龍神シリーズ・小話集

2、都忘れ

「あら、早咲きの花ね。」

まだ、春浅い森の中。それでも日差しはずいぶんと

穏やかになり、森を包み込むような光を、木の芽

が芽吹いたばかりの木々に注いでくれている。

そんな森の中で、一段と暖かい日が差し込んで

くるような気がする場所。

周囲の木々も何故か遠慮するかのように

その狭い草原(くさはら)をかこむだけで、

その中に侵蝕してこようとはしない、この

千尋のお気に入りの場所に、その花は

ひっそりと咲いていた。

「まだ、花の時期までひと月ほどあるはずなのに

今年は、暖かいのかしら。それとも、この花が

変わり者なのかしら。」

千尋は、そっと花に手を添えて微笑む。

確か、先生の家のお庭にも、同じ花が

咲いていたっけ。

確か名まえは・・・

 

中学生になってまだひと月。

千尋はまだ新しさを感じるセーラー服を

着たまま、河西家の門をくぐった。

綺麗に掃き清められた玄関に続く石畳から

柴垣に隔てられた向こうには、自然のままの情緒が漂う

しかし、日本庭園の計算され尽くされた洗練さに満ちる、

美しい庭が広がっている。

「千尋さん、いらっしゃい。」

茶花にするためか、庭に咲いていた花を

切っていた美しい白髪の老女は千尋を見て

微笑んだ。

陽光に照らされ、花を抱えて庭に立つ 着物姿の師匠の

自然体でありながらすっきりとした身のこなし方に

千尋は思わず見とれた。

『なんか、かっこいい。』

ん〜、ちょっと違う?素敵?

まだ幼い千尋の語彙の中には粋という単語は

はいっていなかったが、憧れめいた気持ちが

掻きたてられ、その時のまるで日本画の美人絵の

ような一瞬の光景が、強く印象に残ったのだ。

母の使いを済ませたあと、先生が花を生けるのを

見ながら、世間話をして、その時にこの花の

名前と由来を教えていただいたのだっけ。

千尋は懐かしげに思い出す。

「都忘れというのよ。なんとなく雅(みやび)な名前でしょう。」

儚げながら、しっかりと存在を主張しているかのような

紫色をしている、野菊に似た花は

その昔、内乱に敗れた帝が流された先で、

 禁色である紫色の花を見て、京の都を

忘れさせておくれと、願った花なのだという。

なんとなく哀れなように感じる話だけれど

現代っ子の千尋は、その帝という人は

前向きなのか、後ろ向きなのか良くわかんないなあ

という、感想を持ったのだ。

「京の都を忘れたいのか、忘れたくないのか

よく分からない名前ですね。」

名前に都なんてつけたら、ますます忘れられ

なくなってしまいそう。

思った事を素直に口にしたら、先生はころころ笑って

「そうねえ。本心では忘れたくなかったのでしょうね。というより、

忘れられたくなかったのかもしれないわね。」

いずれにしろ、現代までこの花の名前と順徳帝の名前は

人々に忘れられることなく、伝えられたのだから、

願いはかなったといえるかもしれないわね。

日本人は昔から、弱いもの負けたものを応援するような

気質があるのだから。

微笑みながらおっしゃった、さりげない教養にあふれたお話は

いつもとっても面白くて、その時も話が弾んでお茶まで点てて

いただいて、千尋はずいぶん長居をしてしまったのだ。

 

『この花は、自分につけられた名前を

どう思っているのかしら。』

夏の盛りには一面花畑になるこの草原(くさはら)の

一角(いっかく)で、ポツンと咲いている花を見ながら

千尋は考える。

花にとっては、人間の思いなど関係がなく

ただ、そこに咲いているだけかもしれないけれど。

今の、わたしには なんとなく、順徳帝の気持ちが

分からないでもなくて。

人間の社会から隔離された、この聖地で

自然界の精霊や、木霊たち、そうして、大切なはくと

ともに過ごすようになって、初めて迎える春。

後悔とも違う、なんとなく表現しがたい気持ちが

いつも、千尋の中にあって。

『わたしの本心はどっちなのかしら。』

忘れてほしい?忘れてほしくない?

忘れたい?忘れたくない?

そう。わたしの心のどこかには お父さんもお母さんも、

わたしの事を心配しているだろう、

という気がかりが 常にあって。

はくに頼んで、いっそのことわたしの事を忘れてしまうように

魔法をかけてもらったほうが、お父さんとお母さんの

ためかもしれないのに。

でも、そうして欲しくない、というのも確かにわたしの本心で。

忘れたいけれど、忘れたくない。

忘れて欲しいけれど、忘れて欲しくない。

『わたしは、ずるい。』

はくと離れる気などないのに、家に戻るつもりなど

ないのに、お父さんやお母さんにわたしの事を

忘れて欲しくないなんて。

あの家で、家族3人で過ごした日々を

忘れたくないなんて。

 

まだ、冷たさの残る風が、花の側で俯いて座っている

千尋の髪を吹き上げていく。

と、小さく身震いした千尋の膝に、真っ白な

子猫くらいの大きさの木霊がよじ登り、

顔を覗き込んできた。

言葉は話せないけれど生まれたばかりの木の

精霊が、千尋のことを心配していることは

伝わってきて。

肩まで登ってきた木霊に頬を寄せながら

千尋は小さく微笑んだ。

『わたしの居場所。』

千尋は東の方角、家のある方向に

視線を向ける。

ああ、お父さんお母さん、もう少しだけ待って。

わたしが、わたしのことよりもあなた達の事を

考えられる勇気を持てるまで。

ここ以外の存在をすべてなくしても

平気だと思えるまで。

そう、多分あと少し。

あと、少しすれば わたしはあなた達を

忘れる勇気を持てるかもしれない。

あなた達に忘れ去られる勇気を持てるかもしれない。

 

「千尋、こんな所に居たの?」

心の中で面影を追っていた想い人の声に

千尋は一瞬目を瞑り、微笑む。そうしてゆっくり

振り返ると 両手を差し出した。

「はく、おかえりなさい。」

「ただいま。といっても、泉の龍穴の様子を見に

行っていただけだったのに。そんなに

寂しかったのなら今度は一緒に行こうか?」

この森の主は 甘えてくる千尋に嬉しそうに笑うと

そのまま軽々と抱き上げる。

千尋は夫の首に両腕を巻きつけて

そのままぎゅっと抱きしめた。

『わたしの居場所。

わたしのいたい場所。』

千尋の心に幸福感が満ちてくる。

「はく、お願い。このまま高く飛んで。

町が見たいの。」

龍神は珍しい妻のおねだりにふっと笑うと

トン

軽く地面を蹴った。

次の瞬間には、その姿は鎮守の森の上空

にあり、千尋は思わず息を呑む。

「すっご〜い。町があんなに小さく見える。」

千尋は夫の首にしがみ付きながらも身を乗り出す。

「千尋、そんなに乗り出したら危ないよ。」

そんな言葉にも嬉しげに笑うだけで。

優しく、そして力強く抱き上げてくれている腕。

この腕の中ではなんの心配もいらないのだもの。

人間社会に囲まれた鎮守の森は この景色に比べれば、

確かに小さなものだけれど、人間には

見えない蒼く透明な光を放って、何よりも

強く美しく輝いている。

ごちゃごちゃした建物やコンクリートの道

忙しなく行き交う車や電車。

ほんの数ヶ月前には当たり前に過ごしていた

世界がまるで、お伽の国のように

別の世界の存在に見えてくる。

 

千尋はそっと青い家を探す。

森の端にしがみ付くように建っている

その家は直ぐに見付かって。

瞬間、胸に広がった痛みを

隠すように目を瞑った。

 

そう、あと少し。

もう少しすれば、きっとこの痛みも

なくなってくれる。

そうしたら、はくに頼むのだ。

お父さんとお母さんに魔法をかけて、と。

 

「千尋、寒くない?」

「大丈夫よ。あ、でもはくは大丈夫?

ごめんなさい。お役目のあとで疲れていたのに。

お家に帰ってお茶にしましょう。」

「もういいの?」

「うん。いいの。また見たくなったら、

いつでも見せてくれるのでしょう?」

龍神は、悪戯っぽく笑う千尋の頬に

唇を寄せる。

「もちろん。そなたの望みどおりに。」

そう囁くと、腕の中の妻をそっと抱き直し

二人だけの世界に戻っていった。

 

 

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琥珀の妻になって4ヶ月が過ぎた頃の千尋です。

まだ、琥珀から神人の説明もなく ただ2人だけの

世界で蜜月を過ごしていた頃です。このひと月と少しあとに

翁様が訪ねて来ました。

にしても、琥珀、あんたってやつは 鈍いとしかいいようがないね。

いわゆる、幸せぼけってやつですか?

まあ、隠していた千尋のせいでもあるけれど。

 

都忘れ:日本原産、菊科、花期は4月下旬から6月頃

別名、「野春菊」「東菊」、花言葉は「穏やかさ、しばしの憩い」

東京では3月下旬に早咲きの花が観察されることがあります。