邪馬台国への道 第2章 一律数値誇張仮説

第2章 一律数値誇張仮説

 本章では本書の前提となる一律数値誇張仮説とその根拠について解説します。


距離と戸数の誇張

 第1章では魏志倭人伝の道程記述には何か深刻な間違いがあって、それを額面通りに信じるわけにはいかないことを説明しました。その理由は図1-1を思いだしてもらえば明らかでしょう。そこでまずその魏志倭人伝の間違いとはなにかを明らかにしていく必要があります。


◆誤謬の法則

 さて、ここに内容の誤った文献があったとします。もし他に参考にできる資料がなかったら、その誤りを見つけるには文献を精読して矛盾点を追究していくしかありません。

 しかしその方法には限界があるのは明らかです。特にその間違いがランダムに発生していたのなら、元の文献だけを見ていても誤りを発見することは非常に困難だといえるでしょう。

 魏志倭人伝の場合も似たような状況です。まず参考にできる文字資料が存在しません。考古学資料に頼ろうにもこれは“状況証拠”は提示してくれますが、邪馬壹國の場所を断定できる証拠を提供してはくれません。

 こう考えると邪馬壹國の位置を決めるのは無理なのではないかという気になってきます。


 しかしここでもし、その誤り方に一定の法則があったとしたらどうでしょうか?

 例えばはるかな未来、とある島国を研究していた学者が遺跡から発掘された英語の文献を根拠に、この住人はシラミを主食としていた変な奴らだ、という学説を発表するかもしれません。しかしその島国の住人にはLとRの区別ができないという“法則”があったことが分かれば、正しくは何を主食としていたかを明らかにすることができるわけです。


 同様にある文献の著者が「一定の意図の元に記述を改竄していた」のであれば、その意図や手段が分かれば元の正しい記述を復元できる見込みがあるわけです。

 もちろん倭人伝の著者は1,700年前に死んでいますから本人に確認するわけにはいきません。

 そこで本書ではまずその意図と手段を推定します。そこから“元の記述”を復元して、得られた道程が妥当かどうかを検証します。


 ―――と、ここで注意深い読者ならお気づきかと思いますが、一般的には仮定を元に復元された道程が妥当だったとしても、元の仮定が正しいことにはなりません。その道程が妥当だったというだけで、たまたま偶然そうなっただけなのかもしれません。

 しかし現状では「いかなる前提の元でも邪馬壹國への妥当な経路は見いだされていない」のです。

 従ってもしこの方法でうまくいったのならその仮定が正しかった可能性は十分にあって、その場所こそが邪馬壹國なのだと主張することができるわけです。


◆一律数値誇張仮説

 そこでその仮定ですが、まず倭人伝の道程距離が長すぎるというのは表2を見れば誰もがすぐに気づくところでしょう。そのため畿内説・九州説に関わらず多くの人が、その長すぎる距離を実際に当てはめるための案を出しています。

 有名どころでは魏晋短里説(ぎしんたんりせつ)というのがあります。魏志が書かれた時代には1里の長さは前述の400~500mではなく、40m前後だったという説です。こうすれば確かに里程で記述されている部分については計算が合うわけですが―――こういった説の真偽はともかく、本書ではこの距離を縮めるために次の仮定を導入することにします。

  1. 倭人伝記者は何らかの理由で倭国を強大な国家に見せたかった。
  2. そのために倭国の大きさを10倍大きく描写した。
  3. 具体的には道程に出てくる里程・日程を元の10倍に誇張した。

 すなわち倭人伝の道程記述で例えば1,000里とあれば、実際は100里だったのが10倍されて1,000里になっていると考えるのです。同様に後半の日程記述部でも、例えば水行10日とあれば実際は水行1日だったとするわけです。

 ここから必然的に次の仮定が導かれます。

  1. 国の戸数については100倍に誇張した。

 もし1.の前提が成立するのなら、国の人口もサイズに比例して大きくしなければなりません。

 国の人口とは面積に比例しますが、面積とは長さの2乗に比例して増大します。すなわち長さを10倍にしたのであれば、面積はその2乗の100倍にしなければならないという、小学校の算数レベルの話です。

 当時の人がそんな公式を知っていたかどうかは分かりませんが、税金を徴収しなければならない立場の官吏ならば経験的に絶対知っていた知識でしょう。


◆10倍という値について

 この仮定の10倍という値は、元は筆者が図1-1の距離を1/10に縮めればちょうど九州内に収まりそうだなと思ったところから来ています。従ってこの時点ではそれ以上の根拠があるわけではなく、恣意的な値といえます。

 ただ、10倍というのは数値を大きく書き換えたい場合には一番計算が楽な方法です。なにしろ桁を一桁上げればいいだけなので、かけ算の九九を知っている必要さえありません。

 また倭人伝の記述はみんなきれいに10で割り切れる数になっています。日程などは普通ならもっと端数が出てもいいと思うのですがなぜかこれが10日、20日、1月(=30日)などと見事にぴったりした数になっています。

 従ってまずは誇張率がこの値だとして話を始めることにします。


 なお、ここで一つ注意してもらいたいのですが、この数値誇張は倭人伝の倭国に関連する記述全般に一律に適用するということです。距離に関してはどの経路においても10倍で、道程が里程で記されていようと日程で記されていようと倍率を変えることはしません。

 こうすることで距離の絶対値は変わってきますが、距離や戸数の比率は変わりません。また、この操作では向きの情報は変わりません。すなわち距離や戸数の絶対値を除いた残りの情報は原則的にすべて倭人伝の記述どおりだということです。


 以上の仮定に基づいて数値を変換した道程表が次の表3になります。この表の意味は、もし一律数値誇張仮説が正しければ、これこそがデータ改竄前の“本来の道程表”だということです。


表3 邪馬壹國への道程(一律誇張仮説に基づく修正版)
国名戸数経路の方角移動方法距離Km換算
帯方郡
乍南乍東水行700里280~350Km
狗邪韓國
渡海100里40~50Km
対馬國10戸
渡海100里40~50Km
一支國30戸
渡海100里40~50Km
末盧國40戸
東南陸行50里20~25Km
伊都國10戸
東南10里4~5Km
奴國200戸
10里4~5Km
不彌國10戸
水行2日50~70Km
投馬國500戸
水行
陸行
1日
3日
25~35Km
45~75Km
邪馬壹國700戸
  • 距離を里程・日程ともに1/10に縮小
  • 戸数は1/100に縮小
  • 1里は400~500m
  • 水行日程の距離は一日25~35Kmと推定
  • 陸行日程の距離は一日15~25Kmと推定

そのような誇張をした理由

 さてここですぐに表3を辿る前に、どうして倭人伝の記者がそんな改竄を行ったかについて少し検証しておく方がいいでしょう。

 もしも記者にそんな動機が全くなければ以降の議論は砂上の楼閣のようなものです。しかし以下に示すように記述改竄の動機だけでなく、その事例までもが存在したと思われるのです。


◆魏の遠交近攻策

 魏志倭人伝の“魏”とは三国志に出てくる魏です。この時代のことは三国志演義という現在でも人気がある物語でよく知られているところでしょう。劉備、関羽、張飛、それに諸葛孔明という名は興味の無い人でも聞いたことくらいはあるはずです。その彼らの最大の宿敵が、魏の曹操でした。


 卑弥呼が最初の朝貢を行ったのが景初2年(西暦238年)です。このとき曹操は既に没した後で、当時の魏王は孫の曹叡(そうえい)でしたが、その後見人が司馬懿(しばい)(字は仲達(ちゅうたつ))でした。

 司馬懿とは、五丈原では走らされてしまったとはいえ、あの名軍師、諸葛孔明の好敵手として描かれている人です。そして曹操の子孫たちは互いの権力闘争に明け暮れた結果、最終的にはこの司馬懿が魏の全権を掌握して、彼の孫の司馬炎が次の西晋王朝の初代皇帝となります―――すなわち司馬懿とは当時最高の軍略家でした。


 さてその景初2年(西暦238年)ですが、4年前の五丈原の戦いでは蜀の諸葛孔明が病没し、遼東半島での公孫氏の叛乱も鎮圧して、魏にとって目下最大の敵は長江流域の大国、呉という時期でした。

 魏も呉も国力に大差はなく、また地形的要因もあって北方の魏は侵攻しづらいところです。ちょうど30年前に起こった赤壁の戦では呉と蜀の連合軍に曹操が大敗していますが、平原国家の魏が長江での水戦に慣れていなかったというのも大きな要因でしょう。

 しかし同じことは呉にも言えて、北方の平原での戦いは不利でした。

 すなわち単なる力押しではなかなか相手を倒すことができず、お互いに睨み合っているという状況になっていたのです。

 さてそのとき、もしその呉の東海上に“倭”なる大国があって、そこが魏と結んだとなればどうでしょうか。


 下の図2-1は当時の魏と呉の位置関係を示したものですが、もし図のように東海から攻めてくる大軍があったとしたら呉にとっては由々しき大問題です。すなわち、魏にとって呉の東海上に親魏の大国があればとても戦略的に有利になるのはお分かりでしょう。

 これは遠交近攻策といって隣国と敵対している場合、その背後の国と親しくして敵国を挟撃すると有利だという、現代にも通じる戦略の基本です。


図2-1 魏の遠交近攻策

 ただ実際の倭はそんな大国ではありません。また位置ももっと北方です。

 しかしその当時、倭国などという国に関する記録はほとんど存在していませんでした。大陸では誰もそんな国のことは知らなかったのです。ならば報告書に少々いい加減なことを書いたところでばれる心配はないわけです。

 もちろん何から何までデタラメだと足が付く危険があります。しかし実際に倭国から使者がやって来て、魏使も倭国へ行ってきたのは事実です。

 そこで司馬懿が戻ってきた使節から話を聞いた後、公式の報告書の数字はちょっと大きめに書いておけ、などと指示したならどうでしょう?

 もちろんそれがどの程度有効な手段になり得るかは分かりません。

 ただそれを知った呉が慌てて軍の一部を東方の守りにでも回してくれれば、それだけで魏にとっては大儲けです。

 東海上の取るに足らぬ島国の記録をちょっと改竄するだけでそんな大利を得られる可能性があるのなら、またそうすることで魏にいかなる不利益も発生しないのであれば―――それは十分に“やる価値”があったのではないでしょうか?


◆呉の亶州調査

 同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。

 西暦230年、呉の孫権が衛温(えいおん)諸葛直(しょかつちょく)という将軍を派遣して、夷州(いしゅう)亶州(たんしゅう)という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。

 辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 当時の夷州とは現在の台湾ですが、亶州というのは実は徐福(じょふく)が移住していった場所とされていました。

 徐福とは秦の始皇帝の命を受けて不老不死の妙薬を求めて東に船出していった人ですが、行った先で“大平原の王”となって中国には戻らなかったとされています。

 この徐福が到来したのが日本だったという伝説は各地に残っているのですが、ともかく孫権はこの徐福の末裔と同盟するために将軍達を派遣したにも関わらず、上手くいかなかったため処罰したとも考えられるわけです。


 さて、ここでもし呉が同盟に失敗した“徐福の末裔の国”が魏に朝貢してきたとするならばどうでしょう? それは魏にとって大変名誉なだけではなく、呉の孫権に対しては強力なプレッシャーになり得るわけです。

 ただ、実際の倭國は東海上の小国でしかありません。そのことを孫権が知ったら胸をなでおろすことでしょう。ならば司馬懿はどうしたでしょうか? もちろんこの状況を最大限に利用しようと考えても不思議ではありません。


◆会稽東治の東

 さらに倭人伝の中には倭国の位置について次のような記述があります。

今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう)を補らへ、文身はまた以て大魚・水禽を(はら)う。後に(やや)以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。

その道里を計るに、(まさ)会稽(かいけい)東治(とうや)(東冶)の東にあるべし。

その風俗、(いん)ならず。男子は皆露紒(ろかい)(冠をかぶらず(もとどり)のまま)し、木綿を以て頭に()け、その衣は横幅(おうふく)(の広いもの)、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。

 上は原文の順序そのままですが、読めば少し構成が変だと誰もが気づきます。倭人が魚好きだとか帽子をかぶらないといった風俗習慣の記事中に、いきなり倭國の場所の話が挟まっているのです。

 倭人伝は最初に倭の国々、次に倭人の風俗習慣、最後に倭国の政治や外交についてと理路整然とした構成になっています。ところがこの文だけが例外的におかしな位置にあるのです。


 さてこの『会稽(かいけい)東治(とうや)(東冶)』とはどこかという話ですが、これをさんずいの東“治”とするか、にすいの東“冶”とするかで場所が異なってきます。しかしいずれも図2-1にあるとおりにそこは呉の領域です。

 東治の場合は鹿児島県の南海上の屋久島あたり、東冶とすれば沖縄くらいの緯度になりますが、「まさに東」と言うには前者ではあまり、後者だともう全然合っていません。


 すなわちこの記述は、改竄後の記述を見た人が呉の東海上に倭国があることを強調するため後から書き加えた―――しかも文書の余白に無理矢理書いたためにおかしな位置に入っている―――と考えることができるわけです。


◆破賊文書は、旧、一を以って十と為す

 さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。

 同じく三国志の魏志ですが、その中に「破賊文書は、(もと)、一を以って十と為す」という記述があるのです。

 この節は國淵という長史が河間郡という場所で起こった叛乱を鎮圧したときの逸話に出てきます。通常、賊を破ったときの報告は人数を10倍に水増しして報告するものなのに、國淵がそうしなかったので曹操がその理由を尋ねたところ「戦果の水増しは武功を大きくするためにやるものですが、今回は領地内で領民と戦ったことを秘かに恥じているからです」と答えた、といった内容の記事です。


 このことからまず当時そういった報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので、実数を正直に報告した國淵に逆に曹操が尋ねていたりするわけです。

 もちろん倭国は賊ではありませんが、倭人伝が含まれているのが“東夷伝”だということからも分かるように、魏から見たら夷狄(いてき)(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。

 蛮族を征伐するような場合、相手が強ければ強いほどそれを倒した将軍と、ひいては彼が属する魏の強さが際立ちます。

 これは蛮族が恭順の意を示してくるような場合でも同様です。すなわち相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。

 従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。


◆三国志編者『陳寿』

 また三国志を編纂した陳寿にも動機はありました。

 この陳寿ですが彼の前半生はかなり不遇だったようです。彼は蜀の生まれですが、彼の父親が馬謖(ばしょく)の事件に連座したため、蜀にいた時代にはなかなか良いポストにはつけなかったようです。

 晋の時代になってそんな彼を拾ってくれたのが司馬炎の側近だった張華でした。すなわち陳寿は張華やその主上の司馬氏に対して強い恩義を感じていたと考えられるのです。

 さらに彼が著した三国志ですが、この当時の史書というものは事実をありのままに書いたという物ではなく、現王朝の正統性を示すために書かれる物でした。西晋というのは実質的に司馬懿が建国したようなものです。従ってその司馬懿の功績を強調するために、彼の威光を畏れて東海の超大国の女王が朝貢してきたと書いた可能性はあるわけです。

 筆者個人の印象としては陳寿がゼロからそこまでやったかどうかは疑わしいとは思うのですが、ただ既に存在していたどう見ても誇大な記述を分かっていて訂正せずそのまま記述した、というようなことは十分あり得ると思います。


本章のまとめ

 以上、当時の魏や魏使、そして倭人伝の編者にとっても倭国を実勢より大きな規模に描く動機があったことが分かります。

 もちろんそれだけでは実際に行われたことにはなりませんが、その可能性があった以上、その前提で議論を進めることには十分な意義があるわけです。


 ところでこの、倭人伝記者によって倭国の規模が誇張されているという主張ですが、これは筆者が考案したアイデアではなく、古くは明治時代から何度となく言及されているものです。

 しかしそれはなぜか「そんな捏造なので、倭人伝の方向・距離・日程の記述は全く信用がおけない」という文脈で使われているようです。


 しかしこれは話が逆です。

 なぜなら倭国の規模を誇大に見せるためには、確かに国のサイズや人口を増やす必要はありますが、経路の方向を変える必要はありません。

 また数値を改竄する場合、個々の値をデタラメに書き換えるよりは一定倍率を掛けてやるのが楽な方法です。しかも元の値が知られているわけではありませんから、そんな手抜きをしたところでばれる心配もありません。

 ところがそんな方法で改竄されていたのであれば、元の値は簡単に復元できてしまいます。

 もし記者がこのような方法で記事を誇張していたのであれば、魏志倭人伝とはもはや十分に信頼のおける文書といっても差し支えはないのです。