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ジャカルタの指導員候補者を迎えて

***職業訓練従事者交流事業***

※この事業は平成12年度をもって終了しました。

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本稿は、職業能力開発研修所の機関誌、「開発と研修」のために、2000年1月執筆しました。
東京都の職業能力開発部では、姉妹都市との友好事業の一環として、ジャカルタ市の職業訓練指導員候補者を招き、都の技術専門校の訓練現場で、実際の訓練の様子を学んでもらうための指導員養成事業を継続してきました。
現在、財政上の制約から、本事業は休止中ですが、東京で過ごした4ヶ月の経験と、彼らが作り上げたマニュアルは、今も現地で生かされています。
市専属の指導員を・・・

1時間遅れのガルーダが成田に舞い降りたのは、暑い盛りの8月2日早朝である。私たちは、南の国の指導員2名の到着をロビーで待ちわびていた。

両名は、1か月あまりの日本語研修の後、11月末まで東京都の技術専門校で、指導技法を学ぶことになる。

スプリヤント(SUPRIYANTO)氏

44歳、八王子専門校で自動車整備を学ぶ。温厚な、よくできた人物である。大学生を頭に3人の子供のお父さん。自国のもめ事に巻き込まれていないか、心配していた。

 

スガン スバギヨ(SUGENG SUBAGIYO)氏

37歳。王子専門校の溶接科で受け入れ。ものおじしない、好奇心旺盛な好男子だった。ブンガワンソロの歌で有名なソロの出身である。

*受入日程(全117日)*
入国手続・歓迎会 8月 2日〜 8月 4日 3日
日本語研修 8月 5日〜 9月10日 24日
校研修 9月13日〜11月19日 46日
帰国準備・送別会 11月22日〜11月26日 4日
休日等   40日

この職業訓練従事者交流事業は、訓練指導員を自前で育てたいというジャカルタ特別市(インドネシア)の熱意で始まった。

実際に指導員候補を受け入れたのは、平成6年度からで、これまでに6人の指導員候補がこの研修を修了している。

話によると、このうち10年度自動車科のダルヨノ氏は帰国後すぐ正規指導員となったという。また、6年度溶接科のシャハリル氏も、まもなく正規の指導員に任命される予定だ。

せっかちな日本とは対照的に、インドネシアの時間は「ゴムでできている」ともいわれるが、その国柄の中にあってもこのような早さで成果が現れるのは、それだけ、技術指導のリーダーが求められているからだろう。

古き良き隣人たち

実際つきあってみて感じるのは、インドネシアの人々の心情がひじょうに日本人に近いことである。

スガンさんと初めて王子校に下見にいったときのことだ。私たちはざっと実習場を見せて立ち去るつもりだったが、スガンさんはこのまま残りたいという。「ここで勉強できることに感激した。もう少し、現場を見ていたい」。

初めて訪れた場所でも何かをつかみたいという真摯な思いが、直に伝わってくる。

日本では少子化が悩みなんですよという世間話に、スプリヤントさんは力説する。「自分には財産がある。それは私の子供たちだ」と。

こうした感覚は、おそらく昭和30年代、40年代の日本人がまさしく持ち得ていたものである。南の異国の人たちの中には、私たちが忘れてしまったこういう感覚が残っている。

昨今、インドネシア情勢については、物騒な話題も多い。にも係わらず、多くの日本人がインドネシアを応援する。直接ジャカルタの人たちと接すると、それが実によく理解できる。

古い世代から見ると、今日の日本の青年たちより、彼らのほうがずっと日本人らしく感じられるのだ。

研修開始まで

短い滞在期間の中で効果的な成果を残すため、“現地でも使えるマニュアル作り”を研修の最終目的とした。

実は、昨年、やはり自動車整備の研修で立川校に来たダルヨノ氏が持ち帰った指導用マニュアルが、現地で高く評価されているという。「もっといいものを作るように」と、市当局からも2人に指示が出ていた。

そんなわけで最初に、校のスタッフを交えて、本人の研修希望を聞くことにした。しかし、ここで、はたと困ってしまった。

「ABSはやりたいか」「やりたい」「電子制御は現地にあるか」「ないけど、やりたい」「TIG溶接の機械はジャカルタにはあるか」「ない。でも、覚えたい」------両氏とも、「やりたい、やりたい」のオンパレードなのだ。

彼らの高い要望に校はたいへん悩んだ。

正味50日に満たない校研修期間で、すべての思いに答えるのは難問だ。

言葉の壁

2人の校研修を担当したのは、以下の指導員である。

・王子専門校 溶接科

 武田泰行、蛭川達規の両名

・八王子専門校 自動車整備工学科

 菊地五一、小山茂真、青木次郎、糸原孝義の4指導員

苦労したのは、やはり言葉の問題だった。けっして若いとはいえない2人が、わずか数ヶ月の勉強で異国の言葉を流ちょうに話せるようになるのは困難だ。

毎週2回は通訳を配置したが、作業によっては、事前によく説明しないと危険なものもあり、見よう見まねではすまされない場合も多い。

マニュアルを作るとなると、細かい点もないがしろにはできない。自分たちの説明が正確に伝わっているかどうか確認するのも通訳を介してだ。通訳そのものが専門知識に疎いと、内容はうまく伝わらない。

そういう点では、西廣先生という日本-インドネシア交流の第一人者が味方に付いてくれたのは、大助かりだった。

途中、八王子校の計らいで、両名はエコノパワー大会の応援にも参加させてもらっている。

技能祭では、出店の手伝いをした。

また、交通局大島車両検修場の藤村場長には、休みの日に両名を日光や銀座見物に連れていっていただいた。ほんとうに感謝している。

もちろん、両専門校においては、校長をはじめたくさんの方々に、仕事以外の場面でも、たいへんお世話になったと聞いている。

こうした多くの力添えで事業は無事終了し、ジャカルタの指導員候補生は、無事、異国への帰路についた。11月26日、もう冬は間近に迫っていた。

まとめにかえて

最後に、両名から聞いた現地の状況を記しておきたい。

昨年、立川校から送った自動車の部品はガラスケースに入れられて陳列されているとのことだ。教材を消耗品として使いつぶすほど、物資が豊富にあるわけではない。街では、1970年代の車が修理されながら何とか走っている。新車の購入費用で家が手に入るという。

溶接科の教室では、訓練生20人で1台の溶接機械を使っていて、順番待ちの状況らしい。

政情も何かと揺れているようだし、社会的にも、まだまだ改善の必要な部分が多いだろう。

にも係わらず、彼らはたいへん明るい。

何事にも前向きに進んでいこうとしている。言葉ではいい表せないが、何がしかの生命力のようなものが、宿っているようだ。

こうした力が、おそらくは新たな社会を生み出していく機動力となるのだろう。

そんなことを感じさせる2人だった。