さんまの味
8月末の暑い最中、スーパーに買い物に出掛ける。魚売り場に銀色に光り輝くさんまが並ぶ。残暑厳しい日々が続くが、目の前のさんまは夏から秋への季節の移ろいを感じさせてくれる。まだ、丸々と太っているとは言えないが、初物に食指が動かさせられる。しかし、結局のところ、買い物カゴには入れずじまい。何故かと言えば、家に持ち帰って調理するのが面倒なのに加え、部屋中、暫くの間、さんまの臭いに占拠されるのがかなわないからである。全くのことさびしい話である。昔、田舎で生活していたころは、台所の外に七輪を出し、炭を熾して金網を載せ、さんまの2、3匹も団扇で扇ぎながらジュウジュウと焼いたものである。時代背景こそ違うものの落語の「目黒のさんま」そのものの世界である。都会ではもうほとんど見受けられない光景となってしまったのではなかろうか。数日後、昼食に食欲減退の折、刺身でも食べようと思い立って近くの店に出掛けたところ、席に座る間もなく、「さんまがありますが、どうですか」と女将さんから声が掛かる。数日前のさんまの残像が蘇り、即座に「うん」と反応する。暫くすると、それこそ丸々と太った大きなさんまが運ばれてくる。さんまにはレモンの切り身と大根おろしが添えられている。つい今しがた火の上でジュウジュウと脂を飛ばしていた様が伺われ、食欲に誘われるままに一気に食す。旨かったのは言うまでもない。地下の店を出て、地上にあがると、一陣の風がそよぐ。秋の風なのであろうか。「あわれ秋風よ、心あらば伝えてよ・・・さんま苦いかしょっぱいか」のフレーズがふと頭の中を過ぎる。まさに夏から秋にかけて産卵のために栄養を蓄えつつ、太平洋の日本近海を南下していく”秋刀魚”、その字の如く秋に旬を迎え、丸々太ったその体には豊富な栄養を蓄え、その昔から庶民的な魚の代表格とされている。「さんまが出ると按摩が引っ込む」との諺もある。さんまが出回る頃になると、さんまをたっぷり食べるので栄養がよくなり、按摩にかかる人が少なくなるというものであるが、安くて旨くて栄養価が高いさんまの真骨頂である。ちなみに、紀州、和歌山の名物の「さんまの棒ずし」は、産卵を終えた後の脂肪分の少ないさんまを使い、日持ちよく、保存食に適するとのこと。日本人の魚を食する知恵は際限なく深い。余談になるが、一昔前、小津安二郎監督の遺作に「秋刀魚の味」という名画があり、笠智衆と岩下志麻の演技が印象的であった。海外でも評価の高い映画であるが、フランスでは秋刀魚がなく理解されないことからその題名を「酒の味」として親しんでいるとのこと。日本ならではの魚である。今年は、さんまが豊漁だと聞いている。大いに食して夏に消耗した元気を取り戻したいものである。