/ 『ピアニスト』
『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻るピアニスト
原題:“la pianiste” / 監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ / 原作:エルフリーデ・イェリネク / 音楽監修:マルティン・アッシェンバッハ / 出演:イザベル・ユベール、ブノワ・マジメル、アニー・ジラルド / 配給:日本ヘラルド
2001年フランス=オーストリア合作 / 上映時間:2時間12分 / 字幕:忘れた(……)
2002年02月02日公開
2002年10月11日DVD日本版発売 [amazon]
2003年12月05日DVD最新版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.herald.co.jp/movies/pianist/
劇場にて初見(2002/03/23)[粗筋]
エリカ・コユット(イザベル・ユベール)にはピアノしかなかった。幼少の頃から母(アニー・ジラルド)にピアノの英才教育を施され、現在はウィーン国立音楽院の教授となり多くの生徒を持つに至っている。強く毅然とし、理知に富んだ女性を装っているが、同時に家では未だ母とベッドを並べて眠り、恋をしたこともない。誰にも口に出せない歪みを孕んだまま、そのまま大きくなったような女だった。母との間に微妙な緊張状態は、或いはそのまま一生続いたのかもしれない――何事もなかったのなら。
内輪で開かれた演奏会で、エリカはワルター・クレメール(ブノワ・マジメル)という青年と出会う。低電圧の研究者という肩書を持ちながらコンサートで巧みなソロを披露した青年は、最初からどういうわけかエリカに執心し、機会があるごとに彼女と接点を持とうとした。やがて彼はエリカを追うようにウィーン音楽院に進み、彼女の個人教授の生徒となった。試験の段階からまるで彼女を挑発するような演奏をし、選曲に至るまで刃向かうようなワルターの態度にエリカは不審を覚えるが、そんな彼女にワルターは愛を告白する。
エリカは動揺した。そんな折、生徒のひとりが学内で行われるコンサートに、歌曲の伴奏として参加することとなった。極度の上がり症でことある毎に泣き、リハーサル当日にも激しい緊張から下痢を起こすほどの彼女に、ワルターは軽い言葉をかけて励まし演奏する彼女の横に座って緊張を解かせていた。その姿に何故か不快感を覚えたエリカは、控え室にあるコップを割って、生徒のコートのポケットに破片を忍ばせた。リハーサル終了後、目論見通りに手を傷つけた生徒の姿を見て「血は嫌いなの」とエリカはその場を駆け去る。彼女が犯人だと察したらしいワルターだったが、エリカを追ってトイレにやって来た彼は、それでもエリカを求めた。初めて唇を重ねるふたりだったが、そこから先、エリカの要求はワルターの予測とは異なるものだった。戸惑いながらも受け入れるワルターに対し、エリカは遂に、自らの秘密を告白する……[感想]
容赦がない。ただその一言に尽きる。
極論すれば、ある女性の屈折のみを描いた作品である。彼らの愛情が真実であったか、ただの遊び(戯れ、と言った方がより正確かもしれない)に過ぎなかったのか、それは全体からすると決して大きな問題ではない。ひたすらに自らを律し、名門音学校の教授にまで上り詰めた一方で、常に噴出する先を求め続ける抑圧された欲望――寧ろ、生理的欲求と捉えるべきだろうか?――に翻弄される女。そこに、ある意味世間知らずで、ある意味彼女よりも世の中を知った普通の青年の恋愛感情を持ち込むことで、彼女の孕んだ「歪み」を冷徹に描ききった。
それだけに、およそこういう映画に対して一般の観客が期待するような感動もカタルシスも、結末には存在しない。――いや、非常に冷静な眼差しで物語を追えば、ある意味でのカタルシスは得られるだろう。凡そ容赦というものを差し挟まないストーリーと演出とは、予測困難であるが同時に不可避な決着をつけており、そのいっそ機械的とも喩えたくなる華麗な着地に快哉を挙げる向きもあるはずだ(かくいう私自身、静かに感心しきりだった)。が、それが果たしてごく普通の観客に受け入れられるかどうかは別だろう。
的確すぎる描写は、否応なしに嫌悪感を呼び覚ます。プログラムでの有識者の文章には、居たたまれない、居心地が悪いという表現が見える。女性の心理・生理を潤色無しに画面に定着させ、生のままで曝け出す態度は、映像表現として革新を感じさせるがそれだけに易々と受け入れがたい、という人が大半だろう。だが、その容赦のなさゆえに、一度観たら最後忘れがたい余韻を躰のうちに刻みつける。
その余韻を確かめ物語を顧みるごとに、何らかの発見があるかもしれない。そうした予感と、BGMを排除し淡々と流れてゆくスタッフロールまで含めて、居心地の悪さを覚悟した上でも一見の価値ある名作である。好き嫌いは別の話、ただの娯楽を求めるなら敢えてお薦めはしない、が。
女性の視点から女性の生理を徹底的に描写した本編、当然のようにカンヌ映画祭では主演のイザベル・ユベールが賞に輝いているが、私としては「普通の青年」を見事に演じたブノワ・マジメルにも拍手を送りたい。エリカの心理展開が必然的であるのと同様に、彼の反応もまた、途中から逸脱の嫌いはあるもののごく自然なのである。男性が見終わったあと、嫌悪感を堪えて反芻したなら、その実彼の行動は決して突飛なものではない、と思い至るはずだ。
もうひとつ付け加えておこう。エリカの性質に「屈折」「歪み」という形容を用いたが、私自身は必ずしも彼女が間違っているとか狂っているとかいう感想を抱かない。彼女の成長過程を鑑みれば当然の成り行きで、問題があるとすればその結果を予測せず自覚しなかった彼女自身と周辺の人々だろうがこの際その辺は不問としよう。彼女の性向が「歪み」として認識されるのは、実はワルターという世間的には標準の感性を備えた青年と抱き合わせた瞬間からである。この組み合わせが成立したからこそ摘出された「歪み」であり、「歪み」自体は理に適っていることは言い添えておきたい。この物語を不幸と考える場合、その原因は「歪み」そのものではなく、様々な無知に起因していると言えるだろう――(2002/03/23・2004/06/21追記)