昔、屈折望遠鏡と言えば、BK7+F2という組み合わせのアクロマート(2色色消しアプラナート(*1))だけでした。細かいことを言えば、BK7+F3 もあるそうですが、いずれにしてもあまりバリエーションも多くなく、残存色収差が多く残っていて当たり前でした。 前回の色消し条件式の出し方を見ればわかりますが、3色で色消しをしようとすると、3連の方程式(つまり、レンズ3枚)、4色で色消しをしようとすると、4連の方程式(レンズ4枚)になることがわかるでしょう。 昔、一時期3枚構成のセミアポクロマートレンズが出ていました。 しかし、セミアポクロマート(準3色色消しアプラナート)という名前が示すように、完全な3色色消しになっていないばかりか、3枚のレンズを合わせるため、どうしても気温順応が遅く、実用面で疑問の残るものとなっていました。 ところが、近年、大口径螢石レンズが作成可能となり、EDガラスも採用されてきたことで、事態は一変しました。屈折式最大の欠点である色収差が著しく改善され、望遠鏡として、ほぼ究極の性能を得たと言っていいでしょう。価格が高いのが唯一の欠点かもしれません。 さて、望遠鏡に限らず、望遠写真レンズにも螢石やEDガラスが使われています。螢石やEDガラスを使えば、何でも性能が良くなるかというと、実際、そう単純なものではありません。 試しに、アクロマートのBK7の代わりに、螢石(CaF2)を入れてみました。(無論、最適な状態に再設計しています。)色収差は激減しましたが、依然、アクロマートの域を出ていません。 | (*1)アプラナート:球面収差とコマ収差が同時に補正された光学系のことです。 |
螢石でアポクロマート(3色色消しアプラナート)にするなら、それに見合った凹レンズが必要なのです。 |
シンデレラは、ガラスの靴と足を合わせました。 現実的に考えれば、足のサイズがシンデレラと同じ女性は、たくさんいたはずです。とりあえず、靴に足がぴったり合った女性をお城に呼んでおいて、その中からシンデレラを探したに違いありません。 多色色消しレンズも同じ。2色色消しが成立するレンズ(ガラスの靴に足が合う女性)は無数にありますが、もう1色以上でも焦点が一致するもの(シンデレラ)を探すとなると大変です。 まずは、王子様が理想とする女性像を探ってみましょう。 ということで、理論的に3色で同じ焦点距離になるために必要な屈折率を指定することができます。しかし、ガラスには、波長ごとの屈折率に一定の傾向があるので、都合良く指定通りの屈折率を持つガラスが見つかることはありません。つまり、真の色消しレンズは存在しないということです。 |
「王子様がガラスの靴を持って、シンデレラを捜している」という噂が流れたら、やはり「ガラスの靴に足が収まるような努力をした女性」が登場したとしてもおかしくありませんね。ところで何cmだったら入ったんでしょうか? ガラスの靴。だいぶ小さかったようですが。 実際にBK7+F2でg線を含めた3色色消しになるために要求されるF2のg線の屈折率を求めたところ、1.641245と出ました。しかし、実際の屈折率は1.642176です。理想値よりも実際の屈折率が大きいという事実が、多色色消しを困難にしている原因です。 「ならば、g線であまり屈折率が高くならないガラスを作っちゃえば?」 ごもっとも。 ということで開発されたのがKzF(クルツフリント)です。ショット社のガラスの名称は、BK(硼珪クラウン)、LaF(ランタンフリント)など、代表的な組成で名前がついていますが、KzFのKz(クルツ)は「短い」という意味で、組成ではありません。この、特別扱いする理由が、「一般のガラスとは分散の傾向が違うガラス=異常分散ガラス(EDガラス)」だからです。(ただし、一般にKzFをEDガラスとは呼ばないようです。) 逆に、「BK7のg線の屈折率が弱すぎる」とも言える訳で、その辺を改善しようと試みたのが、現在よく使われているFK02などのEDガラスです。これらのEDガラスは、g線での屈折率が(通常の傾向より)高く出るため、強いて名前を付ければLgK(ラングクラウン)でしょうか。蛍石(CaF2:弗化カルシウム)はガラスではありませんが、ラング傾向が著しい光学材料として重宝されています。 どちらにしても、「多色色消しに期待できる有力なガラス」です。
|
多色色消しレンズ設計は、数学的に何かしたところで始まらないので、2色色消しが成立しているという「ガラスの靴」に、3色目、4色目…の焦点距離という「足」が「どれだけぴったり合っているか」を片っ端から探すことになります。 3色色消しを探す場合は、色消しの条件式 f1ν1=-f2ν2 が成立しているときのf1,f2を使って、C,F,g3色の焦点距離fC,fF,fgを計算し、それぞれd線との差が小さくなる(二乗平均が小さい)ガラスペアを走査します。その考え方と手順は、次の通りです。 求められたレンズ形状値を使って、別の波長の焦点距離を次々と求めていきます。 |
実際に、ショット+オハラ(+α)のカタログを使って、総当たり(*1)を試みたところ、C,F,g3色の色収差最小のペアは、 K50(ショット、ν=60.135) BSM14(オハラ、ν=60.700) となりました。理論上、d線に対して3色すべてが焦点距離に対して±0.0015%以内に収束します。焦点距離1000mmでも±0.015mm以内に収束するという、恐るべき性能です。(通常アクロマートでは0.2%ほど。) ただし、あくまでも理論上。 | (*1)組み合わせ総数=9万4817件。でも、PentiumIII600MHz+RAM256MBでの計算時間は1分半ほど。 |
さて、シンデレラ候補が見つかったところで、問題が発生します。ガラスの靴に、文句なくぴったりだった女性その人が、シンデレラではないという点です。 なぜ、ガラスの靴が脱げてしまったのでしょう? シンデレラの足が、ガラスの靴よりも、だいぶ小さかったからです。 この「究極の色消しレンズペア」。2種類のガラスのνを見ると、νが非常に近くなっています。これは、レンズの度が強くなり、曲率半径が小さくなって高次球面収差が増大することを示します。実際に計算してみましたが、あまりにνが近いため、設計プログラムがエラーを起こして計算できませんでした。 もう少しマシなペア(CaF2,ν=94.94、FK02,ν=90.33)でレンズを作ってみましたが、F値が35でもこの有様...。 |
F値を100にしたところで使えるかどうか疑問が残るようなレンズになってしまいました。 このように、νが近いと、凸レンズと凹レンズの焦点距離が短くなってしまい、ばく大な球面収差が発生してしまいます。 総当たりリストを眺めると、色収差が極めて小さいものの多くがνが近いものばかりです。ガラスの性質が似ているからこそ、非常に高いレベルで色消しができると言えそうですが、反面、究極の色消しを目指すほど、球面収差の始末が悪くなるとも言えそうです。 各光学機器メーカーは、この「極上色消しペア」の中から、色収差も少なく、νの差が大きく(球面収差が少ない)、ガラスも安価で、研磨しやすく、……といういろいろな条件を加えた中で、最適なレンズペアを見つけます。 写真レンズでは、ガラスの着色による、色の再現性まで考慮しなければならず、使えるガラスが制限されます。 最近では、地球環境問題から、重金属などを含まない光学ガラス(*1)の使用が義務づけられていて、さらに使えるガラスが制限されてきています。 またここで宣伝になってしまいますが、タカハシ製作所の蛍石を使った望遠鏡のFSシリーズは、フランホーフェル型(前凸-後凹)のレンズ構成をとっています。蛍石レンズは、柔らかくて傷がつきやすいため、普通は、蛍石レンズを第二レンズ以降に配置するスタインハイル(前凹-後凸)構成をとります。しかし、これによって蛍石レンズの曲率半径が小さくなって球面収差が増大(おまけに歩留まりも悪化)しやすくなります。 FSシリーズは、フランホーフェル型を採用することで、球面収差を極めて小さくすることに成功しています。 では、ビクセンのFLシリーズは球面収差が多いのか、というと、そうでもありません。同じ口径100mmのものの場合、タカハシの望遠鏡(FS-102)のF値は8なのに対し、ビクセン(FL102S)はF9です。ビクセンは、長焦点化で球面収差増大を抑える作戦に出ているようです。 |
(*1)通称「エコガラス」。従来の光学ガラスには、鉛は言うに及ばず、砒素なんか平気で入ってますからね。だから、メガネを天国に持っていけないのです。 |
シンデレラは、誰だったのでしょうか? そう。お金持ちの家のお嬢様ではなく、その家に雇われているお手伝いさんでした。ボロボロの服を着た、どこにでも居そうな娘でした。 総当たりリストをながめていたら、かなり上位に、変なものを見つけてしまいました。光学材料の貴公子「CaF2」と、平民「BK7」の組み合わせ。 |
ううむ。たで食う虫も好きずきってやつですか。 |