忘れたくない猫のお話
はじめに
わたしと母は泣いていた。
泣きながら「ぶー」の毛にこびりついた血を二人で拭きとっていた。
まさか、こんなことになるなんて
本当に信じられなかった。
正直、まだ信じられない。
風邪気味のわたしが仕事を休んで寝ようかという夜の11時半過ぎ。
携帯が鳴った。
実家からだった。
こんな時間にかかってくるなんて何があったのかと取ると
電話の向こうから嗚咽に混じって母の声で
「ぶーが車に跳ねられちゃった!」
自分の耳をうたがった。
だってつい先日実家に帰った時には、とったとったと歩いて父の膝の上で気持ちよさそうに寝ていたはずだ。
とにかくすぐに行くからと電話を切って家を飛び出した。
実家へ向かう道すがら、どの程度の怪我なのか、いつ跳ねられたのか
色々考えていた。
でも、死んだといっていたわけじゃない。
とにかく家へと急いだ。
実家の車庫に父の車がなかった。
ひょっとしてもう「ぶー」を連れて病院に行ったのかもしれない。
そう思いながら玄関の扉を開けると
母の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
部屋に駆け込むと、一番見たくない、一番最悪の光景があった。
立ち尽くしたまま泣き叫ぶ母の足元には
血のにじんだタオルに包まれた「ぶー」の足先が見えた。
動いていなかった。
どこか遠いところで自分が金切り声を上げて叫んだのが聞こえた。
タオルを開くと「ぶー」がいた。
開いたままの眼には何も映っていなかった。
口から吐いたであろう多くの真っ赤な血は口周りから肩までこびりついていた。
一瞬のことだったのだろう。
ほかに大きな外傷はなかった。
いつもより大きく見開かれた目と血がなければ
寝ているようにきれいなままだった。
足のうらの肉球もピンク色のままだった。
でも、いのちがない体はもう固くて冷たい。
私は自分がなにを叫んでいたのか良く覚えていない。
ただ「ぶー」の血を拭いながら泣き叫んでいた。
「こんなの、ぶーじゃない。違う!」そんなことを言っていたと思う。
母は「ぶー」をさすりながら
「もう2階でとっくに寝ていると思っていたの!いないから外に出てみたらもう冷たくなっていたの!
さすっても動いてくれないの!」
母は自分がもっと早く気がついて外に出ていればと自分を責めた。
でも「ぶー」の姿は「一瞬」の出来事だったことを語っていた。
歳をとって以前のように車を怖がらなくなったことが心配だと、つい先日話をしていたばかりだった。
この日父は仕事で家を空けていた。
気が動転した母は外で冷たくなっている「ぶー」を抱いた瞬間
頭が真っ白になって、どうしたらいいのかわからないまま
わたしに電話をくれた。
涙が枯れるまで泣いた。
ほんとうに泣いて泣いて、泣いても涙が流れなくなった。
それでもわたしと母は泣き続けた。
母が「ぶーをきれいにしてあげよう」と水とタオルを持ってきた。
二人で泣きながら体を拭いた。
血を落とされて、目を閉じた「ぶー」はいつものように眠っていた。
おきにいりの座布団に白いシーツを掛けて「ぶー」をそっと乗せた。
「ぶー」の上にも白いシーツを掛けてあげた。
はみでた後ろ足としっぽの先は、生きているように変わらなかった。
母は何度も「ぶー」の小さな足をそっと握って
「ぶー?起きてごらん」と繰り返した。
シーツを掛けられて、ちょこんと顔をのぞかせた様子は
わたしと母のいまだ「信じられない」現実そのままだった。
母はいつも寝るように「ぶー」を座布団に乗せたまま
そっと抱き上げると寝室へ連れていった。
「ぶー」の横に母は布団をひいた。
母の横にわたしも布団をひいた。
「いっしょに寝ようね。」
暗すぎると「ぶー」が寂しいからと薄明かりの中で
母とわたしは横になった。
明け方までの数時間、母は何度も起きては「ぶー」の体をさすり
足を握って、ひょっとしたら起きてくれるのではないかと
何度も「ぶー」の顔をのぞきこんでいた。
わたしは母に声をかけることも出来ず、ただ黙って泣いていた。
一睡もしないまま、夜は空けた。
「これが夢だったら、どんなにいいだろう?」
これほど本気で願ったことはなかった。
「ぶー」がいつものように自慢の長いしっぽで人の顔をなで
早く起きろと耳元でわざと鳴いてくれたら。
だれか冗談だと言ってくれれば。
すずめの鳴く声を聞きながら呆然と天井を見つめて
現実を見たくないわたしはずっと泣いていた。
しばらくして話を聞いた父がすぐに帰ってきた。
「ぶー」の体を優しく撫でると、父は泣いた。
父が泣くのを初めて見た。
「埋めてあげよう」父が立ちあがった。
母も「会えなくなっちゃうのは悲しいから嫌だけれど、埋めてあげないと可哀想ね」と立ち上がった。
わたしも立ち上がった。
父が庭の片隅を掘るあいだ、わたしと母は道路についた「ぶー」の血を洗い流していた。
水に流れて消えていく血のあとを見ても、まだわたしはどこか信じられなかった。
父が「ぶー」をそっと穴の底に置くと静かに土をかけていった。
わたしも母も黙って泣きながら土をかけた。
もう「ぶー」には会えない。
現実がここにあった。
家に入ってからガラスごしに「ぶー」のお墓を見る。
それでも、あまりに急すぎて信じられないという思いは残っている。
でも、「ぶー」はもういない。
16年というのは猫にとっては長生きだったと思う。
でも「ぶー」は大往生で布団の上で眠るように死んでいくのだと信じていた。
まさかこんなにあっという間にいなくなるなんて考えもしなかった。
忘れること忘れないこと、色々あるだろうけれど
わたしは「ぶー」のことを「忘れたくない」と思った。
だから「ぶー」がくれたわたし達家族と「ぶー」の思い出を書いておこうと決めた。
きれいな茶トラにシャムの血が混じって
すらりとした足と長いしっぽ。
大人猫になっても変わらない子猫のような鳴き声。
すごく頭が良くて、ずる賢くて、だけどちょっぴり間が抜けている。
どうしようもなく可愛い「ぶー」のお話。
「こんな猫がいたんだよ」と少しでも多くの人に知ってもらいたい。
ただの自分勝手なワガママだけれど、そう思った。
16年前、わたし達家族の元に一匹の迷い猫がやってきました。
お話はそこから始まります。
わたしが記憶にある中で初めて「猫」という生き物を家族として迎え入れた
一家の大騒ぎぶりを、どうか見てください。