/ 『ドニー・ダーコ』
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『light as a feather』トップページに戻るドニー・ダーコ
原題:Donnie Darko / 監督・脚本:リチャード・ケリー / 製作総指揮:ドリュー・バリモア、ほか / 撮影監督:スティーヴン・ポスター、ASC / プロダクション・デザイン:アレグザンダー・ハモンド / 衣裳:エイプリル・フェリー / 編集:サム・バウアー、エリック・ストランド / 音楽:マイケル・アンドリュース / 出演:ガジェイク・ギレンホール、ジェナ・マローン、ドリュー・バリモア、メアリ・マクドネル、パトリック・スウェイジ、ノア・ワイリー、キャサリン・ロス / ニューマーケット、パンドラ提供 / フラワー・フィルムズ・プロダクション作品 / 配給:Asmik Ace、Pony Conyon
2001年アメリカ作品 / 上映時間:1時間53分 / 字幕:石田泰子
2002年08月31日日本公開(全国順次)
公式サイト : http://www.donnie.jp/
劇場にて初見(2002/10/12)[粗筋]
1988年10月2日。ドニー・ダーコ(ガジェイク・ギレンホール)は真夜中、銀色ウサギの声に導かれる。
「世界の終末まで、あと28日と6時間と42分と12秒」
翌朝、近所のゴルフ場で目醒めた彼の腕には、それらの数字が自らのものと思しい字で書き留められていた。自宅に帰った彼を待っていたのは、脱落した飛行機のエンジンに押し潰された自分の部屋だった――
ドニーは数年前に放火事件を起こし、21歳まで車の運転が赦されない身分だった。現在も情緒不安定で、精神科医リリアン・サーマン(キャサリン・ロス)のカウンセリングを受けながら精神安定剤の世話になる日々を過ごしている。元々エキセントリックな側面の強かったドニーは、一連の事件から更に常軌を逸していく。
ドニーは夢のなかで、フランクと名乗る銀色ウサギの指示に従い、斧を水道管に振り下ろす。翌朝、学校は時ならぬ「洪水」の被害で休校となった。学校の名物だった雑種犬のブロンズ像には斧が突き立てられ、その足下には「They made me did it」(奴らがやらせた)の落書きが残されていた――
帰途、不良生徒ふたりに絡まれていた転校生のグレッチェン・ロス(ジェナ・マローン)を助けたドニーは、話の成りゆきから彼女と付き合うことになった。グレッチェンと会っているときだけはごく普通の少年になるドニーだったが、日常は相変わらず――いや寧ろ、銀色ウサギの声を強く意識するようになりいよいよ破滅的になっていく。道徳教師のキティ(ベス・グラント)の授業で突っかかり、彼女はじめ多くの支持者を持つセラピスト・カニングハム(パトリック・スウェイジ)の来校講演で論理的矛盾を指摘して摘み出される。同時に、近所の謎めいた老婆ロバータ・スパロウ(ペイシェンス・クリーヴランド)がかつて著した『タイム・トラベルの哲学』という奇書に魅せられ――
時は刻々と過ぎ、間もなく予告されたその日が訪れようとしていた――[感想]
これまた粗筋の書きにくい話で困った困った。
全体に得体の知れない話である。ホラーのようでもあり、サイコスリラーのようでもある。ドニーの語る幻影はファンタジーのようだが、中盤から登場する「タイム・トラベル」の理念がSFの性格を付与している。一貫しているのは、ごく普通の十代男子の気質を備えながらどこか逸脱してしまった少年の青春物語、という性格だけだ。
思わせぶりなシチュエーション、意味深なガジェットが次から次へと投入され、最後まで引きずられる感覚があるのだが、しかし結末まで見終わって残るのは釈然としない気分だけだった。平仄が合わないのは多分に意図的なことだろうが、無駄に鏤められた要素が多いのだ。上の粗筋と出演者の一覧を並べていただくと解るのだが、ドニーの視座から粗筋を綴ると、出番が多いのに殆ど名前の出しようがない出演者が多すぎる。一見無意味なガジェットの羅列で成り立つ本編だが、そういう約束の上でも無駄が多いのだ。ひとりひとり、それなりに役割はあるのだけれど、もう少しキャラクターの数を絞り込んで役割を振り分けたほうが良かったのではあるまいか。
で、そうまでして筋が通るのかというと――実はそれも微妙だったりする。SFとして整合性を与えるには、あまりに恣意的で「本当にちゃんと推敲してこのシチュエーションを持ち込んだのか?」と首を傾げたくなる場面が多いのだ。しかも、特に重大なガジェットが事実上放置されているために余計もやもやとした気分が拭えない。
ただ、青春物語としての骨格は実にうまい。欲望に悶々として、自分で自分の世界ひとつ変えられないもどかしさを、演技と映像だけで表現する手法は完成されている。頻繁な場面転換、奇妙なエフェクト、理由もなくカメラを横に傾けて撮影してみたりと、その不安定な映像が実によく物語に嵌っており、そうした要素ひとつひとつを賞味している分には殆ど不満がない。特異な世界であるはずなのに親近感すら覚えたほどだった。
脚本・監督を担当したリチャード・ケリー(深川と同年生まれだ)は、劇場を出てからも「あれはこうだった、ここはこうではなかったか」と語り合えるような作品にしたかった、と語っているが、そういう意味では見事に完成されているし、面白い――使い古された言い回しだが、funではなくInterestという意味合いで「面白い」作品であることは間違いない。だが、いくら語りあったところで明確な答は出ないだろうし、明確な答えを期待していい作品にもならなかったことが最大の疵であり、しかし同時に長所でもある。極度に閉塞した世界で展開される不条理劇と捉えれば、かなりの完成度とも取れるのだけれど。映像センスには、一級のエンターテイナーに成長しそうな予感があるのだけれど、ストーリーテラーとしてはどうだろう。このままだとマニア向けのクリエイターにしかなれない気がする。
ともあれ本編については、その歪さ故に、絶賛することも全否定することも可能という不安定な作品。そういうところまで含めて青春映画の理想的完成像、と評価することもできるのだろうけれど、何にしても万人にお薦めするには問題がありすぎる。かなりのひねくれ者が解釈をこねくり回して楽しむぐらいが関の山だろう。
……と、きっつい調子で書いてみたものの、評価はしてるし結構気に入ってはいるのだ。(2002/10/13)