cinema / 『ムーランルージュ!』

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ムーランルージュ!
監督:バズ・ラーマン / 製作:マーティン・ブラウン、バズ・ラーマン、フレッド・バロン / 脚本:バズ・ラーマン、クレイグ・ピアース / プロダクション・デザイン:キャサリン・マーティン / 衣裳デザイン:キャサリン・マーティン、アンガス・ストラティー / 振付:ジョン・オコネル / 音楽:クレイグ・アームストロング / 音楽監督:マリウス・デ・プリーズ / 出演:ニコール・キッドマン、ユアン・マクレガー、ジョン・レグイザモ、ジム・ブロードベント、リチャード・ロクスボロウ / 配給:20世紀フォックス
2001年作品 / 上映時間:2時間8分 / 字幕:戸田奈津子
2001年11月17日公開
2002年05月02日DVD日本版発売 [amazon]
2003年12月17日DVD最新版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/moulinrouge/

[粗筋]
 1900年のパリ。その若者――クリスチャン(ユアン・マクレガー)がタイプライターに向かい綴り始めたのは、ある愛の物語であった。
 一年前、放浪の果てに彼はパリに辿り着いた。折しもボヘミアン革命の盛りであり、街には貧しいが才能に溢れた若者たちが集い、雑多で俗悪だが異様な熱気に満ちていた。下宿に収まり、早速物語を綴ろうとしたクリスチャンの眼前に――アルゼンチンの男(ジャセック・コマン)が降ってきた。このアルゼンチン人はトゥールーズ・ロートレック(ジョン・グレイザモ)の手引きによって芝居の公演を画策しているところで、作家志望であったクリスチャンは彼らの意欲に引きずられるように脚本執筆を請け負う。
 トゥールーズたちの舞台は、売春婦たちが舞い踊り、貴族・ボヘミアン・平民層と階級入り乱れるクラブ・ムーランルージュ。トゥールーズたちはクリスチャンを脚本作家として受け入れられるよう、主演女優となるクラブ屈指の高級娼婦=サティーン(ニコール・キッドマン)との顔合わせを目論んだ。だが同じ日、クラブにはウースター公爵(リチャード・ロクスボロウ)が招かれていた。実の処ムーランルージュの経営状況は思わしくなく、オーナーのジドラー(ジム・ブロードベント)はサティーンとの仲を取り持つことで公爵に出資させようと考えていたのだ。サティーンもまた高級娼婦で終わるつもりはなく、ショーを成功させ女優へのステップアップを夢見ている。
 だがしかし、どんな運命の悪戯か、サティーンはたまたま公爵の隣のボックスから様子を見ていたクリスチャンを公爵と思い込み、彼を自室に誘った。舞い上がりながらも思いの丈を籠めて詩を読む彼の情熱的な様に、サティーンは生まれて初めての恋心を抱く。それはまた、ショーでの目も眩むほどに美しい彼女の姿を見つめたクリスチャンも同様であった。誤解に気付いたあとも、一旦燃えさかってしまった思いは消しようがない。
 思いがけないトラブルを挟みつつも公爵を籠絡し財布の紐を緩めさせたはいいが、クリスチャンとの逢瀬のために公爵の誘いを無視しつづけるサティーンの態度は、いつしか公爵の怒りを買うことになるのだった……

[感想]
 どうしてこんなにテンション高いんだろう、と思うほど冒頭からぶっち切れた演出っぷりである。
 監督が認めているように、本編は映画という枠に嵌めたミュージカルである。枠に嵌めた、と表現したが、基本的に空間の限られた舞台でのそれと異なり、銀幕ではカメラワークと音響、それに無尽蔵のエキストラと大道具とを投入でき、更に編集段階でCGなどの手心を加えることが出来る。生の迫力が付与できないという不自由を補って余りある長所を存分に駆使し、映画という手法でしか実現し得ないミュージカルとして仕立て上げたのが本編。
 主人公ふたりが否応ない悲劇に見舞われる後半は兎も角として、前半の狂奔ぶりが筆舌に耐え難いくらい凄まじい。悲壮な表情をしたクリスチャン青年=ユアン・マクレガーがタイプライターを前に語り始めたと思ったらいきなり天井が抜けて人が落ちてくる、即座に落ちてきた男を含む一座の稽古場に紛れ込むと彼らの議論に加わって朗々と歌い始める、そして場面が転じるとジドラー=ジム・ブロードベントによる大迫力のオペラ風ラップに乗って大勢の踊り子たちが所狭しと足を振り上げカンカンを舞う。この怒濤のような展開に観客が幻惑されたところで俄に静けさが満ち、ブランコに腰を載せたサティーンが優雅に舞い降りてくる――クリスチャンならずとも恍惚となりそうな場面展開である。
 以後、ラストのショーに至るまでことあるごとに歌声を響かせ、細部でどー考えても非常識なお遊びを鏤めつつ問答無用で観客を引っ張り続ける。はっきり言って醒めたらそこまでだが、いっそ最後まで幻惑されたままでいるのが正しい鑑賞法だろう。歌いながら雲を渡り歩こうがいきなり屋根の上で人が歌っていようが何の打ち合わせもなく突然ハモろうがそしてお月様に顔があっても気にしてはいけない。そもそも19世紀末にクイーンやエルトン・ジョンやポリスの歌が存在していること自体が間違いなのだ(っていうかそこまで突っ込んだらパリジャンが英語で話していること自体変でしょ?)。そういう世界なのだと割り切ってしまえば、これ以上に愉しい映画というのも滅多にない。
 筋書き自体は有り体の悲喜劇に添っており予定調和に過ぎないが、その予定調和まで含めて通底した美学を感じさせる。兎に角スクリーンの前に陣取り、この喧噪に酔いしれなさい。理屈など不要なのです。

(2002/01/05・2004/06/19追記)


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