cinema / 『ロードキラー』

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ロードキラー
原題:“Joy Ride” / 監督:ジョン・ダール / 脚本:クレイ・ターバー&J・J・エイブラムス / 音楽:マルコ・ベルトラミ / 出演:スティーヴ・ザーン、ポール・ウォーカー、リリー・ソビエスキー / 配給:20世紀FOX
2001年アメリカ作品 / 上映時間:1時間37分 / 字幕:林 完治
2001年11月23日公開
2002年04月26日DVD日本版発売 [amazon]
2004年07月16日DVD最新版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/roadkiller/

[粗筋]
 ルイス(ポール・ウォーカー)は古い知り合いであり、心密かに憧れていた女の子・ヴェナ(リリー・ソビエスキー)との長電話で、彼女がつい最近恋人と別れたことを知る。車があれば傷心旅行でもするのに、という彼女の言葉に、ルイスは帰郷に備えて用意していた飛行機のチケットを見遣る。そこに記された「払い戻し可能」というコメントを見つめながら、ルイスは「車ならある」と応える。夜が明けると、ルイスの姿は早くも中古車市場にあった。
 道すがら実家に連絡すると、ルイスは母親からあまり有り難くない頼み事を切り出される。ルイスの兄・フラー(スティーヴ・ザーン)が酔っ払った挙句のトラブルでソルトレイクシティーの刑務所に収監されており、そこから実家に保釈金を無心したのだという。フラーは一家の鼻つまみ者で、父親などは会っても口を利きもしない有様だった。金を支払い、途中まで送ってやって欲しい、という母の願いを、気弱なルイスが断れるはずもなかった。
 最初こそ殊勝だったフラーは、だが結局かつてと変わらずお調子者でルイスを翻弄するばかりだった。買ったときから故障していたテールランプを修理するために立ち寄った整備工場で、フラーはルイスに断りもせず車にCB無線の機械を取り付けさせた。大陸を走り回るトラック運転者らが退屈を凌ぐために匿名での会話を愉しむのに利用されるツールだが、ここでフラーは生来の悪ガキっぷりを発揮する。幼い頃に遊びで真似させた女言葉をルイスに強要し、行きずりのトラッカーを誘惑して愉しむ女をでっちあげたのだ。“キャンディ・ケーン”と命名したその架空の女に、早速“ラスティ・ネイル”という男が引っかかる。最初はただ揶揄って遊ぶだけのつもりだった――最初は。
 その夜、雨の降りしきる中ふたりはとあるモーテルに宿を求めた。フラーが受付に走ると、そこでは横柄そうな男がアジア系の職員を差別的な発言を混ぜながら詰っていた。仲裁しようとしたフラーだが、興奮した男はフラーを突き飛ばして宛われた部屋に去っていった。車に戻ったフラーはルイスに、キャンディ・ケーンを演じるよう命じる。ラスティ・ネイルを件の男の部屋に誘い出し、鉢合わせるために。悪ふざけが過ぎる、と軽く宥めるルイスだったが、結局逆らえずに無線機に手を伸ばした。
 その夜、あの男が泊まっているはずの隣室に、ラスティらしき男がやって来た。口許を綻ばせてことの成り行きを見守っていた彼らだったが、打擲するような物音と呻き声に最悪の事態を思い、ルイスは怯えてフロントに電話する。だが、折り返しの連絡によれば、何の異常も認められない、という話だった。ふたりは取り敢えず安心して眠りに就く。
 だが翌朝ルイスが目醒めてみると、モーテルの外でフラーが警察の事情聴取を受けていた。詳しく話を聞いてみると、あの横柄な男が暴行を受け、意識不明の状態で道路の中央分離帯に放置されていたのだという。警察の要請を受けて病院に様子を見に行くと――男は、顎を削ぎ落とされていた。兄弟は初めて、自分達が取り返しのつかない過ちを犯したことに気付く。――そんな彼らを、ラスティのトラックが静かに追い詰めつつあった……

[感想]
 普通に出来のいいホラー、といった印象。何気ない発端から突然生命の危機に見舞われ、窮地を脱したかと思えば奇妙な誤解から再び付け狙われる。推移にしても随所の小細工にしてもホラーの定石を巧く選択し配置したもので、特に独創性はない。着想と言えば、そもそも主人公の兄弟が自ら招いた悪夢であること、その出来事が本来の目的と結びついて一度は終わった悪夢を再現してしまうこと、そしてギリギリまで悪夢の元凶――ラスティ・ネイルの姿を見せないこと、これらに尽きる。そのうえで、主人公達もラスティにしても、最初の段階では寧ろ何処にでもいる若者や騙されやすい人物として描いたことで、恐怖感にリアリティを添えている。このリアリティこそ、本編の見せたかった部分であり、成果でもあるのだろう。そこかしこにユーモアも交えることで緊張感をいっとき和らげ、作品に緩急を与えつつ次の脅威に説得力を与える。この手管にも慣れと職人技を感じた。
 敵味方の構図がはっきりしているために本編では謎解きは行われないが、実際にはいまいち理解不能な箇所や謎のまま残された事実が多く存在し、その殆どは結末に至っても語られていない。が、これをして傷と捉えるのは待った方がいい。寧ろ、そうして謎が多く残されているからこそ本編の恐怖は普遍的なものとなり、単純なハッピーエンドでは得られない余韻を残している。そこまでの周到な計算があってこそ、大作と比肩するべくはないまでも一時の恐怖を体感するに最適な佳作に仕上がっているわけだ。恐がりには薦められず、純粋なホラーを求める向きには取り敢えず渇を癒すに最適と申し上げよう。

 ところで、この映画のプログラムには、『新耳袋』シリーズの著者として知られる木原浩勝氏が寄稿している。映画の発端となる出来事――CB無線で女性を演じ見ず知らずの人間を謀る件――に対して抱く危機感と、物語の推移にある寓話性とを氏の研究分野である都市伝説に絡めて綴っている。鑑賞の際同行した某氏は先に木原氏のコメントを聞いていたため、本編が都市伝説絡みだと思い込んでいたようだが、実の処作中ではこの物語を都市伝説とも、都市伝説に取材したというふうにも語っていない。だが、作品の底流にある恐れが、人々をして都市伝説を語り継がせる要素と共通している、という指摘に間違いはない。突拍子もない悪夢に見えて、本編で描かれているのはあくまで現実と地続きの恐怖なのだ。

(2001/12/9・2004/06/18追記)


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