しろうと考えではありますが・・・

日本人の感性について調査してほしい

今では流行っていないのかもしれませんが、学生の頃、文化人類学というのをかじったことがあります。

ところで、ここ最近、「日本人が・・・」というニュース記事が目立つようになってきました。しかも、外国から。
もちろん批判的なものもありますが、「電車とホームの間に挟まれた乗客みんなで助けた」とか、「サッカーの負け試合の後、観衆がゴミを拾った」とか、私たちは当たり前と思うことも、海外から見ると賞賛に値することのようです。
そんなわけで、私たちも日本人の感性を掘り下げてみる必要があろうかと思う次第です。


フランダースの犬効果

これは別の所でも書きましたが、私が前から主張している性格傾向です。
日本人は「すべてを失ったとき、たった一つの望みが叶う話」に、いたく感動する」という意味です。

原典はいまさらご説明する必要もないと思います。実は、「フランダースの犬」の物語は、外国から見ると、敗北主義のように受け止められるらしく、フランダース地域においても、当初は“何で日本人の観光客がこんなに多いのだろう・・・?”と、思われていたらしいです。

この理論、誰も関心を示しませんが、最近、映画『永遠のゼロ』を観賞し、提案者としては確信を深めました。
探査衛星「はやぶさ」の最後にも、共通する感情がわき上がります。
天災や戦火で何度も悲惨な目に遭いながら、それでも生き残ってきた民族ゆえ、そういう性格が染み着いているのかもしれません。


■技術への審美眼的傾倒

ダイソンの掃除機が売れているそうです。
私も買おうと思いましたが、ほかの掃除機と比べるとかなり高額なので、やめました。迷っているうちに、「自分はそんなに掃除なんかしない」ということを思い出したのです。
しかし、そうは言うものの、「おそらくすごい技術が詰まっているのだろうな」という思わせぶりな形状には、そそられるものがあります。
そうした美術品を見るような技術への傾倒って、日本人特有のもののように思えるのです。ダイソンの掃除機も、1991年に日本の国際産業デザイン見本市で賞を受賞したことが生産のきっかけだったようですし(出所:Wikipedia)。

どうも日本人というのは、技術的に優れたモノに出会うと、どんどんそっちの方向へ引っ張られてしまう傾向があるように思われます。
かのゼロ戦もそうですが、あそこまでストイックに削り込む必要があったのか、という思いがします。「本当にゼロ戦は名機だったのか」(碇 義朗 光人社NF文庫)によると、ゼロ戦は誕生した時点で完成品に近い航空機であり、当初は抜群の航続距離、旋回性能を誇ったのですが、“すでに完成品”だったがゆえに、その後の改良が難しくなってしまった、というようなことが書かれています。

同じことがVHSとβのビデオ競争にもあったように思えます。ソニーのホームページには、松下電器にβ方式を売り込んだ経過が書かれていますが、こんな様子だったようです。
年の瀬も押し迫った頃、大阪の松下電器本社を訪れた会長の盛田、木原たちは松下幸之助相談役から結論的な話を聞かされた。部屋の机の上には、カバーがはずされたソニーの製品と日本ビクターの製品が置かれており、「ベータも捨てがたい。でも、どう見ても日本ビクターのものの方が部品点数が少ない。私の所は 1000円でも100円でも安く作れるほうを採ります。後発メーカーとしてのハンディキャップを取り返すためには、こちらは製造コストの安いほうでやるしかありまへんな」
こうしてソニーのベータ規格側には東芝、三洋電機、日本電気、アイワ、パイオニアが、日本ビクターのVHS規格側には松下電器、日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機と、家電業界を二分するこんな構図ができ上がった(出所:http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-02.html)。

ソニーのβ方式は、機能的にはVHSよりも優れていたと思います。しかし、性能よりも市場性が勝ったのです。
この「技術をどんどん突き詰めて行こう」という日本人の性行が、ひょっとしたら“ガラパゴス化”と呼ばれるような孤立の裏にあるのではないか、と考える次第です。


■アナ雪現象

ディズニーの「アナと雪の女王」がヒットしています。
残念ながら私は見ていません。おじさんが一人で見るには、あまりにもこっぱずかしいので。
もちろん海外でもヒットした映画ですから人気が出て不思議はないのですが、それにしても、群を抜いた興業収入になっています。普通、日本での映画興収は、30億円で大ヒット、60億円行けば超ヒット作なのに、なんと250億円を超える興収になっています。

ここまで行くには、繰り返し見るリピータがいなければ、無理です。
何でまた、そこまで売れたのか。
私の仮説は、「ありのままに生きていない」と感じている人がとても多いからではないか、というところにあります。
その心理的な代償行為ではないかと・・・。


さて、現実から逃避し、ストイックな技術進歩に感情移入し、全部が灰になっても希望が残ればいい・・・、といった精神的傾向が行くところまでいくと、どうなるのか。
うまくすれば素晴らしい結果を生みますが、逆目に出るとかなり危ないことになります。もうダメだとわかりきったことに、どんどん埋没して行ったりして・・・。
そう、そうした事象も世の中に現れ始めているのではないでしょうか。
一歩二歩引いたところで、いろいろと考え直してみるべきことが、たくさんあるように思えてなりません。

どうです、そういった理論の裏づけ、野村総研さんあたりが研究してはもらえませんでしょうか?
でないと、余裕のない世の中が出来てしまうのではと、心配なのです。

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