土ひねりのたのしみ

 陶芸に興味を持ち、自分流の土ひねりを始めてから、もうかれこれ10年以上たつ。当時、某テレビで趣味講座シリーズの一つとして陶芸入門が放映され、これに触発されてのことである。デパートの陶芸用品コーナーで、手回しロクロ、コテ・ヘラ等の用具や粘土など必要最小限のものを購入し、見よう見まねで取り組み始めた。最初に手がけたのが湯飲み茶碗作り、紐作りで成形するところから入り、ロクロで形を整え高台を削り出す。この後、ものによって絵付けをしたり、飾り付けをする。数ヵ月後に湯飲み茶碗をはじめコーヒーカップなど幾つかの器が出来上がる。次の工程は、素焼き、釉薬を掛けての本焼きである。教室に通っているわけではないので、成形しても焼く術がなく、この工程はただ眺めるだけである。焼かれた作品を見るにつけ、自分で作ったものを焼いて使ってみたい気に駆られる。テキストに紹介されていた一つのある小さな電気窯メーカーを思い切って訪ね、そこで実際に焼く過程を見せてもらう。排(吸)気口から覗いた1,300度の窯の中(人間が立ち入ることができない世界)の様相にすっかり虜になり、帰りには窯を発注し、一週間後に自宅に届けてもらうことになる。我が家に窯が届いたその日の夕方、乾燥し一回り小さくなった器を「素焼き」する。素焼きの焼成温度は700度である。素焼きした段階で器はもう土には戻らない。翌夜、素焼きしたものに好みの釉薬を掛け「本焼き」する。眠い目をこすりながら釉薬が溶け出す約1,300度になるまで待つ。1,300度に達し焼きあがったら後は、窯が冷めるのを待たなければならない。焼き物はゆっくり冷ますほどいいものができると言う。しかし、出来あがりが気になり、冷めるのを待ちきれず炉温度が300度ぐらいの段階でいつも取り出すことになる。このため、釉薬を掛けた表面に小貫入(細かいひび)が生ずるが、これも「景色」の一つと思っている。煉瓦色の鉄釉、灰色の織部釉が艶のある黒色、鮮やかな緑色に変化し、焼き物としての輝きを添える。焼いたばかりのカップで熱いコーヒーを味わう。殊のほか美味しい。たいがい早朝のことて゜ある。暫くの間。夢中になってこんな繰り返しが続いた。その後は、気分の趣く時に思いついたように一頻り精を出す。その都度、全国各地の土、趣の異なる釉薬を使ったりして、おもに日常使用する雑器作りを楽しんでいる。何とかこれまでつづいているものの、我流のためあまり進歩がない。ここ岡山は、無釉の焼締めの土味から、てらいのない素朴な美が持ち味とされる備前焼の地である。これも一つの縁と初心にかえり、最近、暇があれば展示館等に出かけ古代の作品や現代作家の作品を見ることにしている。時の経つのも忘れて土ひねりに没頭している時、窯から出して予期しなかった趣きある釉色や釉調が見られた時、日常使っている器の肌合いが化けて何とも言えない風情を醸し出し一掃の愛着を感じる時など望外の楽しみである。探れば探るほど奥が深く魅力が尽きない土ひねり、これからも清々しい思いで楽しんでいきたいと思っている。

土ひねりのたのしみ(その二)


 平成16年4月、岡山から名古屋に転勤。備前焼の里から瀬戸、常滑焼の里への転勤である。残されたサラリーマン生活もあと二年と迫る中、二度目の名古屋ということで、前回、岡山への転勤いうことで行きそびれた陶芸教室に通うことを決心。自宅から車で10分足らずの黒門町にある「黒窯」という教室に通う。これまで手びねり中心で自己流でやってきたので、教室ではロクロ成形を教えてもらうことにした。教室で最初に教えられたのは「土殺し」、「中心出し」の工程。これまでもテキストを見ながらロクロ成形は試みたことはあるが、この工程についてはテキストでもさらっと触れられているだけなのでろくろく気にもとめず、形作りに囚われその大事な意味合いを理解していなかった。教えられたとおりにやってみるのだが、この工程には実に難儀した。約半年過ぎた現在でも、時にこの段階で苦労する。言われたとおりやろうとしても思うようにいかないのである。講師もこの工程は覚えるというより繰り返し手先で感じ、慣れることだと言う。やるたび、泥粘土の残骸ばかりで一向にものが産み出されない状況が続いた。その後、直筒湯飲みの成形に移るが、これがまた大変である。玉取りをして玉取りした部分に指を入れて穴を開け、指先で土を挟んで厚みを均等にして立ち上げるのだが、中心がきちんととれていないと、形がゆがんで崩れてしまう。また、指の当て場所や力の入れ加減が悪いと立ち上がらないばかりか、立ち上がっても真っ直ぐ立ち上がらなかったり、厚みにばらつきが生じてしまう。講師が次から次へといとも易々と成形している様を見て感嘆しながら真似をするがそうは容易くない。苦闘の連続である。また、暫くして、高台を削り終わったいくつかの作品を眺めると、その多くが高台を中心にして左右対称でないことに気づく。講師に相談するとその原因は、湿台(シッタ)をロクロの回転台に据える時にきちんと中心を取らないのと、加えて、湿台に作品を載せる時にもきちんと中心を出していないせいだと言う。言われてみて成る程と得心する。ロクロ成形の時の中心出しには気をつけていたものの高台削りの時は一緒に周りも削るのだからといい加減に扱っていたことを自覚し、反省する。何事も「中心」を見極め「バランス」をとることが大事であることを改めて肝に銘ずる。いつか淡々と成形できるようになるまで、謙虚に学ぶ気持ちを持ち続けたいものである。


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