エッセー
第17回

<偉大なる親、大きい人間>




 父が生きた日数は、13962日だった。僅か38年と、83日。
 昨年、私がこの父の生存日数を越えた時、ここから先は、よりいっそう親孝行をしていこうと新たに意を決した。
 どんな父であったか、幼かった時の記憶を辿る。
 当時、私は9歳、弟7歳と生後3ヶ月の男3人兄弟。母は35歳だった。母の心情を思うと胸が痛む。
 悲しんでいる間もなく、仕事に出、生まれたばかりの弟の子育て、まだ小学生だった私たち二人の面倒もみなくてはいけなかった。
 私はこの年の4月にも目の手術を受けていた。と同時に弟の小学校への入学。大きなお腹を抱えて、病院や学校を行ったり来たり。この時も父は頻繁に体調の不良をうかがわせるが、こんな状況も後押ししてしまい、病院へ足を運ばせなかった。
 数ヶ月後、出産、私も盲学校に転校したばかりだった。
 急な病院からの知らせで、父が亡くなったことを知った。
 しかし、無口だった父との思い出も幼かった私たちにはほとんどなく、悲しみという気持ちが実感としてなかった。
 優しくなかったわけでも、遊んでもらわなかったわけでもない。ただ、父よりも母になついていただけなのだ。
 こんなエピソードがある。一生忘れないだろう。ある日、私と弟で、母が何気に置いていたお金で、近くの駄菓子屋で、二人分のゲーラカイトを買ってしまった。店屋のおばさんは、私がプラスチック製の小さなだるま形をした貯金箱から取り出した5千円札を見て、「これ本当にお母さんが買っておいでって言ったの?」と尋ねられたが、「うん!」と頷き、大好きだった、スーパーカー(ランボルギーニ カウンタックLP500)がプリントされていたそれを弟と一つずつ買って帰ったのだった。
 父がいつものように役所勤めから帰ってきた。母が昼間あったことを父に伝えている様子。どうなるのだろうと心配しながらも、このまま事なく済むのではないかというぐらいの時間があった。
 その時、突然、父が私の体を持ち上げ、ぐるぐると振り回しながら、「黙ってお金を取ることは絶対にしてはいけない」ことを恐怖で泣き喚く私に教えた。振り回すといっても、遊んで振り回されている動作とほとんど変わらない。父の気持ちが違うのだ。とても悲しく、どうすれば、身体的苦痛を与えず、悪いことは悪いと教えればよいかをずっと考えていたのだろう。その時間だったのだ。
 今となれば、この父の優しさは他の誰にも真似ができないほどの愛情だったと痛感するが、当時はあまりの恐怖で、その後、父に近付きがたくなり、心さえも閉ざしてしまうようになった。このことがあって、約1年後の死だったので、悲しみも湧かなかったのではないかとも思う。

 父は、ビール・コーヒー・タバコ・インスタントラーメンがとても好きだった。前回で遺伝子のことについて少し触れたが、私は不思議なことに、この4つが全くダメだ。嫌いなわけではないのだが、体が受けつけないのだ。

 休日は、寝転がって囲碁や将棋のテレビを見たり、本を読んだりしていた。相当のベテランであっても父にはかなわなかったほど強かった。賭け事もけっこう好きだったようで、麻雀やパチンコなどにもたまに行っていた。景品はいつも自分のタバコと私たち兄弟のためにおもちゃを持って帰ってきて喜ばせた。そして、大の巨人ファンで、負けるとテレビを壊すのではないかと思うほど、いらいらしテレビにあたるのだった。
 大学時代はラグビーとクラシックギターをやっており、文武両道に長けていた。人からも好かれる存在で、昇進も早く周囲を驚かせたという。
 とても温厚な性格で、無口だが子煩悩だった。スーパーの屋上にあった遊園地に私と弟を自転車に乗せて連れて行ってくれたり、一緒に野球をして遊んでくれたりした。凧揚げをしている写真もどこかに残っているはずだ。
 亡くなる直前まで遊んでくれた。野球をしていて、私がスライディングをしたとき、父の腹に軽く触れたか触れないかという程度で、倒れこみ、しばらく動かなくなってしまった。この間、父の意識があったのか、なかったのかも私には分からなかった。ただ驚いた。もう一つ驚いた瞬間は、一緒に風呂に入っていた時のこと、かなりぬるい湯の温度だった。「これぐらいでゆっくり入るのもいいんやで。」と教えてくれたが、ちょっとぬるすぎるのではないかなとも思っていた。その直後、バスタブに腰をかけていた父が後方へ意識を失い倒れてしまった。この頃には大好きだったビールも受けつけなくなり、ほとんど食欲もなくなっていた。周囲の強い勧めでやっと入院したが、もはや手遅れだった。この時、既に、熱めの湯に浸かる体力さえもなかったことが分かる。

 家族のことを思うがあまり、自分自身の体を厭う間もなく短い生涯を閉じてしまった父。その父に恥じない生き方を。父が命がけで守ってくれたこの大切な命を、父に報いていけるように使っていこう。人のためになる生き方をしていこう。今そのように強く思う。
 そして、35歳から、必死になって、私たち3人を育ててくれた母や祖父母。物や形では到底、恩返しはできない。自分たちが人のために尽くし、喜んでもらい、慕い慕われる人間関係の中、幸福になっていくことが、一番両親を喜ばせることであり、最高の親孝行・恩返しであると信じている。

 今まで、これほど詳細に父のことを語ったり、書いたりしたことはなかった。気付かなかった部分も多々あったのだろう。しかし今、私も当時の父と同じような環境になった時、父の偉大さを感じ、無性に書きたくなったというわけだ。

 そして、苦労に苦労を重ねながら、何があっても温かく見守り、育ててくれた母。今も我が身を厭わず孫の面倒をみてくれている母、祖母や妻の親たちにも感謝の思いでいっぱいだ。
 あまりにも偉大な親の存在、ただただ感謝。そして今、自分が3児の親となり、子育ての中で、たくさんのことを学ばせていただいている。妻や子供たちにも感謝。何かと至らない父であり、夫であり、息子であるが、真心には真心、恩には恩で報いていこうとの決意は揺らぐことはない。父から学んだ、大人らしさ(責任感や協調性)、男らしさ(優しさや厳しさ)といったものも、到底及びはしないが、きちんと実践し、受け継いでいきたい。

 子供を叱る時に、わざわざ、大切な子供に怪我を負わせるような手段は必要ない。『ダメだ』ということをイメージ付けるだけでよいのだ。怒っているという声で、注意をし、目の前などで自分の手を叩くなどで音を出し、それでも足りない場合には、父がやったように、体を揺さぶるなどの動きで充分なのだ。
 事実、うちの子もこれらで善悪を理解している。ちょっと怖い顔や声で注意をするだけで、効果は絶大だ。そして、よっぽどのことでない限り、叱ることもないと思う。

 父には父の役割、母には母の役割がある。片親であっても、子供たちは成長に応じて、自然にそれらを理解し、自分で補ってしまうものだ。一番下の弟とは9歳離れているので、私が父親役を担っていた。父親の存在を全く知らない弟もこの変な父親がわりに可愛がられたり、いじめられたりと、今思えば可哀想なものだ。この先、変な方向に向かわなければよいが…。
 すぐ下の弟の気持ちは、非常に複雑で一番苦しんでいたのではないかと今さらになって思う。大人になって、お互いがお互いを思いやれるようになった。私は弟に対し、謝らなければならないことだらけだ。弟の苦労が表現しがたいほどの辛さだったのではと想像すると、居た堪れなくなる。本当に申し訳ないという思いと、なんとしても幸せになってもらいたいという気持ちでいっぱいだ。口下手であるが、誰にでもとても優しく、父に似た、人間の深みを持っている尊敬できる弟だ。

 このように、身近な家族を例に取っただけでも、こんなに多くの支えや愛情を受けている。他にも、多くの尊敬している人や、感謝に絶えない方々がおられる。このこと自体が一番の幸せであるのかもしれない。

 幸せは目には見えない。本当の幸せは心に積むからである。表面上あらわれる喜びは、さほど大きいものではない。時間と共に色褪せたり、失ったりするものがほとんどだからだ。
 心に積む喜びは、色褪せたり、失ったり、奪われることもない。
 所謂、苦難に負けない心、優しい心、厳しい心、健気に信じる心、学び尊敬し感謝できる心、それらの心を一にできる善い友人をもっていることなどなど。私は今本当に幸せだ。弟たちもおそらく同じように思っているのではなかろうか。

 そこで、偉大なる父と母に対し、兄弟を代表して、必ず幸せになり、人のために尽くす一生をおくることを誓い、最大の尊敬と感謝の念を捧ぐ。

写真・文章提供:中島敏明