cinema / 『寵愛』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


寵愛 La Belle
原作・監督:ヨ・ギュンドン / 脚色:イ・サンウ、ヨ・ギュンドン / 音楽:ノ・ヨンシム / 振付:アン・ウンミ / 出演:イ・ジヒョン、オ・ジホ / 配給:GAGA、日本コロムビア
2000年韓国作品 / 上映時間:1時間33分 / 字幕:竹林圭子(だったと思う……)
2002年03月26日日本公開
2003年09月25日DVD日本版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.gaga.ne.jp/la_belle/
劇場にて初見(2002/04/02)

[粗筋]
 男(オ・ジホ)にとって、それは待つだけの愛だった。女(イ・ジヒョン)は気紛れのように男のアパートに現れ、白に彩られた部屋で睦みながら、携帯電話が鳴ると跳ねるようにベッドを飛び出し、男を置いて部屋を出ていく。女のいない時間を、男はノートに思いを綴ることで潰していた……
 小説家である男が、ヌードモデルで生計を立てる女にインタビューしたことが、ふたりの出逢いだった。その時から、女の目はずっと男を見ているようで見ていない。インタビューの途中で女は電話の呼び出し音に立ち上がり、相手と話しながら彼のことなど意に介さぬ風に遠離っていく。――逢瀬を重ねるようになって随分経ってから、同じ図書館で男は、ぞんざいに扱われながらも別の男に媚を売る女の姿を目の当たりにした。
 女との交渉は男に苦痛を齎す。それでも、傷付き舞い戻る彼女の肢体に男の体は反応してしまう。どこまでも交わらない、平行線のような交歓の果てに、何が待つのだろうか……?

[感想]
 全体で評価を高めつつある韓国映画を代表する潮流のひとつに、性愛を真っ向から描いたものがある。その中でも、現代舞踏家による振付を施したセックス描写の美しさ、そして白を基調とした画面の芸術性が注目され、高く評価されたのが本編。
 結局見方によるのだが、性愛・官能描写といって思い浮かぶ、粘着質の嫌らしさ、扇情的な喘ぎ声などを極力廃し、まさに舞踏を思わせる優雅な愛撫を見せることで、官能表現としてのインパクトを留めながら芸術に昇華させた試みだけでも一見に値するだろう。何より、恐らく吟味に吟味を重ねた結果であろうが、実際に画面の中で交わる男女ふたりの肢体の美しいこと。性別に関わらず、どちらの体にもまず最低一瞬は見惚れるはずだ。
 反面、物語としては不可解な印象を齎す。女に別の男がいる事実が明白でありながらふたりが交渉を持ったわけを示していない、その後も彼女の真意が明確にならない、そしてクライマックスにかけての小説家の行動と周囲の状況が非現実的である、などなど。主人公である小説家の退嬰的な態度と相反するような執念が理解できない、或いは性に合わないと更に受け入れがたくなる筋書きではないかと思う。
 ――が、こうした違和感や不快感は、作品全体を小説家の妄想――或いは、彼の心象を物語、それもファンタジーの体裁で綴り直したものと捉えれば解消する。だから、彼は女を通じてしか現実と接する場面がない。女と一緒に夜道を歩く場面では、ふたり一緒にカフェ(ケーキ屋?)のウインドウの前に立ち、女だけが中に入っていくが、男の店員が女に見せる態度は、相手をカップルの片割れとは、それ以前に男性を連れてきたものとは捉えていない。後半の重要な場面でも、確かにある人物に触れてはいるし、振り返られてはいるのだがそれだけだ――行動の激しさに対し、周囲の反応は無に近い。原稿の催促らしい留守電が入るが、それにしても主人公は応えていないのだ。
 男の小説家、女のヌードモデルという職業やその触れ合い方までは真実としても、他の部分には男の心象が強く反映されていると見るべきだろう。男が、自分の哀しい体験(記憶)を用いて「愛」を長々と喩えた作品――そういう解釈が、私にはいちばんしっくりときた。成否はそれぞれに判断していただきたいが――あまりに映像的で、あっさりとした世界観、そして美しいとは言え随所に挿入された性描写ゆえに、結局万人に推すことは難しいのだけれど。

(2002/04/02・2004/06/21追記)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る