cinema / 『耳に残るは君の歌声』

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耳に残るは君の歌声
原題:The Man Who Cried / 監督・脚本・音楽プロデュース:サリー・ポッター / オリジナル音楽:オリヴァルト・ゴリジョフ / 出演:クリスティーナ・リッチ、ジョニー・デップ、ケイト・ブランシェット、ジョン・タトゥーロ / 提供:Asmik Ace Entertainment、フジテレビ、角川書店  / 配給:Asmik Ace
2000年イギリス=フランス合作 / 上映時間:1時間37分 / 字幕:戸田奈津子
2001年12月15日公開
2002年08月23日DVD日本版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.asmik-ace.com/Utagoe/

[粗筋]
 1927年、ロシア。たったひとりの父(オレグ・ヤンコフスキー)から愛を籠めてフィゲレと呼ばれていた少女(クローディア・ランダー=デューク)。少女は父の美しい歌に包まれるように育っていた。だが、折しも高まるユダヤ人迫害の手から家族を守るため――生活の糧を得るために、父は新天地・アメリカへと渡る。しかし、間もなく彼らの暮らす町は破壊され、少女は移動する若者たちに匿われて港に向かった。脱出の船を求めて人が大挙する中、少女は人並みに押し出されて、知らぬ間にイギリスに辿り着いていた――スーザンという新しい名前と、養父養母を宛われて。
 感受性に富みながら英語を知らずひとりでいることの多い少女は、同級の子供達からジプシーと揶揄されいじめの対象となった。あるとき、塀の外を往く馬車に記憶を呼び覚まされて口ずさんだ歌を学校の音楽教師が耳にして、彼女に歌と言葉とを教え込んだ。イギリスで生きていくためには、言葉を身に着けねばならない、と。優れた完成と天賦の歌声を持つ少女は、その歌で同級生たちを涙させた。
 やがて成長したスーザン(クリスティーナ・リッチ)は養父母に別れを告げ、父と巡り逢うための旅に出る。彼女はまずパリに渡り、コーラスガールの一団に交わり旅費を貯めることにした。そこでスーザンは、自分と同じくロシアで生まれ育ったローラ(ケイト・ブランシェット)と出逢う。お喋りで強引なローラはスーザンのことを気に懸けて、生活費の助けとするために同居を申し出た。年代も性格も容姿もまるで違う2人だったが、いつしか唯一無二の親友となっていく。
 ある夜、エキストラとして参加したパーティの席で、ローラはオペラ歌手のダンテ(ジョン・タトゥーロ)と、スーザンはジプシーの青年チェーザー(ジョニー・デップ)と出逢う。やがて訪れる時代のうねりと、微かなすれ違いが、次なる別れを用意し始めていた――

[感想]
 ――『マレーナ』以来の、評価の仕様に苦しむ映画である。
 いい作品であることは間違いない。毅然とした物語展開、信念のある映像と彩りを添える美しい音楽。それらが嫌味なく綺麗に結びついて見事な作品を織り上げている。だが、隙がなくて作品作りから論じる言葉がない。強いて言うなら忌憚がなくて物足りない、というくらいだがそれは望みすぎという気もする。優れた作品だがその破綻の乏しさといい意味での平坦ぶりに却って苛立つ向きもあるだろう。
 と言いつつ、同時に世界史の知識と理解力とを必要とする描写も多く、実は何も考えていないと事実関係が把握できない厄介な作品でもある。冒頭の場面で父子が交わす言葉は所謂ロシア語ではなく、ロシア在住のユダヤ人が話したというイディッシュ。父が旅立った直後、いきなり暴徒に襲われるのは既にユダヤ人の迫害が始まっていたからだが、それを承知していないと理由が解りづらい。物語の佳境に差し掛かる1939年にはドイツのナチおよびイタリアにおけるムッソリーニの台頭が始まり、フランスとは敵対しつつあった。だがまだ直接の交戦状態に至っていないから、イタリア出身のダンテに対して記者がムッソリーニの印象を訊ね、ダンテが讃えるという場面も展開するわけだ。この時点でパリの人々はファシズムの波が自分達の街にまで及ぶと想像していた人は少なく、スーザンが同郷人と気付いアパートの大家は、彼女に向かってパリは安心だ、という意味合いの言葉を漏らす。それらは全て、歴史の流れを知っている者にとっては悲劇の予兆と映るものだ。間もなくファシズムの侵攻が始まり、ある者は逮捕されある者は街を離れ、ある者はナチに擦り寄る道を選ぶ――心理描写と共に歴史の経緯を多少なりとも把握していれば理解できる流れだが、漫然と知っているだけでは筋書きを見失ってしまうだろう。第二次大戦における各国の立地点を、知らない或いは忘れている方はお浚いした上で観るべきだろう。そうして初めて、純粋にこのドラマを感じることが出来るはず。

 これは私自身、鑑賞したあとには気付かず、プログラムを流し読みして初めて納得したことだが、本編は戦争という悲劇に翻弄された人々の私的なドラマである以上に、言葉を巡る物語という側面が濃い。言われてみればそうなのだ。かつて郷の言葉で「フィゲレ=小鳥」と呼ばれた少女は運命によって名前と言葉を奪われ、イギリスの娘として育つ。やがてはフランスに渡り、イギリスを母国語としフランス語を仕事の言葉として用いるようになり、ユダヤ人という本当の来歴に驚かれるようにさえなった。最後に少女は父の元に辿り着き――そこで漸く、生まれ故郷の言葉を思い出す。そこに至るまでの遍歴がこの物語なのだ。
 やはり、多少の知識は必要だと思う。この推移に素直に震えるためには。――言い換えると、いい作品ながらそこで微妙にハードルが高い。

(2001/12/24・2004/06/18追記)


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