雑録2005.7.21 裁判を傍聴する | |
先日、霞ヶ関にある東京高等・地方裁判所で、何年かぶりに裁判を傍聴した。裁判の傍聴は三回目である。入口で金属探知機による検査を受けて入館する。受付には、今日開かれる裁判の被告名、罪名、法廷番号、開廷時間などが書かれた一覧表がある。今回は、平成17年4月1日に開設された、知的財産高等裁判所が一覧表に新たに加わっていた。被告名欄には、外国人の名前も多く目立つ。 先回は、中国人によるピッキング事件、新聞記事に対する名誉毀損、有栖川宮偽装詐欺被疑事件、婦女暴行事件、無期懲役者の仮釈放中に起こした殺人事件、などの裁判を傍聴した。 中国人によるピッキング事件の被告人は、20歳代の若者である。検事による立証が行われる。書類を読みながら、被告人は、何日の何時にどこそこのデパートで何を買い、それからどこそこに行き何をした。何日の朝の何時に、アパートの前にゴミ袋を出した。ゴミ袋の中から出てきたのが、何々であり、これがその証拠写真である。などなど、“それこそ詳細を極める”立証が続けられる。それを、通訳が、被告人に中国語で説明する。聞いていると、犯罪摘発のための尾行・張り込みなどの苦労が伝わってくる。 今回傍聴した事件は、20代前半の若者による殺人事件である。交際していた高校二年の女性を殺害し、その女性友達にも重傷を負わせた事件である。一審で無期懲役の判決が下り、それに対する控訴審である。 初めに証言に立った被害者の母親は、 検事の問いに、娘が被告人を恐れていたこと、事件後、精神的ショックで、自分が正常な生活が営めなくなったこと、娘の才能や将来にどんなに期待していたか、家族・親族のあいだに、いまだに深刻な影響を与えていることを、具体例を挙げ証言した。また、被告人の親から手紙が来たが、娘を非難すると思える箇所もあり、謝罪しているとは思えない、とまで述べている。 続いて、被告人の父親が証言に立ち、弁護人の質問に答えていく。 (被告人は)初めての男の子であり、自分の商売を継がせるため、厳しくしつけをした。息子は、私をどう思っているか知らないが、私は目に入れても痛くないと思っている。事件後、嫁いでいる姉の家庭もおかしくなっているようだ。家にいるもう一人の姉の、今後の結婚は難しいと思う。店の売り上げも落ちた。損害賠償しようにも店のローンが3000万円残っている。店は生活の糧である。100万円かき集めるのが精一杯であった。娘さんが息子の部屋に泊まりにきていることは知っていた。 傍聴人は、被害者の家族を含めて10人前後。何人かが、大学ノートに熱心にメモしていた。記者なのかもしれない。 被告人は、父親が証言台に向かうとき、父親に深く頭を下げ、また、被害者の母親の前を通り退廷するときに、母親に深く頭を下げていた。 この間、約1時間強。被告人のよく見える傍聴席に座っていた私は、あまりの話の展開に、途中から顔を上げられず、うつむいて傍聴していた。ほかの裁判も傍聴する予定であったが、そうそうに裁判所をあとにした。 平成16年5月21日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立し、平成20年までに裁判員制度が実施される予定である。裁判員は、選挙権のある人の中から抽選で選ばれ、その中から事件ごとに、裁判官と一緒に法廷に立会い、有罪か無罪かの評決に参加する。対象となる事件には、殺人・強盗致死傷・傷害致死などが含まれる。 今回の裁判を傍聴して、私には、裁判員の役割はとても務まらないと思った。 <参 考> 合田四郎氏は「そして、死刑は執行された」「続そして、死刑は執行された」という本を書いている。著者自身、死刑を求刑され、無期懲役の判決を受け、15年服役し仮釈放された。宮城刑務所での服役中には、死刑確定囚の掃夫(世話係)として、多数の死刑確定囚の世話や、死刑を執行されたあとの遺体を始末し、彼らの最後を見届けている。 本の中で、死刑確定囚の日常を、死刑囚の実名をあげながら描写している。要約した部分はあるが、次のようなことが書かれている。 「死刑囚の一日が始まるのは、午前10時である。もちろん起床はその前の7時だし、点検があり、8時には朝食が配膳される。しかし10時を過ぎるまでは、死刑囚棟はまだ闇なのである。死刑執行は、執行日のその日の10時に言い渡される。どの舎房も起床こそすれ森閑としており、食事に箸もつけない。あちこちの房からは静かに読経がながれ、被害者の冥福を祈る鐘の音がチーンと静寂を破る。瞑想に耽る者もいれば、書き物に気を紛らわす者もいる。だがどの房の中にも、小さな物音ひとつ聞き漏らすまいと耳をそばだて、神経を房舎の入口一点に集中している様子が、痛いほどわかる。 そんな時、舎棟の扉がガチャーンと開き、どかどかと大勢の足音がしようものなら、一瞬にして舎房は凍りついたように静まり、息苦しい緊張に包まれる。この時の死刑囚の不安と恐怖感は、とても言葉やペンで書き尽くせるものではない。 午前10時が過ぎ、どうやらその日の処刑が行われないとわかると、 「それっ 夜が明けた、朝が来た。一日生き延びられた」 というわけで、どの監房も窓が開き、掃除がはじまり、人間らしい活気がもどる。とっくに配給されてある朝食をとり、一日が始まる。 日曜日や祝祭日の死刑執行がない日以外、毎日同じ光景が繰り返される。10時の夜が明けるまで、俺たち掃夫は廊下を横切るにも息を潜め、物音はおろか足音さえたてないように気を遣う。 この日常の死の恐怖に、死刑囚によっては、何年も、あるいは何十年も曝され続けている。 『死刑囚』と何気なく言ってしまうが、正確には、死刑が刑場で執行されて初めて死刑囚となるのであり、それまでは単に、死刑の判決が確定した拘置中の者というものに過ぎない。そのため俺たちのような懲役の囚人と違って、死刑囚棟の住人は、衣類も寝具も自弁が許され、家族との面会・交信も制限はあったが俺たちに比べてずっと自由であり、強制労働もない。何よりも食物の購入が自由だから(制限はあるが)、臭い飯など食う必要がない。強制労働もなく、読書や絵画などに興じ、優雅な生活をしている。しかし、どの顔も頬はこけ、目はおちくぼみ、肌はどす黒くしなびており、まるで生きているうちから処刑されてしまった屍のようである。 それに反して、俺たち掃夫は、労役に汗水流し、赤鬼・青鬼にこづき回され、麦飯と小便汁で飢えをしのいでいるが、冬でも上半身裸で過ごせるほど元気で、顔色もよく、一日の仕事を終えて一級者棟に帰宅すれば、20人集まってにぎやかなこと。 『明日って日が来る』と『ない』とでは、こんなにも違うものか」 と書いている。 合田士郎著「そして、死刑は執行された」 「続そして、死刑は執行された」 恒友出版社 |
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