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磨かれた大理石の上に跪いた際に、盛装の衣がかわいた音を立てるのが好きだ。 叶うことなら私はいつまでも、この人の前で膝をつき、頭をたれて祝福を述べていたいと思っていた。 あの戦争が終わり、暗黒がこの地を去って、光が出ずる様を見届けてきた私ですが。 そのことに何よりの幸せを感じるのです。 そう告げたときの貴方の表情から、私は自分の失言に気が付いたのだ。 この老いぼれが犯した、久々の失態だった。 石牢の王 〜老友〜 「ベレンとルシアンの話くらい知ってるよ・・・」 うんざりした風に肩を落とすエルダリオンの姿に、ファラミアは片眉を吊り上げた。 「意外です。」 きっぱりと非常に失礼なことを言い放った父親の執政官に、エルダリオンは片頬を小さく痙攣させる。 ファラミアの方はもう何十年も使用してきた眼鏡を外して、右手に持っていた分厚い本を机に置いた。その動作にエルダリオンに対する遠慮というものは見られない。 エルダリオンも産まれたときから大して変わらないその態度に慣れきっていて、特に咎めようとしないしそう思うこともなかった。 「父上と母上の馴れ初めがその二人に関係しているっていうじゃないか。私も子供の頃はよく語り聞かせてもらったもんだよ、レイシアンの歌をね。あの頃はレゴラス殿も伯父上たちも頻繁にミナス・ティリスに訪れていたし」 子供の頃の話を、自分が生まれた瞬間のことを知る人物に話すのは中々照れくさいことだった。相手は何故そう思うのかわからないだろうが、どこかこそばゆい気分になる理由は自分でも解らないから、勘弁して欲しいと思う。 そんな様子を見るともなしに見ていたファラミアだが、ふいに俯いて苦笑したようだった。 「・・・お懐かしい名が出ましたね。」 「?そうか?」 「ええ。私には遠い日の思い出に感じます・・・」 「・・・・・・。」 王の館の、西窓に面したテラスで勉強をするよう頼んだのは、意外なことにエレスサール王だった。曰く「会議もそうだが、やはり勉強は外でやるべきだと思うね。苦手なことならなおさらな。室内では眠気に勝てないしやる気もそがれる。どうせ勉強するならテラスでやりなさい」だった。ファラミアは最初「そんなワケのわからない理由で貴重な資料の揃う書庫を蔑ろにしろと仰るのですか」と反論したが、「最初からそのように堅苦しい密室で始めれば、殿下は窓から逃げ出すに違いありません」というエルボロンの言葉に、流石のファラミアも断念してくれのだ。 そんなわけで室内よりは幾分か快適なテラスでのお勉強となった。テラスに出された大きな机の上には羊皮紙や貴重な書物の写本、インク壷やペンが並んでいる。木製の机に向き合う両者は、一方はだらしなく机に身を乗り出し、一方は背筋を伸ばして行儀よく、椅子に座っていた。春の陽気な天気が瞼を重くさせるが、誘惑に囚われるとファラミアの鞭が飛んでくるのでうかうかと気を抜けない時間が続いている。ファラミアに気づかれない程度のあくびをしてエルダリオンは羽ペンを指の上で器用に回転させた。 「貴方の父君も母君も決して勉強嫌いではありませんのに。妹君方もそうです。なのに何故貴方だけがこうも・・・」 「父上は政務は苦手だと仰っていたぞ。王位を継いだ直後はよく脱走して貴方やイムラヒル殿の手を焼かせたそうじゃないか。その後はよく昔のお仲間やエアディグ王と落ち合って遠乗りにかれたとか。・・・子供の頃私にお話されて、楽しそうに笑ってらっしゃった。」 「ほぉぉ・・・。あの方はそのようなことを仰っていたのですか。私は当時、よく胃を傷めては薬師に薬を調合していただいたものですよ」 呻くような低音にエルダリオンはまたしてもギクリとした。 自分の口は何と軽いのだろう。 この後ファラミアに父が小言を聞かせられるのかと思うと申し訳なさでいたたまれなくなる。 「さて、こんなお喋りをしに貴重な時間を割いているわけではないのです。ではヌメノール王朝の成り立ちの辺りから・・・」 「なぁファラミア」 突然言葉を遮られてファラミアは少々ムッとした。 眼鏡をかけ直してから机の端に置かれていた深緑の厚い本に手を伸ばす。 「なんですか。また思い出話なら・・・」 「父上はどこか悪いのか?」 「・・・・・・。」 ファラミアは無言でエルダリオンを見た。 伸ばした手は本まで届かずに空を切って戻された。年相応に細く、筋張っている手を組み合わせて体の正面に持ってきて、机の上にコトンと置く。小鳥の泣き声が響くテラスに風はなかったが、エルダリオンは僅かなそれを感じたように思った。ファラミアの眼鏡の奥の瞳はヌメノールの血を引き継ぐ者に相応しい力を持っていたが、いまは少しくすんで見える。 「陛下はご病気などではありません。あの方には大いなる加護がついておりますゆえ」 「じゃあ、ファラミアか?」 「・・・・・・直言しましたね」 言って、彼はニヤリと笑った。 その顔は知る者が見れば見たことのある表情だった。 しかしエルダリオンにとっては解っていたことであっても、辛い事実にしかならない。 「いつ直接言うのかと思ってましたが、二人のときに言ってくれるとは思いませんでした。」 「じゃあ、やっぱり・・・?」 「はい。もう長くないでしょう」 そう言って笑った執政の姿に、エルダリオンの両目にブワッと涙が盛り上がった。 この年になって人前で泣きじゃくるのも恥ずかしかったが、身内の前では仕方ない。それに目の前の執政はそんな世継ぎを許してくれるだろう。 ファラミアはやはり苦笑して小さく首を傾けた。 「・・・貴方はやはりエルダールの血筋を受け継いでいるのですね。容姿も変わりませんが、内面も変わらない。純な魂をお持ちだ。」 「嬉しくない・・・。ガキ扱いするな」 涙で震えた声で言っても情けないだけなのだが、ファラミアの顔には軽蔑の色もなく、あるのは親しみを込めたものだけだった。 「私を哀れんでくれることはありませんよ。兄や父と比べたらここまでよく生きたもんです。百年以上生きたのですからもう充分ですよ。私は悲しくありません。・・・ただね。心残りはあるんです」 「?」 涙でグシャグシャになった顔を上げる王太子は、皆が王妃そっくりだというが。 ファラミアがそう思ったことは、ついぞなかった。 「とうとうあの方を・・・置いていくことになりましたから」 「・・・南も、夜は冷えるな」 気配を消したつもりだったが、王には筒抜けだったらしい。 王になるまでの70年近くを野伏として過ごしたのだから、当然といえば当然かもしれない。しかし長い王宮暮らしでも鈍らないその感覚にファラミアは舌を巻いた。自分も南方ドゥネダインを率いていた身であるから、それがどれほどの能力かはわかる。いくら頭領とはいえ、南と北ではこうも差があったのかと思うとなんとも苦い気持ちになった。 「・・・王よ。あまり夜風にあたっていると、お体に障りますぞ」 言いながら自分の外套の止め具を外すと、王は振り返ってそれを止めた。 口元から白い息が吐き出される。顔が隠れるかというような濃いそれに、今夜の冷気を改めて知る。 「ファラミア。わざわざ呼びに来なくてもすぐに戻るよ。・・・私はそんなに信用がないのかな?貴方もご自分の身体を気遣うべきだ。」 「脱走を繰り返した王の言葉とは、とても思えませんね」 そう言ってファラミアは笑った。 王も笑ってテラスの手摺に肘をつく。 その動作は昔と全く変わらなかった。いくら注意しても直らない。 年をとってからは、自分は益々苦笑することが日常になってしまった。 ファラミアは胸中で呟いてからやはり苦笑した。 「お召し物が汚れると申し上げているのに、貴方はとうとう直りませんでしたね」 「・・・・・・・。」 「また無断外出するおつもりでしたら無駄ですよ。野伏装束は今度こそ殿にも見つけられない場所に保管させていただきましたから」 「私がそんなことをすると思っているのかね?」 「前科持ちのお方のお言葉とはとても思えません」 先ほど言った言葉と同じようなものを再び告げる。 ここでいつもなら苦笑するか慌てて振り返るかする王は、しかしそうしなかった。 「もう、遠乗りに行く相手もいないよ」 「・・・陛下。」 王は変わらずテラスの手摺に前身を預けて東を眺めている。その瞳に星々の光は見当たらない。 小さく俯き気味に呟かれた言葉に、ファラミアは胸が締め付けられる想いだった。しかし彼には目の前の王のほうが傷ついているように感じた。 (私もこの人を殺すのかもしれない) 急にそのような思いが浮かんだ。 彼を削ぎ落としていくのは敵の悪意ある刃でもあの炎の車輪でもない。 彼の愛する者たちが、同様に愛する彼を殺すのだ。 そしてそれには、私も含まれるのだろう。 ・・・しかしここで彼に挫けてもらっては困るのだ。 ファラミアは自分が出来る限りの精一杯の笑顔を王に向けた。 例え彼が自分を見ずに空を、山々を、平原を、遠い星の都を見ていようと構わなかった。 「王よ。ご子息はたいそう聡明でおられる。」 「・・・・・・。」 王は怪訝な表情でファラミアを振り返った。夜風が彼の黒髪をはらい、口元を僅かに隠している。 振り返ったファラミアの顔に揶揄も逃れもないことをみた王は、純粋なその褒詞に微笑んだ。ファラミアの微笑みも一層深まる。 「貴方にそう言ってもらえると私も嬉しいよ。」 「父君によく似ておられる。勿論、母君の才知も兼ね備えた御子でありますが」 「・・・・・・。そうか・・・。」 ファラミアの言葉に何か言いたいことがあったのか、王は少し歯切れの悪い返事だった。 「この老体が逝くには、エルダリオン様にはどうしても責を果たしてもらわねばなりませぬ」 王の顔が、サッと青ざめた。対するファラミアは変わらなく笑っている。 王は、自分の周りの空気が冬のそれのように感じられた。そんなことは実際は決してありはしないと解っていながらも。王は背後のファラミアに身体ごと向き直って笑った。 「老いぼれは私のほうだよファラミア。貴方はまだ充分若い。まだ私の前から去ることは許さぬぞ」 声が震えないよう精一杯力を込めて告げる。 だが彼の執政はやはり微笑を湛えたまま、慈愛の眼差しで彼の王を見つめた。 「王よ。貴方の尺でお計りになられては、わたくしどもは木々が生え育つのを見届けねばならなくなりましょう」 「なにもそれほどまでに生きよとは言っていない。エルボロンもよくやってくれている。貴方も全てを背負うとせずに余生を楽しまぬか。貴方の兄上のためにも、どうか長く生きて欲しい」 久しぶりに聞いた名前が出たことにファラミアは内心とても驚いた。この場でその名前が出てくるとは思わなかったのだ。思わず苦笑して目を閉じる。 「ボロミアですか。これはまた懐かしい名が出ましたな。ここのところかの方を偲ぶこともありませんでした。・・・私も変わりましたね」 「貴方は変わらないよ。彼の命日にはきちんと大河に華を贈るではないか。・・・あの合戦の日には喪に服しているだろう。・・・貴方は変わらないよ。だけど、時の流れは酷な現実ばかりを遺していく」 「殿・・・。」 王の瞳に大きな悲しみを認めてファラミアは顔をゆがめた。眉を顰めて王に向かい合う。ここで逃げてはいけないと自分を止めながら。 「王よ。貴方だけに与えられた恩寵を、ただ重荷だとばかりに思い給うな。エルダールらしさとエダインらしさ、我らに全てを取り込むことは不可能なのです。貴方が仰っていることはアカルラベースの教訓そのものですぞ。それこそが人の欲なのです。」 「私は・・・。・・・私が、人間が望むかたちで永久に残るものなどないのだ。変わらないものなどいったい何があるというのか。・・・全てが移ろい翳っていくのだ・・・」 あまりのいいようにファラミアは滑稽とも思える仕草で首をかしげた。 王はそれを視界に入れながらも虚ろな目で、まるで我が身を絶望に縋らせようかという目で、ファラミアを見ていた。その表情に向かい合う方は無性に悲しくなる。 「殿は、永遠を否定なさるか?」 王はその言葉に一瞬呆けた表情を返した。普段ならばこちらが呆れるか小言の一つも吐きたくなる顔だったが、いまは非常に嬉しい顔だった。思わず子供のような笑顔を顔に張り付かせてしまう。しかし王は少し慌てたように目を瞬きさせてファラミアに詰め寄った。ファラミアは仰々しい動作で会釈する。その態度は少しイライラさせるものだったが。 「だって・・・。そうだろう?不老不死のエルダールとて、名ばかりで完全なものではないのだ」 「形にして見えるものばかりがものではありません。人々の思いもまた語り継がれ、受け継がれてゆくのです」 「忘れ去られるの間違いではないのか」 半ば遮られて言われた言葉にファラミアは顔を上げた。彼の前には、自分自身の言葉に彼以上の動揺を示している王がいる。 ファラミアはそんな王を見ていられずに僅かに目を伏せた。 冷たい風が髪を撫でていく。 「 確かに。しかしそうであったという事実は確かなものなのですよ」 「しかし、曲折されることもある」 「王よ」 「・・・・・・。」 有無を言わせぬ語気で王の言葉を封じ込める。王も黙って正面からファラミアの目を見た。 ・・・ああ。 貴方のその眼は、私を暗闇から引き上げたときと何も変わらないというのに。 それでも貴方はわからないのでしょうか。 「貴方はいま、常に曖昧な未来を悪い方へととらえ、貴方の全てを卑下している。良きところを見ようとなさらない。」 「・・・・・・。」 真っ直ぐに見つめてくる瞳に浮かぶものを、見ないことにしよう。 私はこの方の執政なのだから。 「私はいま、どうしようもない挫折感と喪失感に襲われていますよ。」 「喪失ならば常に持っている。」 「・・・命あるものみながそうなのです」 「ならば問うが。」 ・・・一筋の光が頬を伝う様を、私は見ないことにしよう。 「あんたは曖昧な道を信ずるのか。永遠を信ずるのか。」 「お答えしましょう。」 貴方の揺れる瞳を、美しいと思える時があとどれほどあるのだろう。 「可能性に溢れた道を信じるのです・・・」 永遠を叶える悪夢を見ることも、もうなくなるのだろうか。 「貴方が歩んで参られた道を信じるのです。」 ふいに、王の瞳が揺らぎ、再び光がその頬を伝った。乾いた窓を叩く、雨の雫のようだと思った。 小さい瞬きを繰り返す男は不安定な雨雲のようだと。 彼の王は、眼の見えない子供のような仕草でこちらを見た。だがそこにファラミアの姿は写っていない。 「・・・私は、迷いだらけの一生を送ってきた。間違った道をとったことすらあった。」 まるで幼い日の息子を相手にする感覚だった。実際には目の前の貴人のほうが自分よりも遥かに年上であったが。 ファラミアは穏やかに微笑んで、王の身体の両脇に力なく垂れている手を取り自らの手で包み込んでやる。 自分の手は、あの頃と比べてなんと変わったことだろう。 しかしこの手は変わらずに癒しを施し、剣を握り、そして美しいままなのだ。 微笑んだまま不安げな顔を覗き込むと、子供はそろりと目を合わせてくる。 「望む全てのことが目の前に広がる世界が、本当の幸せだといえるのでしょうか?望む全てが叶うことなどないのです。・・・もしあったとしても、それこそ最大の不幸だろうと私は思います。」 「・・・・・・?」 「全てが終わることの空しさを知るからです」 「・・・・・・・。」 「王よ。それぞれの不幸、不遇がございます。それは大なり小なり様々な形をとって持たされるものなのです。・・・王よ。私の死を嘆いてご自分を傷つけるようでは、私の立場がありませぬ。どうか私を不忠の臣と為さしめぬよう。」 ニッコリと笑う忠臣の姿に、王は溢れる涙を必死に止めようとした。 「しかし・・・ファラミア、しかし・・・」 「王よ。死は悲しく受け入れがたく、悲惨なものとなりましょう。しかし美しい旅立ちでもあるのです。誰とも分かち合えぬ道へ船出するのですから」 「・・・わたしは・・・・・・」 「しかしこの執政にも、心残りがございます。」 突然違う種の笑いを浮かべたファラミアに、王の瞳がきょとんと見開かれた。ファラミアはその反応に気を良くしたらしく、長毛の猫のように笑った。己が手の中の、癒し手をさすってゆっくりと持ち上げる。そして礼をし、恭しく手の甲に口付けた。見開かれた瞳が更に大きくなる。 「しかし叶わぬ望みゆえ、私も幸福者のまま逝くことに致します」 「ファラミア?」 「王には叶えられるやも知れませぬ。しかし、貴方が叶えてくれることはありません。・・・それで良いのです。」 「私にできることなのか?何だ?」 見上げてくる目はこんなにも透き通っている。 それだけで私は幸せを感じるのです。 だから、いまはどうか、・・・笑わせてください。 「・・・貴方には、できませんよ」 私は、臆病者のままで逝くことにします。 漠然としたものしか伝えられず、貴方をお慰めする力もないが。 心残りも、不安も確かにあるのだが。 しかしどこか満足しているのです、我が君よ。 いつか死にゆくまえに、必ず貴方に伝えよう。 変わることのないもので、一つだけ確実といえるものがあるということを。 私には永遠に。 王への忠誠と、ずっと抱え続けた想いがあるのです。 |
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