その日は何となく、本当に何となく、住処を少し離れた場所で海を見ていた。
潮騒を聞いて太陽を迎える日々。
いったい何度目になるのだろう。


彼の住処は南の海の奥まった入り江で、そこに住み着いてから長くなるのだが、何故か言葉を紡ぐ者が訪れたことは一度も無い。
だが彼は未だに長い旅を続けているし、そこが家というわけでは決して無い。
家は帰るべき場所である。
いまの彼にそれは無い。
訪れるもののない家など、家とは言えないのではないかと常々思っていた。
しかし彼は同時にもう長いこと自分にその原因があるのだと思っている。

(闇のものも光のものも、恐らく私を取り巻くものを危険と察知するのだろう・・・。)
潮風が彼の黒い髪を撫でた。
海をわたる風も、その美しい髪を変調させることは出来ない。
惜しみない強風は毎日彼に会いに来るというのに、他の来客は望めない。

(・・・だが、懸命だ)
そのせいで彼に会話は無いし、その相手もない。
だが声と言葉は常にあった。
鳥も住まない地ではあったが、緑に萌ゆる植物は確かに彼の声を聞いていた。


それは美しい歌だった。






I'll meet your fate.








(・・・しくじった!)
ザシュッ!
避け切れなかった茨の棘が、その人の白い頬を傷つけて揺れた。

散々走り回って酷使した肺が限界をつげてくる。
類を見ない俊足と名高いその人が息を切らして走っても、執拗に背後に迫る気配をまくことは困難であるらしい。
既に日は沈み、大きな月が顔を見せている。
・・・どれくらい逃げ回ったのだろう。


(ハルバラドは大丈夫だろうか。・・・彼のことだから、これ以上の厄介ごとは起こさないはずだが)
伝い落ちる血を拭う暇も無く走り続け、そのようなことを考える。
しかしそのハルバラドが想定する最悪の状況は、その人がいま敵の標的となっていることだった。
本来ならばハルバラドはその人にそのようなことをさせたりはしない。
それは自分が殺されるよりももっと絶望的なことだったのだ。

だがその人には、傷ついたハルバラドと自分を救える唯一の可能性は、自ら囮になって敵の関心を一身に引き受けることしか浮かばなかった。
だから有無を言わさずにハルバラドと別れ、全速力で野道を駆け出したのだ。

「アラゴルン!」

押し殺した叫び声を振り返ることもせずに。



(・・・捕まるわけにはいかない)
敵がすぐそこまで追いついてきている気配を感じる。
足音は殺せているものの、高まる殺気は完全に消せていなかった。
なるべく音を立てずに足を動かすが、大きな疲労は隠せるものではない。
野伏のフードはエルフのマントほど主人の身を守ってくれるものではないのだ。彼は走り続けるしかなかった。

そもそも自分は今回、前情報で得た、まだ遥か距離のある敵を探る斥候将のはずで、念のためにと偶然ミナス・ティリスに来ていたハルバラドを同行させたのだ。
『敵』というのはハラドの土地の南方人だった。
目的だけを言えば、ゴンドールに害をなす彼らの殲滅である。
だがその人・・・仕える主に星の鷲と呼ばれている、その人はこういった仕事をそれほど喜んでする人間ではなかった。
いきなり隊を組んで皆殺しという方法が好ましいと、ゴンドールの人間全てが思っているわけではないことは知っている。
そこで彼らが生きていくためには敵の情に流されてはいけないことも、中途半端な甘さが現在のような窮地を生んでいることも理解しているのだ。

だが彼は、命あるもの全てが根本からの完全悪だとは思っていなかったのである。
もしかしたらそう信じたくなかっただけの話かもしれない。光は常にあるのだと、夢のように思っていたいだけなのかもしれない。
その考え方は全ての種族において非常に稀だった。
そんな性分もあってかミナス・ティリスの執政に仕える身となってから様々な葛藤も増えたが、同時に同族の暖かさを知った。
我が身に流れる軌跡を知った。
己のみで生きる答えを出せてはいない。
おそらく、それが見つかっても言い訳にしかならないだろう。

だからここで立ち止まるわけには行かないのだ。





そして、ソロンギルは顔を上げた。
左目を伝う硬い血を拭って更に駆け出そうとしたところで、

「ついてきなさい」
ふいに、何処かで聞き覚えのある声が響いた。
思わず足を止めて木々が張る頭上の枝を見上げる。
青々とした葉をすり抜けて注ぐ陽光の向こうに、黒い人影を見た気がした。
いや、いまのは。

(・・・エルフ?)
たしかに、その美しい言語と動きはエルフ以外にありえなかった。
しかしこの地にエルフが住まうことは無いはずだ。
少なくとも、この時代には。
なのに、その声は今まで聞いたどのエルフのものと比べても、極めて美しいものだった。
頭上を見上げたまま呆然と立ち竦んでいると、葉が小さな音を立てて目の前に振り落ち、その隙間を人影がよぎる。

「!」
ギョッとした一瞬のうちに、エルフはソロンギルと距離をとってこちらの様子を窺っていた。
身なりは野伏のそれと変わらないが、頭巾の間から覗く白い頬とすらりとした長身、何よりその動きは人間のものではない。
その素早い動きに目を見開くと、そのエルフは彼を振り返らずに囁いた。
「追われているのでしょう。さぁ早く。この辺りは詳しいから」
言いながら、くたびれたマントを翻して駆け出す。
ソロンギルは何も考えず、いわば条件反射でそれに続いた。
エルフの中で育った彼には、そのエルフが何者かというよりも、その影がエルフだということだけで付いていくのに充分な理由となっていた。





 + + + 





「やれやれ、危ないところだったね」
「・・・・・・・・・・。」

そこはそのエルフの家のようだった。
家財も寝具もない、奥まった、大きくはあるが何故か目立たない天然の入り江の洞窟だ。
おそらく、満潮となっても海水が中まで上ってくることはないのだろう。
そこには貝も苔も見られない。
しかし不思議と洞窟の奥には、崩れ落ちた天井から月の光を受ける小さな泉があった。
泉は淡水でなされていて、天然のもののようだ。
そこでソロンギルは益々不可思議な気分に陥った。

エルフは海に親しいテレリであってもこういった暮らしをすることはない。
きちんと海の傍に館を持ち、港を造り、自然と一体化するような暮らしではあるが確かな「家」を形成するのだ。
では何故そう思ったのかといえば、不思議と不便に感じそうに無い雰囲気と月光が差す泉の神秘的な情景が、エルフがよく好んだ都のように感じだからだった。


ソロンギルが返事をすることも忘れるほど『家』を見回していると、エルフが苦笑した気配を感じ取った。
呆けた顔でエルフを見ると、彼は優美な仕草で頭巾を脱いでいるところだった。

「・・・・・・エルダール・・・」
思わず不躾に声を漏らす。
そのエルフは美しい黒髪を無造作に流した、穏やかな空気の漂うノルドだった。
ソロンギルの言葉にも気にすることなくニッコリと微笑み、裸の岩に座り込む。

「そう。君もそうでしょうが?中々素晴らしい足を持っている。だが、いくら実力があろうともあそこは若いエルダールには危険だ。・・・一体あんな所で何をしていたんだ。同族と話をしたのは、本当に久しぶりだよ。」
「・・・え?・・・・・・あ。いや、あの・・・私は・・・」
「ん?」
どこか楽しそうに見上げてくるエルフに、ソロンギルは何と言っていいか計りかね、とりあえず命の恩人を見下ろすのも何なので、床に座ってモゴモゴと切り出した。

「その、私はエルフではありません」
「え?」
黒髪のエルフの目が大きく見開かれた。
ソロンギルは少し気まずそうに今までずっと被っていた頭巾を脱ぐ。
その下からは、確かにエルフと見まごう美しい顔が現れた。
しかし目の前のエルフほどに内から発する輝かしい光はなかったし、その顔は血と泥で汚れている。そしてエルフのように耳の先端が尖っていることもなかった。

その顔を見たエルフは目を見開いて口を開ける。
「これは驚いた!君は人間か!・・・いやだが、クウェンヤを解すことといい、その瞳の力といい、エルダールの力も多く感じられる。まぁ、まだ若いことには変わりないようだが」
「・・・・・・これでも40代です」
「40年なんて瞬きの時間。しかし君と私では生きてきた時間の量が違うのだから、多くは言うまいよ。・・・それにしても、まさか私がエルダールと人間の差に気付かないなんてね」
くしゃりと笑うノルドに、ソロンギルも思わず笑い返す。
実際ソロンギルの外見はまだ止まるまえのものだった。
いまはただ他に比べれば非常に緩やかな時間の変化をその身に受けているため、その精神と外見にアンバランスさが生まれる。


「貴方はノルドですよね」
「・・・ああ、・・・そうだね・・・」
それまでの調子をみると、幾分か歯切れの悪い返事がかえってきた。
何気ない質問が相手を不快にさせたかと危惧して、彼は眉を少し寄せて上目遣いにエルフを窺う。
「すみません、何かお気に障りましたか。助けていただいたというのに、不躾な質問をして・・・」
「ああ、いや、そういうわけではないんだ。すまない」
侘びをいれると、エルフは苦笑とよく似た笑顔を浮かべた。
そして少し俯いて何か考えているようだ。
「・・・・・・・・・。」
ソロンギルがどうしていいか解らずに黙っていると、エルフはふいに顔を上げた。
泉に降り注ぐ月光が反射して、その面の光が増す。


「ひょっとして・・・きみはアルセダインの血筋ではないかな?」
「・・・・・・っ」
思わず、息を呑む。
誤魔化しても無駄だということは、目の前の両対の瞳にうつる光を見れば容易にわかることだった。
エルフというのは予見や人の心を読む力に長けている。
しかしこうしてすぐに正体を見破られたことは今までになかったのだ。
それはエルフの叡智と比例してくるものだが、目の前の彼はそういったものを超越している空気すらある。


「やっぱり・・・、そうか」
言って、彼は笑った。
その笑い方はいままでのものとは違う、どこか砕けたものだった。
しかしソロンギルは最悪の事態を考えて、いつでも体を動かせるよう注意を払ってたずねた。

「貴方は、私の敵なのか?」
その言葉にエルフは笑いを収めた。
怪訝そうな、しかしどこか相手を試すような挑発的な目をして首を傾げる。
「敵・・・?」
「・・・そうです」
「きみの敵とはなんだい」
「私の進まなければならない道を、・・・強く阻むものです」
緊張で喉が引きつる。

エルフ全てを頭ごなしに信用してはいけない、エルフという種族にも過ちの歴史は多くあるという、養父の言葉が蘇る。
しかし彼にとってエルフは、信じたいものの一つだった。


エルフはしばらくソロンギルを見ていた。
ソロンギルのほうも目をそらすことなくその強い光と向き合う。
そこには混沌があったのかもしれない。
が、先に視線をはずして息をついたのは、エルフのほうだった。

「・・・きみはこれから、正しいものとか、間違っているものとか、・・・判断が難しいことばかりを突きつけられていくのだろうな・・・」
まるで生みの親の言葉のような・・・、少なくとも自分が言うべき言葉ではないと、エルフ自身思った。
しかしソロンギルは・・・アラゴルンは、その言葉をエルフが発したことに何故か違和感を覚えなかった。

「・・・それは、仕方の無いことです。」
「本当にそうかな?」
形に出した、本当に形だけの言葉にエルフは疑問を投げかけた。
アラゴルンは目を伏せて、この、出会ったばかりのエルフに呟いた。

「・・・わかっています。私の命は私のものではないと、皆が言います。しかしそれは・・・私の帰るべき地の、・・・民の言葉ではない。本当の私の意志は、何処へいったのか、もう・・・、よく解らないのです。」
酷くたどたどしかったが、偽りの無い彼の本音だった。

見えない孤独は誰もがもっているものだが、アラゴルンのそれは孤高をも背負わねばならないものだ。
とにかく、今はそうだった。


エルフは彼の顔を覗き込んだまま無言でジッとしていたが、ふいに目を閉じて息をもらした。
「すまないね。こんな話を、イシルの下で人の子にさせるものではないはずだ。」
言って立ち上がり、洞窟の奥の方へ歩いていく。
ソロンギルはそんなエルフの様子を眺めながら、今更ながらに何故こんな話をしてしまったのかと首を傾げてしまう。
いまの話はハルバラドにすらしていないものだ。
だが、あの同胞はとっくにその思いに気付いているのだろう。
(・・・私は周りに支えられてばかりだな)
自嘲的な思考をしてしまうのも、そろそろ日常になってしまっている。




軽い音がして目を細めると、エルフが薪を抱えて戻ってきたのが見えた。
「まさか・・・火をおこすのですか?しかしここは、まだ敵の手が・・・」
「心配はいらない。ここには何も来やしない。」
「・・・・・・・・・。」
そう言われても、半日近く森でずっと逃げ回っていた相手が近くにいるのだ。
はいそうですかと落ち着いていられるわけがない。
そんなソロンギルの様子を察したのか、エルフは苦笑して薪を床の上に置き、手を近づけた。
その指には石炭なのか、それともソロンギルの知らない物質なのか、小さな石が挟まれている。

「闇のものも、人間も、・・・それこそエルダールすらここには近づかない。ここは、不吉な声がいるからね」
「こえ・・・?」
「そう」
答えた瞬間、ボワリと、炎が一瞬で薪に燃え移る。
ソロンギルは足の先で起こったことに目を見開いた。

見事な火の熾しかただった。
野宿が基本の野伏ですらこのように上手い点火方法を知らない。
呆然と燃える炎を見詰めていると、エルフはその子供のような反応を見て笑った。

「こういったことは・・・上手いんだ。昔一通りやらされたから」
「すると、貴方はやはり工の方なのですか」
「・・・もとは、そうだな。でも私は工人ではない」
「では、声というのは貴方のものですか?」
「そうらしいね」
「なのに、不吉なんですか?でも貴方のお声は今まで聞いたことがないくらいに美しいものだ。でも・・・そうですね・・・私を育ててくださった養父が、貴方に近い声をしています。」
そこまで言って、ふと思う。
・・・目の前のエルフの纏う何かが、養父にとてもよく似ているのだ。
最初に感じた既視感はそのせいだったのだろう。

(・・・・・・なんだ?)
何かわからないが、漠然としたものを感じる。
だがそのことに感づかねばならないような気がした。
それはいつかの予知と同じ感覚だ。



「へぇ・・・。きみの養父殿に似ているなんて、光栄だね。」
ニッコリと笑うその顔も、どこかで見たことがあるような気がする。
(・・・・・・どこだ?)
ソロンギルは頭の中で必死に考えをめぐらせながらもきちんと会話を成立させた。
「はい。幼い頃など、とても美しい歌を歌ってくださいました。」

すると、エルフは一瞬どこか遠い目をした。
まるで色落ちしてしまった壁画を見る技師のような顔である。
その一瞬の表情を、ソロンギルは逃さず見ていた。
パチンと小さく炎が爆ぜる。
その些細な音で両者は目を合わせてしまった。

「・・・・・・・・・・・・・。」
そしてアラゴルンはエルフの中の光に気付いて、目の前の第一子が何者かを悟った。
それでもエルフは少し首を傾げて、穏やかに微笑む。


「・・・アルノールの世継ぎということは・・・養父殿は、裂け谷の君かな」?
「はい・・・。エルロンド卿です。とても聡明で優しくて、大いなる叡智を讃えた偉大な方です。・・・ただ問題なのは、・・・私を未だにコドモ扱いします。」
「ふふ。・・・グロールフィンデルも、元気だろうか」
「はい。私の剣の師匠の一人です。あとの二人は、卿の双子の御子たち。私を本当の弟のように可愛がってくれます。」
「・・・ああ、いま思い出したけれど、小夜啼鳥の再来と恋仲というのはきみのことか」
「・・・恋仲などと・・・私が一方的にお慕い申しているだけで・・・。・・・しかし、よくご存知ですね」
「たまに・・・小鳥が噂を運んでくるんだ。特にあの姫君の話はね」
「・・・・・・・・・・・・。」


ティヌヴィエル。
ルシアン・ティヌーヴィエル。
その女を見たことがあるのだろう。
しかしそれを聞く気にはなれなかった。

その思考を読んだのだろうか。
エルフは穏やかに目を細めて微笑んだ。

「・・・優しい人の子よ。もう眠りなさい」
穏やかに告げてくる声はほんとうに心地いいもので、ソロンギルは涙が出そうになった。
だがここで泣くのは場違いだ。
なので、小さく俯いてボソボソと音を紡いだ。
「・・・私の仲間を知りませんか」
「ああ。彼なら安全な場所にいたから声をかけることはしなかったが心配は無い。明日彼のもとへ連れて行ってあげよう。さぁ眠りなさい。きみには休息が必要だ。」
「マグロール殿」

「・・・・・・・・・。」
エルフのその目に剣のような光が差した。
それはまるで、かの東の闇の名を口にしたときの養父の目と酷似している。不吉な、口に出すのを憚られる呪われた名前を出したことを咎めるときの顔だ。
しかしソロンギルはその目から逃げることなく向き合い、やがて口を開いた。

「エルロンド卿にお会いしていただけませんか。あの方は貴方を探しているに違いありません。もう長いこと、それこそヌメノールの時節から。・・・この暗い時代、生き別れた親に再会するは至上の喜びでございましょう。」
「人の子の王よ」
その呼びかけにソロンギルは不覚にも動揺した。
僅かに眉を顰めて炎の向こうの顔に告げる。

「私は一介の野伏です」
「しかしその身に流れるのはエルロスの血だ」
「・・・・・・・・・。」
事実だった。
ソロンギルが否定したい、究極の事実だった。
そして目の前にいるのは上古の偉大な王の血を引き、二本の木の光をその身に受けたエルダールだ。
その言葉は深く、重い。

「私の養い子の裔よ。どうか解っておくれ。きみたちがこれ以上の負の要素を受け持ってはならないのだ。これは呪われた身だ。既にヴァラールにすら見限られ、聖なる力で焼け焦げた長物なのだ」
「しかしそのお声は失われてはおりません」
ソロンギルのその言葉に、彼は僅かに顔を歪めて視線を外す。
揺らめく炎は光を放ち、洞窟の中を照らしている。
それを眺めて、彼は口を開いた。

「ここで歌うたびに、自分の声が聞こえる。死んでしまった岩に木霊して私の歌ばかりがいつまでも響いている」
「美しいお声です。ささやかな安らぎをくださるような。」
「だが、私には苦痛だ。・・・幸せだった頃が、忘れられないから」
「・・・・・・・・・。」
・・・何も返せなかった。

彼の生い立ちは知っている。
誰の息子でどう生きて何をしたのか。
養父は彼と、その兄のことだけは教えてくれなかった。
その理由はすぐに知れたのだけれど。


彼は炎を見つめたまま泣き笑いのように顔を歪めて、少し俯いた。

「気の遠くなるような長いときが経っても忘れられない。・・・いや、長いときを経て余計に輝くものなのだな。思い出というものは。」
それはひどく痛々しい言葉だったが、痛むのは手で触れられないもので、ソロンギルはもどかしさを感じた。
自然に潤む瞳を叱咤してなんとか言葉を紡ぐが、声は僅かに震えてしまった。
「お願いです。養父とお会いしてください。どうか・・・」
「それはできない。」
「・・・そんな、」
ソロンギルは自分を初めて、駄々をこねる子供のようだと思ったが外聞を気にしている事態ではないと思った。
だが目の前にいるのは遥か古代の書物に名を連ねるエルフなのだ。
体裁など関係ない。
それよりも説得のほうが大事だった。
しかし彼は緩く顔を左右に振り、顔を上げてソロンギルを見た。
その顔は炎によく冴えている。

(・・・なんと皮肉なことだろう。)
・・・彼の物語を知っている。
そして彼の兄の物語を。
その父の物語を。


「幼き命よ。きみもいつか解るだろう。安らかな家の中に、善に似た悪が蔓延ることもあるのだよ。同時に悪に似た善もある。それを見極め判断を下すことも王の責務だ。・・・・・・わたしたちには、それが出来なかった」
それは愛しいものに悟らせる口調だった。
柔らかく優しく穏やかで、このひとの子守唄はさぞ心地いいものなのだろうと感じさせた。

「さぁ人の子よ。もう眠りなさい。イシルは我らエルダールの証なのだから」
そう言って彼がその長く白い手を炎の上にかざすと、それまで勢いのあったそれは収まりを見せ、焦げた薪が撥ねる程度になった。
「・・・・・・・・・・・・。」
ぼんやりとそれを眺めていると、いつのまにか目の前の体は岩の上に横たわってこちらに背を向けている。
ソロンギルは暫くその背中を見つめていたが、炎と一体となった木がパチンと爆ぜる音を聞いてノロノロと横になった。

「おやすみなさい・・・」
小さく呟いたものの、それは闇に消え、返事がかえることもなかった。






 + + + 








「あの洞窟は、貴方の家なのですか」


そこは昨夜を過ごした洞窟の真上にあたる丘だった。
低い草が生える小高い丘で、その先端には暗い海があった。

「いえ・・・」
何のことか見当が付かないというような声が漏れたとき。
緑の草花のうえにたったいま顔を出した朝日が照り、輝きが増していく。
エルフは上り始めた朝日をソロンギルから遮る形で立っている。
今日の太陽は強く、エルフの作る影とその光の境界線は鋭かった。
ソロンギルは朝露に濡れたブーツの紐を縛りなおしながら尋ねたため、相手の顔は見えない。

「ああ・・・。あれは、いくつかある住処のひとつだね。海を流離う放浪の旅さ。・・・家ではないよ」
「・・・そうですか」
「裂け谷の賢者に告げ口しても無駄だからね」
茶化すようなその口調に、ソロンギルはそれまでの調子を少し崩されたような気がした。
「わかってますよ!」
ギュッと強くブーツ紐を縛り、勢いよく立ち上がる。

「・・・・・・・・・・・・。」

そこに、影はなかった。
雄大な朝日を受けた海が広がっている。
海の上を幾線もの光線が走って、まるで黄金の大地のようだった。




「・・・美しいだろう?」
声がして振り返ると、エルフが距離を置いてこちらを見ていた。
「光と共に生まれた種族。きみらの証、アノールだ。」
いつの間に移動したのか、丘の下のほうに佇んでこちらを眩しそうに見上げている。
・・・別れを悟った。

「ほんとうに、お越し願えないのですね」
最後の懇願として尋ねると、彼は苦笑して僅かに首をかしげた。
「きみもしつこい子だね。まぁ、それくらいでないとその運命には立ち向かえないのかもしれないが」
「・・・・・・・・・。」


「恐れるな、太陽の子よ」
優しい、瞳と声だった。

「だが覚えておいで。闇に囚われてはいけない。絶望に囚われてはいけない。理屈に囚われてはいけない。正しいことを見極めなさい。悔いても悔いても消せないことがこの世にはあるのだから。」
まるで、息子にするような・・・。


「・・・またお会いできますか」
尋ねると、エルフは目を見開いてこちらを見上げた。
ソロンギルは彼が何故そんな表情をするのか解らずに首を傾げる。
彼はそんなソロンギルを見て楽しそうに笑った。

「正直な、良い魂だね。もう会うことはないだろう。だが、全てはきみ次第ではないのかな・・・。さぁ、もうお行きなさい。お仲間がやきもきして待っているはずだ」
「はい・・・。貴方を忘れることは、ないでしょう」
そう言って頭を下げるその姿に、エルフは重なるものを見たように思った。


(ああ、やっぱり・・・忘れられるものではないな)

・・・幼いペレジルたちも、間違ってしまった、あのひとたちも。



「・・・私もきみを忘れないよ。さぁお行き。」
「はい。有難うございました」
もう一度頭を下げて彼の方へ駆け出す。
それ以上眼も合わせず、チラリと見もせずに。

すれ違うときすら、その目は前方だけを見つめていた。



















海に通じる森に、深い声が響いていた。
耳に心地いいそれは、幼い頃に養父が綴ったものと同じだ。
しかしその詩は子守のそれではない。



貴方の前に様々な選択が現れ、その心が苦悶に軋めこうとも。
どうかその道が、我らの光で切り裂かれませぬように。

貴方の前に大きな困難が横たわり、その心が涙に軋めこうとも。
どうかその魂が、希望の光を忘れませぬように。


夜は過ぎ行き、朝がくる。







それは、美しい歌だった。











end.....








『I'll meet your fate』 君の運命を迎えにいくよ

・・・こんな話、アリなんだろうか。
でも随分前から一度書いてみたかったんだ、遭遇ネタ。
問題は王様時代でやるかそれ以前でやるかだった。
でも結局まだよく解ってない若造時代にしてみた(といっても、もうソロンギルなんだけど)。
しかし粗いなァ。つか明らかに力不足感が丸見えである。

指輪のテーマで何が良いかって何度も言うように完全悪という概念を持ってはいけないということだったりする。
自分が全て正しいなんて思ったら、その瞬間そいつは失敗していると考えたほうがいいとな。

なんのこっちゃと思った人は、原作『王の帰還』のホビット庄の掃討のフロドとサルマンの会話、
『旅の仲間』の袋小路館、モリアでのガンダルフとフロドの会話等々を見るべし。
ああいうのって中々ないと思う。


つかシルマリル未読な方にはえげつない話でゴメン。
ぶっちゃけ第三紀のマグ兄なんて解らん。難しすぎだ。
でもこういうテーマの話ならうってつけの人なんじゃないかと思って・・・。
・・・・・・しかしなんとも
無理な展開だ
まずソロが一人で斥候かよって話。
いくら囮ったって、怪我人放って行くかよって。
最後の葉ちょとフィンゴンぱくり。
・・・許してください。