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冒頭のナレーションや放送だけを観てしまうと、日本は戦後にようやく乗用車の開発に乗り出し、国はまったく無理解のように解釈してしまいそうだが、すでに戦前から政府は、国産乗用車の製造・普及を目指している。
その原因は、軍需への転用、ビッグスリーの日本進出にともなう市場占有率と対米貿易赤字の増加による危機感からだが、技術・生産・販売・経営などの点で日本の自動車産業に多大な影響を与えた事実もある。 昭和11年にはトヨタ初の乗用車「トヨダRS型」が完成しており、その後「自動車製造事業法」が制定され、トヨタと日産の2社が指定される。日産もこの当時、小型乗用車の「ダットサン」を量産している。
いろいろと疑問が残る。戦前、国が国産乗用車を重要な産業と位置づけ、自動車産業の育成に心血を注いでいたにもかかわらず、(アメリカの占領中は乗用車の製造は禁止されていたが)独立後の自動車産業に対する国の育成方針がまったく出てこない。特にトヨタがクラウンを開発している途上、「乗用車は輸入すればいい」との言葉を発したのは当時の日銀総裁、一万田尚登【いちまだ ひさと】だが、これは本当なのだろうか?ちょっと調べる必要がありそうだ。もっとも乗用車だけに、売れるモノでなければ「造れる」とは言えないのかもしれないが、それにしても「3歳児が五輪に出るようなものだ」とは、いかがなものか。 |
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さて、今回は「売れる」国産乗用車、クラウンを初めて造ったトヨタの物語。上記の通り、日本では乗用車はすでに製作されている。かと云って大衆車乗用車を造ったわけでもないこのプロジェクトの意義を探る。
ホンダ・スバル・マツダ・日産ときて5年目にしてようやくトヨタの登場である。一発逆転や社の命運を賭けた・・・などとは程遠い堅実な現在のトヨタと違い、戦後間もなくはかなりきわどい経営状態だったことが分かる。当時、シャープも倒産の瀬戸際まで追い詰められていたので、この時期はどこの企業も苦しそうだ。その危機も朝鮮特需のトラック発注で脱し、その利益を国産乗用車開発に充てることを社長
豊田喜一郎と常務 豊田英二が決め、開発主査として中村健也【なかむら けんや】がプロジェクトの指揮を執る。
ただ、注意しなければいけないのは国産・大量生産のクルマとは云え、当時の庶民には高嶺の花であることには違いない、ドイツのVW(フォルクスワーゲン)とはワケが違う。現在のクラウンの比では無い事は確かである。事実、内容でも中村氏はタクシー会社をマーケティングし、対米輸出車にもなっているところを見ると、一般庶民が購買層になることは考えていなかったのだろう。これでコストダウンまで設計に盛り込んでいたら神に近い。 |
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しかしながら、道路も満足に整備されていない当時にあって、ここで庶民にも簡単に手に入る大衆車を造っていたら、それは命取りになりかねない。クルマだけに限らないが造って売って「後は知りません」では済まない。故障の修理、それに係るパーツの供給など迅速なアフターフォローがなければ国産車とは云え国民に見放されてしまうだろう。トヨタもそれを見越し敢えその心配の少ないタクシー会社や対米輸出などに向けた乗用車に比重をおいて開発したと思われる。その後、名実共に大衆車となるカローラの登場までにサービス網整備の為の時間を「クラウン」で稼いだのではないかと考えられる。
日本の悪路に耐えうる乗用車の開発は数々の難問に突き当たるが、中村氏は決して妥協せず、後にカローラを手がける長谷川龍雄【はせがわ たつお】はじめとする部下達も四苦八苦しながらも解決していく。特筆すべきは、それまで手作業で行っていた溶接を「スポット溶接」と云う機械化にこだわった事である。純粋な開発以外にも後々生産の効率化を見越しての技術の先取りかと思われる。
昭和30年1月完成。翌年、朝日新聞からロンドン〜東京をクラウンで走りきる企画が持ち上がり、無事に完走する。発売後は本格的な国産乗用車として人気を博す。残念ながら日本初の大衆乗用車の栄誉はクラウンにではなく、スバル360が浴することになる。その無念は後に中村氏が研究・開発に没頭した世界初のハイブリット車(プリウス)で挽回したように思われる。
「クラウン」の成功は、トヨタのみならず、他のメーカーにも自信をあたえ、自動車が日本の基幹産業となるべく第1歩を記した記念すべきプロジェクト。今日もどこかの紛争地域で「TOYOTA」のロゴが入ったままのランドクルーザーが装甲車代わりに機関銃を積んで悪路を走っていることだろう。 |
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