雑録2005.10.17 もったいない
 

ケニアの環境副大臣でノーベル賞受賞者のワンガリ・マータイさんによって日本語の“もったいない”という言葉が有名になった。しかし、“もったいない”という気持ちと、現実とは(へだ)たることがある。例えば、古いタイプの冷蔵庫やエアコンは、最新の省エネタイプに比べて電気代がかかる。長期間使用すればするほど、電気代の節約効果が効いてくるといわれるが、使用できるものを、それこそ“もったいなくて”買い換える気にはならない。

私の“もったいない”で思い出す話をしてみたい。

 

何年か前の話である。電池交換不要というソーラー仕様の腕時計(太陽エネルギーを利用した腕時計)を、新宿の家電量販店で買った。豆電池使用の腕時計では、電池交換なしで5年間は動くと、うたっているものも売られていることから、少なくとも5年以上は使えるだろうと思っていた。しかし、3年を待たずして、時計は止まってしまった。家電量販店の時計修理部に持ち込むと、修理代金は、メーカーに送るので、1万円と部品代がプラスアルファされるという。この時計はこの店で、9千円と幾らかで買って、1万円しなかったのですよ、と言っても、1万円とプラスアルファ部品代がかかるという。まったくこんなバカな話はない。

持ち帰って裏蓋(うらぶた)を外してみると、豆電池に似た充電用バッテリーが入っている。このバッテリーがいかれたのだなと推測した。ソーラー仕様の電卓を何年も使用しているので、ソーラーは長持ちするという先入観があった。電卓は、受光部を覆うと計算できなくなるので、充電用バッテリーは入っていないのだろう。しかし、時計は光のない場所でも動かなければならないので、充電用バッテリーが必要である。このバッテリーに欠陥があったのだと思う。豆電池使用の時計なら、電池を交換すれば時計はまた動く。この腕時計は廃棄したが、もったいない結果になった。

 

コニカが日本で初めてオートフォーカス(自動焦点)カメラを発売し、話題になった頃の話である。あるフィルムメーカーも続いてオートフォーカスカメラを発売した。今まで使用していたカメラ専業メーカーのカメラを下取りに出し、そのフィルムメーカーのオートフォーカスカメラを購入した。しかし、出来上がった写真は、三枚に一枚しかピントが合っていない。今まで使用したカメラを下取りに出したことを後悔した。もったいないことをした。ピントが合わないカメラなど、今思うと欠陥商品である。これ以来、最近のデジタルカメラを含め、カメラ専業メーカーのカメラしか買わないことにしている。

 

新宿の有名スポーツ店で買った少し大きめなリュックがある。これは、何日にも渡って、荷物をもって歩くウォーキングで使用している。荷物の荷重が、肩と腰に適当に分散し、背中の発汗への考慮もされ、背負(せお)いやすく気に入っている。

数年の使用で、リュックの底部の一辺がすり減り、一部穴もあいてしまった。購入したスポーツ店で、メーカーへの発送代500円を支払い、修理の見積もりを頼んだ。後日、スポーツ店を経由して、メーカーから、修理代金が7千円かかると連絡がきた。当時1万円弱で買って、今もその値段で売られている製品である。修理は、すり減ったところを、パッチで縫い合わせてもらうだけでもよいと話したのだが、メーカーでは、リュックを分解し、底部全体を新品と交換して修理するという。

店員は、“お客さん、よっぽど愛着のあるリュックでないなら、新品に買い換えたほうが得ですよ”という。まったくその通りである。しかし、ほんの一部分がすり減っただけで、捨てるにはもったいない。東急ハンズで、皮革の切れ端と皮加工用の糸、針、ポンチなど2千円弱で求め、頑丈にしかも目立たなく修理し、現在も使用している。

 

私が()く革靴としては、価格の張る革靴を、新宿のデパートで買った。クッションがよく、履き心地も気に入っていたので、手入れをして履いていた。そのうち、靴底の厚さ2センチぐらいの合成ゴムの部分が、左右の靴とも同じところで、ナイフで切り裂いたように横に割れてしまった。

修理屋にもっていくと修理できないという。接着剤でくっ付けてみたが、歩いている途中ではがれてしまう。割れてさえいなければ、十分にまだ履ける靴である。捨てるには、“もったいない”靴である。何ヶ月か靴箱にしまってあった。たまたま、東急ハンズの靴の修理用品売り場で、靴底半張り用の薄い合成ゴム部品を見つけた。ためしに、割れた部分を接着し、さらにその上から半張り用部品を接着した。修理も体裁よくでき、今もはがれることもなく、この靴を履いている。

 

“もったいない”という気持ちは、忘れないで持ち続けたいものである。

また、“知足(ちそく)”ということも心がけてはいるが、私のような凡人には“()うは(やす)(おこな)うは(かた)し”の言葉である。

 

<参 考>

()ることを()(ひと)地上(ちじょう)()すとも安楽(あんらく)にして

(まず)しといえども(つね)()めり

()ることを()らざる(ひと)は、金殿玉楼(きんでんぎょくろう)にありとも不満(ふまん)にして

()めりといえども(まず)しく、

(つね)()ることを()(もの)憐憫(れんびん)せらる

遺教経(ゆいきょうぎょう)

 
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