生と死を同時に夢見た




 
 









「・・・わたしも老いたよ」

声はあの時のままだよ。
言いたいけれど、それは言えなかった。
老いたことは老いたのだ。
自分たちと違う時間の重さに、レゴラスは改めて考えさせられた。


こちらに背を向けて月を眺めている

この国の王。
人の子の王。
千年間、人の子らが待ち望んだ、ただ一人の王。


その人が、疲れたように息を漏らした。
ゆっくりとガラスの窓を閉めて振り返る。
月が王の漆黒の髪を照らす。


そうだ。
髪だって黒のまま。
あの時も、星が輝く旗と共に漆黒の髪は靡いていた。
変わらない声を張り上げて、強大な敵と闘った。


「エレスサール王」
レゴラスがそう言うと、王は笑った。
「どうしたんだレゴラス。わたしは確かに王であるが、アラゴルンでも馳夫でも、ドゥナダンでもある」


・・・どうして希望の名は連ねないの。


口に出してしまいたい。
どうしてそこまで否定するのか。

「・・・じゃあアラゴルン。わたしは久々にこの国に来た。久々と言っても、あなた達の感覚でだけどね。だけど、ドゥネダインに探させてまでわたしを呼び出したあなたが何を言ってるのか分からない。正直困ってるんだ」

腕を組み、頬杖をついて告げると、王・・・アラゴルンは懐かしそうに笑った。

「ああ、そうだよ。君はあちらこちらに飛び回っているから、探すのに苦労したんだ。」

「この灰色の大地に残っているエルフは、数少ないからね」
「ああ、そうだ」

駆け引きだった。
だがアラゴルンは笑顔でそのまま受け止める。
レゴラスの心配はいや増した。


「アラゴルン?」
「なんだ?」
「・・・まだ夕星王妃にご挨拶していないんだ」
「ああ。・・・彼女には明日でいい」


レゴラスは僅かに眉を寄せる。
「どうして?挨拶しなくていいなんてことは、ないんじゃない?」
「・・・レゴラス」
アラゴルンは呟いてレゴラスの顔を見た。


ああ、あの時と同じ顔だ。

ガンダルフがモリアの深い闇へ落ちて。
ボロミアが討ち死にして。
全ての道筋を彼一人で決めることになってしまったあの時。
彼は今と同じ顔をしていた。





「わたしは、もう充分生きた」

ああ、そうかもしれない。
・・・でもね。
わたしにとったら、あなたのその尊い時間さえ儚いものに感じられるんだよ。
充分なんてことが、わたしに・・・わたし達に通じると思うの?




「地の底から聞こえていた声も、今やその脅威を失っている」

そうだよ。
あなたや、わたしや・・・旅の仲間と呼ばれた者達が勝ち取った平和が、それらを退けたんだ。
あの苦しい日々も、今じゃみんなの思い出となっている。




「ゴンドールも、その命を取り戻した」

「辛かった日々もあった。あのときの仲間は大いに心の支えになってくれた」

「わたしのやるべきこと。できること。宿命・・・。それらは全て果たせたと思う」

「だが気付いてみれば・・・。もう、彼らはいない」

ああ、ひどい。

「わたしの肉体も、崩れ落ちる寸前となってしまった」


あなたたち『有限』は。


「もう永くはないだろう」


そうやって、我らに恐怖を与える。







「わたしは疲れた。・・・ゴンドールの王。千年間のしがらみは、決してやさしいものではない。一人で背負ったわけじゃないさ。・・・だが、彼らはもういない。」

「・・・ボロミアとの誓いも、わたしは果たしたはずだ」




・・・エステル。

希望の君。

きみが人の子に誓った願いは叶った。

ゴンドールは息を吹き返した。

その民は平和と幸せを感じて唄を謳っている。

大地は緑を忘れずに笑っている。

東に黒い雲を見ることもないさ。

ただ綺麗な青空が広がっているだけだもの。

黒い空を知らない子供達が、いまの大地を駆け回っている。


だけどわたし達は残されていくばかり。


きみまでそんなことを言うんだね。







「指輪所持者が・・・、フロドがこの地を去って。ガンダルフも当たり前のように還っていった。・・・エルロンドや奥方。わたしの幼少期を支えてくれたエルフ達」

ああ、覚えている。

「サムが後を追うように海を渡った。数本の花を抱えて、夢を見るように船に飛び乗ったそうだ。・・・どうしてあんなに突然だったんだろう」

昨日のことのように。

「エオメルがわたしに別れを告げた。・・・あの綺麗な金の髪が、段々と淡く変化していくのを見て、わたしは涙を流すまいとつとめた。」

だってわたし達にとったら『それ』は最近だもの。

「ピピンとメリーがシャイアを出て。久しぶりに顔を見たと思ったら、随分と疲れたように笑っていた。手を取り合って眠る姿は昔のままだったが」

きみがそうであったように。

「ファラミアも、最後に兄の、ボロミアの話をしてほしいとわたしに言って・・・。笑って、エオウィンの剣を抱いていた。」

きみの『成長』がそうであったように。

「・・・気がつけば、取り残されているように思える日々が続いている」

きみの『老い』がそうであったように。

「そう思った朝に、アンドゥリルが重く感じられた」


「・・・わたしにはもう。この剣は重いらしい」

みんな わたし達に 別れを告げて 逝ってしまう。








「ああ、アラゴルン!エステル・・!」

溜まらずに声を上げた。



待って。待って。待って。



そうやって理由をつけて逝くのは卑怯だよ。

まだわたしだって、ギムリだって、エルダリオンだって・・!

そう、アルウェンだっているというのに!



「きみはそんなことを言う人間じゃないと思っていたのに!きみが一番、わたし達の老いとあなた達の老いを理解しているじゃないか!」

「・・・理解していたよ。だがね。どんな奇麗事を並べて生きようとしても、それは無理なことだと気付いたんだ。こんなことを考えること自体が、わたしの老いを痛切に表しているとわたしは思う。」

そう言ってアラゴルンは少し笑った。



「その老いを、彼女に曝したくなどないんだ」

諦めた口調ではなかった。
大きな叡智を手にした者の、相手を諭す口調だった。





ああ、待って。待って。待って。


「なら、なら西へ行こうよ!わたしとギムリときみと夕星王妃で!西へ行けば、きみ達も悠久の時をそのままで生きられる!」

「・・・ダメだよレゴラス」
「・・・っ」
静かな口調で呟く。その口元には僅かな笑み。


「わたしは、ヌメノーリアンでもある。・・・神を侮辱し、追放された人間の血を継いでいる。我ら民の恩寵は、確かな恩寵としてそこに存在したのだ。きみ達エルフの恩寵が永遠でも、わたし達の恩寵は有限。・・・命の美しさに涙を流せるのは我らの民。きみ達の悲しみは計りしれないが・・・思い出に縋る生き方を、わたしはもう捨ててしまった。」



きみは嘘をついている。
大きな嘘を。
とても大きな嘘を。



「それでもきみは、アルウェンを裏切るわけにはいかないじゃない。エステル?我らエルフはとても悲しい生き物だろう?それに華を咲かすつもりなら、それは望みじゃないよ?」


「・・・ああ、永遠を欲したこともあった。この時間を止めたいと願った。だがわたしは人の子の王で、有限の象徴だ。そして何より、この体は老いてしまった。・・・疲れてしまった」


ため息が重い。


「だが、彼女は全ての者に愛された輝ける存在だ」


全ての者に愛されたのは、きみも同じだよエステル。


「彼女には西へ行く権利がある」


ああ、エステル、エステル・・・!


「永遠の命として、故郷に戻れば・・。思い出以上のものが手に入るかもしれない」


望みの君よ。

希望の名を持つ者よ。

限りある輝きを、恐れることなく生きていければよかったのに・・・!




「・・・思い出は思い出以上にはならない。・・・レゴラス」

そう言って、アラゴルンは首から何かを外した。

銀色に輝くそれは、彼がいままで手放さなかった、あの・・・。

「彼女に伝えてくれ」

嫌だ。

「そして、これを返してくれないか」

「嫌です」

きっぱりと断った。

アラゴルンはそれを予想していたようでふわりと笑った。 

「・・・どうしてもか?」


「ええ、嫌です」

「・・・やはりな」

「エステル。・・・わたし達は海を渡るよ」

「ギムリを連れて行くのか」

「ええ。彼を置いていくことなど、わたしには出来ないから。・・・エステル。わたしはもう、この国を出るよ」

「ああ」

「泣くことの出来ない民を残していくあなただけど。それでもあなたは希望だよ」

「・・・そうだろうか?」

「そうだよ。・・・わたしに限りある命を教えた人の子よ。どうか、貴方の瞳がこれ以上の悲しみを写さぬように」

「・・・永遠の名を持つ緑葉よ。どうか、貴方方の行く道に暗い影が降りぬように。貴方と共にある者が、どうかその手から離れんことを」






そうして、レゴラスは走った。

とにかく、走らなければならない。

涙を流すことは死を意味する。

だが、これ以上に涙を流す理由があるだろうか。

旅の仲間はみな行ってしまった。

ボロミアが死に、フロドが旅立ち、ガンダルフが旅立ち、サムが旅立ち、ピピンが死に、メリーが死んだ。

そしてあの王も死を迎えるという。

自分にはあのドワーフがいる。




ギムリ。ギムリ。

だけどいつかは君も死ぬ。

永遠は自分一人では永遠ではない。

西へ行こう。

永遠の大地へ。

この大地を捨てて、西へ行こう。

もう見たくなどないから。

鴎が鳴いて、潮の香りが鼻をつく。

海を渡って、遠い大地へ帰ろう。




泣くことは許されない。













・・・貴女は美しい。


だがわたしには限りがある。


西の大地は、貴女以上に美しくはなくとも。


それでも光は失わない。


・・・ああ、卑怯者め。


心のどこかで彼女が海を渡ることはないと悟っているなんて・・・。





ああ、夕に冴える星の姫よ。


貴女は強く、美しい。


貴女が大事だということを分かって欲しい。


これを裏切りと取らないで欲しい。


これ以上歩けないわたしを。


転げるわたしを。


笑えないわたしを。


貴女に曝したくないという男の身勝手さに、腹を立ててもわたしには何も言えない。


正しくなくとも、わたしにはこれしか取れないのだ。


ルシアンの再来よ。


同じ道を歩かせてしまうわたしを許しておくれ。


人の子として生を受け、人の子として生を終えるわたしを許しておくれ。


エステルはその役目を果たせなかった。


貴女のエステルは、最後の最後で貴女を導くことは無い。


ああ。


それでもキスを贈りたい。


わたしは希望の名を授かった。


だけど貴女の希望にはなれなかった。


マンドスの館に、わたしがおくられることはないだろう。


願わくば、あの丘で。


緑が溢れていたあの丘で。


もう一度貴女を待ってみる。



緑の丘で。
 





 





3月1日。



かの女に口づけを贈り、彼は寝台に横たわった。


















そして緑の塚山が、この丘にある。









 
まずはお蔵だし一本目。
お気づきの通り石牢とは違う次元の小話です。
随分前に書いたので雰囲気が微妙に違います。
相変わらずポエマーです。