cinema / 『たそがれ清兵衛』

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たそがれ清兵衛
原作:藤沢周平「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」 / 監督:山田洋次 / 脚本:山田洋次、朝間義隆 / 撮影:長沼六男 / 美術:出川三男 / 音楽:冨田 勲 / 編集:石井 巌 / 主題歌:井上陽水「決められたリズム」(FLME) / 出演:真田広之、宮沢りえ、小林稔侍、大杉 漣、吹越 満、丹波哲郎、岸 恵子、田中 泯 / 配給:松竹
2002年日本作品 / 上映時間:2時間9分
2002年11月02日公開
2003年05月24日DVD日本発売 [amazon]
公式サイト : http://www.tasogareseibei.jp/
劇場にて初見(2002/11/16)

[粗筋]
 幕末、庄内一帯を治める海坂藩に、井口清兵衛(真田広之)という藩士がいた。蔵の出納を管理する五十石取りの安侍で、病身の妻と耄碌しきった母に幼い娘2人を抱えている。妻の医療費であちこちに借金をこさえ、虫籠作りの内職に励んでいるがとても追いつかず、ギリギリのところで生計を立てている。内職と家族の世話のために、下城の太鼓を聞くとともに家路を急ぐ彼のことを、口さがない同僚は「たそがれ清兵衛」と呼んだ。
 元治二年(1865年)冬、薬石験無く清兵衛の妻は永眠した。首の回らない現状でも伯父の藤左右衛門(丹波哲郎)ら親類縁者の突き上げもあり、盛大な葬儀を催さねばならなかった清兵衛はとうとう武士の命たる刀を売ってしまった。それから間もないある日、直々に蔵の視察に訪れた藩主に清兵衛は身なりのみすぼらしさを窘められる。日頃家族の世話と内職に精一杯で自分の身なりに構っていられない清兵衛の着物は綻び裂け目が生じ、剃ることも出来ない月代は髭のように黒々と伸びてしまっていたのだ。
 寛容な藩主は静かに注意しただけに過ぎなかったが、瞬く間に広まった噂は当然の如く親類の不興を買い、藤左右衛門が叱責するとともに後添えの世話を口にする。女は健康で子が沢山産めればよい、という藤左右衛門に清兵衛は異を唱え、決して不幸だとは思っていない自分の本心を解ってくれる人でなければ、と拒む。激した藤左右衛門は金輪際清兵衛一家の面倒は見ない、と捨て科白を残して辞去するのだった。
 そんな折、京に上っていた清兵衛の幼馴染み飯沼倫之丞(吹越 満)が戻り、奉職中の清兵衛の元を訪れ、悔やみの言葉とともに京の現状を語る。遠からず現実のものとなる転換期を前に、飯沼は奔走しているのだった。また同時に飯沼は、甲田豐太郎(大杉 漣)のもとに嫁いでいた妹の朋江(宮沢りえ)が離縁、飯沼の家に身を寄せていることも口にする。酒癖の悪い甲田は酔うたびに殴る蹴るの乱暴を働き、見るに見かねた飯沼が上申して連れ戻した、ということだった。
 家に戻った清兵衛を待っていたのは、当の朋江本人であった。見違えるほど美しくなり、娘達とすぐに打ち解け甲斐甲斐しく面倒を見る彼女の存在は、井口家に光を灯すようだった。日が落ちるまで長居した朋江を飯沼家まで送った清兵衛は、思わぬ騒動に巻きこまれる。飯沼に離縁された甲田が闖入し、酔いに任せて狼藉を働いていたのだ。間に入った清兵衛は、なりゆきから後日甲田と果たし合いをする羽目になってしまう。
 いちおう太刀と小太刀は佩いたものの、果たし合いの場に現れた清兵衛が手にしていたのは木っ端だった。激した甲田は真剣で立ち会いに臨むが、清兵衛は巧みな棒捌きで一蹴してしまう。この風采の上がらぬ男がかつて戸田流の師範代まで勤め上げた武芸の達人であることを、それまで知るものは少なかった。だが、この一件がやがて清兵衛を「上意討ち」の舞台へと引きずり出す契機となろうとは、誰も知る由がなかった――

[感想]
 邦画有数の巨匠・山田洋次監督にとって初の時代劇であり、時代小説の名匠・藤沢周平にとって初の映画化でもあるという、それだけでも存在意義が大きい作品である。
 初の時代劇に注いだ監督の意欲は尋常でなかったそうで、それは異様に細やかな時代考証からも容易に察せられる。飢饉や食糧難の多かった時代で、川にはしばしば死体が流れており、生活に汲々として身なりに配慮が行き届かない清兵衛の月代は薄く毛が生えそろっている。士農工商の時代であるから、武士が通りかかれば商人は頭を垂れて道を譲る。上下関係の捉え方や農村の情景に至るまで、よく研究しているのが感じられて快い。
 そしてもうひとつ特筆すべきは、殺陣の迫力。2時間以上になる尺の中で戦闘場面はたったの2箇所だが、その印象は強烈である。それも、清兵衛という当時変わり種であった男の個性を活かすために、最初の戦いでは棒切れを握らせ、クライマックスでは小太刀のみというハンデ(但し後者には戦術上の必然と止むに止まれぬ事情も込みだが、それは本編でご確認いただきたい)を負わせ、通常の殺陣とは異なる緊迫感を演出している。最初の格闘場面ではあまりカメラを接近させず、遠景で周辺にいる関係者の動向をも同時に見せているのも効果的だ。
 ところで、もう一つの山場であるクライマックスの殺陣で真田広之演じる清兵衛と刀を交えるのは余吾善右衛門、演じるは田中 泯。……誰だろう、と思ってプログラムを参照すると、どうも前衛舞踏家で、映画出演はこれが初めてのことという。初めてとはとても思えぬ、暗い迫力を感じさせる演技と、確かに舞踏を思わせる殺陣はそういうところに由来していたらしい。印象深い最後の振る舞いに至るまで、見応えたっぷりの一幕。
 だが何より圧巻なのは、決して幸福とは言えない境遇の清兵衛の、「人がいうほど私は自分を不幸だとは思っていない」という台詞に説得力を持たせた日常描写だろう。耄碌した母、という設定さえきちんと活かして魅せた細やかな人間の心模様は、淡々としたラストシーンを美しく彩っている。
 いい意味において古い日本映画の継承であり、松竹映画の本懐といえる傑作。いつもこういうものを観たいとは考えないが、ときどきこういう作品が観られるのが何より嬉しいことかも知れない。

 観ている間、どうもここ最近に似た印象の作品を観た気がする、と思っていたのだが、ラストシーン――全編に亘ってナレーションを手掛けていた岸 恵子が初めて、清兵衛の娘・以登の晩年の姿として登場し、人力車に乗って田舎道を去るカットを見て気がついた。
『ロード・トゥ・パーディション』。この作品と本編、非常に構造が似ている。
 細かな展開は異なるし、主人公たる人物の行く末も異なる(ある点では一緒だったが)。だが、根っこが家族、引いては父の物語であり、子供というフィルターを通して父という立場からの社会への接し方、家族の愛し方を描いた作品であることは共通しており、その上で必要とした物語の運び方が実によく似ているのだ。そういう前提の元で構成要素をひとつひとつ拾って対比させてみると、ある部分は一致し、ある部分は正反対に描かれていて、お国柄やそれぞれの監督の個性が窺われて興味深い。
 もう一点、ともにそれぞれの国民がノスタルジーを感じるが、しかし手の届く範囲にある過去を舞台にしていることも共通している。どちらも三代四代ほど遡れば辿り着け、映画という表現手法に最も嵌る時代である。

(2002/11/18・2003/05/23追記)


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