Book Review 北村 薫編

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北村 薫「ターン」
1) 新潮社 / 四六判ハード(新潮エンタテインメント) / 1997年8月30日付初版 / 本体価格1700円 / 1997年9月2日読了

 「スキップ」に続く、『時と人』をテーマとした長編連作の第二作目。
 「スキップ」があくまで現実の範疇で決着がつくようにも仕組まれているのに対し、こちらは徹頭徹尾SF仕立て。内心どう収束させるつもりなのかハラハラしていたのだが、流石、括りは上手い。結局「何故」主人公の女性は時間を「ターン」し続けたのかについて、明確な解答は示されなかったものの、それが格別な不満にはならない。「スキップ」もそうだったが、このシリーズでは北村薫はどうやら半ば故意に「原因」を無視し、その上で主題を突き詰めていこうとしている節がある。本格ミステリ作家・北村薫の一ファンとしてはこの点に頷けないものを感じるが、エンターテイメントとして上質なのだから、満足するべきなのだろう、多分。(煮え切らないけどね)
 ひとつ難だと思うのは、終盤に登場する柿崎君の扱い。泉さんの登場には複線に基づく必然性があったが、柿崎君には「物語を収束させる為だけに無理矢理登場させられた」という、どうにも納得しがたい役割につかされているように見えることだ。見えるわけではなく、多分実際そうなんだろうと思う。閉じられた環の中で、「生の営み」に対するひたむきさを失っていた主人公の背中を些か乱暴に押し出す存在として、柿崎君はかなり唐突に物語の中に挿入されている。無論それは物語の上で充分な必然性を持つものなのだが、それだけに柿崎君はあまりにも「道具的」に過ぎる。物語を閉じるための「道具」であることが、かなりあからさまに読者に見えてしまっているのである。
 傷とは言い難いかも知れない。だが、この作家の常からの語り巧者振りからすると、柿崎君の「装置的」な描出が一際目立ってしまっている。その所為で、結末に主題としての答えが明確に提示されているにもかかわらず、何やら妙に割り切れないものを後に残してしまっている。名作なのだが、この点だけはどうしても納得できない。どうにかして他の方法でまとめられないものだったのか。


北村薫・おーなり由子「月の砂漠をさばさばと」
1) 新潮社 / 四六判ハード / 1999年8月25日付初版 / 本体価格1400円 / 1999年9月5日読了

 さきちゃんとお母さん、ふたりっきりのチームメイトが織りなす鮮やかな日々の営みの物語。北村薫の簡潔且つ鋭敏な文章を、おーなり由子のさりげなくも繊細な絵が彩る。
 一章当たり、原稿用紙にして二十枚にも満たない掌編の集成である。その中に綴られているのは、主に「さきちゃん」という感受性豊かな女の子の視点による(時々「お母さん」にバトンタッチするが)生活のスケッチに過ぎない。小説で糧を得ているらしいお母さんが夜毎にさきちゃんに語り聞かせる即興の空想世界。それをさきちゃんが思いもかけないところで日常に摺り合わせては、お母さんを驚かし、歓ばせ、ちょっと胸を締め付けたりする。
 紙幅は全てふたりの何気ない日常を描くことに費やされ、目敏い読者なら気付くであろう父親の不在には殆ど触れられない。くまの名字が変わったことに敏感に反応し、野良猫に執着する些細な一こまにその気配を匂わせるだけ。具体的に「お父さん」という言葉が出るのはただ一度、さきちゃんが自分の名前の由来をお母さんに訊いたその拍子に思い出す、「消えていくもの」の象徴である綿菓子の挿話に、宛ら付随する形で、のみである。切ない気持ちになりながら、さきちゃんはその記憶の顛末をお母さんに訊ねたりしない。そうしてはいけないことを、彼女は識っているのである。
 語りすぎず端折りすぎず。絶妙な平衡感覚によって描かれる世界に謎も奇想もスリルもサスペンスもないけれど、勝るとも劣らぬ深く淡い感慨をもたらしてくれる。宛ら低炭酸の飲料水を口に含むような、そんな快い刺激のある佳品。

(1999/9/6)


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