うたがた










ふたりはしあわせにくらしました。







「エステル?」

口に出してみて、かの女はそこが自らの夢の中だと気付きました。
この数年、かの女はその夢を見ることも思うこともしませんでしたが、その人を忘れることだけはしませんでした。
ほとんど無意識な心のうちにでしたが、その人はかの女の中に未だ場所を得ているのでした。
そして、もう、そこまで迫ってきているのかもしれない、かの女の最後の時ですら、その人がかの女の中から消え去ることはないのです。
しかしその人がそう願っていたのかどうかは、かの女には分かりませんし、かの女ではない、他の生ある者にもわかりません。
その人がそこにいたなら声が聞けたのでしょうが、それはもはや叶わぬことなのです。
そう、今となっては。



「エステル?」

かの女は、そう長い月日が過ぎたわけでもないのに、懐かしさと愛おしさで、もう一度その人の名前を呼びました。
その名はその人の真の名ではありませんでしたが、かの女の父がその人のために、未来に幸が降りるようにと授けた名前であり、かの女が望んだ、その人の姿なのでした。
しかしかの女が望まなくとも、その人の頭上には大いなる星々が輝くことになったのです。
その星々の中にかの女も組み込まれていることは、言うまでもありません。


いまや秋を迎えた、世代の変わった中つ国のエルの長子たちは、遥か大海の向こうへ去りました。
かの女の一族は、復讐と、誇りと、悲しみの繰り返しを演じてきた者たちでしたが、彼らはとうとう倦み疲れ、懐かしくも新しい光と希望を求めて旅立ちました。
長い長い、夏でした。
暮春であり、深い秋でもありました。
その季節も終わりを迎え、根元を暖める葉も腐ろうとしています。


かの女はただ一人で、この季節の変わり目を見ていました。
おそらく、あと数回、自分と同じ名の星を見上げれば、色褪せた葉も土に還ることでしょう。
かの女は、無限の生を生きる者として、一人になることを理解したと考えていました。





それは、もう思い出となってしまった、運命の日のことです。

かの女はその日のために、その人を想いながらも、身を焦がすことをせず、ただ希望の名のみを口ずさんでいました。
そしてその日。
かの女は自分に初めに与えられた恩寵を捨てました。
運命を変えたと、その人と共に泣きました。

永い永い、夢のような年月のなかで、その日はかの女にとって、最上の至福をもたらしました。
同時に、最上の苦痛をも与えたのですが、暫くかの女はそう思いませんでした。



暫く、といっても、その人にとっては永い時間だったのかもしれません。
その人は、その生の半分を荒野で過ごしました。
荒れ果てた大地と、暗黒の土地。
栄光が廃れた故郷となるべき場所、枯れていく故郷。
幾度目になるか分からない、曖昧とも鮮明とも覚束ない記憶の中からその人は抜け出し、かの女を娶りました。
そこから始まった幸せな時の流れは、長い時間だったのかもしれません。
しかし同時に、短くも感じたのでしょう。

二人に老いは見られませんでした。
いま、枯れた丘に横たわるかの女は、あの日と変わらぬ、荒野をさ迷った旅人が見上げる、美しい、最初の、一等星に変わりませんでした。
そして少し前に、石の寝台に横たわったのその人も、遥か記憶の彼方の、あの勇姿と変わらぬ、美しい王のままでした。
その手にあの日の剣は握られてはいませんでしたが。





「ああ、エステル・・・。」

かの女はその人が、息子に託した剣を携えているのを見上げながら、再びその名を口にしました。
声はまるで、小夜啼鳥が歌うような、朝を知らせる歓びと、夜を知らせる悲しみが、美しく織り交ぜられていました。

夕の星の名を戴いたかの女は、一言にいう、死と言うものを理解しているつもりでした。
しかし、その時が訪れた時、かの女は、遥か彼方にこの世界から消えた、美しくも物悲しい女の記憶をみたのです。
その女の運命と同じ道を受け入れた気でいたかの女でしたが、かの女は、あの歌の女では在りません。

もう一度、などと願えることがありましょうか?



しかしかの女はその人を見ました。
朧になった、夕の目でよく見てみると、その人は、あの剣を持ってるわけではないようでした。
その剣は、折れていたのです。
壮年期に刻んだ、顔の憂いもありません。
しかし、玉座で見せた、威厳のある顔はそのままです。

その人は、
裂け谷のエステルであり、北の野伏のドゥナダンであり、救国の英雄のソロンギルであり、繁栄と栄光のエレスサールであり、アラソルンの息子、アラゴルンなのでした。
希望であり、頭領であり、英雄であり、王であり、かの女の出逢った、死すべき運命の人の子なのでした。

かの女は、静かに涙を流しました。
悲しみの涙であり、懺悔の涙であり、悔恨の涙であり、なにより、喜びの涙でした。



「・・殿。・・・エステル。わたくしの王よ。
わたくしは殿をお探しして、倦み疲れてしまいました。
わたくしは幸せでした。
わたくしと殿が初めてお逢いした思い出の日、殿と出遭えたことをエルに感謝申し上げましたが、
殿と生き別れたあの日、わたくしはエルを罵り嘆きました。
あの感情は今も後悔しておりませぬ。
・・・殿の今わの際に、告げたいことは告げられたよう思います。
しかし、いま、わたくしはエルに再び感謝の言辞を捧げとうございます。」


かの女は、その、夢とも謳われた面を、漂白になってしまった陶器の面を、その人に向けて微笑しました。
その人は、静かに、横たわる女の、その美しい顔を悲しげに見下ろしていました。
しかしかの女は憂いを払った美しい顔を、その人へ向けました。


「ああ、エステル、希望の君!
殿を悲しませるようなことを、わたくしは申し上げてはおりませぬ!
わたくしは幸せでした。
殿がエルダールであったなら、などと一度も考えたことはなかったのですから。
わたくしは幸せでした。
殿の生を、これ以上ないほどに、殿のおそばで過ごせたのですから。
では、わたくしも行くとします。
わたくしは、マンドスの館には行きませぬ。
西の大地、大いなる山々、神々の光、エルダールの故郷へは渡りませぬ。
わたくしの居場所は、糸で織られた時の館ではないのですから。
わたくしが、ルシアンのようにあの館で踊ることはありませぬ。
わたくしは、ただ一度きりの、有限の生を、軌跡の糸から外れる生を、選んだのですから。」





しかしその人は、静かに、かの女の傍らに膝をつき、かの女の、白く、透き通った、細く冷たい手をとりました。
その人には、肉体はありませんでしたが、ぬくもりはありました。
その手の平は、かの女の知る、かの女の愛した、人の子の温もりでした。
かの女は、涙を流しながら、柔らかく微笑し、精一杯の呼吸をしながら、その手を握り返しました。
たしかに温かい、その人の手の平を、かの女が忘れることはありません。




「ごきげんよう、わたくしが、永久に愛した我が殿!
運命を嘆くも、絶望を知ることのなかった、勇敢なる希望の人の子よ!」




そしてかの女は、かの女の種族の言葉で呟きました。
夢のような、目も醒めるような美しい女は、静かに瞳を閉じ、頭上には夕の星が輝きました。
枯れた葉が、夢のように舞い散るなか、かの女は息を引き取りました。










エアレンディルの船が、猛々しく航行します。
シルマリルは、余すことなく光を注ぎ、西の大地に戻っていきます。
朝がきて、朝を想った土の民は、遥か彼方の大地を仰ぎ見ました。
その友の、海を見る目が憧れを失うことはありません。


しかしかの女は、西への道が義務付けられていたにも関わらず、その召し出しは行われませんでした。
光はかの女の、その夕星の目には輝きませんでした。
ただ決して、何かを握って離さずに、
その面には、エルダールやヴァラールの記憶の中にさえ留めていない、
大いなる美がありました。


そしてそれはかの王にも言えることなのでした。













彼らは幸せに歩き続けました。


危なげな足取りでもなく、軽い足取りでもなく、


幸せが芽吹く足取りでした。



彼らは、死ぬまで、幸せに暮らしたのです、


そして、死んでからも、限られた生を、誰にも知られず、誰にも悟られずに、暮らしたのです。



それは、それは、幸せに、暮らしました。



























文章を見れば想像つくかと思うのですが、これはTTT公開前に書いたやつなので結構倒錯的です。ハイすみません。
ガチガチした何か読み手を嫌な気分にさせるメルヘンさを目指したような・・・死)。あとね、coccoの某歌の影響が強い。

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