第121回 03年7月15日放送
「日本初のハイウエー 勝負は天王山」
熊谷組/中央自動車道西宮線




京都と大阪の境に天下を分けた山、天王山がある
43年前この山を打ち抜く天王山決戦が始まった
日本初の高速道路、物流の道190km
名神高速への挑戦だった

戦後、日本の道路は最悪だった
でこぼこ道で、転落事故が相次いだ
ぬかるんだ峠道、越えられなかった
物流の道が断たれていた
アメリカの学者は言った、日本ほど道路を無視した国はない
その時、日本中から技術者が結集した
合言葉は、一本の道が国を豊かにする
高さ7mの盛土、万里の長城と呼ばれる壮大な工事となった
舗装のアスファルト作り、道が歪んだ
そして運命の天王山、とんでもない場所だった
山が突如動いた





 膳場貴子の衣装も涼しげな日本初の高速道路建設の巻。プロローグから当時の日本の道路事情の悪さが伺えるが、これを観た人の半分は、「なぜ国道よりも(先に)高速を造ったんだ?」との疑問を持ったに違いない。用地確保の点からは早期に着工した方が良いが、完成後に連続高速走行に耐えきれずオーバーヒートする国産車が多い当時にあって、まず着手すべきは国道整備だったのではないかと思う(高速道路も広義では国道だけど)。

 もちろんそれも同時に進められていたに違いないが、今日の日本で1日で300km・400kmを移動しようと思ったら高速道路を有料で利用するしかない現実はここから生まれたのか、と実感させられる。もし、このプロジェクトが高速道路ではなく一般国道に向けられたのなら、ドイツのライヒスアウトバーンやアメリカのインターステートのような道路が、現在の日本にも張り巡らされていたかも知れない。

昭和20年代後半の長野県塩尻峠付近 (現在の国道20号線)
建設省関東地方建設局発行 「関東の道路史」より引用

 さて、当時貧乏な日本がIBRDからカネを借りてまで先行投資をする新幹線に次ぐプロジェクト。高速道路は高速鉄道(新幹線)と生い立ちや経過が似ている。(S15)内務省が「重要道路整備調査」を開始1943(S18)内務省が「全国自動車国道計画」名古屋〜神戸亀山経由

戦後のインフラ復興は鉄道・港湾を中心に始まり、道路整備は後回しにされる。しかし、昭和26年にサンフランシスコ講和会議に出向いた吉田首相がアメリカの経済力は物流を支える巨大な高速道路網にあると実感し、帰国後に建設省道路局長菊池明
【きくちあきら】に諮問し建設へ進む。

調査団長ラルフ・J・ワトキンス
国際復興開発銀行
米国対日援助見返資金38億円
昭和31年5月19日来日8/8ワトキンレポート昭和32年4月、国土開発幹線自動車道建設法が施行・着工、昭和31年4月道路公団が発足しているが1957(S32)10.17建設省が日本道路公団に「高速自動車国道中央自動車道小牧吹田線及び吹田神戸線の吹田西宮間の新設に関する施行命令」 を出す。


 片平信貴【かたひらのぶたか】調査団長ラルフ・ワトキンス高速道路試験場関勇三郎【せきゆうざぶろう】在庫増加率87%27%クサヘル・ドルシュ、クロソイド曲線17号三国峠ウヰスキー工場はサントリー□□□1.4m佐藤純一下條正治【しもじょうしょうじ】これをつくらなんだら日本道路公団片平エンジニアリング熊谷組テクノス大成建設丸紅建設笹島建設松村組


→ 戻る