進化論と創造論をめぐって                                                                             2005/08/30

 大学キリスト者の会ネット討論から(2005.6.8.2005.6.13.

今回お送りするのは、大学キリスト者の会メーリングリストで行われたネット討論の内容です。新聞記事や相手のメールなどから引用された部分は斜字体にしてあります。大学キリスト者の会メーリングリストは、20名ほどの会員で情報を交換しておりますが、参加をご希望のかたは、oyanagi@is.s.u-tokyo.ac.jpまでご連絡下さい。

 

2005年6月8日 1:00

朝日新聞
6月7日夕刊米で新たな進化論争 「神」ではなく「知的計画」?
2005
06071708
「生命の誕生や進化の背景には知的な計画があった」という「Intelligent Design(知的計画=ID)」説を学校で教えようという主張が、米国で頭をもたげている。米国では、旧約聖書の創世記に基づき、天地と人類は神がつくったとするキリスト教右派が勢力を保つ。そうした宗教右派の「進化論を学校で教えるな」という主張とは表向き一線を画しているのがID推進派の特徴だ。
 米東部ペンシルベニア州ドーバーで5月17日、日本の教育委員会にあたる学校区の公選委員の予備選挙があり、争点はIDの扱いをどうするかになった。なぜ生命は誕生したのか、生物がいかにしていまの形を得たかは、進化論だけでは説明しきれず、そこに知的な計画が働いているというのがIDの主張だ。「神がつくった」とは言わない。
 米国では州や学校区に教育内容を決める権限がゆだねられ、委員の構成で教育内容が左右される。ドーバーの学校区は昨年、高校の科学でIDに触れられるようになった。今のところ全米唯一とされる。予備選では7人の委員の枠に18人が名乗りを上げた。ID推進派7人と、反対派7人が残り、11月の本選挙に決着は持ち越された。
 カンザス州教育委員会でも5月、科学教育のカリキュラム見直し提案が議論された。IDを科学の授業で教えるべきだと主張する同州に全米本部を置く非営利組織「IDネットワーク」が提案した。同州では99年に進化論がカリキュラムから外れ、委員の構成が変わった01年に復活するなど、進化論教育は政治的綱引きの標的となってきた。
 IDネットのジョン・カルバート共同代表は「進化は事実だとしても、推し進める何らかの仕組みがあるはず。それがIDだ。特に地球誕生や生命誕生は、進化論では説明できず、現在の自然界を見ても、知的な計画の存在を多くの科学者が認めている」と言う。進化論を教えるな、とは主張しない。
 これに対し、進化論教育の維持を訴える非営利組織「全米科学教育センター」のユージニー・スコット代表は「憲法の政教分離原則によって公立学校で天地創造説を教えられないため、宗教色を薄めたIDを持ち出しただけ。科学で説明できない『穴』があると、それを『神』で説明しようとする、天地創造説を唱える人たちの手段だ」と話す。
 CBSテレビが昨年11月に行った世論調査によると、米国人の55%は、神が人間をつくったと信じ、27%は進化の過程に神が関与したとし、全く神がかかわっていないとする人は13%にとどまった。
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Intelligent Design
は、進化の神学的解釈の一つとしてはともかく、科学にはなり得ないと思います。
どうして「進化」がIntelligent Design そのものであってはいけないのでしょう。突然変異と淘汰による進化は「神が関わっていない」「悪魔の業」なのでしょうか。
どうして、進化そのものが神の業ではないのでしょうか。
どうして進化の過程をへて人間が生まれたとすると、「神が人間をつくった」のではなくなるのでしょう。
ここには、「偶然」は神の業ではなく悪魔の業という文化的偏見があるように思われます。Peacockは偶然性に摂理を見ようとしているようですが。
まあ、現代社会の諸問題の根源を科学技術と、それが基づく水平的世界観に押しつけたい気持ちは分からないわけではないですが。
小柳義夫

 

2005年6月8日 9:59
小柳先生のInteligent Designは以前から提出されていましたが、合わせてアメリカの全米科学アカデミーのホーム・ページにある「宇宙の創生と進化論」の解説を読まれることをお勧めします。論争の歴史については、ナイルズ・エルドリッジ著「進化論裁判 モンキー・ビジネス」平河出版社 1996、鵜浦 裕著、「進化論を拒む人々 現代カリフォルニアの創造論運動」勁草書房 1998 がIDの論破がそう簡単でないことを教えています。ことに、後者の本がお勧めです。
実は、生物学者のS. J. グールドの最後の著「Rocks of Ages  Science and Religion in the Fullness of Life」を訳し出版準備中なのですが、すでにわが国に生まれている創造論を支えるクリスチャンは潜在的にかなり多いと思っています。そのような人を講師にしてこれを協議会のテーマにしてもと思います。どうでしょうか。
古谷 圭一

2005年6月9日 14:43
以前、古谷先生の学校の宗教主事になられた方の、この人は創造科学の支持者かと見紛う発言に触れて、少なからぬショックを受けたことがあります。しかしIDというのは、キリスト教形而上学的に言えば「初めのロゴス」のことでしょう。それは神話論的あるいは超越論的にのみ可能な言い表しで、直接科学とは関わりがないと言って済ませるよりは、IDの仮説に立つことの方がキリスト者としてよほど首尾一貫していると見ることも可能です。テイヤール・ド・シャルダンの例もあります。
問題は今の時代に「キリスト者」であることの自己理解に関わっているとも言えます。
私としては、アメリカの公教育における創造科学の教育が問題とされるのであれば、日本の公教育における皇国史観(例の扶桑社版の「つくる会」教科書)の教育も問題にされるべきだと思います。
そこには、自然史であろうと、社会史であろうと、「事実」にどのように向き合うかという問題があるでしょう。
自分もその一員である「進化した猿」の野蛮さを思い知らされて、ほとほと気が滅入っている身としては、特定の集団への帰属とそこでのアイデンティティーだけが問われるトーテム社会の思考法を脱した、皆さまの開かれた議論に期待しています。
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手島毅郎

2005年6月9日 16:13手島様、皆様
「自然史であろうと、社会史であろうと、「事実」にどのように向き合うかという問題があるでしょう」
これは実に含蓄のある言葉ですね、全く同感です。
私は『宗教と公共哲学』の冒頭にも書いたのですが、イスラーム教原理主義、キリスト教原理主義には敏感に反応するのに、日本の知識人や論壇が日本的原理主義にきわめて鈍感なのはなぜなのでしょうか。どこでも自分の足元は見えにくい、ということなのでしょうか。
稲垣久和 

2005年6月9日 21:29決してそれだけがIDではありません。宇宙創造や人類発生を時間的問題がまったく違っているのです。大抵の人はそこまで知らずにお二人のように受け入れます。それで話がこんがらかり、ID説が広がるのです。
古谷 圭一 

2005年6月9日 22:51古谷様、
「決してそれだけが」にはじまる古谷さんの文章、短すぎてよくわかりません。もちっと説明してください。
久米 あつみ

2005年6月10日 14:04久米先生から、私の文章で「決してそれだけではない」と言うだけでは説明不足とご指摘頂きました。
 ID
とは、単に科学的自然現象の背後には、単なる偶然ではない神の配慮が働いていると言うのではなく、進化論否定(神は人間を種として初めから造られた。また、遺伝学的にもそれは支持される。そして、最初の遺伝子からの進化は証拠としてこれまで認められていない。事実、化石でも進化の中間段階の化石は見つかっておらず、その点では現代の遺伝学は推測のみで成立している。IDを主張する人たちは旧約聖書的年代において人類は化石的にも突如として出現する証拠があるといいます。そうならば、現代遺伝生物学と並んでid生物学も平行して教えられるべき、そうでなければ、学説を偏見をもって弾圧する非学問的態度になると主張しています。
現代生物学の立場は、確かに遺伝子進化には地質学的にそのつながりを完全に説明できる祥子は発見されていないが、その他の証拠(放射能を用いた年代測定技術、遺伝子の化学構造の類似性の近遠度の測定とそれによる突然変異の起こる時間的尺度など)で矛盾なく説明できることでその保証が出来ているとするわけです。IDは、証拠を探す前に筋書きが聖書にあること(だって、創造の主が聖書を通して明らかにしているのですから)、聖書の言葉に合わせて理論をつくるのですから。
詳しくはこの前に(2005年6月8日 9:59)挙げた参考書をよびNSAの論文を読んでください。
古谷 圭一

2005年6月10日 17:03古谷先生の追加の説明でID説がかなり性質(たち)の悪い学説らしいということがわかりました。
また先生の「聖書原理主義」に対する反感(当惑?)のようなものも伝わってきました。
その点については私に何の異論もありません。
私が「元キリスト者」を名乗っているのは、キリスト教が象徴(ドグマ)を「実体化・差別化」する傾向と無関係ではありません。教会からも離れたままです。(私が最後に通っていた教会に、早稲田大学YMCAOBのHさんが先ごろご夫妻で転会して来られて、妻に「手島とはあの手島のことか」と質問されたそうです。世の中狭いですね。)
しかし私に残っている最後の宗教的な問いは「神の場」あるいは「聖霊」に関わるもので、それは理論というよりは実践の問題として、未だに重くのしかかっています。
キリスト者(church-goer)にとってだけではなく、followers of Jesusにとっても、ora et labora ということは、生活規範としてそのまま成り立つと思っています。
(私が考えていることは、トルストイ、賀川豊彦、あるいは古めかしい修道院の思想に通じているかもしれません。)
しかし言うは易く、行うは難し。私の至らなさから来るある種の苛立ちがメールにも反映していたのではないかと思います。失礼の段、お許し下さい。
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手島毅郎

2005年6月10日 22:33IDというのは、アインシュタインが量子力学の特に不確定性原理が大嫌いで、なんとか自己矛盾に陥らそうとしていろいろな論争を仕掛けた話に似ていますね。戦後でも不確定性原理は誤りだという書物も出版されたりしてますが。

このごろ紫陽花が咲き始めて、土壌の酸性・塩基性によって色が赤っぽくなったり青っぽくなったりして色とりどりで、朝の散歩の折楽しんでいます。ところであの花というのは実は花ではなくてがくだそうですだそうです。水芭蕉の花もがくが目立って綺麗です。しかし、紫陽花のがくを見に行こうとか水芭蕉のがくが綺麗だとは言いません。聖書のテキストも別に七日で天地創造が行われたことを述べているのではなく、天地を神が支配して居られると言うことに基づいて言い伝えをしているのだから、創造科学やIDに目くじらを立てることはないのではないでしょうか。
木 原  諄 二 

2005年6月10日 23:21> IDというのは、アインシュタインが量子力学の特に不確定性原理が大嫌い で、なんとか自己矛盾に陥らそうとしていろいろな論争を仕掛けた話に似ていますね。戦後でも不確定性原理は誤りだという書物も出版されたりしてますが。
Intelligent Design
量子力学の観測問題との類比はいくらなんでもやりすぎです。量子力学の観測問題は、Einstein-Podolsy-RosenParadoxにせよ、Bellの不等式にせよ、物理学の枠内の問題です。まあ、あえて言えば、偶然の理解が関係しているところは多少共通の要素がないわけではないですが、観測問題は神学ではありません。
小柳義夫

2005年6月11日 9:04宗教の話なら良いのですが、(いろいろな宗教があり、それぞれの信条がありますから)、義務教育のカリキュラムの問題となるところがポイントでしょう。日本の教科書問題もそこが共通しています。
古谷 圭一 

2005年6月11日 9:34合衆国は面白い国で、上からの政治と言う概念(精神)がありませんですよね。日本の場合、象徴天皇とはなっていますが、なかなか日本国民の統合を合衆国のように下から築き上げるという概念(精神)がありません。ですから、義務教育のカリキュラムの問題といっても、日本と合衆国とでは意味が違うのではないでしょうか。日本では国是になりますが、合衆国では地方レベルの話で、グラスルーツ一株一株の話で終わります。アジアの国々が首相の靖国参拝や教科書を問題にするように合衆国の創造科学やIDを日本が問題にするようなことではないと思いますが。
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40年も昔、教会に植物分類学の明学の教授が居られ、創造科学の立場で進化論は無神論に通じると言う信念を持って居られました。東大の農業生物を専攻していた学生が受洗志望し、長老会で試問をしたとき、この長老が「あなたは進化論をどう思うか」と質問したので、私は介入して、この質問が受洗許可を左右しないように議論を引っ張りました。ですから、創造科学を信奉することが信仰の証と言うようになっている人々の教会教育が問題でした。その後この人はルーテル神学大学の教授になられルーテル派の教会に転会していきました。やれやれでした。明学、ルーテル神学大学を通じて教養として創造科学・反進化論を講じて居られました。
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川喜多先生は、進化論批判を教会から強要されることを若い時代警戒して居られたと、箱根でステントの進歩の終焉の読書会をしたとき語って居られましたが。
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木 原  諄 二 

2005年6月11日 9:40残念ながら州レベルではもっと日本に近いのです。全米については1990年代に憲法修正第何条かで憲法違反とされてID教科書を認めた州条例が撤廃された事件がありました。それ以降ID派は諸学説を併記して教えるべきという戦術に出ていえ、それが今回の問題となっています。
古谷 圭一 

2005年6月11日 10:31州レベルやさらに小さな郡とか、自治の単位はコロニーですからその中の人間関係は日本のように上からの体制が生きているのでしょうか。日本が合衆国に加盟してその一つの州になればアジアの諸国とりわけ朝鮮半島の諸国や中国にとっては靖国や教科書は問題にならないでしょうね。小泉がそこまで読んでアメリカべったりで靖国と教科書に肩入れしているとは信じられませんが。これからさきは所謂陰謀史観になるのでやめますが。
小さな自治体で禁酒条例が今でも生きているところがあるのが合衆国ですから、そういう意味で合衆国全体の国是には成らないだろうと考えたのです。しかしIDや創造科学の信奉者達がネオコンのように政権を乗っ取って、憲法の修正を勝ち取ってIDなどを宇宙科学のグローバルスタンダードにしようとするのでしょうか。
木 原  諄 二 

2005年6月11日 13:07ネオコンと創造科学がグローバル・スタンダード! ビックリさせないでください。そこでそれを避けるために、古谷先生(いや古谷さん、今後自由な議論のために皆さんにさん付けで呼ばせて頂きます。失礼!)の言われる「諸学説を併記」は一歩前進ではないかと思われるのですがどうでしょう。
ただ、私は、彼らの議論をキチンとフォローしていないし州条例と合衆国全体の法との間の関係も今ひとつ分からないので、以下の観察が見当違いの発言になっていたらご容赦ください。
木原さんの逸話の中の「進化論は無神論に通じるというのが創造科学の方の信念である」という話はなかなか興味深いですね。結局、米国の創造科学の信奉者の論理は、恐ろしく単純化すると、「進化論無神論モラルの低下米国社会が滅びる民主主義の危機大統領には信仰篤い人がいいブッシュ氏の勝利」ということでしょうか? こうなると、大統領権限や政治の力でモラルの低下を阻止しよう、というメンタリテイになるのでしょう。 「政治の力を使う」、ここがどうも日本の歴史教科書問題と似ているところかもしれません。「新しい歴史教科書」やそのシンパの人たちのメンタリテイも、「近年の若者のモラルの低下戦後教育が悪い教育勅語にもいいところがあった愛国心を育む教育が必要日の丸・君が代も政治の力で強制」。ただ、科学の教科書は政治の力で強制はできないと思いますが、歴史の教科書はどうでしょうか。たとえ国内で強制できたとしても隣国が黙っていないでしょう。
 隣国諸国との間の「歴史認識」のズレは複雑な政治問題が絡んでいますが、いま問題にしている件の科学的認識との間には一脈通じるものがあるような気もします。たとえば、1910年の日韓併合条約の受け取り方についてです。「本条約は、日本から韓国の国家代表者に対して強制があったから無効である」と韓国が主張するのに対し、「日本が大韓帝国に対して武力を背景にした威圧を加えたとしても、国家代表者に強制した事実はないから有効」と日本は主張する。20世紀初頭の東アジアに国際法上の慣習がどの程度のレベルで双方に受け容れられていたのか、といったそれ自身が歴史問題になってしまう事柄がここにあります。自然の歴史認識にも似たようなところがあるのではないでしょうか。創造科学の人たちの科学の受け取り方が、現代に常識的に受け容れられている「実証主義的」科学認識ではなくて、半分、神学的認識を含んでいてそれを「科学」と呼んでいる現実があります(創造科学という言葉自体がそれを表わしています)。ただこれも彼らの信仰的信念の一部なので、理性的、科学的に議論しても解決しない可能性があるわけです。
そこで「諸学説を併記」は一つの解決になるのかな、と。どうでしょうか。
稲垣久和
 

2005年6月11日 18:36議論を正確にすると、「古谷先生(いや古谷さん、今後自由な議論のために皆さんにさん付けで呼ばせて頂きます。失礼!)の言われる「諸学説を併記」は」は創造科学やIDが合衆国政府に望んでいて何とか自分たちの主張する創造科学やIDを生徒の目に触れるようにしようとする企みだということを確認しましょう。
現在は憲法で認められないので、彼らの一歩前進として「諸学説の併記」を許されるように持っていきたいと望んでいる状況と考えると歓迎すべき事とは思えません。
木 原  諄 二 

2005年6月12日 16:47> 木原さんの逸話の中の「進化論は無神論に通じるというのが創造科学の方の信念である」という話はなかなか興味深いですね。結局、米国の創造科学の信奉者の論理は、恐ろしく単純化すると、「進化論無神論モラルの低下米国社会が滅びる民主主義の危機大統領には信仰篤い人がいいブッシュ氏の勝利」ということでしょうか? こうなると、大統領権限や政治の力でモラルの低下を阻止しよう、というメンタリテイになるのでしょう。 

この連鎖、それはほとんど「風が吹けば桶屋が儲かる」としか思えませんが、なんとなく説得力があるところがアメリカ的でしょう。宗教戦争をやっていないアメリカの特徴だという人もいますが、それほど簡単でもない。
二三日前の朝日新聞の記事です。
動物園で神による天地創造の展示承認 米オクラホマ州
2005
06091843
 AP通信によると、米オクラホマ州タルサのタルサ動物園が7日、理事会で動物園内に旧約聖書の創世記に基づく神による天地創造の展示物を掲げることを承認した。
 同通信によると、同園職員や宗教指導者らが税金で運営される科学的な施設に宗教が入り込むべきではないとして反対した。しかし、ビル・ラフォーチュン市長を含む賛成派は、すでにゾウ舎の前にゾウの姿をしたヒンドゥー教の神の像があり、ほかにもアメリカ原住民のことわざ「大地は母、空は父」が刻まれた地球儀があるなどと反論した。
 動物園にアイデアを持ち込んだタルサの住人は「公平さの問題。天地創造を含めないのは、差別だ」と語った。
 動物園の担当者が同通信に語ったところによると、ヒンドゥー教の神の像は、動物の姿が様々な文化にどのように反映されているかを示すもので、共和党のシンボルのゾウも展示されている。

こういう努力でモラルの低下が防げると思うところがアメリカ(南部)的? 「新しい歴史教科書」やそのシンパの人たちのメンタリテイも、「近年の若> 者のモラルの低下戦後教育が悪い教育勅語にもいいところがあった> 国心を育む教育が必要日の丸・君が代も政治の力で強制」。
日本の歴史認識の問題との関係も似ている点が無いことはないですが、記紀神話を歴史として教えようとまではは主張してないところが違います。
アメリカの創造論者は、まさに記紀神話を科学として教えようというようなことを企てているのです。諸学説の併記だとしても。
小柳義夫

2005年6月12日 18:34「アメリカの創造論者は、まさに記紀神話を科学として教えようというようなことを企てているのです。諸学説の併記だとしても。」 

的確なご指摘と存じます。数年前、農村伝道神学校の聴講生であったとき、旧約聖書の先生から「アブラハム・イサク・ヤコブの神」というのは、「アブラハム族の神」、「イサク族の神」、「ヤコブ族の神」として、それぞれ別個の「族長の神」であったものが、部族の統合によりひとつの神になった可能性を示唆され、なるほどと思ったことがあります。

 ユダヤ・キリスト教はそもそもの初めから一神教であったと頑なに信じる必要もないのではないでしょうか。

 だから問題は歴史的批判的な聖書研究を受け入れるかどうかということにもかかっているように思います。

 キリスト教会には歴史的批判的聖書研究の成果を受け入れたらキリスト教が原理的に成り立たなくなってしまうのではないかという恐れが存在していると思います。キリスト教原理主義は「歴史的事実」を暴かれることに対する反動であるとみなすことも可能です。

 私はそれでもなお教義学(原理論)を、救済論(解放論ー自由)、創造論(統合論ー誠実)、和解論(融和論ー友愛)、教会論(組織論ー平等)として展開することは可能だと考えています。(自由・平等・友愛はフランス革命のスローガンでした。)

 しかしそのときにはキリスト教はre-reformed(再改革)されているというのが私の持論です。

 (第二の宗教改革の必要性を唱えたのは、今までは田辺元、三木清のようなキリスト教の「局外者」でした。)

 手島毅郎

2005年6月12日 18:35現在、ガリレオの宗教裁判のところを読んでいます。(C,ラッセル他著、「宇宙の秩序ー科学革命とキリスト教 I」渡辺正雄監訳、すぐ書房  III ガリレオとカトリック教会)
ガリレオの弁明の中にIDに対する反論がそのまま出ています。面白いです。
すべての保守主義は、現在の堕落は伝統の美点を忘れたところから出たものと過去を美化します。進歩主義は新しい状況が古い生き方に合わなくなったためとして、伝統への固執を憎みます。ともにモラルに対するあせりが過激派を生むのだと思います。

古谷 圭一      

2005年6月12日 20:46日本の歴史認識の問題との関係も似ている点が無いことはないですが、記紀神話を歴史として教えようとまでは主張してないところが違います。

ナルホド、現在のところはそうですね。ただ、例の「靖国神社参拝に諸外国からとやかく言われる筋合いはない。これは日本の習慣だ」という主張。結構、納得させられてしまう人が多いようです。しかし「神社は宗教にあらず、日本人の習慣だ」という主張が、案外「記紀神話を歴史として教える」類のかつてのメンタリテエイに近かったのではと思うのです。やはり日本的原理主義じゃないか、と・・・・・・・。科学者として名が通っている人までがそんなこと言い出すと、まさにこれは越えがたい「バカの壁」か、と!
稲垣久和
 

212005年6月13日 8:15先に、イエスとは何か、という笠原氏編著の書物についてコメントを送りました。青木先生から「イエスとは私だ」と言った私人化した受容は、信仰を制度的に捉えることができない極めて日本的な現象だというご意見が参りました。それに対して、信仰を社会制度に引きつけて捉えるのは逆に言えば極めてゲルマン的ではないかという考えをいささか礼を失する表現で返事を致しましてしばらく気にしておりました。
しかし、創造科学やIDの問題が社会倫理的な「家庭を大切にしよう」というブッシュ大統領の呼びかけと関係しているとすると、社会道徳の構成モティーフとしての信仰の重要性について考えなければならない、つまり「イエスとは何か、イエスとは私だ」といった捉え方ではイエスは社会的道徳の構成力にならない、と言う意味で青木先生のコメント思い返しています。
話は飛びますが、IDのモティーフはなにかホワイトヘッドの自然哲学において措定されているアクチュァルエンテティを思わせます。
創造科学は道徳構成力を期待されるが、記紀神話には期待もされない。しかし、明治憲法、教育勅語、国家神道の三点セットは記紀神話によって神格化された天皇から発する国家権力の実力による道徳の構成が図られたわけで、明治へのおずおずとした復帰が企まれていると考えることもできます。記紀神話は昨年の夏、寛容についての発題の時引用した日本武尊の話のように単なるお話であって倫理に関するメッセージは「希薄であるか無い」と言えると思います。中学生の頃、なぜ基督教でなければならないかと考えたとき、日本文化に躓いたのは日本神話の文化ないし倫理形成力がないことだったように思います。
青木先生のコメントが制度でなく倫理に関して「イエスとは何か」のイエスの捉え方は問題だと言うことであれば失礼な表現の返事をせずに済んだのではないかと思います。
創造神話に対しての主イエスの興味深いコメントは「神は良い者の上にも悪い者の上にも日を昇らせ雨を降らせて下さる」だと思っています。
木 原  諄 二 

222005年6月13日 9:40木原様、皆様

>
先に、イエスとは何か、という笠原氏編著の書物についてコメントを送りました。青木先生から「イエスとは私だ」と言った私人化した受容は、信仰を制度的に捉えることができない極めて日本的な現象だというご意見が参りました。それに対して、信仰を社会制度に引きつけて捉えるのは逆に言えば極めてゲルマン的ではないかという考えをいささか礼を失する表現で返事を致しましてしばらく気にしておりました。
そのような議論があったことは記憶しています。細かい点は忘れましたが。この議論はとても重要な点を指摘していると思います。私が宗教の私的な面だけでなく、公共的な面にこだわるのはまさにこれと関係しています。しかもこれが科学と関わると話がさらにややこしくなります。なぜなら科学は私的知識ではなく、公共的知識の典型と思われているからです。

 
しかし、創造科学やIDの問題が社会倫理的な「家庭を大切にしよう」というブッシュ大統領の呼びかけと関係しているとすると、社会道徳の構成モティーフとしての信仰の重要性について考えなければならない、つまり「イエスとは何か、イエスとは私だ」といった捉え方ではイエスは社会的道徳の構成力にならない、と言う意味で青木先生のコメント思い返しています。
ご指摘の通りだと思います。ただ米国民がブッシュ氏(ある意味で米国権力の最高保持者)にいきなりこれを要求するところに、危うさを見るのです。日本に移し変えてみればそのカラクリは見やすいのではないかと・・・・・・。

 
話は飛びますが、IDのモティーフはなにかホワイトヘッドの自然哲学において措定されているアクチュァルエンテティを思わせます。
これについてはよく分かりません。彼らの言うactual entity を何度聞いてもその意味がつかめないからです。神はactual entityだと言ったり、神の前にchaosがあったと言ったり、神とは関係だ、だから「神はじめに天地創りたまえり」ではなく、「関係はじめに天地創りたまえり」だ、と言ったり・・・・・・。よく分かりません。

 
創造科学は道徳構成力を期待されるが、記紀神話には期待もされない。しかし、明治憲法、教育勅語、国家神道の三点セットは記紀神話によって神格化された天皇から発する国家権力の実力による道徳の構成が図られたわけで、明治へのおずおずとした復帰が企まれていると考えることもできます。記紀神話は昨年の夏、寛容についての発題の時引用した日本武尊の話のように単なるお話であって倫理に関するメッセージは「希薄であるか無い」と言えると思います。中学生の頃、なぜ基督教でなければならないかと考えたとき、日本文化に躓いたのは日本神話の文化ないし倫理形成力がないことだったように思います。まったくおっしゃるとおりだと思います。ご参考までに大日本帝国憲法の告文「皇朕謹ミ畏ミ皇祖皇宗ノ神霊ニ誥ケ・・・・」に呼応して19293月、治安維持法を改正した田中義一内閣は第56回帝国議会において「神社カ宗教ニアラサル理由」について以下のように答弁しています。「我カ国ノ神社ハ建国ノ大義ニ基キ皇祖皇宗ノ神霊ヲ始メトシ国家ニ功績アリタル諸神ヲ祭祀センカ為メ国家自ラ之ヲ設営スルモノニシテ神社ノ祭祀竝経営ニ関シテハ厳ニ国法ヲモッテ之ヲ規定シ又神社ノ祭祀ニ従事スル職員ニ対シテモ国ニ於テ其ノ職制を規定シ神職ノ国家機関トシテノ職務権限ヲ明カニス。」 そしてここから宗教団体法の成立、日本基督教団の成立・・・と歴史はたどってしまった、と。
 
創造神話に対しての主イエスの興味深いコメントは「神は良い者の上にも悪い者の上にも日を昇らせ雨を降らせて下さる」だと思っています。
使徒1417のような言い回しでしょうか。このような恩恵(私は共通善に対して共通恩恵と呼んでいますが)の強調が、最近のキリスト教神学における自然神学の復権と通低しているような気がします。
稲垣久和

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