龍神シリーズ・番外2

先生の初恋

 

「こんにちは」

この町の総合病院に一つだけある特別室のドアが控えめなノックの音と共に開いた。

「まあ、千尋さん。今日もいらしてくださったの?」

ちょうど、昼寝から目覚めたばかりだったのか 

付き添いの中年の女性に、その長い白髪を

梳いてもらっている所だった この病室の患者は、 嬉しげに答えた。

髪を軽めのアップに結ってもらうと、付き添いに声を掛ける。

「ありがとう。いい感じに出来て頭が軽いわ。あなたもお疲れでしょ?

千尋さんがいらしてくださったから、外田さん少し休んでいらして。」

外田と呼ばれた女性は、心得顔に千尋に笑いかけると

「ごゆっくり」といって、そのまま病室を出て行った。

「先生、お体の具合はいかがですか?」

学校帰りの制服のまま見舞いにきた千尋は、

ベッドのそばの椅子に腰をおろすと入院中とは思えないほど 

元気そうな顔を見て安心したように微笑んだ。

「ありがとう。昨日は、それでも疲れていたみたいで

髪を結う元気も無かったけれど 今日はすっかり元に戻った気がするのよ。」

「先生、無理なさらないでくださいね。」

「大丈夫よ。ここは病院ですもの。無理したくてもできないわ。」

顔を見合わせて、笑い合うと 老婦は千尋の瑞々しい顔をまじまじと眺めた。

「本当に、あなたを見ていると 自分まで若返ったような

気がするのよ。千尋さんの笑顔は、人に元気をくださるのね。」

唐突な誉め言葉に、驚き照れて赤くなった千尋は、

「私は、先生にこそ 元気をいただいているんですよ。先生は

私の憧れの人なんです。私も、先生みたいに美しい女性に

なりたいと思っているんですけど、母に言うと『ボーイフレンドの一人も

いない子どもには無理無理』っていつも馬鹿にされてしまって。」

「あらあら。千尋さんのお母様も美しい方ですものね。

ご両親の仲も とてもおよろしいとか。」

「はい、万年新婚夫婦みたいで、私はいつもお邪魔虫って感じです。」

千尋の言葉に、くすくす笑った老婦は

「大丈夫よ。あなたは 私などよりずっと美しい女性になれますよ。

そのうちに、お付き合いする方ができたら、お母様も驚かれるのじゃないかしら。

私も、初恋をするまで 本当に野暮ったい子って馬鹿にされていたのよ。」

その言葉に、千尋の好奇心がくすぐられる。

「先生の初恋の人ってどんな方だったんですか?」

瞳をきらきらさせて聞いてくる千尋に 苦笑すると、

「そうね・・・」

白髪の美しい老婦は、遠い目をしながら 

ひとつの御伽噺を聞かせてくれた。

 

「お嬢さまぁ、敏与お嬢さま。どちらですかぁ。」

いつものごとく、河西家の広い敷地を探し回る声が聞こえてくる。

この地域の中で、最も古い家柄を誇る河西家の一人娘が、付き添いの女中の目を

盗んで、家を抜け出し 鎮守の森と呼ばれている 

里森としては かなり深く広い森の中にある神社に

遊びに行くのは、恒例の日課となっていた。

当時としては 娘も14くらいになれば、早いものには 許婚が決まり そろそろ

花嫁修業に取り掛かってもおかしくはない年頃であるのに、

一人娘のせいか、かなり甘やかされて育ってきたこの娘は まだまだ

子どもっぽく、自分のしたいこと以外 ガンとしてやらないという

頑是無い幼子のような面がかなり幅を利かせていて、父親である

当主も、手をやいている。

もっとも、大事な一人娘を嫁に出すつもりはなく、

いずれは、眼鏡に掛かった婿を取ればいいと気楽に考えている事もあり、

敏与は、幼い子どものように好き放題に毎日を過ごすことができたのだ。

「幸太郎さま、遊びにきました。」

まるで、良い事をしたかのように得意げに宣言する敏与をみて、この神社の

跡取息子にして、見習宮司の高崎幸太郎は、こめかみを押さえた。

「敏ちゃん、きみねぇ、今日は御祭神のお祭りの秘事がある日だから

来てはいけないと言ってなかったっけ。」

幸太郎の言葉に、にこっと笑った敏与は、

「今年こそ、わたくしも ぜったい、見ます。」

一言ずつ区切るように宣言したあと、急に早口で言い出した。

「だって、ずるい。わたくしも 御神体を拝見したいのに。このお社には

子供の頃から来ているのに、そこの扉の中には入れてくださらないのだもの。

一度でいいから、御祭神が禊をなさる所をみてみたいの。だめなら、禊をなさる前に

うわさの泉だけでも拝見させてちょうだい。」

絶対引かないというように、両手を組んで言い募ってくる敏与に頭痛がしてくる。

もう一度、頑是無い子どもに言い聞かせるように説明した。

「いいかい、神様というのはとても怒りっぽくてね。神様の結界に許しなく

入った人間には、罰をお与えになるんだよ。この扉の奥にある泉は

神様が年に一度、禊をなさる聖域なんだ。この宮の宮司であるわたしの

父でさえ祭りの日以外には入らないんだ。このわたしだって、今日で

2回目なのだから、君が入る事を許せるわけがないだろう。」

むぅっと、頬を膨らませてくる少女に 去年初めて聖域に入れた事を

話すのではなかったと後悔する。

「だっておかしいわよ。この神社の御祭神は木花開耶姫命なのでしょう。

女神様が禊をなさるのに、男の宮司がお世話するなんて。」

自分なりに理論武装をしてきたのか、そんな事を言い出す少女に

思わず苦笑してしまった幸太郎は、

「神様は、召使である人間の性別など気になさらないよ。

さあ、もうお帰り。わたしも、いつまでも君の相手をしていられない。」

話を切り上げて、社務所に入ってしまった幸太郎をみて、ますます頬を

膨らませた敏与は、帰りかけた足を止めて何かを考えていた。

この秘事は、いつもの祭事と異なり、この宮の宮司だけで行うらしい。

祭りというと、氏子が大勢集まるものだと思っていたので、このように

ひっそりと行われている祭事があったことを知ったのは、去年のことだったのだ。

幸太郎に聞いたとたん、好奇心が沸いてくるのは仕方がないことで、

しかも、我慢をしらない甘やかされた少女に、理屈だけでダメだしをしても

無駄と言うものであった。

桜の葉の緑が新緑から、濃い緑に変わるそんな季節。

一年の中でもっとも日が長い頃。

その秘事は黄昏時に始まると言う事を知っていた少女は、いったん家に

帰り、友人の家で夕食をご馳走になる事になったという理由をでっち上げると

下働きの男の子を付き添いに 友人の家に出かけていった。

帰りは、送ってもらうと言って男の子を家に帰すと、そのまま踵を返し

鎮守の森に駆けて行ったのだ。

かって知ったる社の回廊の裏手側、柴垣に遮られ、風雨に晒された

白茶けた木肌の鳥居の上部だけが覗いている聖域。

この奥に、話に聞いた泉があるはず。

日が長いとはいえ、この辺りは木立が深く すでに薄暗くなっていて、

人の形が黒く浮き上がり、顔立ちまでは見分ける事が出来ない

そんな、逢魔が時。

意地と勢いでかけて来たものの、昼間幸太郎から聞いた、

神様の罰が、急に気になりだした。

それでも、持ち前の好奇心は押さえられなくて、すでにこの奥に

いるはずの、幸太郎達の存在も心強い味方になっている。

いつも掛かっているはずの鍵がないことも、行動の後押しをして、

敏与は、聖域に足を踏み入れたのだ。

 

「あら、ほら可愛らしいお嬢さんがいらしたわ。」

若々しい、まるで銀の鈴を鳴らすような声が後からした。

見付かったかと、びくっとした少女が 恐る恐る後をふり返ると、

見たこともない 美しい衣装を纏った、まるで天女様のような優しく

気高い顔立ちをした女性が、側に変わった形の甲冑を身につけた

男性を従えて、立っていた。あとで考えても、その女性の

顔や年恰好などがどうしても思い出せなかったが、そのときは、

呆然としたまま、その美しさに感嘆してしまい、ただただ見とれていたのだった。

「人間の子供か。そなた、どうやってここに来た?今宵このときに

玉響殿の禊があると知っての狼藉か?」

この少女が年を取り人生を見尽くしたあとであったならば、厳しい

中に、どこか面白がるような声であった事に気付いただろうが、

ただでさえいけない事をしていると言う自覚があった少女は

恐れ怖気づいてしまい、視線は女性に釘付けにしたまま掠れた声で

「ごめんなさい。」と、呟く事しかできなかった。

「竜泉殿ったら。驚かすのはおやめなさいませ。ここに来る事が出来た

人間は久しぶりなのですよ。それとも、あなたが呼んだのかしら?」

先ほどより少し厳しさが混じった声で言うと、

「まさか。贄は、絶対お断りだとあれほど言われてしまえば 用意等する気に

なれませんよ。もっとも、おあつらえ向きに紛れ込んできたと言う事は

自分から生贄に立候補するつもりかもしれませんよ。」

竜泉と呼ばれた男は、少女を吟味するかのように見ると、徐に

その顎に手をかけ、顔を上向かせた。

少女の視線が、男に向く。体を固くして、僅かに震えながら言いなりになっている

少女の視線を絡めとるように見つめてやると、ますます震えがひどくなった。

「いい加減になさいませ。心配しなくてもよろしいのよ。そなたを生贄などに

しませんから。そなた名前はなんと言うのです?」

竜泉の手から奪うように少女の肩を抱き寄せると、耳の直ぐ側で聞いてきた。

その声を聞いただけで、なぜか 答えようとの意思があったわけではないのに、

いつの間にか「敏与」と小さな声で答えていたのだ。

・・・この方だ。この方が、この神社の御祭神、木花咲耶姫命様だ。

心の中で呟いた声がどうしてわかったのだろう。

「そう、当たりでもあるし、はずれでもあります。私は、命の血筋だから。

木花咲耶姫と呼びたければそれでも良いけれど、私の名は別にあるのですよ。」

そうして、敏与の顔を見て、微笑むと 

「確か宮の後継ぎは幸太郎と言いましたか。そなたが、幸太郎に嫁いだ時

もし知りたければ、私の名を明らかにしていただきなさい。それまでは

そなた、もう少しその衝動的なところを直さなくてはね。」

そういうと、「さあ、禊を手伝ってくださるのでしょう?」

と悪戯っぽく言って手を引いた。そうして、泉を見せてくれたのだ。

夜だと言うのに、まるで泉自身が発光しているかのように、蒼く透明な

光が満ち溢れたその場所は、そこにいるだけでその光が自分の体の

ありとあらゆる所から染み込んでくるような感覚に襲われて、

女神様が手を離したとき 少女はへなへなと崩れ落ちてしまった。

少女を泉の淵に残したまま、女神様は、衣装をそのままに 

泉に入っていく。そうして、その中心で佇むと両手を上にあげ、

何かを受け取るように、あるいは、なにかが来るのを待つように目を閉じた。同時に

竜泉と呼ばれた男が 少女の傍らに立つ。少女が男と女神様を交互に見やるその前で

両手をあげ何事か呟くと、突然泉の光が白く燃え出して、そのあまりの眩しさに

少女は目が眩んで、そのまま気を失ってしまったのだ。

 

肩を揺さぶられて気が付くと、そこは先ほどと同じようでいて、全然異なる泉の

傍らだった。ぼんやりしたまま、肩を揺さぶっている手の主をみると、

それは、ひどく心配そうな顔をした 幸太郎だった。そばに、宮司として

正式な衣装を身に着けた幸太郎の父も、唖然とした顔で膝をついていて

瞬間に、敏与は「ごめんなさい!」と叫んでいた。

「いや、敏ちゃん。大丈夫か。どうやってここに入ったんだ?鍵がかかっていただろう。」

驚いたように聞いてくる幸太郎に、首をかしげたまま 開いていたと伝えると、

「そんなはずはないよ。僕たち、たった今 鍵を開けて入ってきたのだから。」

顔を見合わせている親子に向かい、経験した事を話すと、

夢でも見ていたのだと言われてしまった。

なにしろ、祭事はこれからで、御祭神を今からお迎えに行くのだから、と。

きょとんとしたまま、幸太郎に連れ出され、

父の宮司が今年は一人でやるからと言って、

そのまま、敏与を、家まで送ってくれた。

ぼんやりしている敏与を気遣って、結局聖域に黙って入り込んだ事は

しょうがない悪戯だ、と言う程度でお咎め無しになったのだ。

 

「それでは、先生の初恋の方って、その幸太郎さんなのですか?」

老婦は、首を傾げて聞いてくる千尋に、楽しそうに答えた。

「はずれ。」

「では、その不思議な男の人?」

「それも、はずれ。私の初恋は、木花咲耶姫様なの。」

びっくりしている千尋に、ウインクしながら教えてあげた。

 

そろそろ、星が出ようという時間。

病院からの帰り道、鎮守の森の入り口でしばらく躊躇う。

今日は、日曜日ではないけれど。

おととい、初めて出会って、昨日 一緒に森で過ごしたあの人。

今ごろ、どこで 何をしているのかしら・・・

先生は、結局 幸太郎さんとは結ばれなくて。

戦争に召集されたまま、幸太郎さんは帰ってこなかった。

終戦後、2年ほどたってから、神社が火事になった時、

お父さんの宮司さんも運命を共にしていて。

後継ぎがいなくなった神社は、結局再建されないままだったのだ。

せめて、約束だけではなく結婚式をあげていたら、河西の家の力で

何とかなったのに。幸太郎さんが、戦死した知らせがあると すぐに

他の人との 結婚が決まってしまって。

残念そうに言った先生は、最後に寂しそうに付け加えたのだ。

・・・だから、私 初恋の方の名前を知らないままなの。

「名前。」

そういえば、わたしも あの人の名まえを知らないままだ。

どうしよう、訊きに行くべき?

でも、あの人もわたしの名まえを訊かないし。

まあ、いいか。

そのうち あの人がわたしの名前を訊いてきたら、

わたしもあの人の名まえを尋ねよう。

どこか大らかなところのある千尋は、

こくん、と一つ頷くと 森に入ることなく

家に向かったのだった。

 

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