ)

デンマークでは「自宅で死にたい」と意思表示しているお年寄りは、ほとんどの場合、願いが叶うらしい。最後の最後、食事も受け付けず水も飲めなくなったとすると、日本だったら病院に運ばれて、経管栄養や点滴が行われるだろう。こちらでは、水がのめなくなったらおしまい。もう死ぬとわかったら、点滴もやらない。延命策はとらない。病院に運ばない。そして、担当のホームドクターの往診記録にドクター自身の手で、「もう治療しません」といった言葉が記されるのだと言います。>>

 

また、田中奈保美著『枯れるように死にたい』参考2には、通訳を頼まれた義弟が経験した話が載せてある。

<< 日本から厚生省(当時)の派遣で老人医療の視察団がフランスの老人病院を訪れた。通訳を頼まれ同行したアツシさんは、フランスの医師が「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下(えんげ)できなくなったら医師の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です」と語った台詞(せりふ)が忘れられないという。それを通訳したところ、厚生省の役人はにわかに理解できなかったのか、何度も「本当にそう言っているのか、ちゃんと通訳してくれないと困る」と繰り返しアツシさんに尋ねた。そのとき、団長を務める日本人医師が「これが人が天に召されるということだ。それを医師がじゃまをしてはいけないといわんとしているのだ」と言うのを耳にした。それはアツシさんの人間の終末観を変える出来事だったという。>>

いずれも、訪問した老人介護施設では、経管栄養をしている人を見ることはなかったそうだ。

 

― 日本 ―

先の田中奈保美著『枯れるように死にたい』参考2には、インタビューした話がいくつか載せてある。その中の著者の知人のケイコさんにインタビューした内容を紹介したい。

三人姉妹のケイコさんには、現在89歳になる母親がいる。85歳のときに脳梗塞(のうこうそく)で倒れ地方都市の病院に入院している。母親を介護するため、姉妹三人が交替で毎月母親のもとにでかけ、二週間滞在する生活がもう四年余り続いている。

母親は、倒れる前から認知症が始まり、難聴が悪化して耳が聞こえなくなり、緑内障も(わずら)っていた。少し長いが引用させてもらう。

 

<<(倒れて)救急車で病院に運ばれたが、一命をとりとめたものの右半身マヒと言語障害が残った。

入院当初は問いかけには反応しないものの、食事は口から食べることができていたので、姉妹は交替で病院に行き、懸命に母親に食事を食べさせる努力をした。ところが10日ほどたったころ、「食事は病院のほうでさせますから」と家族が食事の世話をするのを止められてしまった。

そして、一か月もたたないうちに、栄養が足りないからという理由で、流動食とともに経鼻栄養注記1が始まった。それからまもなく口から食事を与えられなくなり、経鼻栄養だけになった。

・・・・どうして急にチューブの栄養だけになってしまったのだろう。

ケイコさんの気持にひっかかるものがあった。

「きっと、母親に食事をさせるのに時間がかかりすぎるので、ひとりにそんな手間をかけていられないのでやめたんじゃない」

「だったら私たち娘が三人もいるんだから交替で行って、時間をかけて食べさせてあげるのに」

姉妹の間ではこんな会話が交わされていた。

しかし、以前病院から断られているので、言い出せず、ただ黙ってみているしかなかった。入院生活が二カ月になろうとするころ、病院から、

「これ以上ここにいても治らないので、退院してください」

と言われ、認知症の高齢者を多く受け入れているA病院を紹介された。

A病院に転院してから一年がたった頃、院長から、

「経鼻栄養だと本人もつらいのか、手ではずそうとするので、お腹に穴をあけて胃に直接栄養を送る方法があるのですが、それにしませんか」

と提案された。

家族としても鼻から管を通された姿は痛々しく見るに忍びないと思っていたので、

「そうしてください」

と同意した。

そのとき、家族に他の選択肢はなかった。

その後、母親は回復の(きざ)しもなく反応は鈍くなる一方で、本当の寝たきりになってしまった。

ケイコさんは毎月母親を訪ねるたびに深いため息が出る。母親の緑内障は入院中に進行して失明した。全盲で、耳も聞こえない真っ暗闇の中、言葉を発することもなく、食事もできない。ただただ、横になって眠り続ける日々。

・・・こんな状態で母はこれからも生き続けたいと思っているのだろうか。もし、自分が同じ状態になったとしたら、とうてい耐えられないだろう。(略)

・・・母親は十分生きた。もうこのまま終わりにしてあげたい。

ケイコさん姉妹の一致した思いだ。

ある日、ケイコさんが病室で母親に付き添っているとき、看護師が「食事」の袋を持って入ってきた。胃ろうに管を差し込む作業をする看護師に、ケイコさんは母親のお腹を指しながら、尋ねる。

「これをはずしたらだめなのかしら」

看護師は驚いた様子でケイコさんに顔を向けて、

「本人が生きているのに、はずせば殺人行為ですよ。できるはずないでしょう」

と答えた。

「あら、恐ろしい・・・」

と言ったきり、ケイコさんは絶句。それ以降、医師に相談もできずに今日にいたっている。

母親はこれまで何度か胸膜炎のため胸に水がたまり、そのたび水を抜く処置をしてきた。その現場に立ち会った妹は、痛みに耐えかねて顔を大きくゆがめている母親の姿は、かわいそうで見ていられなかったと姉に報告してきた。姉妹を代表して長女のケイコさんは院長にお願いをしに行く。

「胸にたまった水を抜くのは痛いのでしょうか」

「そりゃあ、痛いですよ」

「だったら、もうやめるわけにはいかないのですか」

「本人が生きているのですから、やめるわけにはいきません」

とあっさり否定されてしまう。そのとき思いきって、ケイコさんはかねてから抱いていた懸念を口にする。

「母はあとどれくらいもつのでしょうか」

医師は少し間をおいてから、こう答えた。

「お母様は内臓が丈夫ですから、感染症など突発的な病気がなければ、あと10年はゆうに生きるとおもいますよ」

「・・・・・・」

医師の言葉をケイコさんは複雑な思いで受け止めた。

A病院の院長はケイコさんにこんなことも言っている。母親の耳は聞こえないのに、

「お母さんは、瞬間的に意識がもどることもありうるのですから、あまり枕元で悪口や聞かれて困るようなことはおっしゃらないようがいいですよ」と。

そうして感情を持って生きていることを強調したり、あるいはかすかな光明を与えるようなことを口にする。家族の気持を翻弄(ほんろう)しているつもりはないのだろうが、罪な台詞(せりふ)だ。

母親の姿をみている姉妹たちは、「自分たちはぜったいにこうなりたくないから、延命はやらないようにと、元気なうちに一筆書いておこう」と話し合っているという。

A病院では入院三カ月たったところで、「通常は退院していただくのですが、個室なら提供できます」ということで、母親は個室に入院している。月々の費用30万円は家族にとってかなりの負担になっている。

 

胃ろう参考2は病院のため?

ケイコさんの母親のケースを聞いていると、なにか()に落ちないと思うのは私だけだろうか。どこかへんだと思えてならない。意識もうろう状態で寝たきりのまま、胃ろうを置かれてすでに4年余りの入院生活を余儀なくされている。母親が再び意識を取り戻して元気を回復することはほぼありえない。家族は「母はもう十分生きた」と言い、目も見えず、耳も聞こえず、食事もできない状態で生かしておくのは見るにしのびないと感じている。

いったいだれのために、なんのために人工的な延命措置をして生かし続けるのか。

患者本人のため、とA病院の院長はいうのだろうか?

母親の生と死はいったいだれのものなのか。

また、家族は自分の身内の生き死に関する裁量を、医師にすっかり任せていいものだろうか。不思議なのは、ケイコさんら家族と医師との間に、母親をめぐる人間らしい話し合いがないことである。なぜなのだろう。人はだれだって最後まで人として意味ある人生を送りたいと思うものだ。そうした人の生き死について真摯(しんし)に語られることもなく、たぶん本人もそして家族の望んでいないことが、なぜ延々とつづけられるのか。

もし、ケイコさんの母親に対する措置に意味があるとするならば、それはケイコさんの母親のような患者は病院の貴重な収入源となっているからではないか、といったらいいすぎだろうか。

「胃ろうをはずすのは殺人」と看護師はいうが、死を人為的に先送りすることに罪はないのか、と問わずにはいられない。

医療とは本来QOL(クォリティ・オブ・ライフ=生活の質)の向上を目的に行うはずなのに、この先もケイコさんの母親のQOLの向上は残念ながらほとんど期待できないであろう。>>

 

〔引用者注記〕

注記1経鼻(けいび)栄養とは、経鼻経管(けいびけいかん)栄養といい、鼻から胃まで通した管から栄養補給を行う。注記2の胃ろう(胃瘻(いろう))とは、経皮胃瘻経管(けいひいろうけいかん)栄養といい、おなかの表面に穴をあけて胃に管を通し栄養補給する。胃瘻(いろう)の造設は、内視鏡を使って15分くらいでできるという。胃瘻(いろう)は現在、40万人が導入していると推定されている。

 

変化のきざし

ここにきて、終末期医療に関する新しい動きが出てきた。

日本老年医学会は、「高齢者の終末期の医療およびケアに関する立場表明2012参考3を発表した。この中で、「胃瘻(いろう)造設を含む経管栄養や、気管切開、人口呼吸器装着などの適応は、慎重に検討されるべきである。すなわち、何らかの治療が、患者本人の尊厳を損なったり苦痛を増大させたりする可能性があるときには、治療の差し控えや治療からの撤退も選択肢として考慮する必要がある。」として、「やらない、やめる」選択も考える必要があるとの意見を表明した。またそれを支援するガイドラインの試案参考4も発表している。

さらに「立場表明」では、わが国の多くの医療・介護・福祉従事者などの終末期医療に関わる者は、終末期医療およびケアについての教育は受けていない。今後、それらに関わる従事者は、「死の教育」を必修にするように提言している。

 

朝日新聞201242日に「終末医療 自らの死生観を語ろう」と題した記事が出ている。超党派の国会議員が尊厳死の法案を公表したと報じ、次のように書いてある。

<< 終末期の患者が、延命措置を望まない意思を文書などで明らかにしている場合に、医師が措置をしなくても法的な責任を問われないようにする。

一度つけた人工呼吸器を外して警察の介入を招いた実例があり、医療現場から、こうした免責条件の明文化を求める声があがっていた。

今回の法案では、延命措置を「始めないこと」に対象を限定しており、呼吸器外しのような「中止」は含んでいない。

それでも、弁護士や障害者団体から、反対や懸念の声が上がっている。

「終末期」や「延命措置」の定義があいまいで、適切な医療まで否定されないか。健康なときにつくった文書が、本当に直近の意思を表すのか・・・。

こうした議論を表に出す「たたき台」として、今回の法案の意義は大きい。()

適切な決定プロセスを経た選択であれば、法的な責任を問われるべきではない、という考え方が背景にある。確かに、そんな社会の了解があってこそ、医師も安心し、患者も自らが望む医療が受けられるだろう。それは専門家任せにしていては実現しない。考えを文書に残すだけではなく、一人ひとりが自分の死生観について、日頃から家族らと話し合っておくことが必要となろう。>>(注:太字は引用者)

 

厚労省の人口動態統計によると、2010(H22)に亡くなった人の総数は1197千人。80歳以上の死亡者数は663千人を占め、55%以上が80歳を過ぎてから亡くなっている。85歳以上では452千人、37%の割合を占める。

高齢者の認知症は、日本に約250万人。団塊世代が80歳以上になる2030年には、400万人を超えると予想されている。85歳以上になると4人に1人以上が認知症になっている。

高齢になれば誰でも認知症になる可能性がある。認知症になれば意思の表明は困難となる。また、脳卒中などで倒れ、正常な意識がもどらないこともあるだろう。

終末期医療をどうしてもらいたいか、希望があれば、自分の意思を健康なうちに文書で表明したほうがよい


追 記1

一般社団法人「日本尊厳死協会」がある。私も妻もこの会員になっている。「尊厳死の宣言書」に署名・捺印(なついん)し、原本は協会に預け、コピーと携帯用会員カードを会員がもつ。

「尊厳死の宣言書」には、次のように書かれている。

 

尊厳死の宣言書(リビング・ウィル Living Will

 

私は、私の傷病が不治であり、かつ死が迫っていたり、生命維持措置なしでは生存できない状態に陥った場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします。

この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。

したがって、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、または撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。

@ 私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死が迫っていると診断された場合には、ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命措置はお断りいたします。

A ただしこの場合、私の苦痛を和らげるためには、麻薬などの適切な使用により十分な緩和医療を行ってください。

B 私が回復不能な遷延性意識障害(持続的植物状態)に陥った時は生命維持措置を取りやめてください。

 以上、私の宣言による要望を忠実に果してくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私自身にあることを付記いたします。

2011年=平成23年改訂)

 

自署

氏名(フリガナ)            印 明治 大正 昭和 平成  年  月  日生

住所 

  
  〔尊厳死問答集からの注記

延命措置として使われるものに、人工呼吸、人工透析、栄養・水分補給(経鼻管、胃ろう、中心静脈栄養など)、血液循環の維持、薬剤投与などがある。


追 記2

認知症末期で経口摂取不可な症例への人工的な水分・栄養補給法(AHN):諸外国の学会等のガイドラインと実態調査  (会田薫子著『延命医療と臨床現場』参考5より)

 助言や勧告の内容
 米国老年医学会  

・人工的な栄養投与はほとんどの症例において患者のためにならない。

・適切な口腔ケアを行い、小さな氷のかけらを与えて水分補給する程度が望ましい。氷に味をつけるのもよい。

・死を間近にした患者は空腹やのどの渇きを覚えない。
英国医師会   ・重度の不可逆的脳損傷を負った高齢者に対するANHは、処置の負担と回復可能性を考慮し、全体的な利益が負担を上回るかどうかを評価しなければならない。  
欧州静脈経腸栄養学会(ESPEN   

・胃瘻栄養法は誤嚥性肺炎や褥創の発生を減少させ、患者のQOL(生活の質)を改善するという医学的証拠はない。

PEG(胃ろう)を実施するか否かの決定は個別症例にもよるが、実施する場合でも、批判的かつ制限的なアプローチが必要である。
米国アルツハイマー協会   

・アルツハイマー末期で嚥下困難になった患者に対する最も適切なアプローチは、死へのプロセスを苦痛のないものにすること。

・経管栄養法がこの患者群に利益をもたらすという医学的証拠はない。輸液も実施しないほうが最後の段階の苦痛が少なくてすむ。もしAHNを行うとしても、やがてその中止を決断しなければならない時がくる。
アルツハイマーズ・オーストラリア(豪アルツハイマー協会)   

・経管栄養法は多くの合併症の原因となる。誤嚥性肺炎は、経管栄養法を受けていない患者よりも受けている患者で多く発生しているという研究報告もある。延命効果もないという研究報告もある。

・質の高い緩和ケアを実践するためには、患者に何らかの措置や治療をおこなったときの利益が不利益を上回らなければならない。

・生理学的にいえば、患者にとって苦痛のない最期を実現するためには、輸液を行わないほうがよい。

・皮下注射による輸液を選択する家族もいるかもしれないが、その効果の医学的証拠は得られていない。
 実態報告
 フランス・オランダ・スウェーデン 

PEG(胃ろう)などの人工的な処置は、通常、行わない。

池上ら『要介護高齢者の終末期における医療に関する研究報告書』医療経済研究機構、2002.

 

AHN(artificial hydration nutrition)は人工的な水分と栄養の補給法の総称。胃瘻栄養法や経鼻経管栄養法などの経腸栄養法及び中心静脈栄養法や末梢点滴などの静脈栄養法のすべてを含む。

PEGpercutaneous endoscopic gastrostomy)経皮内視鏡的胃瘻造設術(引用者注記)




参 考

石飛幸三著『「平穏死のすすめ」口から食べられなくなったらどうしますか』講談社(2010.2参考1

田中奈保美著『枯れるように死にたい』新潮社(2010.8参考2 

中村仁一著『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ』幻冬舎新書 (2012.1

中村仁一著『幸せなご臨終』講談社(1980.1

中村仁一著『老いと死から逃げない生き方』講談社(1994.2

平野国美著『看取りの医者』小学館(2009.10

大岩孝司著『がんの最後は痛くない』文藝春秋(2010.8

宮崎和加子著『家で死ぬのはわがままですか』主婦の友社(1998.12

秋山正子著『家で死ぬこと、考えたことありますか』保健同人社(2011.10

高齢者の終末期の医療およびケア」に関する日本老年学会の「立場表明」2012参考3

「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン 人工的水分・栄養補給の導入を中心として(ワーキンググループ試案)」社団法人日本老年医学会(平成23124日)参考4

会田薫子著『延命医療と臨床現場』東京大学出版会(2011.7参考5





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