「尾府名古屋図」と「鸚鵡篭中記」

                

 「元禄御畳奉行の日記」を新書で読んだのはかれこれ17年位前のことである。尾張名古屋藩の下級武士、朝日文左衛門が約30年間にわたり記した日記「鸚鵡篭中記」を紐解いたものである。同日記には、藩内や家庭内の動静、藩士としての勤務振りや日常生活が事細かに記されており、時代こそ違うものの同じ月給取りの身分にある者として興味深く読んだ記憶がある。しかし、その中に登場する城下の地名や社寺については、地縁のない身には位置関係が理解できず、今ひとつ身近さを感じられなかった印象が残っていた。

二年前、思いがけず名古屋に赴任したところ、宿舎のある町名が橦木町で、すぐ隣に主税町、白壁町などがあり、これら城下町を構成する地名に改めて興味を惹かれた。そんなことから、城下町の全容が窺える古地図がないものかと探していたところ、蓬左文庫で「尾府名古屋図」に出会った。同図は年記がないもののその解説で宝永六年作と推定されている。その事由として、一つに、同図の城内三の丸に綱吉(宝永6年正月病死)の廟が見られること、もう一つ、主税町筋の一角に朝日文左衛門(宝永5年8月に定右衛門への改名願いを藩に提出しており、翌6年には定右衛門を名乗っていたと思われる)の住まいが記されていることが上げられていた。同図には、すべての武士の名前入りの屋敷割りが書かれており、小さな文字ながら確かに主税町筋の邸宅の一つに朝日文左衛門と記されている。

 この思いがけない朝日文左衛門の登場によって、かつて読んだ「鸚鵡篭中記」の情景が「尾府名古屋図」をスクリーンにして活き活きと蘇るかもしれないとの想いが駆け巡る。また、頭の中で元禄と平成の名古屋の街並みがクロスオーバーする。     

 早速、本棚に寝ていた本を引っ張り出し、「尾府名古屋図」を眺めながら、時に現在の街並みを重ねて、興味つきることなく読み通した。当時の地名、社寺は、今もその多くが残されている。それにつけても地下鉄もバスもない中、この時代の人々の行動範囲の広さに改めて感心させられる。また、時は変わっても人々の日々の生活振りはそう変わるものではないとの想いを強くし、一刻の楽しいタイムスリップを終える。

                                 

「エッセイ目次へ」