「ねぇ、“屋根の上の切り裂きジャック”って知ってる?」
それは街で囁かれている、しかし誰もが知っている一つの噂。
この街に伝説の殺人鬼がやって来た。
かつて異国の街を血に染めた、正体不明の
黒いコートをはためかせ、夜闇に沈んだ街並みを、屋根から屋根へと跳び回る。
男女の別は歯牙にも掛けず。
老いも若きもお構いなし。
獲物を見るや、飛び降りて。
得物の鉈を、振り下ろす。
一つ振るって肉を裂き、二つ振るって血を弾き、三つ振るって骨を断つ。
道に散らばる躯の残骸、血まみれジャックは
月の無い夜は気を付けろ。
月夜の晩も気を付けろ。
今夜も街の何処かの屋根で、笑うジャックが駈け回る……。
「――ハッ、馬鹿馬鹿しい」
大都市の郊外、と言えば聞こえは良いが、夜中はどこの店も閉まってしまう様なド田舎(唯一頼みのコンビニはたったの二軒!)であるこの街の、人気が全く無い街路を歩きながら俺――保坂マサト(17)、現役受験生――は鼻を鳴らした。
“屋根の上の切り裂きジャック”。
最近、この長閑な街の人々の間で、都市伝説のごとく浸透してしまっている与太話だ。
何時の頃からか伝わってきて、瞬く間に街中に広まった。ついさっきも妹のアヤカが、
「ジャックに会ったら、屋根の上に逃げると良いんだって。ジャックは屋根の上では絶対人殺しはしないから」
などと割と本気の顔でご忠告くださったので、
「アホかお前は」
と言い捨てて家を出て来た所。
ただ夜中にコンビニに買い物に行くのに、妹に「バカ兄」呼ばわりされなきゃならんとは……まったく、切り裂きジャック様々だ。
昔っからこの手のオカルト話は嫌いだった。
友達が学校の七不思議やらで盛り上がっている中、いつも一人でソッポ向いて窓の外を眺めているのが俺だった。
何がそんなに面白いのか分からなかったし、何と言うか……腑に落ちなかったのだ。
幽霊にしろUFOにしろ、見たことがない物を信じる、あるいは信じたつもりになる、というのは俺にはできない発想だった。
ガキの頃は、自分の正しさを証明するためにあらゆるオカルト知識を詰め込み、一々矛盾点を追求しては周りに嫌な顔をされたものだが、その度に仲間外れにされることに虚しさを覚えてからは、そういう話自体に係わらないようにしていた。
しかし、今回はどこもかしこもその噂で持ち切りで、避ける、というのも難しくなっている。自然、アヤカとやり合ったような些細な衝突も増える事になっていた。
……それにしても、誰が言い出したのか知らないが、百年以上も昔の殺人鬼が未だに存在してるなんて話が、どうしてこうも簡単に受け容れられているのだろうか? 加えて言うなら切り裂きジャックは、
・老若男女見境無しだった訳じゃない。(売春婦を標的にしていた)
・鉈(刃渡り50cm以上)なんか使わない。(「メスのような鋭利な刃物」だったらしい)
・そもそも屋根の上を駆けずり回ったりしない。(どこの変態だそれは)
結論:んなアホな殺人鬼なんぞいねぇ。
ちょっと調べれば誰もが同じ結論に達するはずなのに、この噂はすんなりと街の大多数の住人に受け容れられていた。しかも間が悪いことに数日前に行方不明者が出たせいで、その傾向には一層拍車が掛かっている。
ほとんどの住人が夜中に出歩かなくなったのだ。
元から閑散としていた夜の街の景色はいよいよ人の影が無くなり、「おかげで売り上げがガタ落ちだよ……」とは行きつけにしているコンビニの、店長の言。
その店長とて得体の知れない切り裂き魔に対する恐怖を僅かに言動の端に滲ませているのが見て取れて、俺は今夜もまた鬱な気分にさせられる。
正直な所、“屋根の上の切り裂きジャック”をまるで信じていない俺としては、誰も彼もがその影に怯えているこの現状にいい加減ウンザリしていたのだった。
何せ、異常なのは
そんな訳でコンビニからの帰り道、暗い夜道をトボトボと、現状の不満をブチブチと吐き出していた――という事なのだが。
冷たい風が通り抜け、不意に背筋に寒気が走った。
十月の末ともなると夜はめっきり冷え込む。今やゴーストタウンさながらに静まり返ったこの街の路上では一層それが実感できて、反射的に俺は肩を竦め顔を上向けた。
「……おぉ」
思わず声が漏れる。
視線の先には夜の空。上空は風が強いようで、先程までかかっていた雲は綺麗に払われて、大きな満月が浮かんでいるのが見えた。
寒い時期は星がよく見えると言うが、今夜の空はお月さんが文字通りデカイ面をしていて、小さな星明かりはすっかり掻き消されている。
だが、その分地上は明るく月に照らされて、ひんやり柔らかなその光の中、見慣れた景色はまるで塩で出来ているかのように白く浮かび上がっていた。明滅する街灯が微かに無粋なノイズを放っているものの、ひどく静かで現実感を失っている世界。
その中で俺は一人きり。世界を独り占めしている錯覚。何というか――悪くない気分だ。
月世界に変わった地面の上、ふわりふわりと歩を進める。その何となく不安定な感覚が妙に楽しい。
今だけは、周りの寒さなんて気にならない。あの生意気な妹にも兄らしい寛大さを示してやれることだろう。もちろん受験のことだって……忘れよう。というか忘れたい。
ともあれ、こんないい夜だ。どっかの変態切り裂き魔なんかには間違っても邪魔されたくない。
目の前の風景並みにぼんやりとした意識の中で、俺はそんなことを考えていた。
T字路に突き当たる。
コンビニからここまで10分、ここから家までもう10分。ちょうど道程の中間点になる。もちろん夢見心地の俺にはそんなことはどうでも良くて、軽い足取りのまま右に曲がる。
相変わらず世界は真っ白だった。月の光は世界を隅々まで照らし、闇を掃き清めている。
だからこそ、その中でポツンと、シミみたいに黒く蹲っている影はすぐに目に入った。
それが人間であるのは見てすぐに分かった。蹲っているので、そのシルエットから性別を見分けるのは難しいが、たぶん女性だろう。男にしては小柄な体格。頭から長い髪が肩に掛かっているらしいのが見える。
他人がいる、という事実に、俺は強引に夢から覚めさせられた。1Gの重力が戻ってきて、地面を踏む感触がより確かになる。ついでに忘れていたかった事も諸々思い出されて、心に掛かったGも元通り。
「……っと、そんな場合じゃないか」
また鬱に傾きかけた気持ちを脇に置いて、その(女性らしき)人の側に駆け寄る。さっきまで低重力下にいた足は心なしか重く感じたが、それも無視。
近付くと、やはり女性。スーツにスカート、そしてパンプス。実に判り易い、仕事帰りのOL風。
なるほどな、と思った。
夜は引き篭もりばかりになる街でも、仕事の都合で帰りが遅くなる人が間々いるのは当然だった。おそらくは残業してやっと帰る途上だったろうに、具合が悪くて動けなくなってしまったのだろう。気の毒なほど運の悪い人だ。
「……あの~、大丈夫ですか?」
返事はない。
長い髪がカーテンになって俯いたその顔色は伺えないが、肩が大きく上下していて、荒い息をしているのは分かった。……マズいな。どうやら急患らしい。
「苦しいんですか? 救急車呼びましょうか?」
女性の肩に手を置いた所で、間抜けな事を言ってしまったことに気づいた。息が荒いんだから苦しいのは当たり前。思ったより冷静さを欠いているらしい。
とにかく容態を確認しないと……って、素人の俺が何を判断できるってんだよ? あぁもうっ、本格的にパニくってやがる。とにかくここは急いで救急――――
ぞぶり。
「――へ?」
突如、腹の辺りから広がる違和感。
まるで反応できない素早さで、目の前の女性が振り向き、抱きついてきたのだ。左腕は俺の首に回され、右手が俺の腹に添えられ――もとい。
違和感が熱に変わり、灼熱が神経を焦がして痛覚を引き出すまでの一瞬、抱きついて来た女――非常時だ、“女性”なんてと改まった言い方をする余裕なんか無い――がガバッと顔を上げる。その、月の光に照らされている事を差し引いてもなお青白い面を目の当たりにして、ようやく俺は最悪の災難に見舞われているのを理解した。
女は、病的な肌の色を除けば、割と整った顔立ちの美人だった。だがそんなことはどうでも良くて、俺が、とにかく恐ろしくて堪らなかったのに目を逸らせなかったのは、同じく逸らすことなく見つめ返していた女の目だった。
血の気が失せ、しかも瞳孔まで真っ白な目。白濁しているのとは違う、もっと硬質な印象。
随分昔、さらに大昔に撮られた、不老不死の薬を飲んだイカれた女たちが男を追いかけ回す、という筋の映画を見たのを思い出した。
彼女たちは死なない身体のおかげで、首が一回転してようが腹に大穴が空いていようが平気で生きている。そんな姿で、ちょうどこの女みたいに鈍く光を反射した白い目で男に微笑み、言うのだ。
「――Please」
映画自体はコメディだったのだが、そのシーンが妙におっかなくて、10歳にも満たない俺は半泣きになってしまった。
本当に良く、覚えている。あの、意味も無く恐怖を掻き立てられる、温もりさえも奪い去られそうな、
それが、文字通り、目の前で、俺の目を、覗き込んで、いる……俺の、腹に、手ぇ、突っ込ん、で……こ、殺……死――――あ、あは……
「っ! ――がぁ、ぐぶっ」
トラウマを引っ張り出されて半狂乱になる寸前で正気に戻ったのは、ようやく――とは主観であって、実際は半秒にも満たない時間で――襲ってきた痛みによって意識が逆ベクトルへ振り回されたからだった。結局、痛みも恐怖も改めてしっかりと認識させられる訳で、とてもじゃないが、僥倖とは思えない。
痛みを訴えるため叫ぼうとすると、胃の辺りから上がってきた粘っこい血に喉を塞がれた。そのまま吐血したものの、べっとりと絡み付いて上手く呼吸が出来ず、何度も咳き込む。
女を引き剥がそうと藻掻きもしたのだが、女の腕がとんでもない力で俺の首根っこをがっちり押さえ込んでいるので無駄な足掻きだった。
そうしている間にも腹の方ではクチャクチャ、と嫌な音がしている。女の指が俺の臓物を五指で掻き回しているらしい。
指というよりミミズか何かが潜り込んでくるウネウネした感じとか、蠢いているのが五本より多い気がするとか、妙な違和感があるのだが、収まらない激痛がそれ以上思考を巡らすのを邪魔している。
とにかく絶体絶命。こりゃぁ死ぬよなぁ……。
さっきよりは冷静にそれを受け止めることができた。と言っても、実際は既に錯乱する気力も失せてるだけ。もう無理、諦めよう。
ニュースのコメンテーターがおっしゃる通り。「生きる気力に欠ける現代っ子」ってヤツなのだ。しかも初っ端で取り乱し損なったせいで、死に対してもどこか真面目に向き合えない、この無気力さ。
走馬燈がクルクル回り出す。最初に浮かぶのはやはり家族の顔。
――父さん。貴方が必死に学費を稼いでくれてたのに、どうやら高校は卒業できないようです。
給料袋も髪の毛も薄い貴方ですが、俺にとっては尊敬できる父親でした。
――母さん。いつも寝起きの悪い俺を叩き起こしてくれてありがとう。
空手有段者が寝ている息子に水月突きを決めるのはどうかと思いますが、それも貴方の愛でした。夕食のコロッケ、おいしゅうございました。
――アヤカ。我が愛しき妹よ。エライ兄貴になれなかった俺を許してくれ。
一週間前、お前が取って置いた、ふーりん堂の特製プリンを食べたのはこの兄だ。一ヶ月前にサッカイ屋限定100個の芋ようかんが消えたのもそうだ。さらに遡ってその他諸々……まぁ、最後なんだしまとめて許せ。
家族の後には学校の友人を始め、親しい人々が続く。そしてそれらの人々と過ごした日々の思い出と共に今までの人生をダイジェストで振り返り――終いはここに至る最後の十分間の映像。
人の気配が消えた街。高い位置に在ってなお巨大な月。それ以外に星が一つも見えない夜空。全てが純白に塗り替えられた街並み――――あぁ、なんで気付かなかったのか。
あり得ないことだらけ。何もかもが異常じゃないか今夜は。それこそどんな異常も正常となるくらい。
それに気がつかなかった時点で、俺の末路は決まってたってことか。今度こそ諦めではなく心底、自分が死ぬことに納得した。
結論:一番の愚か者は俺。
走馬燈が止まり、意識を目前の現実に移す。
あぁ、なんて
殺人鬼の女は腹に突っ込んだ手を掻き回すのを止めないし、そこから流れ出る血は止まらないまま、世界は未だ静寂の中真っ白で、ただ俺の足下だけ血溜まりで赤く赤く。
いい加減立ってるのも億劫になってきたので、離れずにいる女に体重を預ける。
『――屋根の上に逃れば良いんだって』
……あぁ、そうだったなアヤカ。お兄ちゃん、お前の言うこと聞かなかったよ……まぁ、屋根に上る隙なんてまるで無かったんだけど。来世ではもっと他人の忠告に耳を傾けることにするから勘弁な。
さて……生憎辞世の句なんて捻りようもないし、たった今頭を過ぎった事を呟いて、それで幕を引くことにする。
「大分イメージ違ったなぁ……“屋根の上の切り裂きジャック”。噂と全然違うじゃん」
「――それはかなり失礼な勘違いなんだよ」
鈴の音が響いた様だった。高くて耳に残る声。
そんな気力はもう残ってなかったはずなのに、声に誘われ首を動かす。顔を向ける先は俺から見て右側、道に沿って立ち並ぶ民家の一つの屋根の上。
「…………屋根の上?」
とても嫌な予感が俺の胸を駆け抜けて――そして的中した。
「ようやく二体目……今期の地霊は本当に隠れるのが上手いんだよ」
中学生くらいに見える、ちんまりとした背丈。
あまり手入れがされていないらしい灰色の髪を頭のてっぺんで無造作に束ねてあって、それが刈り入れ前の小麦みたいに緩くしなって立っている。
真っ黒な、膝下まで伸びるコートの前をしっかり留め、一瞬ゴム長靴と見紛う、艶々の黒革ブーツ。
そんな風体の少女が、屋根の上に立って大きな黒い瞳でこちらを見下ろしていた。
ジュプッ!
「グッ――!」
突然の事に呻いてしまう。
女がいきなり俺の腹に突き刺していた手を抜き、さきほどと同じく人間とは思えぬ速度で飛び退る。
ゴツッ!
「デッ!」
支えを失った俺の身体は忠実に物理法則に従い、路面に叩き付けられた。倒れた拍子にしたたかに顎を打つ。……悲しいことに、この俺の悲惨な状態は完璧に無視されて状況は続いた。
女が身を翻して駆け出す。それに併走する形で少女も屋根の上を飛ぶ。風を受けてレインコートの裾が暴れる。
――黒いコートをはためかせ……屋根から屋根へと跳び回る。
誰から聞いたのか忘れるほどに、耳に馴染んだ話の一節が頭の中で響く。
あっという間に相手を追い抜き屋根から飛び降りて、行く手を塞ぐ形で少女は着地。その拍子に彼女の手許でチリリン、と鈴の音がした。さっきは気のせいかと思っていたのだが、彼女が持っている鈴が鳴っていたようだ。……まぁ、持っているのは鈴単体ではなくて、鈴が柄の尻に付いた――大方の期待を裏切らず、刃渡り50cmほどの――大鉈な訳だが。
「……逃がさないんだよ」
袖口からちらりと覗いた、少女特有の骨ばった華奢な腕で、“鉈”と呼べるギリギリのサイズの巨体を軽々と持ち上げ肩に担ぐ。そして突進――。
“ギィィィ――ッ!”
人の喉の構造上、決して発することの出来ない怪音。
白い目の女が、突っ込んでくる少女を迎え撃つように腕を振る。
“窮鼠猫を噛む”。女の攻撃がそういう物であることはすぐに知れた。なぜなら、さっき怪音と呼んだ女の声に恐怖の色が溢れていたことは、俺にも感じ取れていたから。
だが、本気の猫が鼠に噛むチャンスを与えるはずも無く――
「ヒュッ――」
十歩以上あった間合いを一気に詰め、迫る腕を意に介すること無く一閃、腕ごと女の胴体を袈裟懸けに斬り下ろした。
そのまま断面がズレる間を許さず一回転、逆袈裟の剣筋を逆さに辿る形で斬り上げる。
ほぼ心臓の位置で交差するバツの字のラインに沿って四分割された身体が四散する。いや、最初に斬り飛ばされた腕を入れて五つか。
女の五体を五つの肉塊に変えた少女は、ユルリ――と、振り抜いて止まっていた姿勢を戻し、血塗れた大鉈をぶら下げて立ち上がる。
その足下には斬り散らかした残骸。
その頭上には中天に届いた白い月。
そこは異常の中心。世界の真中。
的中した予感は確信へと変わり、しかし認めたくはない故に、口を衝いて出たのは
「…………誰?」
あまりに当たり前のことを聞いたせいか――それとも、地面に転がったままの俺の姿が滑稽に映ったのか。
「ジャックはジャックだよ。今期で、三十六番目の“屋根の上の切り裂きジャック”」
自らを殺人鬼と名乗った少女は、擬音語にするなら「にへらっ」とかいった感じの、非常に緊張感に欠けた調子で笑った。
ドレッドヘアにダボダボのTシャツ。黒く焼いた顔の中央に細身のサングラスが載っている。
個性的に見えて典型的、という没個性の男が、これまた無個性な叫びを発する。
“ギィィィ――ッ!”
先程の女と同じ高さの怪音。俺よりも一回り大きい拳を、空気を弾き飛ばすかの勢いで振り下ろす。
「……この寒空の下でTシャツってどーよ?」
俺の正当なツッコミは相変わらず無視されてる。
ジャックは縄跳びでもするような気軽さで頭上高く跳んでこれを躱し、既に振りかぶっている大鉈を落下と共に頭蓋に叩き付ける。
その勢いは頭骨を砕いて脳漿をブチ撒けてもなお止まらず、喉に食い込み胸を割り、
「ゲェ……。何度見てもエグいやり口だなオイ」
言いながら、四回目ともなると斬殺死体にも大分慣れていた。しかもこの後、この二枚おろしがどうなるのか知っているなら尚更。
「仕方ないんだよ。ああいうのが今期のジャックの得物の最も有効な扱い方なんだから……良い?
鋭く振って血を落としつつ、喋るジャック。長々と、嬉々として刃物とそれを使った殺傷行為について語る少女の姿はとてもシュールだ。その光景になんとなく圧倒されて、曖昧に頷くだけの俺。
「えっと……その、順調みたいだな」
「うんっ。ジャックが発生してから今日まで二体しか見つけられなかったのに、マサトのおかげであれから続けて三体。感謝してるんだよ」
……それは何よりだ。
まぁ、そんな訳で――なぜだか俺は、この“屋根の上の切り裂きジャック”を名乗る少女の手伝いの様な事をしていた。
――これにはちょっと説明を要する。
化け物女を路上の生ゴミと化した少女の素性が明らかになって後――俺はやっぱり死を覚悟していた。
なんせ真打ちが登場した訳だし。それ以前にかなりの重傷を負っていて手遅れなんだし。
死期が近いせいだろう、既に痛みが退いているのを自覚しつつ、俺はとりあえず瞼を落とすことにした。目を見開いたまま、というのは永遠の眠りにしても寝心地が悪いと思う。
視覚を閉ざして鋭敏になった耳が捉えたのは、近付いてくる少女の足音。鉈に付いた鈴が鳴る。チリン、チリン。
少女の鉈で斬殺されるのが先か。それより早く出血多量で昇天するか。あまり選びたくない二択だが、どちらかと言えば後者が良い。せめてこのまま安らかな死を――
靴音(と鈴の音)がすぐ側で止まった。……ジーザス。神が居ないことを俺は今知った。
「キミ、寝るにしてもこんな所じゃ風邪引くんだよ」
……意外だ。
まさか殺人鬼が他人の身体を気遣うとは。健康体のほうが斬り甲斐があるとか、常人には分からない
「キミ――ってのも何だね。名前教えて欲しいんだよ」
猶も話しかけてくる殺人鬼。
これから自分を殺すだろう相手と仲良く会話する義理もないのでダンマリを決め込む。
「オーイ、聞いてるー?」
無視だ無視。
「…………」
死んだふり死んだふり――
「てい」
がすっ!
「ぐぼぉぁぁぁっ!!!」
腹部に鈍痛。
目にもとまらぬ高速移動を可能にする脚力で蹴り飛ばされたのだ。あまりの痛みにしばし動けない。元々ジッとしてたけど。
行動可能になるや、すぐさま立ち上がる。言い忘れていたが、俺は割と気が短い。
「こっ、このクソガキ! 死んだらどうすん…………ぁ」
そして、カッとなると後先考えない。
「死ぬ訳ないんだよ、そのくらいで。キミ、地霊に憑かれてるんだから」
ホント、意外だった。目が合った瞬間殺されると思ってたのに、殺人鬼は微笑んでいた。少女の姿で、「仕方ないわね」と出来の悪い息子を前にした母親の様に。
見てみると彼女の言う通り、死ぬ訳がない。信じられないことに腹の傷が完全に塞がっていたのだ。
「さっきキミは“種”を仕込まれた。だから傷の治りも早いんだよ」
「チレイとかタネとか……訳分かんねぇよ」
自分より年下に見える相手に子供扱いされた気がして、なんだかふて腐れた言い方になってしまった。少女の方は、構うことなく話を続ける。
「地霊っていうのは、人間が発散する思念が寄り集まって、さらに地脈と結びついて意識体として固定された物のことだよ。キミはその複製を埋め込まれた。それが“種”」
どんどん飛躍していく説明について行けなかったが……間違いないのは、これが俺の嫌いな類の話だということ。
「……思念? 地脈? 複製を埋め込まれた? そりゃ、さっきみたいなの見せられた以上、あの女もオマエも普通じゃないってことは認める。俺の身体が異常なのもな。だからって何でも話しゃ信じるとでも思ってるのか? 大体、“意識体”ってんなら、あの女はなんでちゃんと身体があるんだよ!?」
つい、反論。我ながら悪い癖だと思う。
「……ナルホドね~、キミがなんで無事なのか良く分かるんだよ」
少女のほうは涼しい顔で、意味ありげに下から俺の顔を覗き込んでいる。ちょっと呆れている様な仕草が、こちらの癇に障る。
「オイ、無事ってどういう――」
「見たほうが早いんだよ……アレ」
クイッ、と、親指で自分の後ろを指し示す。促されるままに目を遣るが……何も無い。
「…………
そう、そこにはあるべき物が無かった。
少女の容赦ない斬撃を浴び、無惨に転がされていた化け物女の死体が、五つに解体されたパーツの全てが無くなっていたのだった。
慌てて死体のあった場所に駆け寄ると、遠目には気付かなかったが、そこには白い砂らしき物が山を作っていた――合計五個。
「……まさか、これが」
あの化け物女の死体だったってのか……?
「核であった地霊が霧散してしまえば、身体は形を保てず崩れ去る……これが地霊に憑かれた、哀れな犠牲者の成れの果て」
一瞬、淡々と語る声の響きに悼むような色を見た。しかし、目の前にもっと優先すべき問題が示されていた俺にはそれを気にする余裕が無かった。
「…………俺もいずれこうなるって言うのか?」
あの女みたいに、人を襲う化け物に。少女の殺意の対象に。俺もなってしまうと言うのだろうか。
愕然とする俺に、彼女は柔らかく微笑んだ。やはり少女に似つかわしくない、母性漂う笑み。
「そうならないようにするのがジャックの役目……心配しないで。ジャックは
そう言って、俺の手を取り両手で包んだ。
「……ちょっとは話を聴いてくれる気になったかな?」
俺は無言で頷く。
「じゃあ、説明するんだよ……でも、その前に――」
ゆっくりと手を離して、今度は見掛け相応の、あの緊張感に欠ける「にへら」顔で、
「キミ、名前は?」
……今度は無視するなんて出来なかった。
今から120年前、正確には西暦1889年。場所は、長き繁栄に翳りが見え始めていた大英帝国、その中心たるロンドン。
霧煙る街、その微細な水滴のカーテンに隠れて、とある怪異が史上初めて発生した。
自然界では本来あり得なかった現象。産業革命以降の都市化、つまり人口の集中が生んだ、言わば公害。それが“地霊”と呼ばれる思考の群体だ。
人の思いはエネルギーである。そのエネルギーが人を動かす活力となる。ニューロンがやり取りする化学物質、走り抜ける電気刺激とは別に思考を司るそのエネルギーは“思念”と呼ばれる。
“思念”は日々、人の脳内で生み出され、行動の原動力となり、幾分かの物が体外に排出される。僅かな思考情報の断片を抱えて空気中を漂う思念は、いずれ大地を走る巨大なエネルギー流である地脈に合流して分解される、というのがこの星のエネルギー連鎖の正しい形。
しかし、人間という生物は生きることに勤勉だった。生んで増やして地に満ちた。その上、豊かさを求めて極端に集住する様になり、そういった大都市が世界の至る所に作られた。
吐き出される思念の増加と集中。そんな中、思念が互いを補完するように絡まり合い、いつの頃からか意識にも似た膨大な情報とエネルギーの塊が出来上がってしまうまで、それほど長い年月は掛からなかった。
地霊の発想は、その原料が原料だけに、生物とさして変わりがない。
地脈から存在維持のための力を汲み上げるのも。肉体を欲して人間に取り憑き、意識を乗っ取るのも。自分の複製を作り、他の人間にそれを植え付けるのも――全ては、“生存”と“種の保存”という欲求に基づいた行動。
問題は、それが人類にとっての同様の目的と完全に背反していた事だ。
地脈を押さえた地霊は、圧倒的物量でもって容易く人の意識を征服する。内側から作り替えられ、身体能力は飛躍的に向上する。
昼は奪った身体の持ち主に擬態し、夜は仲間を増やすべく徘徊する。ねずみ算式に増えていく地霊に対して、人間はあまりに無防備だった。
発展という大義の下、環境破壊を続けてきた人類へのしっぺ返しのごとく、ついに現れた人類の天敵。
その最初の現場が、“世界の工場”たるロンドンであったのは、いささか象徴的ではあるが、あくまで偶然である。
しかも、それに先んじて、“切り裂きジャック”と綽名された稀代の殺人鬼が闇夜の舞台に登場していたことに、必然性などあろうはずもない。
邂逅――その際に何があったのか。語り得る事はそれほど多くない。ただ言えるのは、この生まれたばかりの怪異を発見したジャックは驚きも恐れもせず――それらの感情を湧き上がらせることすら惜しむように――嬉々として襲いかかり、結果として22体の複製地霊と“
こうして、人類を襲った未曾有の危機は、一人の狂気の沙汰によって誰に知られることもなく終結した……いや、「誰も知らない」というのは語弊があるだろう。実の所、
人類の集合意識。総体としての意志。どう呼ぶかは自由だが、“ヒト”という種が全体で共有している一個の人格。
彼であり彼女であるソレは、一連の事態の終演を眺めやって安堵し、次に憂慮した。
今回の事は始まりに過ぎない。人の数が激減しない限り、地霊は何度でも発生する恐れがあり、その対策は急務だったのだ。
ただ、幸運なことに有効な方策は既に用意されていた。
『人の身で、戦力的に遙かに劣る状況で、発生した地霊を悉く消滅させた、そのノウハウ――いや、いっその事それを成した存在そのものの情報を保存し、然るべき時に利用すれば良いではないか』
そう結論した人類は、切り裂きジャックの全てを保存し、その知識と技術に、人類の守護者として相応しい器を与えることにした。地霊に劣らぬ身体能力と人類に対する無償無限の友愛。「“殺人鬼”なんてとんでもない!」という訳だ。
後は最初の蒸し返し。
地霊が発生すると、人々は誰からとも無く“屋根の上の切り裂きジャック”を思い描き始める。噂が個々のイメージの差違の摺り合わせと詳細化を進める。人々の強いイメージによって実体化した“器”に、全人類に拡散しているジャックの情報が集約する。
こうしてジャックは屋根の上――これは、地霊が常時地脈からのエネルギー供給を必要とするために大きく地面から離れられない、つまり安全であることによる――を駈け、地霊を狩る。反対に、地霊は逃げる、隠れる、時に反撃する。
繰り返される鬼ごっこが延々と、今なお果てることなく続けられている。
「――つまり、“地霊”という現象を解消するために、“ジャック”という幻想が想像されたんだよ……分かった?」
「いや、嘘だろ」
「いきなり全否定っ!?」
「なんでだよぅっ」とか良いながらプリプリ――こんな擬音で形容できるヤツも珍しい――怒るジャックを見遣り、俺は肩を竦める。
こっちだってそれは知りたい。物心ついてから十数年来の謎なんだから。
あまりに現実離れした話は受け容れがたい。これはほぼ万人共通の認識であるはず。だけど俺の場合、最初から
俺の内面にはそういう非科学的、未だ人知の解き明かし得ない物に対する受付窓口が存在しない。端的に言うなら、空想する能力が極端に低い。今夜みたいに明らかに奇妙な物が、目の前に示されるような時でなければ、俺のポンコツな想像力は働かない。
他人なら曖昧模糊にして飛び越えてしまえる境界線が、俺には分厚い壁としてハッキリ見えている。その壁の向こうがどうなっているかなんて、俺には知りようがない――そういう事だ。
俺の態度を観察して何か得心がいったらしく、ジャックは盛大に溜息を吐いた。
「……まさかここまで筋金入りとはねぇ。そのおかげで助かってるとは言え――“霊覚障害”。ホント厄介なんだよ」
「“霊覚障害”?」
聞き慣れない、だが自分に関係のある風な言葉に少なからぬ興味を覚えて聞き返す。
「嗅覚・視覚・触覚・聴覚・味覚。これらの五官で受容できない、エネルギーの流れを知覚するのが霊覚器官」
抑揚少なく語り始めたジャックの言葉はさっきまでの話とは違って、ストンと腑に落ちる――そうだ。これは俺がよく知っている話。
「突き詰めれば世界は、仕組みを定める情報と、仕組みの中で仕事するエネルギーによって成り立ってる。エネルギーによって起こる流れが世界を動かす原動力。人は様々なエネルギーを発見しているけど、地脈の大いなる流れしかり、思念しかり……知られざるエネルギーはまだ沢山有る。しかし人間はそれらを感じている。五感では知覚できないエネルギーの存在を、霊覚で感じ取っている。でも――」
「俺にはそれが無い」
無意識に口にした。ジャックは微かな笑みとともに頷き、
「そういうこと。人が見えないものを空想するとき、霊覚から集めた情報に多くを依存している。先天的に霊覚器官に問題があるとそういった補完情報を持ち得ないから、知識と経験と論理で説明できない……言わば、絵空事を理解できない」
それはずっと感じていた違和感。
俺だけみんなとは違う、欠けている所があるという確信。今ではそれほどではないけど……劣等感も。
自らの身体で――
「普通の霊覚障害は霊覚器官の機能異常なんだけど、キミの場合は器官の数自体が極端に少ない特異体質みたいだね。だから、霊覚器官にアクセスして意識を侵すことが出来なかった地霊は、直接脳にアクセスするバイパスを作る手間を掛けなきゃならなくなったんだよ」
あの女が腹の中を掻き回していたのはそういうことか。そしてその作業に手間取っている内にジャックに見つかってしまった訳だ。
「これで大体理解して貰えたかな?」
「……最後の所だけな」
俺の頑なさと物わかりの悪さに、さすがのジャックもへらへら笑っても居られなくなった様だ。
口を尖らせ眉根を寄せて、小さな子供みたいに機嫌を損ねたことをアピールしてきた。
「むぅ……まぁいいよ。信じられない部分はそのまんまでいいから頭に入れといて。おとぎ話でも聴いたつもりで……。じゃ、行こうか」
「ちょっ……行くってどこへ!?」
返事も待たずに歩き出すジャックを慌てて引き留めた。
「ジャックはジャックなんだよ? 地霊狩りに決まってるじゃない。マサトが手伝ってくれるおかげでここから先は楽ができそうだよ」
「誰も手伝うなんて言ってねぇっ!」
つか、帰りたい。いくら俺が鈍感だって言っても、厄介事であることくらいは分かるんだ。
「それに俺は非力な人間。足手まといに――」
「まさかマサト、自分が助かったなんて思ってる?」
苦し紛れの言い訳を遮ったジャックの台詞は、俺の舌を凍らせるに充分な冷ややかさを持っていた。しかもこの時のジャックの顔と来たら……明らかに俺の反応を楽しんでいた。アリスが見たチェシャ猫の笑い、というのはたぶんこれと同じヤツ。玩具を見つけた猫の顔。
「マサトの中にはまだ地霊の種が残ってるんだよ? ジャックが一時的に殺しておいたけど」
片足を軽く振る。さっき俺の腹を蹴飛ばした事を言ってるらしい。
「その内、種は復活する。時間は掛かるだろうけど確実にマサトの身体を支配していくだろうね。今期の“
「……それで俺が居ると見つけやすくなる訳だな?」
話の流れが読めたので、先回りして観念することにした。
「……分かった。お供させていただきますジャックさん」
「ん、物わかりが良くて大変よろしい」
慇懃に頭を下げる俺と、ふんぞり返って言うジャック。わざとらしいのはお互い様だ。
こうして協力関係――主従関係とも言う――は成立した。
「地霊は皆同じ物だからお互いに共振し合うの。だからマサトが『な~んとなくお腹の中がムズムズするなぁ……』って思う方に行ってくれれば地霊を見つけられるって寸法だよ」
……なんかそれ、下痢みたいですっごく嫌だ。
「ほらほら、そんな嫌そうな顔しない。マサトは歩いてるだけで良いんだから。ジャックが付いてれば危ない事なんて何にもないよ。『心配しないで。ジャックは
見た目ってやっぱり大事だ。
同じ言葉でも表情一つで、安心も出来れば、どうしようも無い無力感に襲われることもあるんだから。
それからの事は、あまり詳しく話す必要は無いと思う。
俺たちは街中を歩き回り、ジャックは3体の地霊を仕留めた。それだけ。
想像は付くと思うが、ジャックと地霊の戦闘は一方的だった。
地霊、逃げる → ジャック追い縋り、斬殺。
地霊、反撃 → ジャック迎え撃ち、斬殺。
この2パターンのみ。
身体のスペック的にはそう差がないって話だから、地霊だって今まで三十六回も戦ってれば、もう少し勝負になっても良さそうな物だが、これは地霊の、ジャックに対する恐怖心に原因があるらしい。
地霊は毎回別の存在として発生するのだが、エネルギーを吸い上げるために地脈と接触した時に、以前の地霊の情報に触れることが出来るのだとか――ジャックは星の記憶がどうとか言ってたが意味不明――。その時、かつてオリジナルの切り裂きジャックに感じた恐怖をも引き継いでしまう。
自分より弱いのに殺せない。なのに相手は笑いながら自分たちを殺戮し続ける。地霊にとっては、あまりに理不尽な、絶対的な終焉を運ぶ死神の記憶。
“生きたがり”な地霊はそれだけで震え上がってしまう。つまり、始める前の気構えで既に優劣が付いてしまっている訳なのだ。
そんなルーチンワークじみた戦いの合間、街を彷徨いている時間は、取り留めのない雑談に費やされた。
意外な事に、主に話題を提供したのは俺の方だった。
ジャックはやたらと俺の家族や、学校の友達、あるいは子供の頃の話をせがんできた。特に、同じ年頃――あくまで見た目の話だけど――のアヤカの事はお気に召したようで、趣味だの好きな食べ物だの根掘り葉掘り聞いてきた。
俺としても、その気持ちには察せられる所があったので、思い出せる限りはジャックの希望に沿って話をした。
思うに、ジャックは今までこんな会話をしたことがほとんど無かったはずだ。ジャックが相手にしてきたのは、“ギィィィ――ッ!”しか言わない地霊だけ。
百年以上も、密かに地霊と戦い続けてきた。たった一人で。
孤独、というのが結構しんどい物であることは、俺も少しは体感していた。
欠けているため、分からないために仲間に入れない。誰にも近付けない、あの辛さ。場面は限られていたとは言え……いや、限られていたからこそ、いきなり取り残された、その落差によけい打ちひしがれる思いがしていたと思う。
今考えれば、オカルト批判に躍起になっていた頃の俺は、そうする事で必死にその孤独を否定しようとしていたんだろう。そのせいで余計に孤独になる所だったけど。
「あ――」
突然声を上げ、ジャックが立ち止まった。
「ジャック?」
母親から聞かされた、彼女の若き日の武勇譚を中断してジャックを見遣る。
さっきまで目まぐるしく変化していた表情が剥がれ落ち、酷く無表情にジャックは立ち尽くしていた。
「オイ、ジャック」
肩に手を置いて軽く揺さぶる。
「ふぇ?……あ、マサト。どうかした?」
「いや、『どうかした?』じゃないって。なんか固まってたぞ? オマエ」
「あ~……ウン、ちょっと気が抜けてたね。ゴメンゴメン」
はにかむ笑いも何処かぎこちなく。特に正気に戻ってからも、ちらちらと同じ方向を見てるのが気に掛かった。
一体何を見てるのか? 視線を追って振り向くと、未だ空を支配する大きな満月の下、その青ざめた光を拒絶するように自らの腹から光を放つ建物。その名は――
「コンビニだ」
“いつもニコニコ、スマイル・マート”。
この街で二軒しかないコンビニ・チェーンの片翼を担う存在であり、俺が行きつけにしている店。
あちこち回っている内にここまで戻って来てしまったらしい。
「ジャック、コンビニ初めてか?」
「いや、そうじゃなくて……いいから早く行こ」
コートに付いているフードを目深に被り、明るい電気の光を避けるように背を向ける。
この挙動不審をどう解釈したものか。そう思って首を傾げた時、閃く物があった。そういえば俺も……
「よし……ジャック、ちょっとそこで待ってろ」
「へ? ちょっと、マサト!?」
ジャックの呼び掛けには答えず、俺はコンビニに向かって走り出した。
自動ドアに出迎えられて入った店内は、思いの外盛況だった。日付はとうの昔に変わっているのに数人の客が居た。
「保坂くん、また買い物かい?」
声を掛けてきたのはレジに立っていた、この店の店長。
元・酒屋の二代目。先代であるお父さんから店を継いで、すぐにそれをコンビニチェーンにしてしまった張本人。
三十を過ぎたばかり。経営者としては少々若い方なのだろうが、中々の敏腕で、殺人鬼騒ぎが無かったら、今も月間売り上げ記録の連続更新は続いていたに違いない。
人を安心させる柔和な笑顔と、中背でひょろりとした体格。見た目通りに穏やかな性格をしていて、近所の住人の評判もすこぶる良い。無論、俺も親しくして貰っていた。
「えぇ、帰り道にちょっと知り合いに会って。話し込んでたら小腹が空いたんで、俺が何か奢ろうか……って話になって」
ほぼ嘘は言ってない。会ったのは知り合いじゃなくて、街で噂の殺人鬼ってこと以外は。
「こんな夜更けに? 狭い街とは言え、珍しい偶然だなぁ……いや、『夜中にふらふらしているのは感心しない』と言うべきなのかな? 大人としては」
と、苦笑気味の店長。
この通り、決して頭ごなしには若い連中を叱らない、控えめな人だ。それでもみんな素直に言う事を聞く辺り、“人徳”というヤツなんだろう。
「まぁ、それはともかく。今の季節ならやっぱり“コレ”だろう」
そう言って店長は、レジ台の隅に乗っている保温ボックスを小突く。
スマイル・マート、冬の定番。“特製黒豚ジャンボ饅”。
鹿児島名産の黒豚を惜しげもなく使った、通常の豚饅三個分に相当するという人気商品の一つだ。
普段は中々お目に掛かれないが、深夜は客足が退いているので、まだ残っていた。もちろん俺としても否やはない。
「じゃ、それ一つ」
「おや、一個でいいのかい?」
「さすがに夜中にジャンボ饅丸々一個はキツイですよ。半分ずつにします」
などと軽いやり取りをしつつ、代金と引き替えに仄かに熱を放つ紙袋を受け取った。
「それじゃ、また」
「あぁ、毎度ありぃ……可愛い彼女にヨロシクな」
危うく紙袋を落としかけた。
「なっ、て、店長っ! いきなり何言ってんスかっ!? 誰も彼女……ってか、女とも言ってないですよ!」
「だって、ほら」
店長の指さす先、店の駐車場の端っこに立っていたのは、深々と、フードを被った黒コートの。
「その……顔見えないのによく女の子だって分かりますね。しかも夜なのに」
上手いこと言葉を返す余裕が無いというか……自分でも何言ってるやら分からない。
対する店長は大人の余裕で。
「背格好で見当は付くさ。人生経験の差だな。他にも言える事は……まぁ、ちょっと変わった娘みたいだが、鈴とか付けてて結構可愛らしい所もあるじゃないか」
クソッ、ニヤニヤ笑うな中年オヤジ。他の客も居るって言うのに……。
礼儀とプライドを守るため、なんとかその言葉を飲み込んで、俺は足早に店を出た……えぇいっ、楽しそうに手を振ってくるなっ!
「――勝手に離れちゃ危ないんだよ……マサト、何怒ってんの?」
「怒ってない!」
ウン、怒っちゃいないんだ。ただ、後ろの店の色ボケ店長のせいで、ちょっと穏やかじゃないだけで。
「いいから、行くぞ」
何となくジャックと目が合わせづらくて、視線を逸らして先に行く。
「……やっぱり怒ってるんだよ」
すぐに追いついてきたジャックが、フードを外して横から顔を窺ってくる。
「違うって」
側にジャックの気配を感じながら、逃げるように前だけを見た。
「ここから目と鼻の先に公園があるんだ。そこでコイツ、食おうぜ」
話を逸らそうと手の中の紙袋を持ち上げて見せる。
「……何? ソレ」
「豚饅。点心なのに昼と夕の食事が一遍に取れるデカさが売りの、特製黒豚ジャンボ饅だ」
「へ~、良くそんなの一人で食べられるね」
「何言ってんだ、半分はオマエが食うんだぞ」
ジャックの奴は心底不思議そうな顔で、
「ジャックが?」
そのためにわざわざ買ったんだが……こいつ、俺がそんなにケチ臭い人間だと思ってたのか?
「当たり前だ。ずっと歩き詰めだったんだし……オマエだって
くきゅ~~~。
気の抜けた音。生理学的に言うなら、飢餓収縮によって胃内の空気が圧迫された音。
その音を鳴らした当人はポカン、として固まっていた。
「な、な、な……」
ショックで声も出ないとは大袈裟な……でもまぁ、心配するなジャック。俺はこれでも紳士なのだ。笑ったりはしないさ。
では早速、紳士的にジャックを慰めようと思う。
「ジャック、空腹で腹が鳴るのは当然の生理現象だ。そんなに恥ずかしがることは――」
しびゅごっ!
鉄塊が鼻先を掠めていった。
フム、こちらのレディはジェントルよりワイルドがお好き。お国言葉は主に暴力言語。
「……って、冗談じゃねぇっ!」
思考停止状態から抜け出した俺は有らん限りに背筋力を使って仰け反る。
「な、なな何て事してくれたんだよぅっ!!」
「何て事、はこっちの台詞だ! 大体、オマエその鉈どっから出した!?」
「コートの中に仕舞ってたのを抜いただけなんだよ! 見ての通りっ」
いや、抜く手も見えなかったぞ? コートの前ボタンだって全部留まってるし。
ぶわぁっ、とかジャックから風が吹いてきそうな剣幕に、俺は後ずさり――出来ずに尻餅をつく。
「ジャァァァック! 『
「フシュ――!」
あぁっ! 既に何も聞こえてない!
ジャック愛用の大鉈が頭上に掲げられる。柄尻に下がった鈴がチリチリ音を立てて嗤う。
「マサトぉぉっ!」
「ヒィッ!」
そしてジャックは、俺に祈る間すら与えず――
「往~生~せいやぁっ……ぁ……な、ん、だ、よぉ~……」
――大昔の任侠映画じみた台詞の途中でゼンマイでも切れたかのように急に停止し、そこから一言ずつ身体が沈んでいって、とうとうへたり込んでしまった。
「お……お腹減った……」
「ただでさえ腹が減ってるのにそんだけ騒ぎ散らせばなぁ……」
余計に空腹感は増す、というのは自明の理だ。
安堵の溜息を漏らす俺を恨みがましく眺めるジャックは、
「うぅ、全部マサトのせいなんだよぅ……」
「どうこじつけたらそういう結論になるんだよ」
それは言われ無き誹謗というべきものだ。だが、ジャックの方では確かな証拠を握っているらしかった。
「ジャックの“器”は人のイメージが実体化した物だって話したじゃないさぁ……。この身体の定義は人間が決めてるんだよ。そしてマサトは今、ジャックを最も強く認識している人間。だからマサトのイメージは、ジャックの在り方に強く影響するんだよ」
つまり、俺が『腹ぐらい減るだろ』と言ったからジャックは腹が減る様になってしまった、という話らしい。
「あ~……スマン」
突然の事に、錯乱したり動けなくなったり。
生まれて初めての空腹に振り回されたジャックを前に、さすがに罪悪感が出て、素直に頭を下げる。
「そうだ、俺が『腹が減らない』と言い切ってしまえば、元に戻るんじゃ……」
安易な思いつきに、ジャックは力無く首を振る。
「無理なんだよ……無意識に思いこんでいた事柄はそう簡単に覆せる物じゃないし」
「じゃぁ、一体どうすれば……」
「
そう言ってジャックが凝視しているのは俺の手にある紙袋。
今この時、ジャックの瞳は爛々と輝き、まさに獲物を狙う肉食獣のそれ。
こうして耳を澄ませば、唸り声さえ聞こえてきそうだ。
ぐぎゅ~~~。
「…………この特製黒豚ジャンボ饅は全てオマエの物だ。存分に、食え」
あからさまにジャックの殺気が緩んだ。飢えた獣には逆らわないが吉。
それにしても、短い間に随分と、ジャックのトンデモな話を抵抗も無く信用するようになったものである。
ここまでの交流がジャックの存在を受け入れるための“経験”になっている――そういうことなんだろうか?
……いや、理屈はどうでもいいか。要は、俺がジャックを信頼したがっているだけなんだ。
いつもへらへら笑っていて、俺より遙かに強いくせに、どこか儚げに見えるこの少女を放っておけない。そんな気になっているのだ。
そんな、いい気になっていたのだ。
「スゴイね! 美味しいね! はふぁ~……」
スマイル・マートから歩いて数分も掛からない所にその小さな児童公園はあった。
小さいせいという訳では無かろうが、そこにはベンチが無かったので、ブランコに座っての休憩となった。
その間、ジャンボ饅をパクつきながら、ジャックはずっとこの調子だった。
「――確かに、“母さま”は人間だったんだから、食事の記憶はジャックも持ってはいるんだよ。それでも豚饅は食べたことが無かったし、“姉妹”の誰も経験しなかったことだから……マサト、これなら“お腹が減る”ってのもそんなに悪くはないんだよ」
赤ん坊の頭くらいある巨大な豚饅をあっさり平らげて、至福の笑みでそんな事を言う。
ジャックは、自分の原型である切り裂きジャックを“母さま”と呼ぶ。切り裂きジャックは女性、という推測があったのは知っていたが、真実そうだったらしい。“姉妹”と呼ぶのはこれまで35人の“屋根の上の切り裂きジャック”。その時々で用意される器が違うので、外見・内面ともにかなり個体差があるとの事。
だがそれでも全てオリジナル・ジャックの情報を元にして記憶を共有しているジャックたちは、全にして一、同様の存在なので、ジャックは以前のジャックを自分の事としても語る。というより、“姉妹”と“自分”を別存在として区別していないのだ。おかげで話し相手の俺は、時々混乱した。
『ジャック』という単語は、ある時は目の前にいる少女を指していて、ある時はかつてのジャックたちの一人で、又ある時はオリジナル・ジャック、ついにはそれら全てを包括した概念をも意味することがあった。
「最近は随分と夜が明るくなったね」
豚饅と一緒に手渡したお茶の缶――これは自販機で買った。再びあの店に戻るのは蛮勇という物だ――を弄びながら、不意にジャックが呟く。僅かに揺れるブランコの鎖が、微かにキィキィ音を立てて軋んでいた。
「人の知恵に作り出された灯り。道端の街灯程度ならまだ大丈夫だったけど……あのお店から出ていた様な強い光は、“月の檻”の力を弾いてしまうんだよ」
「月の……っていうとアレのことか?」
そう言って俺は見上げる。傾き始めている、白い大きな満月を。
「あの月はこの街に張られている結界“月の檻”の象徴。この月光の届く範囲に地霊を閉じこめ、人間達に外に出ることを躊躇わせる暗示を与え――マサトみたいな霊覚障害者には効かないんだけど――、“屋根の上の切り裂きジャック”の存在の限界を規定する物。この、冷たい光で白く滲んだ風景が、ジャックの世界の全て」
……待て。ちょっと待ってくれジャック。
「さっきは本当に驚いたんだよ。地霊の潜む闇を払う月の光が、より強い光に掻き消されて。危うくジャックも消えそうになった。ねぇ、マサト。
俺はジャックに何か言うべきだった。道化の仮面を伝って落ちてきた雫を受け止めてやるべきだったのだ。
掛けるべき言葉を、俺はきっと知っていた。
ただ、俺はそれを疑いも無く口に出すのを躊躇してしまうくらいには大人で。想う全てを込めるに足るその一言を奥底から引き出すには、まだ子供過ぎた訳で。
そしてそれ以上に、この雰囲気に流されて無視するのは危険と思われる違和感を、ジャックに聞かされた話から感じ取っていた。
月の檻。その内に地霊を閉じこめ、さらに内に人間を隔離する二重の格子。
それを無化する人工の光。コンビニの蛍光灯。理外の空白地。
うってつけの隠れ家には客。外からの来訪者。
隠れ家の主人は? 彼の言葉:「――鈴なんか付けて――」。
鉈の柄尻の鈴。ジャックはそれをどこに
「ジャック!」
突如腹の中に生まれた感覚とほぼ同時に、植え込みの影から飛び出してきた一群。
全員男。その職業は様々に見受けられるが、共通するのは、その体格の良さと身のこなし。所謂“何かやってる”連中だってこと。
対するジャックのほうも
猛烈な突撃をやり過ごして、地霊たちはジャックを取り囲む。闇雲な玉砕とは明らかに違う動き。お決まりだったあの怪音すら発せず、速やかに包囲網を狭めてきた。
隙の無い緊密な連携。拳を突き出し、蹴りを放ち、掴み掛かる。それらを流れるように躱しながら、一糸乱れぬ整然さに隙を見出せないのか、ジャックは防戦一方だった。
隙の無い攻撃と無駄のない防御が作り出す均衡。四人の男と一人の少女による
「良いコンビネーションだねっ。でも今までこういう事が一度も無かった訳じゃないんだよ!」
左からの正拳突きを地面に張り付いて回避。そのまま鉈を振って水平に円を描く。
足下への攻撃を躱すため、円の縁ギリギリまで敵全員が退く。最小限の動きながら、陣形が広がったために生まれる僅かな隙間。
そこにジャックの小さな身体が素早くねじ込まれる。ねじ込んだ先で捻りを加えて地を蹴り、一瞬前まで正面にしていたスキンヘッドの男の背後に回り込む。捻りで生まれた回転力のまま空中で鉈を振り、首を落として音も無く着地した。
「無駄のない良い動きだったんだよ。でも……今期のジャックは、ちょっとだけ“
今までなら寡黙に地霊と対するジャックが、今回はなぜか良く喋る。
「ジャックは今、少しだけ気分が良くない……悪いけど、当たらせてもらうんだよ」
戦いは、一人減って均衡が崩れた。残った敵の動きに乱れは無かったが、純粋に手数が減っている。
ジャックは体格差を利用して巧妙に懐に飛び込み、男たちの足を断って確実に動きを止めてから、頭蓋を砕く。
一人、二人と斃れて最後の男。至近に入り込まれるのを嫌ってか、ローキックを放つ。
予想していたジャックは、振られた足に合わせて鉈で突く。カウンター気味に衝突した硬い鉈の先で、男の膝が砕けた。そのままバランスを崩して仰向けに倒れる。 息も吐かせずジャックは男の上にのし掛かる。その左手は相手の首元を押さえつけ。反対に振り上げられた右手には、逆手に持ち替えた鉈の頭。淀みなく迅速に男の眉間目掛けて振り下ろされて――
「た、助――」 グシャ。
人間の悲鳴が、頭の潰れる音に掻き消された。
唾を飲む。
「ジャ、ジャック……今の」
「あり得ないよ」
即座に否定してきた。
「あり得ないんだよ。夜の地霊は言葉を持たないんだから。もし言葉を操るとしたら、それは既に“成体”になってるはずで、こんなに弱いはずはないんだよ……じゃ、今のは何? 成体ではなくて、地霊でもないとしたら……人間? 人間だったの? ジャックは人間を殺したの?…………ダメだよ、それはダメなんだよ。やってないよ、殺ってないよ! ジャックは、ジャックは
俺に答えたのではなかった。空腹による錯乱の比ではない。ピンぼけの瞳と尻すぼみになる独り言。跪いて、許しを請うように頭を垂れて。まるで糸の切れた操り人形のような格好で――壊れかけていた。
「フム……予想通りパラドックスによる混乱に陥ったか。今頃、彼女を作った張本人は、躍起になって修復に努めているのだろうな」
良く聞き知っている、苦笑混じりの口ぶり。
「……アンタか、店長」
良く見慣れたスマイル・マートの制服のまま、いつもの笑顔で、さっき別ればかりの店長が、俺の後ろに立っていた。
「さっき店を出てから一時間も経っていないだろうに、随分と礼儀を忘れてしまった口振りだね……気付いた訳だ。私が“何”であるか」
さも面白そうに店長が――店長のフリをしているモノが笑う。
「アンタが“
コイツが地霊の親玉。店長の意識を乗っ取り、店長になりすましていた怪異。
ジャックに聞いた通りなら。“地霊に憑かれる”ということは“地霊に喰われる”ということ。この街の誰からも愛されていた優しい店長はもう居ないということ。
手遅れであることすら手遅れと言うべきこの状況の中でなお無力な自分がどこまでも情けなくて、俺はただ強く歯を噛み締めた。
“父親”は――なんとも胸糞悪い事に――満足げに頷く。
「霊覚障害であるものの、受け入れた後の順応性は非常に高い。完全にこの事態に適応しているな」
「ジャックに何をした」
にべも無く言葉を無視して言い放ったが、僅かに眉を上げるほどの動揺も、その微笑には見られなかった。店長の、あの温かな笑顔と同じ表情筋の使っているハズなのに、余計な哀れみと嘲りをない交ぜにしているような雰囲気が、いよいよ俺を苛立たせる。
「実験だよ」
「実験?」
「地霊の害から人類を守る。これがジャックに与えられた存在意義だ。それ故に、大前提としてジャックは人間を殺傷してはいけない。これを犯せばジャックの存在に矛盾が生じてしまうのだから。月の檻には、そんな不測の事態が起こらぬために人間とジャックの接触を断つ意味もあるのだよ」
“父親”は、まるで舞台俳優のように大袈裟な身振りで、高らかに語り続ける。
「私の複製の一人に演技を仕込んだ訳さ。人間のように哀れっぽく悲鳴をあげる演技をね。思いの外効果があったが……一時的なモノだろう。タネが単純なだけにすぐバレる。なぁ、そろそろ正気に戻っているんじゃないか?」
その言葉に反応するように、それまで動きを止めていたジャックがゆっくりと立ち上がった。青ざめていながらその顔は怒気に満ちている。
「ジャック!」
「マサト……危ないから離れてて」
駆け寄ろうとした俺を、はっきりとした声で制止する。その間も“父親”を睨み付ける視線は動かない。
「なぜ成体がいる……早すぎるんだよ」
“父親”はつい、と俺を指さす。
「あそこの彼の真逆だ。この身体は非常に優れた霊覚器官が備わっていた。おかげで定着も早くてね。宿主の意識との完全な同化まで二日と掛からなかったよ。あとは成体に相応しく身体が作り替えられるのを待てば良かった。キミに見つからないように息を潜めて」
「こそこそ隠れていたのはそういうこと……。でも、出て来た以上は成体になっていようと必ず狩るんだよ」
「キミに出来るとは思えんな。オリジナル・ジャックを除いて成体と対峙したジャックは存在しない。
「……嘗めるな!」
一気に詰め寄ったジャックが大上段から鉈を振り下ろす。
ジャックの苛烈な一撃に対して、“父親”の動きは見惚れるほど滑らかだった。右足を右前方に踏み出し左足を引きつける。半身になって攻撃をやり過ごして右足を軸に回転、無防備なジャックの延髄に後ろ回し蹴りを叩き込んだ。そのまま足の角度を変えて、顔から地面に叩き付ける。
ジャックの小さな身体が軽く跳ね、勢いを殺せずに公園の端まで転がる。
「余りに正直な動作だ。単調な攻撃しかしない、生まれたばかりの地霊だけを相手にしていたから、動きにフェイクが無い。一撃必殺は結構だが、躱してしまえば隙だらけだよ?」
あの細い身体で、店長はその昔、空手の猛者だった。そんな話を同じく空手家だった母親が話していたのを今更ながら思い出す。
意識の同化、とはこういう事か。人間である店長が、地霊という全く異質の生物に生まれ変わるのだ。人間であった頃の知識・技術を余すことなく受け継いで。人類に敵対する価値観を持って。
事態の推移について行けない。身体が動かない。傷付いたジャックの元に駆け寄ることすらできない。この、俺。
「さて……保坂くん。キミにも手伝って貰おうか」
倒れたまま動けないジャックを尻目に“父親”は悠々と俺に近付いてきた。
「この三十六番目の娘さんを倒しても、すぐに次のジャックが生じる。戦いを続けるためにはもう少し準備を整えなくてならないんだ」
俺の肩に手を置いて、親しげに、本当に親しい人の声で話しかけてくる。それが腹立たしい上に怖ろしくて、身が強張る。
「……マサトから離れて欲しいんだよ」
“父親”の背中越し、隠れて見えない所から、ジャックの声がした。
“父親”が振り向き身を退いて開けた視界の中に、起き上がるジャックが居た。
「手加減はしたが、見上げた回復力だな……どうやら人類は本腰を入れてキミのバックアップをするらしい」
“父親”の言う通り、ジャックはさきほどのダメージが無かったかの様にしっかりと立ち上がっていた。倒される前よりも受ける圧迫感が増している感じがする。
「マサトから離れろ、と言っているんだよ」
「やや、怖いねぇ。保坂くん助けて~」
“父親”が戯けながら俺の後ろに隠れるような位置に立つ。
「ッ!」
ジャックの眉尻が跳ね上がり――姿がぶれた。地面が二度爆発する。俺の前と横で一回ずつ。先程スキンヘッドの男を仕留めたジャックの技が段違いのスピードで再現される。
背後から“父親”の首を狙って鉈が振られる。ジャックの鉈が
「へ?」
不意に手を引かれて、俺と“父親の位置が入れ替わったのだ。鉈の刃先が首元まで達する寸前、
「くっ、あぁぁっ!」
悲痛な叫びと共に鉈の軌道が直角に変化した。鼻先一ミリの所を大鉈が駆け上がり、俺の前髪が僅かに切られて飛んだ。
空に向かって鉈を振り抜いたジャックは空中で横倒しの体勢。完全に無防備な状態に、俺を押しのけた“父親”の右拳が突き刺さる。
「フンッ!」
拳を振り抜く。サーブされたバレーボールのようにジャックの身体が吹っ飛ぶ。植え込みに飛び込んでその後ろに隠れたフェンスが
「……本当に素直な娘だ。大事なマサトくんの後ろに隠れれば、背後から攻撃してくる。どれだけ速くても、読んでいればいくらでも対処は利く」
「ジャック!」
俺の呼び声に答える者はない。植え込みの木々が邪魔をして、ジャックがどうなったのかも窺い知ることはできない。
「それじゃ行こうか。なに、時間は掛かるけど彼女ならじきに回復する。今、ジャックは人類から無制限にエネルギーの供給を受けているから――」
「喧しいっ! クソッ、手ぇ放せよ! ジャック! おい、ジャック!」
全力で抗っているのに、振り解けないどころか、俺の手首を掴んだ“父親”の手は固定されたまま全然動かせない。
「保坂くん……お静かに」
その言葉を聞いたのを最後に、俺の意識は途絶えた。
気が付くと、そこはコンクリートの壁に囲まれた、だだっ広い建物の中だった。
視界に入ったのは打ち棄てられた幾つかの工作機械と、空の一斗缶やドラム缶、鉄パイプ……どれも赤く錆び付いた鉄クズの数々。街外れの廃工場であると察しが付いた。
そう言えば、ここは何を作っていたんだっけ? まだずっと幼かった頃の記憶を手繰り寄せてみたが、覚えていることは何もなかった。たぶん、他の誰もが同じことを言う、誰からも忘れられた場所。
「目が覚めたかい?」
ぞわり、とまとわりついてきた声に身震いする。“父親”の声でようやく俺は自分が置かれた状況を認識する。
縛られて、床に転がされていた。冷たいコンクリートの感触に耐えられなくて、無理に起き上がる。身体を起こす際に擦った右頬が痛い。
「丁度退屈していてね。話し相手が欲しかった所なんだ」
こちらを見ようともせずに“父親”は言った。
「アンタなんかと話す事なんざ、無ぇ」
「つれないねぇ……まぁいいさ。私は“話したい”だけで“聞きたい”訳じゃない」
そう言った“父親”は続けて口を動かす。
「意識の同化によって初めて知性を得、自分の置かれた状況を理解した時……私は、この世界の馬鹿げた仕組みを憎悪したよ」
薄暗い屋内で“父親”の目が鈍く光る。
「醜く、肥大した種族。我々地霊にいとも容易く、魂すらも奪われる脆弱な下等生物。なぜ人間風情がこの大地の支配者面をしてのさばるのか? 人間とは克服されるべき存在だ。我々地霊によって……なのに!」
一段と声を張り上げた“父親”は俺に背を向け天を仰ぐ。
「なぜ滅ぼされるのはいつも地霊の側なのだ? これほど無力な者どもが――“ジャック”という切り札を手に入れただけのことで!――だから私はジャックを、ジャックの後ろに居る“
まるで英雄の演説だ。拳を振り上げ、まだ見ぬ地霊の時代に向かって語り掛けるかの様な姿は、控えめなあの人とは似ても似付かなかった。
「私は身を隠して時期を待った。私が成体になることで彼我の戦力が逆転すると予想できたからだ。だが、それだけではジャックを仕留めるには足りない」
そこまで一気に言い終えて、不意に首を動かし俺に視線を遣る。
「キミには感謝しているよ」
「何?」
相手の意図が読めずに戸惑う。そんな俺を見て心底嬉しそうに“父親”が叫ぶ。
「屋根の上だ! 一番のネックはそれだけだったんだ! あそこに逃げられると手が出せない。殺せない! 忌々しい安全地帯からジャックを誘き出す餌が必要だった。そのまま地面に縛り付ける鎖が必要だった! それが、キミだ保坂くん。月の檻の影響を受けない人間。今期最大のイレギュラー! そんな危なっかしい
愕然とした。事のはじめから仕組まれていたのだ。最初に地霊に襲われた時から。
俺は種を仕込まれてもすぐには地霊にならない。ジャックはそんな俺を助けようとする。最短の道として、俺を同行させる事を選択する。屋根の上を移動できない俺を――
「お、俺は……」
「あぁ、来たね」
“父親”の言葉に顔を上げる。
工場の門扉の、僅かに開かれたその隙間に、月光を背に受けた人影。遠目にもはっきり分かる存在感がその名を告げる。
「待っていた!」
“父親”が側にあったドラム缶を片手で放り、走り出す。
撃ち出された砲弾の勢いで飛んでいくドラム缶が直撃しようとした瞬間、身構えもせず突っ立っていたジャックも劇的に動く。
飛ぶドラム缶を掻い潜る格好で飛び出したジャックと、走り込んできた“父親”が交錯する。
首を薙ぎに来た鉈を、握り手を押さえる形で“父親”が受ける。が、ジャックの攻撃はそこで終わらなかった。
相手の手首に刃の根本を引っかけて支点とし、力の方向を変えて側頭部に蹴りを入れる。直撃。
弾け飛んだ“父親”の身体が山と積まれていた鉄屑の群れに突っ込み、崩れた山の中に埋まった。
「お待たせ、マサト」
先程と打って変わって“父親”を圧倒したジャックの顔は穏やかに清んでいた。笑わないジャックが俺を不安にさせる。
「ク、ク、クフ、クハハハ……」
くぐもった笑い声、鉄が擦れ、ぶつかり合うけたたましい音と共に屑山から“父親”が這い出してきた。ぶら下がる様な角度でひん曲がった首を、両手で元に戻す。ゴキリ、と骨の合わさる音がした。
「素晴らしい! 十二分の後援を得て、最大限まで力を高めた人類の守護神。地霊に対する最後の防衛線だ。このジャックを倒してこそ、人類の無力を証明できる! 人間に代わって私と私の子らが、この大地を満たす!」
「マサト!」
“父親”の叫びと共に爆発する鉄屑の山。咄嗟にジャックが庇ってくれなかったら、飛び散ったいくつもの鉄の塊が俺を貫くなり砕くなりしていただろう。ジャックが弾いた鉄屑が頬を掠めて切り傷ができたが、それ以外に怪我は無い。
「……スマン」
また足を引っ張っている。俺が居なければ、ジャックはもっと楽に戦えていたんじゃないのか。そういう思いが謝罪の言葉となって口を衝いた。
しかしジャックは気付かない。ジャックの意識が向いていたのは目の前にいる敵。その敵に起こりつつある変化だった。
“父親”の上着は破れ散っていた。出て来たのは青銅色の肌。その内で肉が蠢き、膨張を続けている。
「そんな……これが……」
信じられない、といった風のジャックに、既に顔の形まで人から逸脱し始めている“父親”が言う。
「やはりそうだったか! キミはオリジナル・ジャックの全ての記憶を受け継いでいる訳では無かった。“成体”がいかなる存在か――言っただろう! 『
“父親”の哄笑が、唸り声に変わる。
頭には角が生えた。口が犬のように突き出し、逆に目は落ち窪む。
大人二人分ほどの体長は、猫背になっていても充分巨大で、強靱な獣の後肢と長い腕の先端には鋭い爪。
いつか写真で見た、ガーゴイルという化け物を題材にした石像に、姿がよく似ていた。
「サァ、幕ハ上ガッタ。人類ニ代ワッテ断末魔ノ悲鳴ヲ歌エ!」
声帯まで変化した“父親”が転がり落ちる岩石のように俺たちへ躍りかかった。
ジャックが素早く俺の身体を引っ掴み、真横に飛ぶ。間髪入れず飛び込んできた巨体が、さっきまで居た場所の床をグシャグシャに破壊する。
着地したジャックは俺を抱えたまま“父親”の脇を走り抜ける。広い廃工場の中を一気に駆け抜け、入ってきた扉の前で立ち止まり、俺を降ろした。
「マサト、離れて……ううん、ここから逃げて。『危険なことなんてない』って言ったけど、アレを前にして同じ事言う自信、無いんだよ……ゴメンね」
なんでジャックが謝るのか。謝らなきゃいけないのは俺の方。俺がジャックの身を危険にしているのだ。
そう言おうと思って……言えなかった。怖かったのだ。地霊よりも何よりも、「
「マサト、お願いだから行って。ジャックが戦っている間に出来るだけ。ずっとずっと遠くへ――」
そう言ってジャックは“父親”に向かっていった。
『逃げろ』。ジャックの言葉は俺にとって最後通牒だった。
囁きが聞こえる。
保坂マサトは何も出来ない。何も出来ない。
――結局、俺はその場に立ち尽くすだけで。
その戦いは、“凄まじい”の一言に尽きた。
成体となった“父親”の一撃は、どれも必殺の威力。腕を一振りしただけで、突風を伴い地を砕く。
ジャックはそれらを影も見せぬ動きで躱し続け、あらゆる方向から、斬る、斬る、斬る。
しかしその攻撃は全て“父親”の硬い表皮に阻まれ、浅く傷を付けるに留まっていた。
そんな、人間の目では既に追えないはずの攻防が俺には何とか見えていた。おそらくは、腹の中の“種”のおかげ。
ジャックが施した処置は、“父親”の近くにいたための共振作用によって、とっくに無意味になっていたのだろう。未だ俺の意識を乗っ取るには至らないが、身体の方はジワジワと作り替えられていた。
何十度目かのジャックの
ジャックは真っ直ぐに突っ込まなかった。ランダムに左右のステップを繰り返すジグザグ機動。相手に近付くにつれ、左右の移動の幅が広がり、スピードが上がる。
手の届く範囲に入った瞬間、“父親”がその錐のような爪をおもむろに突き出す。狙いは着地直前のジャック。
“父親”の爪が彼女を串刺しにしようと胸元まで迫ったその刹那、ジャックの姿が消える。
伸ばされた腕を伝い、一瞬にして“父親”の肩に乗ったジャックが、屈んだ姿勢で身体ごと逆手の鉈を振り回す。
「ハァァァッ!」
刃が吸い寄せられるように“父親”の首へ趨って――虚しく空を切る。
「悪クナイ攻撃ダッタガ……少々“遅イ”」
その巨体で、ジャックを上回る速度で身を退いた“父親”が絶望を告げる。
空中で回避行動に入れないジャックの身体を五本の槍が貫いた。
「カッ……ハッ……」
ジャックの開いた口から血が
“父親”の爪に手足を突き刺され、まるで標本の蝶。特に胸の中心に刺さった中指の爪がそのイメージを一層強くする。
「ヨウヤク新シイ身体ニ馴染ンダ所ダッタノダガ……ツマラン」
腕を振り、力任せにジャックから爪を引き抜く。放り出されたジャックは、俺が居る工場の門扉に叩き付けられ、鉄製の扉に凹みを付ける。ボロ布のような姿が、重力に捕まって地上に落ちた。
「ジャァァック!」
外聞も無く悲鳴を上げてしまった。
走り寄って抱き上げた身体の軽さに涙が滲んだ。手にはグッショリと濡れた感触。穴の開いた黒コートは血塗れだった。
「……マ……サト……『逃げて』って……言ったのに…………」
「ジャック! 喋るな! 起き上がろうとすんな!」
俺を押しのけようと胸に押し当てた手は弱々しい。
何より傷の治りが圧倒的に遅かった。今、人外になりかけている半端者の俺よりも遅い。いくら人類から膨大なエネルギー供給を約束されているとしても、受け取るジャックの方が弱り過ぎているのだ。
「マサト……悪いんだけど……
腕が動かせなくて、目線でそれを指し示す。
「バカかオマエは!? こんな身体で戦える訳ないだろがっ!……何で……何で……」
何でジャックはそこまでして戦うのか。何で俺を守るのか。何で俺は守られるだけなのか。
言いたい事は山ほどあったが、涙と一緒に零れてしまって言葉にならなかった。
「……ジャックはジャックだもの……ジャックは……『
言われた瞬間、頭に血が上がった。
こんな時でさえ俺の悪い癖は節操なく出てくる。だけどジャック、それはNGワードだ。
「吹いてんじゃねぇバカジャック! そんなんだからオマエは一人なんだ! オマエを一人ぼっちにしたのは誰だと思ってるっ!?
誰も知らない。俺だって知らなかった。
たった一人で自分たちを守ってくれていた少女のことを。
ソイツは人間のことが大好きで。だから誰かと話をするだけで嬉しくて。時には初めて食べた豚饅に感動したりもして。
そんな、すごく善いヤツなんだって事を。
誰にも気付かれなくて、誰に見せる事も出来ないのに……アイツはずっと笑ってたのだ。
街中を駆け回って探しても、誰一人、アイツの屋根の上に上がって来なかったっていうのに。
「オマエが戦う必要なんて無いんだ。オマエが犠牲になる理由なんてこれっぽっちも無いんだ。俺たちなんかに構わずに……オマエこそ逃げてくれればいいんだ!」
酷い顔をしていると思う。涙と鼻水でグジュグジュの、キッタネェ面。きっとそうだ。
ジャックが微笑んでいたのだ。
最初に見せた、あの苦笑する母親の顔。「仕方ないわね」と言いながら、我が子を抱き締める時の顔。
「…………ジャックね、ちょっとだけ嘘を吐いたよ」
回復が続いているためか、心なしか息も穏やかに言う。
「……嘘ってなんだよ?」
泣いたすぐ後で上手く笑えずに顔が引き攣った。
「
驚きはしなかった。多数を生かすために少数を捨て石にする。捨てられる方としていい気分はしないが、戦いである以上、当然の選択だった。
「――でも、ジャックにはそんなこと出来ないんだよ…………豚饅奢ってくれて……いっぱいお話してくれて……マサトは……そう、マサトはジャックの
ほんの少し躊躇いがちに、ぎこちなく言った“トモダチ”は、たぶん、ジャックが生まれて初めて言った言葉で。
「だからマサト……やらせてよ。ジャックは初めての“トモダチ”を守りたい」
それはNGワードだ。俺は何も言えなくなってしまう。俺にとってもそれは――。
「ハハハハ! コイツはいい」
癇に障る笑い声がコンクリート壁に反響する。
勝利を確信したのか、いつの間にか人間の姿に戻ってる“父親”が腹を抱えて笑っていた。
予め用意していたらしいデニム地のパンツを穿いて、無駄な肉の一切付いていない上半身を晒している。
「傑作だ! 人の作り出した幻想でしかないジャックが……“トモダチ”? “トモダチ”だって?」
その声は人が不快に感じる音域を心得ていて、耳に入るだけでこちらの神経を逆撫でする。そんな感情剥き出しの俺の顔を見て、“父親”は胸の前で両手の平を左右に振る仕草をする。
「イヤイヤ、馬鹿にしている訳じゃあない。実に素晴らしい事だ。予想だにしなかったが……
言い終えると共に、パチン、と。スイッチを入れるかの様に指を鳴らした。
ズクン。
俺の腹の中で、何かが鳴動した。俺の意志とは無関係に、身体が勝手に動き出す。
「なっ……クソッ、どうなって――」
必死に押し止めようとするが、俺の身体は無造作に、抱き抱えていたジャックを放り出し、床に転がるジャックの鉈に向かって歩き出す。
「“種”に働きかけて、キミの身体の支配権を奪った。それだけ身体の地霊化が進んでいれば、このくらいは出来る」
俺の手が鉈を掴む。ズシリと重い感触。まだ感覚は奪われていない。柄尻の鈴がチリ、と力無く鳴った。
「これが最終幕だ――哀れ“屋根の上の切り裂きジャック”は、初めて出来た友人の手に掛かって死ぬ――あぁ、何という悲劇!」
“父親”が楽しそうにゲラゲラ笑う。嗤う。
「クッ、ソッタレがぁっ!」
唯一動かせる口が稚拙な呪詛を吐く。
ジャックは俺を置いて行けないし、傷付けることも出来ない。ボロボロのその身体はまだ動かせない。
文字通り、手も足も出ない
“
「いい声だ。その調子で続けてくれ――ちなみに、ジャックを殺すには頭を潰すのが手っ取り早い。首を落とすんでも良い。我々の様な、元々明確な形を持たない存在には、最も強く死のイメージを突き付けるやり方なんだ。より強い概念がより弱い概念を駆逐するって訳さ」
調子に乗って話し続ける“父親”を尻目に、俺はジャックの側にしゃがみ込む。
ジャックは泣いていた。それはたぶん、生まれて初めての涙。
ジャックを泣かせたヤツが誰なのか……俺はしっかりと心に刻み込む。後で、綺麗さっぱり忘れてやるのだ。
「……ゴメンね、マサト。ジャックと会わなきゃこんな事には……」
か細い声。俺の声も負けず劣らず小さくなる。“父親”が聞き取れない様に。
「そんな事言うな。まだ――
本当に出来るのか。確信なんてどこにもない。
だけど……保坂マサトは何も出来ない、訳じゃない。それを証明してみせる。
ジャックが俺の友達なら――やらなきゃならない。
「ジャック、俺を信じろ」
それは俺に対して唱えた呪文。
右腕が意志と反して上がった。狙うはジャックの細い首。
「……信じるよ、マサト」
ジャックの目が俺の目を見る。真っ黒な瞳に俺が映っている。
――それだけで、今なら、何だって出来そうな気がした。
「さようなら。三十六番目の――おそらくは最後の娘さん」
“父親”の言葉に合わせて俺の腕が振り下ろされた。
――ここで俺の子供の頃の事、ちょっとした自慢話をしよう。
オカルト否定論者として、空気の読めないヤツってことで迫害される寸前だった俺。その俺がどうして村八分を免れたかって話。
話としては単純なんだ。俺は自分に一つだけ掟を課していて、それが俺を辛うじて少年のコミュニティに繋ぎ止めていたってだけ。
“友達は何があっても見捨てない”
これが俺の掟。父親が俺に教えた事。うだつの上がらない父さんを、今も尊敬している理由。
上級生の不良に絡まれているとき。怖い犬が居る家にサッカーボールが飛び込んだとき。いつだったか、校長室にある高価な壺を、一緒に巫山戯ていた誰かが割ってしまったときも。
俺は一緒に立ち向かい、一緒に怒られた。
俺が自分の特異性と折り合いを付けられるようになるまでの間、それだけがおれへの信頼を支えていた。
本当に些細な話。俺の密かな誇り。
だからこそ、ジャックに守られっぱなしの俺は許せない。
俺はジャックを助ける。出来ることをして助ける。そして、出来ることは……有った。
肉に刃が食い込む感触。骨を割る感触。だがそれ以上に――
「い、い、痛ってぇぇぇ――っ!!」
マ、マジ痛ぇ。覚悟はしてたけど、全然足りない。腹の時の比じゃない。骨に当たって止まったのは良かったけど、この激痛。これだけで死ねる。死ぬ死ぬ死ぬぅっ!
「馬鹿なっ!?」
“父親”の驚愕。余裕の笑みがようやく崩れた。ザマーミロ。
「マ、マサト!?」
「ん?……あぁジャック、悪ィ。顔、血塗れになっちまったな」
ジャックの白い肌が真っ赤に染まっている。
深々と鉈が食い込んだ、
結局の所、“父親”は最後の最後で気が緩んだ。おしゃべりが過ぎたのだ。
「順応性が高い」と言った本人が、それを忘れてヒントをくれた。
“より強い概念がより弱い概念を駆逐する”。ジャックと地霊の戦いの基本はそれなのだ。
地霊は現象であるので、いくら生物的な意志を持っていても、初めから“生きている”訳ではない。だから“死ぬ”ということも有り得ない。本来なら、奪った肉体を壊されたからといって消えたりはしないのだ。
ジャックは地霊の身体を派手に損壊することで、強烈な死のイメージを与える。要は、地霊を“死んだ気”にさせて、群体化していた思念を霧散させていた訳だ。
より強いイメージで相手のイメージを否定する。それなら俺にも出来るんじゃないだろうか、と思ったのだ。
身体を操られていても、意識はしっかりしているのだから、単純に“父親”以上の強いイメージを出せれば、身体の自由を取り戻すのは可能なはずだ。
根拠は薄い。よしんば理屈が通っていたとしても、あの“父親”相手にそれができるのかも分からない。
でも、そこに可能性があって。俺に出来ることをやってジャックを救えるなら。クソ“父親”の吠え面が拝めるなら。
全身全霊を
結論:根性あった俺の勝ち。
「バカマサト!……なんて、無茶するんだよぅ……」
動けないジャック――それでもさっきよりは元気そうだ――が、たぶん、割と本気で怒ってる。
「大丈――痛ぅっ…………とにかく! 今は傷の治りも早くなってるし、このくらいすぐ塞がるから心配無いって」
鉈を抜き、ダラリと下がった左腕。今日二度目の大出血で、さすがに気が遠くなってきたが、根性で踏み止まって、言う。
一番言わなきゃならないことを言う。
「ジャック……さっきオマエ、俺のこと“トモダチ”って言ってたけど、アレ、間違ってるぞ」
ジャックの顔に生まれる、戸惑い、不安。さっきの悲しみや怒りも合わせて、ジャックは初めて見せる表情ばかりを俺に向ける。
割れた道化の仮面の下から現れた、本当の顔。
「オマエはまだ、俺のとっておきの秘密を知らないんだ」
「秘密?」
「あぁ。俺の友達なら誰でも知ってる。それをまだ教えてない」
悪戯っぽく笑って、次に冷めた目で、立ち尽くしている“父親”を一瞥してやる。
「それを話すには、あの“父親”が邪魔なんだ。アイツがちょっかいを出してくるから、落ち着いて話も出来ない」
肩を竦める。
「だからジャック、アイツに勝って来い。ジャックが俺の“トモダチ”になりたいなら……アイツ、ぶちのめして来い」
「聞き捨てならない事を言ったな、小僧」
今まで黙っていた“父親”が口を挟んでくる。
「小僧、ね……『随分と礼儀を忘れた口振り』だな」
「貴様っ!」
あからさまな挑発に乗ってくる“父親”。
一つ予定外の事が起こっただけであんなに取り乱して……店長って案外優等生だったんだろうな、などと埒も無い事を考える余裕すら俺にはあった。
「なぁ、ジャック。俺はさっき一回勝ったぞ? 俺の友達があんなのに負けっぱなしは困るんだけど」
「――
風が巻き起こった。
発光しながら渦巻く風の中、ゆっくりとジャックが立ち上がる。
全身を汚していた血糊が、コートに染み込んだ血さえも風に巻き上げられて飛んでいく。遅々として進まなかった傷の修復が一瞬で終わり、コートの破れが繕われた。瞬時に風が収まる。
「マサト」
擦り傷一つ残っていない手を、俺に向かって差し出した。
「おぅ」
その手に渡したのは愛用の大鉈。
「じゃ、ちょっとぶちのめして来るよ」
振り返るジャックが笑う。張り付いた「にへら」笑いではない、生気に満ちた魅力的な笑顔だ。
「巫山戯るな貴様ラッ!」
叫びと共に“父親”の変態が始まる。青銅色のガーゴイルが血の色の目で俺とジャックを睨め付ける。
「貴様ラニ勝チ目ナドナイ! イクラ傷ガ全快シヨウト、戦闘力ニオイテ私ニ及バヌ事ハ明ラカデハナイカッ!」
確かに。
問題は確かにそれだ。
俺がやったのは気弱になっているジャックを元気にして、“
限界まで高めてあるジャックの力がさらに上がる事は無いのだ。
「――そうでもないんだよ」
チリン、と。ジャックがおもむろに、鉈を“父親”に突き付け、拍子に鈴が鳴った。
「コレ、知ってるよね? 今までの地霊たちの記憶を持ってるなら当然。歴代のジャックはみんな、持っている刃物にこの鈴を付けていた――コレは封印なんだよ」
「封印ダト?」
訝る声。
ジャックが地霊の全てを知らなかったように。地霊もジャックの全てを知っていなかった、その証。
「アナタの言った通り。ジャックは“母さま”の全てを受け継いでいる訳じゃない。“切り裂きジャック”として最も特徴的な要素を、ジャックは継いでいない」
殊更鈴を見せつける様に、鉈を逆手に持ち替え、柄尻を前に出す。
「“殺害衝動”――生きとし生ける物全てを殺し尽くしてしまいたい渇望。“
ジャックが柄と鈴を繋いだ紐を握り締める。
「ホントはジャックがマサトを助けたかったんだけど……仕方ないんだよ」
力を込めて。鈴が、鉈の柄から引き千切られる。
「お出でませ――“母さま”!」
千切られた鈴は弧を描き――
チリリリリリリリリリリ…………ィ。
硬い床を跳ね転がって――止んだ。
「
――心臓を握り潰されたと錯覚した。
ジャックに鈍感の烙印を押された俺でも分かる。コイツはヤバイ。
そこに立っていたのはジャックなのに、ジャックじゃなかった。
赤色を加えて紫になった青色絵の具の様に。全く別の存在。
掛け値無しの異端。人に生まれてしまった怪物。命ある物全ての天敵。
正真正銘の――“
「どれだけ焦がれたことか……。百年だ。再び巡り会うまで百年掛かった。姿形が変わっても一目で分かるよ、愛しいヒト」
穏やかな声色。大学の研究者を想像させる知的な印象。しかし、その下を流れる得体の知れない思念が、場の空気を緊張させる。
その身を満たすのは殺意の大河。一度氾濫すれば、あらゆる物を飲み込み、消し去っていく暴君。
「ア、ア、ア、ア……」
“父親”が震えていた。あれほど傲岸に己の存在を誇示していた“父親”が、子犬の様に身を戦慄かせている。
「あぁ、その
鉈を、構える。
「――殺し合おうじゃないか」
奔ったのは一陣の風。“父親”の肩に血飛沫が舞う。
切り裂きジャックが歓喜の声を上げた。
「素晴らしい! 首を狙った一撃が外された。やはり貴方だ愛しいヒト。幾千万の夜、私と踊り明かすのは貴方一人だ!」
話しながらも切り裂きジャックの動きは止まらない。
腕に、足に、脇腹に、次々と血が爆ぜる。
「覚えているかな? 愛しいヒト。あの日、ベイカー街の路地裏で。美しく輝く満月の下、初めて出会った事を。私は心奪われた。人殺しにすっかり飽いていた私の前に現れた、如何なる生物よりも強大な存在に、私は恋した! 私の命を差し出して。貴方の命を奪えるならば。そう考えただけで私の中の乙女は甘く、震えた。そしてそれは実際甘美な瞬間だった! あの一時をまた味わえるのなら。例え“
“父親”の猫背が跳ね起きる。切り上げた鉈の軌跡を追って胸を奔る、血の線。
“ギィィィ――ッ!”
地霊の怪音。鋭く動いた“父親”の腕が床を抉る。
一瞬早く飛び退いた切り裂きジャックは、一飛びで十メートル程の距離を取った。
「何ナノダ何ナノダ貴様ハッ!? 私ガ! 私ガ恐レナケレバナラヌ何物モ、コノ世ニ存在シテハナラナイノダ!……殺ス! 貴様ハ必ズ殺ス!!」
喚き散らす“父親”を、切り裂きジャックが恍惚と見つめる。
「あぁそれが私の望みだ愛しいヒト。何度も何度も切り裂かれて。何度も何度も切り裂いて。死が二人を分かつ一瞬こそが、私たちの聖なる婚姻の時!」
怪物は激しく愛を告白した後……急に醒めた顔つきで語り始めた。
「しかし今回はダメだ。残念だよ愛しいヒト。やっと会えたのに……時が足りない。死地の只中で愛を語り合うには――――もうすぐ夜が明ける」
言われて、俺は手近な窓から空を確かめた。確かに、夜空の黒が淡くなり始めていた。
「今宵の宴はここまでだ、愛しいヒト」
切り裂きジャックが腕を真横に伸ばす。その先には、地面に対して垂直に構えた大鉈。
その大きさは鉈と呼ぶにはギリギリの……いや、
「応用だよ。ジャックの身体も持ち物も、詰まる所、イメージが物質化したもの。一度ばらしてイメージを組み直せば、形状も規模も思うがままだ」
刃も、柄も。等倍で巨大化し続け、ついには柄尻が床を撞いて、ようやく止まった。
「色々考えていたのだよ。愛しいヒト、貴方を殺し尽くすにはどんな方法があるか。これは最初に考えた――“大きな相手には大きな武器”」
刃だけで長さが約三メートル。柄の有様は既に丸太みたいな太さで、小柄なジャックの身体では、両腕を伸ばしても抱えきれない――だというのに。切り裂きジャックは添える様に当てた手で軽々と鉈の化け物を振り回した。
もう、滅茶苦茶だ。
「実を言うとね、今期の貴方には失望しているんだよ、愛しいヒト」
言葉の
「コソコソと逃げ隠れし、小賢しい策を弄し、一々回りくどい。初めての時は、私がどんな事をしようと真っ正面から受け止めてくれたのに……戦士の誇りを持たない貴方には
切り裂きジャックの頭上で回転していた鉈が“父親”を襲う。
「ガァッ!!」
躱し損ねた“父親”の腕が飛ぶ。巨大鉈が勢い余って、鉄柱の一つを切り裂いた。
「コンナ事ガ! アッテ良イハズガ……!」
胴を薙ぐ。側の壁が砕けた。
「最後なんだから気張っておくれ! 僅かでも良い――悦ばせて!」
今度は反対の腕。飛んだ腕が屋根を破り、鉈は鉄の梁をまとめて千切る。
「コノ私ガ!……待テ、止セ!」
足が落ちた。轟音と共に“父親”の身体が沈む。
「次はどこを切る? そろそろ首か?」
再び頭上で鉈を回転させる切り裂きジャック。巻き込まれてまた鉄柱が切断。
「ヒッ……シ……死ニタクナイ死ニタクナイ死ニタクナイ死ニタクナイ死ニタクナイ……!」
艶然と笑う切り裂きジャックの上で、真一文字に立つ巨大鉈。先端が屋根を突き破った。
「今の声は――とっても
トタン屋根を裂いて、鉈が“父親”の頭を潰した。
戦い済んで――工場は半壊していた。というか、良く崩れない物だと思う。
壁は穴だらけ、屋根を支える柱と梁は何本も断ち切られ、屋根も大きく破損。元から酷かったが、それよりもボロボロ。
「――娘が世話になった」
悠々と近付いてきた――いつの間にか、手にした鉈は元のサイズに戻っていた――切り裂きジャックの、俺に向けた第一声。
見た目は一緒だが、このジャックは何だか踏ん反り返ってて無意味に偉そうな感じ。“父親”を相手に多少気が晴れたのか、発散される殺気は大分緩んでいて、圧迫感が無い。
「いや、俺の方こそジャックに助けられてばかりで――」
「娘の初めての人がキミで良かった」
……間違いじゃないが……なんでかこの人の言い回しは下ネタ臭い。
俺の勘ぐりを察してか、切り裂きジャックが少し笑う。
「いや、ごく真面目な話さ。キミは娘の孤独を察してくれた。私たちは全て同じ情報を元に構成されているが、“愛しいヒトに巡り会う”というのは飽くまで私個人に結び付いた望みで、娘たちにはそんな動機はない。ただでさえ“
多少自嘲を含んだ笑い。自分の望みが、自分の分身たちを苦しめている自覚があるのだろう。でも、娘を心配する姿は、紛れもない“母”のそれで……俺はあんまり責める気にはなれなかった。
「おっ!?」
突然、切り裂きジャックが声を上げ、腹を押さえて俯く。
「ちょっ……何!? さっきの戦いでどっか怪我とか――」
慌てる俺を微笑みで遮って、
「いや、違うんだ――あぁ、何と言うんだろうな、この感覚は……簡単に言うと“元に戻りたがっている”。フフ、末の娘は一番のやんちゃだな」
愛おしそうに、腹をなでる仕草をする。
切り裂きジャックがこめかみに両手を当て、目を閉じた。
「
発光する
風の中で切り裂きジャックがこちらに振り返る。
「それでは失礼する。娘を宜しく頼むよ、マサトくん」
そう言って、切り裂きジャックは再び目を閉じ――風が止むと同時に、糸が切れたように腰砕けになってその場にへたり込んだ。
「ジャック!」
慌てて駆け寄って、倒れかけた身体を支えた。
ゆっくりと――ジャックの目が開く。
「……マサト」
「……お疲れさん」
俺の知ってるジャックが戻ってきた。
「それじゃ、“とっておきの秘密”を教えて欲しいんだよ」
廃工場を後にして。また二人で夜の街を当ても無くぶらついていた。
「いやいや、アレは無効だろ? 喧嘩に親が出て来たんだから」
「無効じゃないよ! ジャックと“母さま”は一心同体! だからジャックがぶちのめしたのと同じだよぅ!」
俺のジャケットの袖を掴んでガクガク揺らす。
「や、やめ、ジャッ――痛っ! 止せ傷が開くっ!」
親玉の“父親”が消えて、俺の地霊化も止まった。
これから徐々に人間の身体に戻っていくということらしいが、そのせいで、俺の傷の治り方はドンドン遅くなっていた。それでも尋常じゃない早さな訳で、既に血は止まって皮膜が出来ていたが、短時間で跡形もなく、なんてのは無理な話。
「あ……ゴメン」
しおらしくなったジャックは、それでも手を放さない。
「……分かったよ。ちゃんと教える」
「ホントッ!?」
満面の笑みだ。まぁ、それは嬉しいことなんだが……ホントはあんまり言いたくないんだよなぁ……。
「俺の名前。“マサト”って読みしか教えてなかったけど……漢字で『麻里』って書く」
空中に指を走らせ字を描く。
ジャックも自らそれをなぞり、しばし虚空を見つめてから――
「…………“マリ”?」
「“マサト”だ!」
……ったく、結局コイツもか。あぁ、ブルータス、お前もか。
堪えきれないといった風にジャックが吹き出した。
「ちょっと、マサト、そんな事がとっておきの秘密?」
笑い出す。
「何を言う。これが周りにバレると半月はからかわれるんだからな。こっちの身にもなれよ」
つられて俺も笑い出す。
こんな下らない事で俺たちは笑い合う。
それは他愛のない会話。友達の会話。
「……そろそろ行くんだよ」
ひとしきり笑い終えて、おもむろにジャックが言った。
「……いや、待てって。もうちょっとくらい大丈夫だろ? まだオマエには話してないことが沢山――」
「――夜が、明けるんだよ」
ジャックの向こうに見える空は、明るい光がやってくる予兆を示していた。
「マサト――」
「ジャック! まだ行くなって。豚饅より美味しい物がいっぱいあるんだ。全部食わせてやるよ。全部俺の奢りだ。だから――」
駄々をこねているのは良く分かっていたけど、言葉が止まらなかった。
沢山の言葉で埋め尽くせば、時の河だって堰き止められるんじゃないか。そんな夢想を――この俺が、そんな夢想にしがみついていた。
そんな俺を見て、ジャックが微笑む。
見上げなくちゃならない母親の笑みではなくて。同じ目線で見る親しげな笑み。
その笑顔があんまり幸せそうだったから……俺は口を噤んでしまった。
「マサト――ジャックはとっても嬉しいんだよ。“屋根の上の切り裂きジャック”は、三十六番目にして初めての“友達”が出来ました」
太陽の禿頭が覗き始めた。
ジャックの身体から蛍火のような淡い、光の粒がいくつもいくつも立ち上る。
「ジャック!」
駆け寄ることも出来なくて――ただ、その名前を呼んだ。
ジャックが跳び上がる。手近な屋根の上に乗る。
「マサト、バイバイ」
最後にそう言って――振り返りもせずジャックは、光の粒を撒き散らしながら屋根の向こうに消えた。
俺は見た。
ジャックが出した光の粒の中に、立ち上るのでは無く、落ちていく物があった事。ジャックの目元辺りから零れたその粒を。
それを見た俺はちょっとだけ安心し――――やっぱり酷く、胸が痛んだ。
ジャックが居なくなってから数日。
街は相変わらずの日常を取り戻した。“屋根の上の切り裂きジャック”という都市伝説は、誰一人知る者が無い。
あの日。
朝帰りをした俺は、激怒した母さんの、正中線三連突きくらいは覚悟していたのだが、ジャケットを血塗れにして帰ってきた長男を見て家族は大パニック。あわや警察沙汰になるのを押さえて、
「帰り道で転んで切ったんだよ。出血は派手だったけど浅かったんですぐ止まった。暗かったから服に付いた血に気付かなくって……そのまま朝まで遊んでたのは謝るよ、ごめんなさい」
途中、ニコニコマートとは別の、もう一つのコンビニで買った包帯――血が付いていたのはほぼジャケットだけだったので、脱いで腹の辺りを隠すようにして店に入ったのだ――を巻いた腕を見せながら頭を下げ、どうにかうやむやにしてしまった。
まぁ、信じちゃいないだろうが――子供にだって譲れない、秘密にしておきたい大事があることを理解してくれる両親だ。無事だったのなら、何も言ってこないだろう。アヤカが色々と詮索してくるが……これは無視だ。
ニコニコマートは店長が行方不明になって騒然とした。今は店長のご両親が代わって店を切り盛りしているが、マスコミが取材に来たりと騒がしいし、俺自身の気持ちとしても、しばらくはあの店を利用できない。
マスコミ、言えば――店長を含め、突然姿を消した住人が幾人も居て、集団失踪事件として世間を騒がせている。今じゃこの街も全国区で知られている。そして、たぶん一ヶ月で忘れ去られる。
地霊化した人間は還らない。彼らの家族も、ここ十数日、一緒にいた彼らが、地霊の擬態した物であったことは知らない。どちらも知らなくても良いことだと思う。ただ、知っている一人として、俺は覚えておこうと思う。
そして、今日。俺は駅前の雑踏を、脇に寄って壁に
平日の日中。当然、学校はサボリ。
この数日間、何をするにもやる気が起きなくて、一応学校には顔を出すのだが昼休みになると抜け出し、どこに行くというのでもなく、あの夜のようにブラブラと街を巡っていた。幸い、学校側からは何も言われていない。面倒臭くても勉強はしておく物だと思う。
色々な所へ行った。
ジャックと初めてであった場所。地霊を倒した道端。豚饅を食うのを眺めた児童公園。決戦の場、廃工場(ここは後日取り壊す予定だとか)。どこにもジャックは居ない。当たり前の話。
懐かしい場所も沢山見つけた。
まだ、残っていた駄菓子屋。街を一望できる丘の茂みに作った、かつての秘密基地の痕跡。一日中走り回って遊んだ、街外れの河川敷。それは、ジャックが守ってくれた物なのかもしれなかった。
雑踏を眺める。
今、ここから見える、この街に生きる一人一人が、ジャックに救われた訳で。
それを誰も知らないまま、また日々が流れ去っていく。
これって結構、納得できない話。少なくともジャックの友達の俺としては。
「……探しに行こう」
不意に思い付いた。そうだ、ジャックを探しに行こう。
ジャックはまだどっかに居るような気がする。
あれだけみんなで話していたのだ、誰か知っているかも知れない。ジャックを尋ねてみたらどうだろう。
「知らない」と言われたら教えてやればいい。ジャックがどんなヤツなのかを。
たった一人で人間を守っていた少女。
人間のことが大好きで、誰かと話をするだけで嬉しくて、時には初めて食べた豚饅に感動したりもする。
そんな、すごく善いヤツなんだって事を。
そうすればジャックは必ず現れる。
だってアイツは無類の寂しがり屋で、自分の噂が立っている所に顔を出さないはずが無いんだから。
俺は背を預けていた壁から離れ、辺りを見渡す。
さて、早速聞き込み開始だ。誰からいこうか…………よし、まずはあそこの暇そうな女子高生から。噂と言えば中高生、特に女子。穿ち過ぎな意見は承知。まぁ、誰だって良いのだ最初は――あぁ、ちょっといいか? 聞きたいことがあるんだけど――
「“屋根の上の切り裂きジャック”って知ってる?」