cinema / 『キプールの記憶』

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キプールの記憶
原題:KIPPUR / 監督・脚本・製作総指揮:アモス・ギタイ / 製作総指揮:ミシェル・プロベル / 共同脚本:マリー=ジョゼ・サンセルム / 音楽:ヤン・ガルバレク / 出演:リオン・レヴォ、トメル・ルソ、ウリ・ラン・クロイツナー / 配給:アルシネテラン
2000年イスラエル=フランス=イタリア作品 / 上映時間:1時間58分 / 字幕:とちぎあきら
2001年12月22日公開
2002年07月05日DVD日本版発売(『キプール〜勝者なき戦場〜』に改題) [amazon]

[粗筋]
 その日、その瞬間まで、イスラエルは静寂に包まれていた。聖書にある‘贖罪の日’――‘ヨム・キプール’にあたり、一切の商店がシャッターを下ろし殆どの人々は家に閉じこもっている。紙切れ一枚舞わない空白の街を、ワインローブ(リオン・レヴォ)は恋人との逢瀬のために黙々と歩く。
 その後、兵役に就くために途中で友人のルソ(トメル・ルソ)を拾って車を走らせた。だが、道は途中から封鎖され、無理に通過して進んだ先は、戦争の直中だった。突然の開戦に軍人たちでさえ大混乱に陥る中、「メトゥーラに戻れ」という忠告を受けてふたりは来た道を戻る。途中の基地に立ち寄ると、ワインローブたちが所属するはずの部隊はとうに前線に向かったあとだと言われた。基地にいた上官は同行するように言うが、どのみち統制の取れていない陸軍に加わるのは御免だと思い、ふたりは更に先を行く。
 先の行動を思案しつつ、車中で休憩を取っていると、航空基地に向かう途中で車が故障し立ち往生してしまった軍医・クロイツナー(ウリ・ラン・クロイツナー)に助けを求められた。空軍による最前線の負傷兵救助活動に参加するという軍医とともに空軍基地を訪れると、ふたりはそのまま救急部隊に加わる。中尉であったルソを責任者とする救助班は早速最前線に向かうが、そこには既に多くの同胞たちの無惨な亡骸が転がるばかりであった――

[感想]
 劇場で販売されているプログラムには、イスラエルの鬼才として近年映画関係者を中心に知られ始めた監督・アモス・ギタイについて微に入り細を穿つように詳らかな経歴を記しているが、全部引用するのもアレなので、ここでざっと説明しておくと。
 アモス・ギタイはユダヤ人国家イスラエルの建国から2年後の1950年に生まれている。建築家である父に憧れ同じ道を志したが、学生時代に貰った8ミリカメラと、ヨム・キプール戦争において九死に一生を得た体験から、個人の表現手段として映画を選択した。テレビ番組のルポルタージュフイルムを多数制作したが、その現実の本質と矛盾とを突いた作風が議論を呼び、ある作品が放送禁止となるに至ってギタイはフランスに亡命する。亡命以降に劇映画の制作にも着手、90年代に社会情勢の変化に合わせて帰国の道を選ぶが、その後もイスラエルという国家の抱える矛盾と懊悩を才気溢れるタッチで描き、高い評価を受けている――そうな。
 本編は、ギタイがヨム・キプール戦争での忘れがたい体験を、劇映画というフィクションの手法で描いたものだという。ゆえに、主人公――というかカメラの視座に最も近い人物・ワインローブの名前がギタイの実父のセカンドネームから取られている。だが、本編が戦争映画として極めて奇抜な印象を与えるのは、そうした実体験に基づくドキュメンタリー的側面を備えていること以上に、あくまで個人の、決して戦争全体を見渡すことの出来ない視点から戦争を見つめていることに起因しているのだろう。
 冒頭、贖罪の日を迎えて全ての店や家屋が戸を閉ざした街をワインローブが歩いていく姿を、やや離れた視点から僅か3カットで延々と写し続けた場面が本編を象徴している。ひとつの場面ではひとつのカメラが登場人物たちを淡々と捉え、一度として複数の視点を用いることがないのだ。必然的に1カット1カットが長尺となり、言葉の間までリアルに再現した手法のために、どうしても間延びした印象を与えがちだが、ナレーションもテロップも用いず、状況を説明する台詞も最小限に絞った表現が、これまでに見たどんな戦争映画よりも臨場感を齎す。劇映画ならではの自由自在な視点を敢えて封印することで、フィクションをフィクションとして感じさせなくしているのだ。
 どうしても「間延びした」という言葉を出したくなる映像表現に加え、本編のシナリオには大きな紆余曲折がなく、格別な物語もないために、正直見ていると疲れや倦みを覚える。だが、戦場に無造作に転がる屍体、腕を失い呻く負傷兵の姿、沼に足を取られ搬送作業のままならない救助班、そして何より、ヘリコプターの窓外に見える、戦車の湿地を埋め尽くすような轍、そうした間接的な光景が戦争というものの現実を生々しく伝えており、詰まるところこの容赦のない表現こそが本編の真価なのだ。
 白状すれば、見ながら幾たびも欠伸を漏らしたし足も組み替えた。だが、一時の退屈を堪えてでも見る価値が充分にある作品だった――とは言え、流石に誰彼構わず薦める気にはならないし、観客の数が少ないのも今週いっぱいで終わってしまうのも(1月18日まで)仕方ないかなぁ、とは思うのだが。いずれにしても、機会があればご鑑賞下さい、と耳許に囁くぐらいはしておこう。だいたい、主人公らが一度として攻撃に携わらない戦争映画など、他に存在しただろうか――?

(2002/01/12・2004/06/19追記)


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