天上縊死




「兄上・・・」
気遣わしげな弟の声で、マエズロスは自分の意識が戻ったことを知った。
・・・清潔な寝台に横たわる体はまだ思うように動かなかった。いまや失われた、ヴァラールの栄光の木をその身に宿したノルドールの視界にうつるのは、同族の乙女が織り上げた見事な真絹の天幕。その鼻腔を刺激するのは、大量の消毒液と混じった血液のむせ返るような空気だった。
フィンゴンによる救出劇から、七度目のイシルが昇ったという。なのに醜悪にも思えるその匂いは消え去ることがなかった。
マエズロスはその感触にきつく眉根を寄せた。強く掛け布を握り締め、浅い息遣いの中で再び意識を飛ばすことを拒否する。

もう、瞼を閉じればあの暗闇しかうつらない。
故郷の土を踏んでいたときの、あの感覚はもうここにない。

「兄上」
二度目の懐かしい声を聞いて、ゆっくりと視線をそちらにもっていく。
寝台のすぐそばに跪いて自分の顔を覗き込むその人を見て、呼吸も自然と落ち着いてきた。
「・・・マグロール・・」
流れるようなノルド特有の黒髪を後ろに束ね、両目に涙をためてこちらを覗き込んでいたその人は、兄が自分の名を口にしたと同時に微笑んだ。暗雲の晴れた空のようなその笑顔に、マエズロスの顔にも小さな笑みが浮かんだ。


「その辺にしておいてくれマグロール。マエズロスはまだ安静にしていなければならないんだ」
伶人である弟の声とはまた違う種の声で、マエズロスは文字通り自分の置かれていた状況を思い出す。
マグロールは目を指で拭ってから立ち上がって頭を下げた。
「フィンゴン殿。何と感謝の言を述べたら良いのか・・・。兄をお救いしてくださったことはこのマグロール、決して忘れますまい」
その言葉にフィンゴンは限られた者にしか解らないくらいに、顔を歪めた。
マグロールの言葉に、複雑な思いがわきあがったようだった。

何故なのかは、解りきっている。
その思いは常にある。
あの国にはなかったものが。
この地にはたしかにある。


「・・・マグロール。マエズロスと話がしたいのだ。少し外してくれまいか」
「はい・・・。名残惜しいこともありますが・・・。では兄上、また後ほど」
兄の表情を僅かなりとも読み取ったのか、マグロールは素直に従兄弟に従った。

この僅かな時の感覚はなんだろうか。
弟の声はどこか霞がかっていて、私には遠いものに感じる。

マグロールが天幕の外へ出たのを確認してからフィンゴンは寝台のそばに置いてあった椅子に腰掛けた。
そうしてただじっとマエズロスの白い顔を見ている。
血がひけてより一層透き通った肌は、三日前まで彼の国の大気によってボロボロにただれていた。
エルダールの命は強い。
だがこの地ではそれすら悲劇を呼ぶことがある。
それでもフィンゴンは、この赤髪の従兄弟を助けたいと思ったのだ。
どんな絶望が自分たちを襲おうとも、この人を放せないと思ったのだ。
この人の苦痛を伸ばしたのは、他でもない自分の業のためだった。

マエズロスは話し出す様子のないフィンゴンに目をやった。
フィンゴンといえばその視線に気づいているだろうに、一向に口を開かず手を握り締めている。
「・・・南岸に・・・伝令を走らせたのか・・・」
開口一番にこれもどうかと思ったが、弟のことは確かに気がかりであったマエズロスはたずねた。
目の前のフィンゴンはまるでマエズロスがそのことを口にしてはいけないというような顔で目を彼にやった。
「マグロールは、多分、マエズロスを心配していただろうし。父上やトゥアゴンが煩かったが、彼にだけ伝えて、急いで来てもらった」
「そうか・・・」
「マエズロス。貴方を失う勇気は、俺にはない」

突然の従兄弟の言葉に、マエズロスは瞬きをした。
フィンゴンはその反応に苦笑しながら寝台に手をのせる。
そこは、マエズロスの右腕がある場所だった。
本来ならば、或るはずの・・・・。

「・・・・・・。」
マエズロスは寝台に置かれた、大きい手を眺めてから彼の顔を見た。
「貴方を失うのが恐ろしく、俺は貴方自身を犠牲にしたのだ。マグロールは気付いている。これは俺の業に他ならない。だが、俺はこれから貴方を失う気もないのだ。俺のよすがを、貴方に求めているのだマエズロス。不死の国でも伝えたことだが・・・」
「安息など、今や何処にもないのだフィンゴンよ。」
自分を遮ったマエズロスの声に、フィンゴンは言葉を詰まらせた。
マエズロスはフィンゴンの目を見ているものの、その実質は何処か違うものを見ていた。
どこか懐かしむようで、しかしその瞳は暗い。
フィンゴンは苦痛の表情を浮かべた。
「私の右腕を奪い、命を救った従兄弟殿。」


だが同時に。

そなたに苦痛を、癒えぬ戒めを与えたのは、私なのだ。


「私達は再び誓言の呪いをその身に受けることになろう。そしてそなたはいつか悔やむことになるのだ。呪われた化け物を助けたことをな」
「だが俺は貴方にただ、生きていてほしかったのだ」
フィンゴンはしっかりとマエズロスの瞳を見て言った。

迷いのない光で。
もはや、過去のものと成り果てた、失われた安息の地でも変わらぬ、意志の強さで。
輝くことを忘れぬ、その心で。
もう、私には眩しいものになってしまったものが。


「・・・そなたの言うよすがは、もはや死んだものと思え。」
そう言ってマエズロスは身を起こした。
熱気にあてられていた赤い髪は、今はもう艶を取り戻して肩に流れている。
ゆったりとした寝巻きから僅かに覗く右腕は、包帯が巻かれて手首から先がなかった。
焼いた切断面を覆うそれにマエズロスは目をやってからゆっくりと立ち上がった。
「マエズロス!」

フィンゴンが制止の声をあげる。
アングバンドからの帰還を果たしてからまだ日は浅い。
いくらエルダールの身とはいえ、無理をしてはならないと思った。
それに今のマエズロスはおかしい。
まるで内面が変わってしまったかのように鋭い剣が彼にはあった。

だがマエズロスはそれ以上のことをフィンゴンにさせなかった。
今までない鋭い視線を彼に投げ、言葉を発せさせない。
「世話になったな。マグロールと共に、我が陣営に戻る。」
「・・・貴方の弟たちの元へ戻ったところで、何になる。奴らは兄を、おまえを見捨てたではないか!」
「誓言の成就には、仕方あるまい」
「・・・・・・。」
悔しげに、納得していない顔で今度は思い切りマエズロスを睨む。
(変わらないな・・・)
内心苦笑するが、それを外に出すマエズロスではない。

不毛の大地にあってもこの男の内を崩せる者はいない。

無表情でフィンゴンの横を通り過ぎようとしたとき、肩を掴まれた。
そのまま有無を言わさぬ力で向き合わされる。
「だが俺はっ、貴方が危険にさらされたときは、必ず駆けつけるからな!いいか、いくらお前が追い払っても行くからな!俺はしつこいんだ!マエズロスがどう思っても行くからなっ!!」
「・・・お前は子供か」

今度こそ苦い思いをを外に出して笑うと、フィンゴンは力が抜けたように表情を崩し、その瞳が潤んだ。
そのままマエズロスの細い体を優しく抱きしめる。
まだ完全に癒えていない傷が僅かに痛んだが、マエズロスはされるがまま大人しくしていた。

「・・・本当は、このまま離したくないんだ」
「・・・・・・。」
「あのムカつく従兄弟どもに、返してやりたくもない」
「おいおい・・・」
「これぐらいの我侭は言わせてくれ。あの国で、やっと見つけた貴方に死を乞われたとき、俺がどんな思いしたと思ってるんだ。」
「・・・・・・。」



あの地の記憶が蘇る。

『汝は我と同類なのだ、フェアノールの息子よ。宝玉の業火に焼かれるは誰でもない、汝だ。』

あの闇の虜囚の戯言が、頭に焼き付いて離れないのも、また事実なのだ。
ヴァラキアカが、我が身に振り下ろされる恐怖をみるも、また事実なのだ。



(もう、何もいらない。かの宝玉のほかは。)
そう心の底から思えたなら、どれだけ幸せか。
・・・それともそれが呪いなのか。

「貴方の右腕の代わりを勤めるほどの力は俺にはないかもしれない。だが、・・・俺は貴方が大事だから、そうするしかないんだ」
優しい力が、自身の体を抱きしめる。
だが居心地のいい場所は、常に失われていくのだ。

「・・・フィンゴン。そなたは思い違いをしている。そなたはいずれは王になる身だ。軽々しい言葉は慎まれよ」
「は?マエズロス?何を言ってるのだ?」
間の抜けた声に笑みが浮かぶ。
「もはや、私には何の価値もないものを礼とするのは無意味であろうか?だが私に出来ることはそれしかないのだ」
「マエズロス?」
首をかしげて腕の中の表情を窺おうとするが、その前にマエズロスはフィンゴンの腕の中から抜け出した。

そのまま軽い身のこなしで天幕の入り口へ進み、振り返る。
先ほどとは打って変わった笑みをその顔にのせて。
「暫しの別れだ、勇敢なる誉れの君よ!これより三度目の光が出る頃に、私は再び参上しよう。ここでは誠に世話になった」
「マエズロス?」
マエズロスらしくないその様子にフィンゴンは眉を寄せる。
そんな従兄弟の様子に彼は苦笑してしまう。
そのまま、視線を落として自分の手を見つめた。
一本だけ残った手のひらを。
苦痛が消えないのはその身体ではない。己に見えない心だった。
彼はひたとフィンゴンを見据えて呟いた。

「もはや、私はマンドスの館にすら行けぬ。私の行く末は、もはやシルマリルを手にしたところで何も変わらぬと知れ。この身を焦がすは、もはや永遠に届かぬ光なのだ」

威圧をこめて放った言霊の真意は、誰にも告げることはない。
その弟にも、今やこの地にはいないただ一人の父にも。
だがフィンゴンは同じようにマエズロスを見つめて言った。

「ならば俺の歩く道は、ただ貴方の上にあると知れ。マエズロス」



嗚呼。
フィンゴン。今や遠き我が同胞よ。
退くことも、進むことも儘ならない私は、いったい何のために生きればよいのだろう。
その問いをお前にぶつけることはないだろう。

「・・・さらばだ。」


お前を失い生きる勇気は、私にこそ無いのだから。


・・・だが今こそ思うのだ。
お前が私をよすがというならば。
私にとってのお前が、正しくそうであったと。
あのとき確かに伝えておけば、よかったのだろうか。
何か変わったのだろうか。

答えは何処にも見つからないまま。

私は灼熱の業火に焼かれるのだ。











マエ兄には特に萩原朔太郎が似合うと思う(死)。
天上縊死
遠夜に光る松の実に、
懺悔の涙したたりて、
遠夜の空にしも白ろき、
天上の松に首をかけ。
天上の松を戀ふるより、
祈れるさまに吊されぬ。