龍神シリーズ・小話集

3.ある思い出

「意地っ張りもいい加減にせねば。」

「まあ、いらしてくださったのですか。」

麗人がその長い髪を床にたゆませ、臥せっている様は、哀れみとともにどこか、えもいわれぬ

風情を醸して、老神は、一瞬息を呑む。

玉響は、我ながら、かつての華やかさはどこに、と思うほど衰えてしまった姿を、ただ一度とはいえ、

情を交わした事のあるお方に見せる事を、恥ずかしく耐えられぬことのように思ったのも、すでに

過去となり、自らの運命を見取り見定めた今となっては、ただただ懐かしい思いで、微笑む。

忘れずに来てくださっただけでも嬉しい。

その笑みの儚さに、思わず顔を歪ませた翁神は、最後の説得を試みた。

「わしに、その身を委ねよ。なぜそうまで、頑なになりおるのか。」

その言葉に、小さく声を立てて笑いながら、冗談に紛らわせるように、か細い声で本心を伝える。

「水の御方。いくらあなた様だとて、他神の穢れを身に引き受けてばかりいては、そのお力を

保てなくなりますわ。あなた様こそ、今にも臥せってしまいそうなお顔をなさっておいでなのに。」

「この顔は、もとからじゃ。わしを見くびるでない。鎮守の森の主が倒れてしまっては、八百万

の神々が難儀するゆえの申し出じゃ。そちのわがままをこれ以上、だまってはおれんて。」

「上位神たる、あなた様に倒れられてしまっては、それこそ秋津島の神々が困りましょう。

そのような怨嗟を受けるのは、いくら私でもごめんこうむりたいことですわ。」

翁神の本気を感じているからこそ、その申し出はうけられない。隠しておいでのつもりでも、

限界が近いのを感じるのは間違いないのだから。

ああ、私にもう少し力があったなら、あなた様の穢れを引き受けて、宙無の眠りにつくことができるのに。

今出来ることは、これ以上の負担にならず、静かにこの地を他神に譲り渡す事。

玉響は、憂いをその瞳に出さないように気をつけながら、翁神をじっと見つめた。

遥かな昔。まだ、私が力に目覚めたばかりの幼い木霊だった頃。私を見つけ、戯れに愛をくださった

大いなる神。あなたが、私に注いでくださった神気は、この身にはもったいないほどで、おかげで

私は神祖神たる母神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)にも称えられるほどの神になる事が出来た。

そうして、長い年月をこの愛しい森とともに過ごす事が出来たのだ。

玉響の脳裏に、幼い頃の大切な思い出が蘇る。

あなた様が、私とともに過ごしてくださったあの一夜。あの思い出だけで私には充分。

今更、あなた様にこの身を委ね、神気を注いでいただき、全ての穢れを払っていただいた所で、

力を蘇らせる事は出来ないだろう。私の宿木(やどりぎ)の命運は尽きてしまっているのだから。

いくら水の御方とはいえ、失ったものを蘇らすことは出来ない。いえ、出来たとしてもそれは、お力と

引き換えになってしまう。そんなことは・・・

 

翁神の言葉を尽しての説得は、とうとう受け入れられることなく 玉響は静かに眠りについた。

翁神は神を失った聖なる森に佇む。

かつて、ただ一度戯れの相手として抱いた木霊。高天原に去ってしまった想い神の面影を持っていた

若い木の精霊に惹かれ、御方への思いをぶつけるかのように身代わりとなしてしまった己。

そんな己の苦い思いにもかかわらずかの精霊は美しく花開き、神とまでなった。

そうして、今また儚く散っていってしまったのだ。かつて、我の想いにお応えくださらず去ってしまわれた

つれないお方の血筋らしく。我一人を残して。

 

『何ゆえ、龍穴を封印されたのだ。』

『玉響殿のたっての願いだ。かの麗神に 社の結界を失った以上、人に汚される前に封印をして欲しいと、

懇願されては、断るすべなど持ち合わせていない。』

詰る己に冷静に答えた竜王の弟の声を苦々しく思い出す。

翁神はため息をつき、胸を突くような思い出を振り払った。そうして、上位神としての勤めを果たすべく

気持ちを現在に切り替える。

鎮守の森の龍穴の封印が数十年ぶりにやっと解かれた。

崑崙の血筋とかいう、竜王の養い子とやらが、仮の主として、たったというが。

翁神は皮肉げに笑む。

竜王の食えない事。龍穴の管理を 秋津島の神に委ねるのがそれほど心もとないというのか。

力を喪いつつあった神に任せるくらいならと、玉響の申し出を受け これ幸いとばかりに 封印したその

龍穴を、己の管理下に置ける機会を待っていたらしい。

さてさて、どのような龍であろうの。かつて、童神の時に、名だけは貸し与えてやったが、その後自ら

河を捨て去り、どこぞへ、去っていったというが。やはり、秋津島生まれの神でなければ、秋津島への

執着も薄いということであろうな。

しかし、この森に張り巡らされている結界の見事な事。この力を秋津島の理に取り込む事ができれば

竜王への意趣返しにもなろうかの。

翁神は、出雲の集いで決せられた使いを果たすべく、若い龍の元に赴いたのだった。

 

 

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琥珀が考えているより、竜宮と秋津島の神々の間柄はどろどろしていたりして。

しかし、そうか。翁様ってば、意外と女たらしだったのね。