cinema / 『千と千尋の神隠し』

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千と千尋の神隠し
原作・脚本・監督:宮崎 駿 / 音楽:久石 譲 / 制作:スタジオジブリ / 声の出演:柊 瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、上條恒彦、小野武彦、菅原文太 / 配給:東宝
2001年7月18日日本公開
2002年07月19日DVD日本版発売 [amazon]

[粗筋]
 荻野千尋、10歳。親の都合で田舎に越すことになり、道中ずっと膨れっ面をしていた。父の車が途中で侵入する道を誤り、奇妙な建物の前に出てしまう。俄に無謀な好奇心を発揮した父と母が建物の隧道に潜り、厭な気配を感じながら千尋はそのあとに従った。出た先にあったのは、人気のない奇妙な町。食べ物のかぐわしい匂いに誘われ、店頭に並んだ食べ物を貪りはじめる両親を放っておいて、千尋は町の探索に出た。その奥にある、「ゆ」と書かれた大きな暖簾の下がった建物。その前に架けられた橋の取っ付きで初めて千尋は美しい少年と出会う。だが、少年は会ってすぐさま「日が暮れる前にここを出ろ」と命じる。何が何だか解らないままに町を駆け抜ける千尋だったが、そうこうしているうちにも夜の帳が降り、町中には黒い人影が溢れはじめる。そして漸く見つけた両親は、食べ物を貪るだけの豚と化していた。こんなのは夢だ、と否定する彼女自身の躰が透けていく。
 そこへ、先程の少年が現れて彼女に一粒の食べ物を与える――ここでは、ここの食べ物を口にしないと消える運命なのだ、と。ハクと名乗った少年は、千尋に生き延び両親を救う唯一の手立てとして、釜爺を介して湯屋の主・湯婆婆(ゆばーば)に会い、ここで雇って貰うよう指示する。湯屋とは日本全国に存在する八百万の神が憩うための湯治場であり、本来人間の立ち入っていい場所ではなかった。案の定、巨大な頭を持つ湯婆婆は難色を示すが、粘り強く頼み続けた千尋に最後は折れて雇用を約束する。代わりに、千尋は千尋という名前を奪われて、「千」という小間使いにされた。――そうして、千尋の生き延びるための戦いが始まる。

[感想]
『もののけ姫』もそうだったが、本編も日本の民俗学を援用した設定が数多見受けられる、というより物語の展開そのものが実に民話的な空気を帯びている。迷いこんだ先で異界に辿り着く、というのは非常にオーソドックスな導入だし、以後登場する神々にも、オシラサマ(しかしよりによってあんなマシュマロマンみたいな風貌にせんでも)、オオトリサマ、水に宿る神としての龍、といった具合に格別な捻りは加えていない。それを、宮崎監督及びジブリ独特の感性に翻訳して見せているだけなのだが、その辺に安心感がある。
 そして、導入から以降の筋運びは、直接の戦闘や頭脳戦、目に見える生命の危機こそ訪れないもののれっきとした冒険物のセオリーを辿っている。一個一個のシチュエーション同士に明確な脈絡は窺えないが、目的意識の芽生えと困難への挑戦、信頼と敵対、そして何より主人公の精神的成長といった不可欠な要素は不自然を感じさせずに取り込んでおり、奥底から迫ってくるようなテーマ性はない代わりに見ている間決して飽きさせない、純度の高い娯楽作品となっている。そのくせ、前述のように民俗学・民間伝承に取材したモチーフと作中提示される困難・その解決方法とが、実は何気なく絡み合い考証の深さを覗かせたりと深読みの出来る作りでもあり、この辺は流石、と唸ってしまう。
 尤も、実際にはあまり細かく考えずにガジェットを羅列しているのでは、と捉えることも出来る、というか私自身その可能性の方が高いように感じていたりする。が、この場合深読みさせたり考えさせられる(テーマ性とか社会性は避けてもいい)ような羅列の仕方にこそ意味があるのであって実際に意味があるかどうかはあまり関係ない。そう思わせて尚かつ娯楽であることをちゃん成功させている辺りが、本編の巧みなところだろう。
 また、こちらこそ多分宮崎映画の本質では、と思うところとして、特徴のありすぎるキャラクターたちの実に愛らしいこと。青蛙にその他人間と同じなりをした蛙たち、一見人間なのだが色々といわくのありそうなリンたち使いの娘、後半で登場するネズミと変な鳥、といった元々風体に愛嬌のあるキャラクターは当然のこと、基本的に業突張りでグロテスクなほどに巨大な頭部の持ち主の湯婆婆、六本の腕を持つ釜爺、重要な役割を演じる(予告編であれだけ見せてしまってるんだからネタバレにならないだろう……多分)カオナシといった、デザイン的には愛嬌の乏しいキャラクターにさえ気付くと愛着を感じさせてしまう手管。特にこれが今回際立っているのは、平均的な女の子としてデザインされ、冒頭では不平顔しかしていなかった千尋の、終盤近くの見事な愛らしさ、だ。意識の変化が仕草や表情で細心に描かれており、正直筋よりもこちらの方に感心し惹かれた私であった。
 一点どうしても気になったのは、一部の遠近法表現の奇妙さ。視点から離れた位置にあると思しい物質(道祖神とか跳ね橋とか千尋が花畑を駆け抜けるとき左右に連なった花々とか)のアングルの移動が、どうも極端なのである。ただ、これは執拗に行われている分、狙いがあってのこととも見える――実際通して見たあとは、あまり気に懸けていなかったりする。予告編とか冒頭部分で、やたら誇張されているように感じてしまったのが原因だろう。最近頻繁に通いすぎた弊害かも知れない。
 本編では、日本国内作品としては初の、完全デジタル方式の上映が一部の劇場で実施されている(全てではないのは設備の問題に基づく)。私が鑑賞に訪れた日比谷スカラ座でもこのデジタル方式で上映されていたが、日頃映画をよく見ている人間ならば一目で、そうでない方も予告編と比較してもらえれば簡単に理解できるほど、段違いに画質がいい。フィルム方式ではコマごとに画面を再生しているため、その微妙なブレや変化が映像に与える影響がなかなか見過ごせないのだけれど、これがデジタルとなったお陰でブレは無論、画質の劣化も感じられずクリアな感じで再生が出来るという仕組み。本編はことに着色の段階からデジタルで行われているという利点もあって、この繊細な美しさを堪能するためだけにでもまだまだ数少ない完全デジタル対応の劇場に足を運んでみてください、と言いたくなるほど。……但し、ちょっとした欠点がないでもない。私は最前列で鑑賞したのだが、劇場が非常に熟慮された構造のためそれでも見るのに辛さはなかったのだけど、……ドットが見える。ことにキャラクター主線の細かいドットが、スクリーンに近いほど見えてしまう。まあ、全体を見ていれば気になることもないのだろうが。
 ともあれ、デジタル手法と『トトロ』『もののけ姫』に通ずる宮崎流民俗学的モチーフの結実として、満足のいく出来ではないかと思う。何より、見ている間私が一度も腕時計を確認しなかった、という一点がある面の質の高さを証明しているのではなかろうか。

(2001/7/28・2004/06/16追記)


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