cinema / 『女王フアナ』

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女王フアナ
原題:“Juana La Loca” / 監督:ビセンテ・アランダ / 製作:エンリケ・セレッソ / 制作総指揮:ペドロ・コスタ / 脚本:ビセンテ・アランダ、アントニオ・ラレタ / 撮影:パコ・フェメニア / 美術:ホセップ・ロセル / 編集:テレサ・フォント  / 衣装:ハビエル・アルティニャーノ / 音楽:ホセ・ニエト / 出演:ピラール・ロペス・デ・アジャラ、ダニエレ・リオッティ、マヌエラ・アルクーリ、エロイ・アソリン、ロサナ・パストール、カロリーナ・ボナ、ジュリアーノ・ジェンマ、ロベルト・アルバレス、スシ・サンチェス、エクトル・コロメ、マリア・ヘスス・バルデス / 配給:角川大映(2004年04月01日より角川映画に改称)
2001年スペイン・イタリア・ポルトガル合作 / 上映時間:1時間57分 / 日本語字幕:古田由紀子 / 字幕監修:西川和子
2004年03月06日日本公開
公式サイト : http://kadokawa-pictures.com/juana/
銀座テアトルシネマにて初見(2004/04/01)

[粗筋]
 1954年――死期を間近に控えながら、フアナ(マリア・ヘスス・バルデス)の心に恐れは一切なかった。死を迎え入れれば、半世紀も前に先立った夫のもとに還ることが出来る。彼女を文字通り狂わせ、半世紀にも亘って幽閉されるきっかけを作った、夫の元に。
 ふたりの出会いは1496年のことであった。カスティーリャの女王である母イサベル(スシ・サンチェス)の意向により、当時僅か16歳であったフアナ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)は肖像でしか知らぬハプスブルク家マクシミリアンI世の嫡男、オーストリア公にしてブルゴーニュ公であるフェリペ(ダニエレ・リオッティ)に嫁ぐため、海を渡りフランドルを目指す。幼馴染みでありかつて淡い想いを共有した騎士のアルバロ(エロイ・アソリン)とも引き裂かれ、見ず知らずの男のもとに嫁ぐ幼いフアナの胸にははじめ、不安しかなかった。
 だが、フランドルの居城でフェリペと相見えた次の瞬間、すべては霧散した。美貌の婚約者に一目で虜となってしまったフアナは、挙式を前にその場で婚礼の儀を行う、というフェリペの言葉に頷き、簡素な祈りが済むやいなや、夫の腕に抱かれてベッドに運ばれる。純潔であった乙女はわずか数秒のうちに、女へと変貌してしまった。
 それから数年、平穏で幸せな日々が続いた。フェリペはフアナを愛し慈しみ、婚礼から二年後には長女レオノールを、更に二年後には早産ながら長男のカール――のちの神聖ローマ帝国皇帝を成す。ただ、フアナの生家であるカスティーリャ王家には不幸が続いていた。姉、兄、彼らの遺児と死者が相次いだのだ。結果としてフアナはカスティーリャの王位継承権を得ることになる。
 一方、フアナのあまりに情熱的すぎる愛を、夫は次第に疎ましく感じるようになっていた。フアナがそれをはっきりと悟ったのは、奇しくも母イサベル女王逝去の報を受けたその日であった。狩りに出かけている、と聞いていた夫の行方を捜したフアナは、あろう事か館の一室で情事に耽るフェリペの姿を目の当たりにする。口汚く夫を罵るフアナを、フェリペは「狂っている」と言い放った。フアナは躊躇うことなくその言葉を認める。自分は確かに狂っている、フェリペへの愛ゆえに、己を抑えることが出来ない――雨の降りしきるなかを中庭に飛び出し、彼女は叫び続けた……

[感想]
 西欧史にはまったく暗い人間ゆえ知らなかったのだが、この後半世紀に亘って幽閉されながら現在のスペインをはじめ地中海沿岸の多くの土地の王位に君臨していたフアナという人物は、確かに数百年のあいだ「狂女」として知られていたのだという。早逝した夫の棺を引きずってカスティーリャの荒野を彷徨い、幽閉中には大小便を垂れ流し侍女たちに暴言を吐きながら、王位継承の手続きに現れた係累には自らが女王であることを毅然と言い放ち、終生王位に就いた――確かに、強烈だ。
 本編はそうした伝説と共通認識に、一石を投じよう、という意図がまず存在したのかも知れない。本編で描かれるのは夫フェリペ早逝の前後までなので、幽閉中の言動にはほとんど触れられていないが、こうして物語として抽出されたエピソードを眺める限り、フアナは同じ“狂っている”でも“気が触れる”のではなく“恋に狂っている”と言ったほうが相応しい。それまで男も知らなかった少女が美貌の夫に一目惚れし、そのまま情欲まで開花させられたのだから、それが熱狂的な執着に変わるさまは寧ろ必然的だ。
 夫と愛人の房事の余韻を留めたままのシーツに鼻を近づけ匂いを脳裏に刻み、似た匂いを身につけた侍女を捜し出して、復讐としてその髪を切り刻む――真っ当な行動ではないが、嫉妬に狂った女としては自然な反応とも言える。王位を継ぐためにカスティーリャに滞在しているさなか、娼館に通い詰める夫を気にかける彼女に、長年付き添った侍女は「卑しい出の女たちだ」と行き過ぎた妬心を窘めるが、「卑しくても女は女よ」と反論する。嫉妬に狂うあまり、貴族的な価値観から逸脱したフアナの言動は、寧ろいまのそれに迫っているのだ。
 その一方、どれほど嫉妬に狂おうと、フアナは変わらず夫を愛し続ける。関心を呼ぶためにかつて想いを寄せ合ったはずの幼馴染みまで利用するさまは、確かに狂っている、と表現することも出来るが、それは同時に、どう足掻いても塞き止めることの出来ぬ熱情の証明でもある。だから、あからさまな狂気と映る行動でさえ、傍目には痛々しく切ない。愛するがゆえに最後には夫の野望を妨げながら、若くして死の床に就いた夫に寄り添い、身も世もなく泣き叫ぶ。
 結局、どれほど大きな背景を抱えようが、本編の本質は現代的な価値観を備えた女性の、あまりに一途な恋愛ドラマに過ぎない。本気で堪能したいのであれば、事前にヨーロッパ中世史をある程度学んでおく必要があるだろうが、知識がないならないで、充分に楽しむことは出来る。
 何にしても、ここまで激しく愛されたら、そりゃ旦那だって大変だったでしょう。

 前述の通り、西欧史にはまっっったく暗い人間ゆえ、本編での描写がどこまで史実をなぞっているのかは定かではない。大筋では変更を加えていないにしても、細部には潤色があったのではないか、と思う。
 だから、いまいちばん気になっているのは、カール5世出生の際のエピソードの真偽である……この方は、本当にトイレで生まれたのでしょうか。

(2004/04/02)


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