cinema / 『血と骨』

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血と骨
原作:梁 石日(幻冬舎文庫・刊) / 監督:崔 洋一 / エグゼクティヴプロデューサー:甲斐真樹、加藤鉄也 / 製作:石川富康、西村嘉郎、沼田宏樹 / 企画:泉 英次、和田省一 / 製作総指揮:若杉正明 / プロデューサー:榎 望、中嶋竹彦 / 脚本:崔 洋一、鄭 義信 / 撮影:浜田 毅(J.S.C.) / 美術:磯見俊裕 / 照明:高屋 斎 / 録音:武 進 / 整音:小野寺 修 / 編集:奥原好幸 / 衣装デザイン:小川久美子 / 音楽:岩代太郎 / 出演:ビートたけし、鈴木京香、新井浩文、田畑智子、オダギリジョー、松重 豊、國村 隼、濱田マリ、中村優子、北村一輝、柏原収史、寺島 進、伊藤敦史、唯野未歩子、塩見三省 / 配給:松竹×ザナドゥー
2004年日本作品 / 上映時間:2時間24分
2004年11月06日公開
公式サイト : http://www.chitohone.jp/
丸の内プラゼールにて初見(2004/12/09)

[粗筋]
 1923年、第一君が代丸と銘打った船が瀬戸内海を経由して大阪に入港した。船に乗っていたのは、日本で一旗揚げることを夢見る多数の朝鮮人。大半は夢破れ、ギリギリの生活を強いられるようになっていったが、その中でひとり、瘴気めいた活力を満身に漲らせる男が存在した。
 男の名は金俊平(ビートたけし)。溢れんばかりの精気と欲望を持て余し、離婚歴と春美という連れ子のあった李英姫(鈴木京香)と所帯を持つが、ひとところに落ち着くような人間ではなかった。気紛れのように英姫のもとに現れると、抵抗する彼女を犯して、またしばらくすると何処へともなく消えていく、そんなことを繰り返していた。
 朝鮮人街が戦争によっていっとき親日一色に染まり、俊平の弟分であった高信義(松重 豊)は出征のために慌ただしく春美(唯野未歩子)を娶ったかと思えば間もなく終戦を迎え、戦時中親日に大きく傾いた大山(塩見三省)と信義は朝鮮人連盟の面々から袋叩きにされるような一幕もあったが、その間俊平は姿を消していた。それがまたしても忽然と舞い戻ると、戦争で焼けた家を勝手に蒲鉾工場に仕立てて事業を始める。信義や張賛明(柏原収史)ら身内をこきつかった事業は軌道に乗り、そのあいだ俊平は家に落ち着いていた。
 そこへ突如、俊平の私生児だという朴武(オダギリジョー)という男が現れる。俊平とのあいだに子を設けた母を、許せなかった父によって殺された武はあちこちをたらい回しにされて育ち、暴力団の殺し屋として名を上げたのち、一時的に転がり込んできたのだ。俊平の息子である正雄は、唯一父と対等に戦えそうな男の出現に驚き心酔するが、立ち退き際に金を寄越せと言った武を、俊平は殴り倒した。取っ組み合いの喧嘩となっても、俊平は未だ武のような若造に屈することはなかったのだ――正雄に「勉強しろよ」と言い残して去った武は、程なく広島で背中から撃たれてこの世からも姿を消した。
 俊平の傍若無人な振る舞いはなおも続く。自宅の目と鼻の先に別宅を購入したかと思うと、そこへ戦争未亡人の清子(中村優子)が通い始めた。程なく俊平は蒲鉾工場の売り上げを元手に高利貸しの仕事を始める。朝鮮人街での俊平の存在感は更に増していった。
 1952年、16歳になった息子・正雄(新井浩文)は賛明の薫陶で共産主義者となったが、内実はそれほど深く心酔していたわけではなく、賛明らと思想について語り合い一緒に遊ぶことを楽しむようになっていた。正雄の3つ上の姉・花子(田畑智子)はそんな賛明と想いを寄せ合っていたが、賛明は同志と共に派出所を襲撃して逮捕されてしまう。
 同じころ、俊平に望まれながらもなかなか子種を宿すことの出来ない清子は、突然脳腫瘍に倒れ入院した。その憤りと苛立ちは、しばらく無視していた英姫ら家族に向かっていく……

[感想]
 稀代の“大物”という表現をするしかないだろう。時代の趨勢にさして関心を持つことなく、ただあるがままの状況を利用し或いは翻弄して自らの欲求を満たすことにのみ邁進し続けた男の一代記である。
 とは言え、視点人物は基本的に問題の男・金俊平ではなくその息子であり、原作者・梁石日の分身たる正雄である。故に彼が生まれる前の出来事は極めてシンプルに語られるのみで、作中でも描写の密度が高まるのは戦後、俊平が蒲鉾工場の経営を始めたあたりからだ。だが、その極めて短い期間で見せられるものが非常に濃い。僅か数シーンで、金俊平という男の圧倒的な存在感と、彼の周辺にいる人物の関係を的確に示していく。情報量が多すぎて気疲れしそうだが、それを俊平の迫力が最後まで許さない。とにかく登場人物のみならず、観ているこちらまでが彼に引きずり回されている気のする作品である。
 ツボを押さえた的確な脚本と、表情から佇まいに至るまで完璧に金俊平を演じきったビートたけしの功績は無論だが、本編で重要なのはそんな俊平に翻弄される周縁の人物を演じた役者ではなかろうか。常に蔑ろにされ、やがては目と鼻の先で愛人との生活をはじめた夫に憎悪を燃えたぎらせながらも最後まで己とふたりの子供を守り抜くため毅然とした態度を崩さなかった英姫、そんな父母のあいだに生まれながらもどこか楽観主義的な大らかさを感じさせ俊平とは類の異なる大物に成長していった感のある正雄、父の束縛から免れようとして躰も心もじわじわと磨り減らしていった娘の花子、俊平の横暴さを承知のうえで彼のために尽くし一方で密かに憧れた英姫をも支え続けた信義、理想を追い求め続け遂に新天地を目指して花子とのロマンスも捨てていった賛明……記していくときりがないが、こうした生々しい登場人物のすべてが何らかの形で俊平の影響を受け、彼から逃れた自らの道を見出し或いは耐えきれず己の手で命を絶ち、と様々な形で変貌していくさまが凄まじい。
 一方で、不思議な無邪気さやユーモラスさを窺わせる場面もある。退院したもののろくに口も利けず躰も動かない状態になった清子に、予想もしないような献身的な態度で接する俊平の姿や、後半、ある人物の葬儀の席に俊平が押し入った場面などがそうだ。暴力的な展開で観客を翻弄するばかりではなく、ところどころに人間であるが故の奇妙な二面性とその滑稽さを滲ませているあたりに本編の深い奥行きが窺える。
 ただ、物語をちゃんと把握するためには、場面場面での在日朝鮮人を巡る時代背景を、きっちりと語れなくとも場面の様子に応じて思い出せる程度の理解が必要だろう。たとえば賛明が汽車に乗って旅立つ様子は、この頃日朝間で結ばれた帰還協定に基づくもので、彼らにとって当時は理想郷への旅立ちだったはずだが、その後、正雄のナレーションが語るように多くは連絡が途絶え、近年では帰還事業への怨みを口にする証言者も現れている。ナレーションの形で簡単ながらほとんど説明があるあたり配慮は失していないが充分とは言い難く、多少の常識は知っておくべきだろう。
 物語は最後まで俊平の強欲さ、身勝手さを貫かせたまま完結する。晩年はかつてのツケを払わされるように不遇の日々を送ったことを思わせる描写が随所にあるが、それでも己の主義を崩すことがなかった俊平の姿には、確かに“神”にも似たものが重なる。他人を一切顧みず、善悪いずれに意味においても英雄とは程遠い存在ながら、他者の目にはある種憧れとも言える生き様を貫いた男を描ききった本編の結末は、悽愴だが奇妙な清々しさが漂っているようにも感じた。

 ちなみに本編でいちばんいい役どころは、役柄的に美味しいところをすべてさらっていった濱田マリ――ではなく、伊藤淳史である。彼は若き日の俊平と、俊平のもうひとりの息子である龍一の成長した姿を演じている。このふたつ、物語のオープニングとエンディングに位置しており、更にどう見ても、ひと言として台詞がない。プログラムに完全採録された台本にも「……」しか書いてない。だのに、位置づけ上どの役よりも印象に残るのである。無論、若手ながら日本映画界で独自の地位を築きつつある実力派であり、表情のみで様々なものを語れるからこその配役なのだろうけれど――それでも、いいとこさらってきやがったなこのチビノリダーめ、と思わずにはいられないのである。この歳になってチビノリダー呼ばわりされたくないだろうけど。

(2004/12/10)

※プログラムに収録された梁氏と崔氏の対談によると、原作では別の名前だったこの視点人物は、原作者の本名に合わせて正雄と変更されたらしい。著者の写真を見ると、なるほど作中の正雄の顔とまったく同じ位置に特徴的な黒子があり、少なくとも監督は意識して梁氏本人として描いているのが解る。自身は本名がしきりに連呼されるのを恥ずかしがっていたようだけれど。


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