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2000-12-16 「欺瞞の日」ロバート・スティネット、1999年

Day of Deceit, 欺瞞の日」ですが、調べれば調べるほど、どこから見ても真珠湾攻撃についてはルーズベルト等が知っていて、わざと奇襲攻撃させたとしか思えません。どうしてこんな明白な事実があらわにならなかったかが不思議です。当日、空母2隻が不在であった件もスティネット氏によれば、攻撃を予知して1週間前に出航との(ruse,陰謀)こと。
さて、この本が軍人の憤激をかっているのではと思ったのですが、キンメル提督、ショート将軍の名誉回復を求めるホームページ(これは在郷軍人会や上院議員も名前を出すもの)で、「欺瞞の日」を高く評価しておりました。その一つの理由は、反ルーズベルト感情が強いからのようでした。キンメルの家族が名誉回復(現時点ではこれはなされていない)を求めて徹底的に戦っているのが大きなファクターですが、明らかな不正をただすのと、この容共であったルーズベルトへの反感(スティネット氏はブッシュ元大統領の本を書いたり良好な関係)が裏できいているような気がします。一方、一般人レベルではルーズベルト陰謀説には強い拒否反応があるようです。真珠湾は普通の米国人にとって聖地ですから、陰謀説は受け入れがたいと思われます。


<主な経緯;こちらでまとめたもの>
1940年9月27日;日独伊三国同盟締結
1940年10月7日;アーサー・マッカラム(Lieutenant Commander Arthur H. McCullum)が対日8項目の行動計画作成
1941年10月18日〜1944年7月22日;東条英機内閣
1941年11月26日;ルーズベルトがハル国務長官に、日本(日本時間27日ハルノート)に最後通牒を「日本は中国や満州から軍を引き上げるべき」を出さす。
11月26日;機動部隊(6隻の空母を含み計32隻)はエトロフ島単冠(ひとかっぷ)湾を出発、一路ハワイへ。
11月27日;作戦本部はキンメルやショートにWar Warningしかし市民には警戒心を与えないようにとの注意がきで、南方に部隊が向かっているように思わせる。(日本のスパイが真珠湾の調査をしていたのを彼らに言わない)
11月30日;嵐があり、機動部隊がばばらばらになったので、南雲中将は無線信号を使用(米軍に検知される)
12月2日;「新高山登レ」、ハワイ攻撃の暗号電報が発信
12月6−7日;日本の宣戦布告電信暗号はワシントンで12月6日夜から7日朝に米国により解読され、ハワイ米軍に連絡する時間があったが放置される。
12月7日;ハワイ時間、朝6時に飛び立ち攻撃開始、爆撃は現地時間7日午前7時55分(日本時間12月8日午前3時25分)、東京からは7日1:30 pm ESTに手渡すように駐米大使は言われるが、ミスで遅れ、野村・栗栖両大使がハルに覚書を手交したのは、真珠湾空襲が行われていた午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)だった。 

http://www.independent.org/tii/forums/000524ipfTrans.html
Independent Policy Forum
Pearl Harbor: Official Lies in an American War Tragedy? May 24, 2000
The Independent Institute Conference Center Robert B. Stinnett
Former Journalist, Oakland Tribune and BBC
Author, Day of Deceit: The Truth about FDR and Pearl Harbor
以上に本年の5月24日に本件についてスティネット氏を招いてインディペンデント研究所というところがフォーラムが開かれています。このアドレスでなかなか真摯なディスカッションが行われています。
この中で、聴衆からの質問に答えて、スティネット氏は当時、太平洋には3隻空母が存在し1隻はサンディエゴ、2隻は真珠湾におり、その空母レキシントンとエンタプライズはワシントンからの命令で奇襲1週間前に真珠湾を離れたとあります。エンタープライズはウエイク島に飛行機12機をとどけ、レキシントンは、ミッドウエイに飛行機12機を届けるよう言われたが中央太平洋をぶらぶらして、ミッドウエイにいかなかったとのことです。真珠湾に残っていたのは第一次大戦時代の18ノットしか出せない旧式戦艦だけで、30ノットの空母は出航、これはruse(策謀)であったと言い切っています。(氏は日本はオアフ島で、オイルパイプラインや電力ラインを攻撃すれば大打撃を与えたのに、第一次大戦の遺物を日本は攻撃したと言っています)
また「That Action F there, keeping the fleet at Pearl Harbor 」マッカラムの8つの行動計画のFについては、米国太平洋艦隊は1940年までは西海岸におり、ハワイには分遣隊があっただけが、ルーズベルトがリチャードソン提督の反対(真珠湾は危険として)を押切って、キンメル提督に交代させて、日本軍をおびき寄せるために移転したとのことです。

http://www.pacshiprev.com/page34.html
The Pearl Harbor Gaqzette; キンメル提督、ショート将軍の名誉回復を目的に設けられたインターネット・ニュース・レター
2000年9月のプレス・リリーズ;1999年12月7日に開催されたコロキウムの結論
(委員長;ホロウエイ提督、元エンタプライズ艦長、第7艦隊司令官)
1.12月7日にキンメル提督に与えられた戦力は、日本の南雲副提督の機動部隊の1/3の戦闘能力しかなかった。
2.キンメルの前任者のリチャードソンは職をハワイに艦隊を保持すべきとのワシントンの命令に反対したためである。彼は西海岸に艦隊を置くべきで、ハワイでは日本軍に対して防衛が出来ないと確信していた。
3.キンメルは、司令官となってから、追加の艦隊・空母を要求していた。日本の空母からの攻撃に耐えられないと思っていたからである。
4.彼の戦力増強の提案はワシントンから常に拒否されていた。欧州における戦争のほうが優先順位が高いとの理由で。
5.海軍作戦部長に対して、十分に情報を与えるようにとの要求にもかかわらず、彼のまわりの状況に関する暗合解読について重大な進展があったにも係らず情報が与えられなかった。
6.キンメルが保持していたハワイの哨戒機では日本からの攻撃が予測される区域をカバーするには不十分であった。
7.日本の攻撃がまじかであるとの警報があったとしても、キンメルには2つのオプションしかなかった。外洋に出て日本艦隊と戦う場合であるが、これは1/3の戦力では負ける。第二のオプションは真珠湾を最大警戒状態において敵に備えるが、敵にはダメージを与えない。しかしこれが彼のとれる唯一の戦術であった。これに対応するためには、4時間〜24時間前に攻撃の情報を得ねばならない。キンメルは、US情報機関が日本の暗合を解読して、事前に日本の攻撃が知らせると信じていた。もしそうならな1941年12月7日朝7時の攻撃で驚くことはなかった。キンメルは海軍作戦部から11月27日にWar Warningメッセージを受け取っていた。このメッセージは曖昧なもので、日本の機動部隊が極東に向かっているように思わせるものであった。ハワイに向かっていることを示唆するものではなかった。よってキンメルにとり、真珠湾の太平洋艦隊をより準備することはできず、職務怠慢とは言えない。当時は米国軍の装備や、訓練や展開は不十分であり訓練されたパイロットを持つ南雲 隊にかなうことは無理であり、12月7日の真珠湾の結果を変えることは出来なかった。米国の指揮官はその指揮についてアカンタビリティの責任を負っている。一方、正義は公平な裁判と手続きによって有罪とされたもののみが罰せられる。キンメル提督に対してはこのジャッジメントがまだなされていない。
(真 珠湾攻撃で2335名の軍人、68名の民間人死亡、2000名が負傷、353機の日本軍機が攻撃)

さて、このホームページ http://www.pacshiprev.com/page52.html
The Smoking Guns of Pearl Harbor by H.A.Holbrook,2000年3月2日 (The Pearl Harbor Gazette) ホルブルック提督(このHPは在郷軍人会主宰で上院議員が挨拶をしたりで、エスタブリッシュメントのもの)はDay of Deceitに対して書評をしているのですが、非常に肯定的にこの本を扱っています。
概要;この本は、FDR(大統領)とワシントンは日本機動部隊が北大西洋を真珠湾を攻撃するために移動していたのを知っていたことを確信させてくれる。ポイントは真珠湾攻撃の前から米国海軍は日本海軍の暗号を解読していたことを世界に知らしめたことである。これはキンメル提督とショート将軍がスケープゴートにされたことを証明している。

http://www.pacshiprev.com/page37.html
Admiral Husband Kimmel & General Walter Short, Pearl Harbor Scapegoats, June 18, 2000. Congress endorses promotion of admiral Husband Kimmel and General Walter Short to Highest Wartime Ranks 米国下院は2000年5月10日、上院は2000年6月8日に全員一致で2001年国防予算法の修正として、キンメル、ショー トを第二次大戦中の最高地位に昇進するよう決議した。
<この決議の内容は、真珠湾攻撃について必要な事前情報を与 えられなかった、2人は不当に責任を取らされたというもの>
ここで興味深いには、本件についての時系列が1941年から1997年まで記載されております。1954年4月には、キンメルが昇進しそうであったこと。それから、空白の期間があり、1991年11月から昇進の話が出ていることです。やはり、これは東西冷戦終結の影響かと思えます。

http://www.pacshiprev.com/page43.html
Dorn Report of Dec.1996 "Advancement of Rear Admiral Kimmel and Major General Short on the Retired List" by Edward R. Kimmel (January 2,1998)キンメルの家族の訴え

http://www.pacshiprev.com/page51.html
Under Secretary of Defense,
subject; Advancement of Rear Admiral Kimmel and Major General Short (Dorn Report,1995年)
両人を昇進させる必要はないと結論した。真珠湾について、歴史家は3つのグルー プに分かれるであろう。
1)キンメル、ショートが部分的に責任がある。
2)スケープゴートにされた。
3)官僚的なやりかたが、海軍と陸軍の協力がまずかったせい。


<以前のコメント>
識者より、以下の興味深いお話うかがいました。「米国で最近、第二次世界大戦についてかかれた新しい書物がで、日本が無謀な戦争を仕掛けさせるような明確な米国の国家戦略があったことを、米国の公文書600点を引用して描いた本"Day of deceit"「欺瞞の日」 著者Robert B. Stinnettが出されたということです。邦訳も近いようです。著者は「日本は愚かであったが、今まで言われているような悪質な国ではないことが確認できた」と言っているようです。」
全然、聞いたことがない話であり、インターネットで著者を探すと、アマゾン・コムなどに書評があり、1999年12月に発行(26ドル)で米国で話題となっている本とのことです。なんで日本で大きく報じられないか不思議(当方が、気づかなかっただけ?)です。
当方は真珠湾攻撃は、英国のチャーチルや米国のルーズベルトは始めから暗号解読などで予期していたに相違ないと思っていましたが、それが裏付けられたなという、感想です。8つのアクション・プランを作って日本が米国を攻撃せざるをえなくするように仕組んでいたとは、そこまでやっていたのかというのが率直な印象です。
情報収集作戦、世論誘導などでは、日本は英米にはかなわない、いまもそれは同じ状況に思えます。

<From Kirkus Reviews;以下は当方が抄訳>
北太平洋で、真珠湾攻撃の何週間か前に意識的に、空白地帯をつくりパトロールを禁止させた。真珠湾攻撃はルーズベルト政権が計画的に米国を戦争に参加させるために煽動されたものである。ステイネットはアーサー・マクラム准将の日本を戦争に引き込む政策メモであげられた8つのアクション、例えば、日本への石油の禁輸、太平洋に米国海軍を重点展開、中国の蒋介石支援等をあげ、それから、いかにこの計画が実施されたか、この努力が系統的になされて、真珠湾攻撃に結びついたか示している。

「欺瞞の日」について書かれた「諸君、2000年1月号」を買ってみたところ、タレント的な学者のなかでは最もまともである中西輝政氏対談やスティネット氏宅訪問記もあり興味深いものでした。本件は、石器時代捏造事件などはの比ではない大フレームアップであり、米国が実は...とは決して言わないであろうし、公的な場所では決着はつかないと思います。
個人的には、日本生まれの海軍情報部極東課長マッカラム氏が明らかなキイパーソンであり、どんな人間であったのか興味をひかれます。
「太平洋艦隊司令官のハズバンド・キンメル海軍大将と、陸軍ハワイ司令官のウォルター・ショート中将」の名誉回復がなされたとの記事が2000年10月11日共同電で引用されていますが、インターネットを調べると1999年5月26日に米国上院で52:47で名誉回復がなされたとありました。いまだに第二次大戦に従軍した経験を持つ上院議員は強くそれに反対したとか、決議は、米国の陰謀というのではなく皆の失敗のスケープゴートに不当にされてしまったから名誉回復とありました。真珠湾にある沈没したアリゾナ号は米国の聖地のように扱われており、それをひっくりかえすスティネット氏に対する反感は、インターネットで見たところ、かなり大きいようでした。ようはメールでこき下ろされています。
さて何故、いまこのような事実がでてきつつあるかは、やはり東西冷戦が終わり米国に余裕がでてきたからと思えます。

The debate was resumed in the U.S. Senate in May 1999, when an amendment to the defense spending bill brought a heated debate and a 52 to 47 vote "to exonerate [the] two American military commanders accused of dereliction of duty in the bombing of Pearl Harbor." (Washington Post, "Senators Exonerate Pearl Harbor Chiefs," 26 May 1999.)

諸君2001年1月号;徹底検証「真珠湾」ルーズベルトは全てを知っていた、新資料発掘
西木正明(作家、1940年生まれ)、ローバート・スティネット(ジャーナリスト、1924年生まれ)
著者のステイネット氏と会うべくアメリカへ出発する直前、毎日新聞(十月十二日付け3版)に、こんな小さな記事が載った。〈2000年10月11日共同電「米下院は10月11日、1941年12月の真珠湾攻撃で米軍壊滅の責任を問われて降格などの処分を受けた司令官2人の名誉を死後に回復する決議を採択した。決議は、ワシントンの政府上層部が日本軍の動向に関する情報を現地に送っていなかったことが米軍敗北の原因で、現地司令官らに責任はないと認定した。真珠湾攻撃をめぐっては、ルーズベルト大統領が第二次世界大戦への米参戦の口実とするため、日本軍にあえて奇襲させたとする説もあり、歴史のなぞの一つとなっている。決議は歴史の解釈には踏み込んでいないが、米議会としての判断を示した。上院でも近く採択される。59年ぶりに名誉を回復するのは太平洋艦隊司令官のハズバンド・キンメル海軍大将と、陸軍ハワイ司令官のウォルター・ショート中将。2人は真珠湾攻撃の直後に『職務怠慢』を理由に、司令官の職を解かれ、いずれも少将に降格させられた」
<マッカラム覚書の衝撃>
一階のリビングのデスクでインタビューを開始した。中西氏も指摘しているが、この本の圧巻であるのが、アーサー・マッカラム(中西氏はマコーラと表記)の「対日開戦促進計画」文書の発掘である。これは、ルーズベトの側近で海軍情報部の極東課長であったマッカラムが、日独伊三国同盟締結(1940年九月二十七日)後、僅か二週聞足らずの一九四〇年十月七日に提出した八項目からなる覚え書であるがこの史料の存在を初めて明らかにしたのがスティネット氏であった。真珠湾攻撃が、それから一年ニカ月後の、一九四一年十二月に起こったことを思えば、その覚書の意味は自ずから明らかであろう、マツカラムは欧州での第二次大戦にアメリカが参戦できず、また日本に対しで、も宣戦布告をすることが困難な状況を踏まえ、「日本が明白な行為を引き起こすことを期待する」ためには、次のような対日姿勢をアメリカ政府が取ることが必要だと提案したのである。
Aイギリスと協力関係を結び、太平洋地域、特にシンガポールの英軍基地の利用許可を得ること。
Bオランダと協力関係を結び、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の基地および物資の利用許可を得る。
C中国の蒋介石政権に可能な限りの援助を行なう。
D遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を極東、フィリッピンまたはシンガポールのいずれかに派遣する。
E潜水戦隊二隊を極東に派遣する。
F現在、太平洋、ハワイ諸島に配置している米艦隊主力を維持すること。
G日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒絶するように、オランダを説得すること。
H英国が押しつけると同様の通商禁止と協力して、アメリカも日本に対する全面的な禁輸、通商禁止を行なう。
そして、マッカラムは、以上の手段により日本が明白な行動に出ることが期待される。いかなる状況にも対応できるよう、我々は準備を万端に整えなくてはならない」と記しているのである。実際、日独伊三国同盟締緒後の日米の関係は、このシナリオに沿って動いていった。ABCD対日包囲ラインが形成され、アメリカの石油禁輸によって、日本は真珠湾攻撃へと追い詰められていった。
<略>マッカラムの名前は、別にスティネット氏の本で初めて紹介されたわけではない。例えば、反修正主義派であるロナルド・ルウィンの『日本の暗号を解読せよ-日米暗号戦史』(草思社)にも登場してくる。「当時の海軍情報部極東課長マッカラムは口述記録史にこう述べている」として「(アメリカ太平洋艦隊は)一九三七年に真珠湾の白昼攻撃、早暁攻撃を実施しました。夜明けに空母で接近し、陸海軍施設などを奇襲したのです。もちろん演習ですが、飛行隊の掩護の下、戦艦、巡洋艦もまたダイアモンド・ヘッドやフォート・ドニフッシ一などを砲撃しました。ですから、それがいつも頭にあったのです」と紹介されている。マッカラムは覚書を記す前から、日本軍による真珠湾奇襲を想定していたのである。ところが、不思議な事実がある。一九四一年一月の段階で、駐日米国大使のジョセフ・グルーが、ペルーの駐日公使から、日本軍が米国と戦争を始める時には真珠湾を奇襲する計画があると耳にしたことを報告する機密電報を打っている。そして、阿川弘之氏の「山本五十六」(新潮社)には次のように記述されている。「このグルー大使の警告に対して、アメリカの政府、海軍の首脳は、あまり真剣な興味を示さなかった。『現代史資料』 55に収められている一九四一年二月一目付スターク海軍作戦部長より太平洋艦隊司令長官宛の、『日本が真珠湾を攻撃する流言について』と題する電報では、スタークは、『米海軍情報部としては、この流言は信じられないものと考える』と言っている。このような貴重な情報に対して何故彼らがそんなに冷淡であったかは、こんにちでも依然一つの謎であろう」ところが、スティネット氏によると、このグルー電報を国務長官ヨーデル・ハルが受け取り、これを陸軍情報部と海軍情報部に伝えたのだが、マッカラムとしては日本による真珠湾奇襲こそ望むべき事態であったために、窮地に陥ったというのである。「奇襲」をアメリカの側が先読みしては、米国民を参戦に導くのが困難になると判断したのであろう。ちなみに、マッカラムは宣教師の両親を持ち、一九八九年に長崎で生まれ日本で育った。英語よりも先に日本語を覚え、一九〇四年の日露戦争で日本がロシア艦艇を奇襲攻撃したという歴史的事件をよく認識していたという。つまり、日本は奇襲を好む傾向があると考えていたというのだ。一九四一年二月一日に太平洋艦隊の司令長官になったばかりのキンメル大将に、マッカラムは「海軍情報部はこの情報を全く信用しない。また、日本の陸海軍の作戦計画に関する情報は既に入手されているが、真珠湾を攻撃する計画などなく、当面その心配はない」と伝えている。
<略>ステイネット氏の『欺瞞の日』では、次のように記されている。「米海軍の無線方位測定機が太平洋全域で無線信号を拾い、日本海軍の動きを確かめた。赤城、飛龍、翔鶴、及び第一航空戦隊、第二航空戦隊、第五航空戦隊の母艦の位置がコレヒドール(フィリピン)、グアム、ダッチハーバー(アリューシャン)の無線局で確認され、さらに北から北東方向へ動いている様子がコレヒドールのキャスト(傍受基地)から確認された。この情報はハワイのH局(傍受基地)でもキャッチされ、真珠湾のハイポ(無線監視局)の通信局長のジョセフ・ロシュフォート中佐へ送られ、そこから特別に警備を厳重にした海軍無線暗号網を介し、マッカラム経由でルーズベルトヘ伝えられた。情報通信の仕組みを知らない人にとっては、日本の呼び出し符号はアルファベットの羅列にしか見えないが、無線通信技師や暗号解読者にとっては意味がある」「海軍中将南雲は度々赤城の無線通信設備を利用して指令を出し、無線封鎖を破った。しかし南雲だけではなかった。長谷川艦長も、南雲の部隊の軍艦や巡洋艦の司令官である海軍中将三川軍一も同じ罪を犯した。三川のハワイ攻撃用の呼び出し符号はキャストに探知され、日本の東の沖にいることが知られてしまった。日本の通信秘匿は杜撰で、南雲も三川も真珠湾攻撃のために設けた呼び出し符号を事前に使ってしまったのである」

歴史検証に優先する国益、諸君2001年1月号
中西輝政(京大教授)、春名幹男(共同通信論説副委員長)
<抜粋>
中西;民主主義は大事であるけれども、民主主義と国益とが相反する時、最高指導者である大統領はどういう決断をするべきなのか。国の安全や国益あるいは民主主義そのものを守るためには、全く間違った考えに浸っている国民をあえてだますような反民主主義的な手法を取っても許されるのか、といったディレンマに直面する事態が、アメリカの歴史ではしばしば起きています。ルー-ズベルトの時代は、孤立主義全盛で、欧州の戦争に参戦するのは九割以上の国民がノーと表明していたけれども、友邦の英国を救いアメリカの安全を確保し、世界の民主主義を守るためには何としてででもアメリカは参戦する必要があったことはたしかだと思います。
つまり、ヒットラーがうそぶいたように、嘘をつくなら小さな嘘では駄目であって、誰ももが思いつかないような大きな嘘を完壁なお膳立てをして何度も繰り返すことが効果的であるというのは半面の真理なのです。「大衆の時代」にあって、一応彼は選挙によって誕生した政治指導者でした。但し、一旦政権を獲得すると、民主主義はかなぐり捨てて「独裁者」として君臨するようになったけれども、そのプロセスの中で民主主義に不可欠なプロパガンダや世論工作、情報操作をヒットラーは悪魔的なほど巧みにやってのけた。その一番大きな理論が、「大きな嘘」論であったわけです。
いつの世でも、戦争という行為が絡んでくると、国家の存亡の危機に直面するわけで、そういう時にはやむを得ず反民主的手法を部分的に取り入れることは許容されるというのが、やはり世界の常識であったわけですし、今でもそれは変わりないと思います。しかしそういう国家観を日本人は戦後 全く忘却してしまって今日にいたっている。だから、神話としての「現代史」を超えて本当の歴史を追求してゆくべき蒔か来ても、全く動けなくなっているのです。
私は三十年ほど前に英国のケンブリッジ大学に留学して、そこで国際政治史の指導を受けたハリー・ヒンズリー教授が、第二次大戦中には英国秘密情報部(MI6、SIS)に所属し、ドイツや日本の暗号解読に専従した際の数々のエピソードを聞かされて、太平洋の戦史も必ず書き換えられる日が来る、と確信してきました。
<衝撃的な『欺瞞の日』>
春名;その意味で、ロバート・スティネット氏の『欺瞞の日、ルーズベルトとパールハーバーの真実』は衝撃的な本でしたね。
中西;およそあらゆる歴史を研究する者にとって、史料が命ですが、この本の最大の衝撃は、開戦から六十年もの長い間、これほど膨大な史料の隠蔽工作が真珠湾をめぐって、手を替え品を替え延々と行われてきていることを白日の下にさらしたことです。そして何故そんなことがなされねばならないのかを説明しようとしている。
そもそも、真珠湾奇襲の真相を解明するための委員会はアメリカでも戦争中からロバーツ調査委員会や陸軍査問会議などが開かれ、戦後も繰り返し各種の調査委員会が開かれ報告が提出されています。また、ゾルゲが、日本は真珠湾奇襲を計画しているとの報告をソ連にし、それがクレムリンからワシントンに伝わっていた。さらにそれを確認した極秘文書が日本の特高警察にあり、同文書がワシントンの陸軍省のファイルにも保存されていて、それをアメリカ人記者が確認して一九五一年に記事にまでしていたのですが、何故かそのゾルゲ文書が後に陸軍省のファイルから完全に削除されてしまうという謎の事件が起きたりしています。そうした「文書隠し」が、九〇年代に入っても繰り返されている。そういう事実があるために私自身も、かねがね修正主義派によるルーズベルト陰謀説(ルーズベルトは真珠湾が奇襲されるのを知っていたにもかかわらず、敢えてその事実をハワイの軍指導者には伝えずに、アメリカが開戦するための布石としたという説)に関しては、状況証拠からしてクロではないかと疑いつつも、決定的な物的証拠もなく、反修正主義派の言い分にも一部もっともな所もあると感じていました。西木正明さんとステイネット氏との対談で、本の内容やマッカラム覚書についてはかなり紹介されていますが、本書の最大のポイントは、注釈が充実しており、この文書は誰がいつ提出したのか、いつ消えたのか、誰かが違法に所有していた極秘文書をステイネット氏がいつどこで撮影し手元のファイルに所持しているかとかが事細かに記されていることです。こうした史料に関しては、これから専門家の問で批判的に検証されていくでしょうが、我々一般の歴史研究者の目からすると、戦後半世紀を越えても、まだこれだけの文書や史料が隠されたり、逆に新しく出てくるということは、何処かにまだまだ膨大な文書が隠蔽されている事実を雄弁に物語っており、現在明かされている史料は、何かを隠すのに好都合な図柄を作り出すものだけ、という可能性があり、いかなる真珠湾研究もこのことを軽視すべきではないということです。いままで情報を部分的に公開してきた側は、これまでに公開された史料によって出来上がってくる図柄によって形成される「現実に妥協した不完全な真実」を未来永劫にわたって定着させたいという意識があると思います。たしかに、米ソ冷戦の中で共産主義の脅威に対抗し、また日本の復興を果し、今日あすの生活を確保してゆくためには、「神話」が一つの役割を果してきたとはそれなりに評価してもよいと思います。しかし、いま二世代六十年が経ち、ロシアや欧州方面から新史料が出始める可能性があり、何よりも「現代史」から本当の歴史へ移るべき時が到来しているわけです。この本でもう一つ大きな衝撃であったのは、本書で公開されている、日本を戦争に引きずりこむための方策を記した「マッカラム覚書」なる文書で、我々日本人からしてみると、これは非常に大きな意味を持っています。ルーズベルトのサインがないから重要な文書ではないという批判者に対しては、逆に、「あなた方が、『マッカラム文書』をルーズベルトが読んでいないという事実を証明することが必要だ」と言いたいですね。客観的に見て、「マッカラム覚書」の内容は、一九四一年の真珠湾に至るアメリカの対日公式政策の重要なラインを先取りしていたと見るべきで、ホワイトハウスに直結した文書だったと思います。