ワイガヤ青春広場
 
    ー宗教と世界平和ー
 
第2部−2.一神教の展開(イスラム)
 
                  緒言
 
 イスラムは、我々日本人にとって、馴染みの薄い宗教である。しかし、世界中に10数億の信徒を持ち、やがて数のうえでは、キリスト教徒を凌駕して、世界ナンバーワンの信徒数を持つようになると推定されている。しかも、イスラムとキリスト教の間には、「文明の衝突」とも言うべき現象が起きて、国際社会を揺さぶっており、世界平和を考えるためには、避けて通れぬ課題を我々に突きつけている。このようにイスラムは、我々が現在、最も関心を払うべき事項の一つであると言えよう。
 
 イスラムはよく、単なる宗教ではなく、信徒の日常活動の全般を規定する、「生活の体系」であると言われる。それは何を意味するのか。兄弟一神教のユダヤ教やキリスト教と、どのような関わりを持つのか。何が同じで何が違うのか。信徒達の行動様式や習慣にまで立ち入って、眺めることとしたい。
 
 また、紀元7世紀に、アラブ人の宗教として誕生したイスラムは、民族の壁を破り地域を越えて、大きく地球上に広がっていった。その過程で、他の国々や民族、あるいは文明とどのように交流し、どのように征服・支配していったのか。その歴史を概観することとしたい。
 
 世界の歴史を見ると、16世紀までの千年間は、政治・経済・文化などのあらゆる面で、イスラム世界は向かうとこと敵なしの趣さえあった。それが17世紀には高原期を迎え、18世紀半ば以降は次第に、西欧近代の蹂躙に任せ放しになっていった。何故そのような事態になったのか。それに対してイスラム世界は、どのように反応してきたのか。その経緯を、特に留意して見つめることにしよう。
 
 文明の衝突現象としては、2001年のアルカイダによる「同時多発テロ」、それに対する欧米の「反テロ戦争」が象徴的である。その病理を解析したい。また2011年からは、チュニジアに始まるアラブの動乱が広がっていった。それをイスラム世界の民主主義実現の可能性と併せ考えたい。
 
 更にイスラムの欠陥として、政教一致であることが云々されている。果たしてそうなのか。イスラム原理主義との関係なども視野に入れて、イスラム法や聖典コーランにまで遡って、考察を加えることとする。
 
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目次の概要
T.イスラムの成立と発展
 1.ムハンマドとイスラムの誕生
   ・ヒジュラ ・ウンマ  など 
 2.何故アラビア半島に一神教が生まれたのか
 3.イスラムの教えと風習
   ・コーラン ・ハディース ・シャリーア ・ウラマー ・六信五行
   ・イスラムの風俗習慣  など
U.アラブ人によるイスラム世界の拡大
 1.正統カリフ時代
 2.ウマイア朝
   ・スンニ派 ・シーア派 ・アラビア帝国  など
 3.アッバース朝
   ・イスラム帝国 ・マムルーク ・ワクフ ・イスラム文化 ・スーフィズム  など 
 4.イスラム帝国の分裂
   ・後ウマイヤ朝 ・ファーティマー朝 ・ブワイフ朝  など
V.非アラブ人を中核としたイスラム世界
 1.トルコ人とイスラム世界
   ・トルコ人のイスラム化 ・セルジューク朝  など
 2.十字軍とモンゴル軍
 3.北アフリカのイスラム王朝
   ・アイユーブ朝 ・マムルーク朝
 4.イベリア半島及びマグレブのイスラム王朝
   ・ムラービト朝 ・ムワッヒド朝 ・ナスル朝  など
 5.中南アフリカ(サハラ以南のアフリカ)のイスラム化
   ・マリ王国 ・ソンガイ王国 ・ソコト・カリフ国 ・トウクロール帝国 など
W.三大王朝の角逐
 1.ティムール朝
   ・都市建設 ・テント生活と庭園 ・サマルカンド など
 2.サファヴィー朝
   ・12イマーム派 ・チャルドランの戦い ・アッバース1世 など
 3.オスマン帝国
   ・兄弟殺し ・スレイマン1世 ・ミツレト制 ・ティマール制
   ・イエニチェリ ・ウラマーとスルタン など
X.インド、東南アジア、中国、中央ユーラシアのイスラム化
 1.ムガル帝国
   ・デリー・スルタン朝 ・アクバル ・アウラングゼーブ ・シク教 など
 2.東南アジア諸島部のイスラム化
   ・マラッカ王国 ・アチェ王国 ・マタラム王国  など
 3.中国のイスラム化
   ・唐や南宋の蕃坊 ・元とムスリム達 ・明の海禁策  など
 4.中央ユーラシアのイスラム化
   ・4ハン国のイスラム化
Y.ヨーロッパ進出の衝撃
 1.キリスト教とイスラムの勢力均衡
   ・イスラム優勢の時代 ・第2次ウイーン包囲 ・宗教と世俗の分離
   ・イスラムの出遅れ ・イスラムに学んだ西欧  など
 2.踏ん張るオスマン帝国
   ・カルロヴィッツ条約 ・西欧化 ・オスマンの平和 ・チューリップ時代
   ・ロシアの南下政策  など
 3.東南アジア、インドへのヨーロッパ進出
   ・ポルトガル、オランダ ・フランス、イギリス 
Z.ヨーロッパに蹂躙されるイスラム 
 1.イスラムの内的覚醒
   ・ワッハーブ運動 ・アフガーニー ・アブドウフ ・リダー など
 2.オスマン帝国の激動
   ・諸民族の独立運動 ・西欧列強の侵略 ・タンジマート ・ミドハト憲法
   ・青年トルコ など
 3.ムガル帝国の滅亡
   ・イギリス支配の進展 ・大反乱 ・インド帝国 ・ワリーウッラー
   ・アフマド・ハーン ・デーオバンド学派 など
 4.イラン、アフガニスタンなどへのヨーロッパ進出
   ・バーブ教徒の反乱 ・タバコ・ボイコット運動 ・英露協商 など
 5.東南アジア、東アジアの植民地化
   ・オランダの強制栽培制度 ・イギリスのマレーシア支配 など
 6.アフリカの植民地化
   ・ベルリン会議 ・仏領西アフリカ ・英領ナイジェリア  など
 7.中央ユーラシアの植民地化
   ・キプチャク・ハン国 ・ロシア大公国 ・ロマノフ朝 ・清朝 など
[.2つの世界大戦とイスラム世界
 1.第1次・第2次世界大戦
   ・国際連合 ・ブレトンウッズ体制 ・ヨーロッパの没落
   ・植民地の勃興
 2.オスマン帝国からトルコ共和国へ
   ・ケマルパシャ ・カリフ制の崩壊 ・脱イスラムと近代化・世俗化
   ・イスラムの西欧嫌い
 3.イスラエル共和国の成立
   ・バルフォア宣言 ・シオニズム ・中東戦争  など
 4.アラブ諸国の動向
   ・ムスリム同胞団 ・バアス党 ・エジプトとアラブ民族主義
   ・サウジアラビアと石油危機 ・湾岸諸国 ・北アフリカ諸国 など
 5.イランとアフガニスタンの動向
   ・パフレヴィー朝 ・ホメイニとイラン革命 ・ムジャヒディン
   ・タリバン ・アルカイダ  など
 6.中南アフリカ(サハラ以南のアフリカ)の動向
   ・ナイジェリアとビアフラ戦争 ・セネガルとスーフィズム
 7.南アジアの動向
   ・インドの独立 ・パキスタンの独立 ・カシミール問題
   ・バングラデシュの独立 など
 8.東南アジアの動向
   ・スカルノ、スハルトの独裁 ・ジャーマ・イスラミア
   ・マレー人保護 ・国際イスラム大学  など
 9.中央ユーラシアの動向
   ・社会主義革命 ・スターリン憲法 ・ペレストロイカ
   ・北カフカスの過激派 ・ウイグルの中国化  など
\.グローバル化時代のイスラム
 1.イスラム世界の連帯
   ・イスラム諸国会議機構 ・ムスリム・ウラマー世界連盟
   ・武装闘争ネットワーク など
 2.イスラムと立憲主義
   ・シャリーアと憲法・民法 ・イラン憲法  など
 3.欧米におけるイスラムの広がり
   ・ムスリム移民 ・同化政策と文化摩擦 ・アメリカのムスリム など
].問題提起
 1.イスラムと民主主義
   ・民主主義にはお金がかかる ・古代ギリシャの民主主義
   ・植民地の上に成立した欧米民主主義 ・共産圏民主主義の失敗と期待 など
 2.イスラムと政教分離
   ・イスラムの歴史に見る政教分離 ・イスラム原理主義と政教一致
   ・キリスト教徒のイスラム嫌い ・キリスト教とイスラムとの対話可能性
 3.イスラムの融通無碍
   ・背教規定と思想・信条の自由 ・コーランの弾力性
   ・シャリーアの多様性  など
 
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T.イスラムの成立と発展
 
 若き諸賢よ。イスラムは、今後諸賢が最も学習に力を入れるべき事項の、1つであると考えられる。イスラムとは、7世紀、アラビア半島のメッカで、ムハンマドが唯一神アッラーへの信仰を説いたことに始まる宗教である。なお、イスラムという言葉自体が宗教を指すので、イスラム教と呼ぶ必要はない。そして、その信者をムスリムという。
 
 イスラムは、キリスト教・仏教と共に、世界の三大宗教の1つとされているが、我々日本人にとっては、馴染みの薄い宗教である。しかし、世界には10億を超すイスラム教徒(ムスリム)がおり、その居住地域は、発祥地の中東のみならず、中央アジア、南アジア、東南アジア、アフリカなどを中心に、大きく広がっている。しかも、かつては微々たる数しかいなかった欧米にも、移民として移住し、既に千数百万人が生活している。(TIME.August30.2010.p17)
 
 更に、キリスト教徒やユダヤ教徒との間に、「文明の衝突」とでも名付けるべき、戦争やテロなどの看過できない事件が多発している。今後の世界平和を考える上に置いても、イスラムについての知識を持つことが、今まで以上に必要になってきていると言えよう。
 
1.ムハンマドとイスラムの誕生
 
(1)ムハンマドの生い立ち
 
 イスラムの使徒ムハンマドは、セム語族系アラブ人である。西暦570年頃、メッカの名門クライシュ族のハーシム家に、呱々の声を上げた。セム系の人々は、もともとシュメール人の後を継いで、古代メソポタミア及びその周辺を支配し、文明を築いた民族である。
 
 メッカは、アラビア半島の西南部に位置する。アラビア半島の大部分は砂漠で、降雨が少ない。冬には若干の降雨があり、多くの場合は豪雨である。雨水は1日も経たないで地面に吸収され、伏流水となる。窪地では泉となって湧き出し、また井戸を掘れば水が得られる。いわゆるオアシスである。しかしメッカは、農耕に多くを期待できないので、人々は隊商貿易や運送を生業とする、商品経済の中に生きていた。
 
 また彼らの宗教は多神教であり、偶像崇拝であった。メッカにはカアバ神殿があり、これが半島内の人々の尊崇を集めていた。神殿内部には300を越える偶像が祀られており、人々は毎年この神殿に参詣するのを習わしとしていた。
 
 ムハンマドはこのような環境の中で育ったのである。生まれる直前に父を亡くし、6歳の時には母を亡くしている。こうしてムハンマドは孤児となる。この幼時体験が、後で寡婦の保護や困窮者の扶助を唱えた、イスラムの教えに昇華したと考えられる。
 
 孤児ムハンマドは、ハーシム家の家長である祖父、その死後は叔父に育てられている。若い頃のことはあまり明らかではないが、シリヤやパレスチナへの隊商貿易にも従事して、商人としてのキャリアを積んだようだ。そして25歳の時、隊商活動の資金的スポンサーであった15歳年上の、富裕な未亡人と結婚している。
 
 ムハンマドは、最初は極めて世俗的な人間であったと思われる。多分、多神教を信じるメッカの人として、常識的な宗教儀礼は、誠実に実行していたようである。カアバ神殿に向かって礼拝すること、神殿の周りを巡ることなどが儀礼の中心であった。
 
 当時、メッカの伝承によれば、旧約聖書に出てくるアダムは、天国を追放された後、降り立ったのがメッカとされていた。また、旧約聖書の預言者アブラハムが、カアバ神殿の建設者であるとされていた。ムハンマド自身、自分はアブラハムの純粋な血の系譜を引くものと信じていたと言われる。
 
(2)天啓と聖遷(ヒジュラ)
 
 40歳近くなると、ムハンマドは山ごもりを行うようになる。食糧を携え、メッカ近郊の山の洞窟にこもり、何日も瞑想や勤行を続けたのである。そして、ある日突然、アッラーから天使を通じて、天啓が下ったと言われる。610年のことである。
 
 ここでアッラーと言う神は、多神教であったメッカ市民にとって、古くから至高の神として認識されていた。ただ、信仰の対象として意識されることは少なく、人々は、彼らの聖所カアバ神殿に祀られた、部族神の偶像を拝んで満足していたのである。従ってムハンマドは、そのようなアッラーを偶像崇拝から切り離し、目に見えない普遍的な唯一神の高みに押し上げ、ユダヤ教やキリスト教のヤハウエの神と同一化していくことになる。
 
 天啓を受けたムハンマドが、当初抱いていたアッラーのイメージは、イスラムの聖典コーランから推測すると、次のようなものであった。
 oアッラーは唯一の神にして永遠の神、子もなく父もなく、彼に並ぶものは何もない。 (コーラン112章)
 o創造主アッラーは、ラクダと大地を作り、人間に雨と穀物とナツメヤシを与えて下さ  った。(80章、88章)
 oアッラーは最後の審判の日には、地獄へ堕ちた人間には恐ろしい業火を用意し、天   国へ導かれたものには、従順にかしずく乙女と、精妙な酒と、緑したたる楽園を用  意して下さる。(78章、83章、88章など)
 o地獄へ堕ちるのは、他人の財産をむさぼり、孤児に手荒くし、ただ無闇に富を愛する  者たちである。(92章、104章、107章)(「イスラーム教の歴史1」佐藤次   高編、山川出版社、p11)
 
 やがてムハンマドは、預言者として神の言葉を伝える活動を開始する。つまり、ささやかな新興宗教が生まれたのである。しかし、メッカ市民が信奉する多神教や偶像崇拝を断固排撃し、アッラーだけが神であるという、厳格な一神教の教えには反発が強く、ハーシム家の属するクライシュ族も、ほぼ全員が敵に回った。
 
 そのため、入信者もなかなか増加しなかった。1万人ほどのメッカ市民のうち、信者は約200人であったようである。クライシュ族の圧迫に堪えかねて、ムハンマドは信者たちを、キリスト教徒の王が統治する、エチオピアに避難させるようなこともやっている。
 
 最初の啓示から10年目に、悲しい出来事が起こる。信仰の最大の味方であった妻と、育ての親である叔父が、相次いで亡くなったのである。そうした心理的動揺の中で、ムハンマドは新たな神秘体験をしている。そして、イスラムにとっても、新たな展望が開けることになる。
 
 と言うのは、布教の過程でムハンマドは、メッカの北方の都市メディナで、新たな信者獲得に成功したのである。ムハンマドはここに、行き詰まった現状打開の糸口を見いだし、メッカの信者を引き連れて、メディナに活動の拠点を移す。これをイスラムでは、聖遷(ヒジュラ)と呼んでいる。622年のことである。これが、イスラム暦の元年とされている。
 
 メディナでは、アラブ人の30の氏族が抗争に明け暮れており、また、経済の実権は、先に入植していたユダヤ人に握られていた。内乱の頻発する無秩序な都市メディナこそ、混乱を収拾するためのイスラムというシステムを必要としていたのである。唯一神の使徒を自認するムハンマドは、まさに調停役とし適役であった。かくて、メディナにおける布教は順調に進んでいく。
 
(3)イスラム共同体(ウンマ)の建設
 
 やがてムハンマドは、メディナに、神を主権者とし、神の使徒が代理人となって治める、イスラム教徒(ムスリム)の共同体(ウンマ)を建設しようと決意する。そして先ず、彼の住居兼モスク(イスラム寺院)を建て、それを拠点に布教を活発化させた。やがてムハンマドは、メディナの住民の殆どを、イスラムの信者化することに成功したのである。
 
 ウンマ建設の過程で、ムハンマドは有名な「メディナ憲章」を作っている。これは、メッカからの避難者と、メディナの援助者の間での、盟約と言う形で発表されたもので、新しいイスラムに向けての、理念と原理を述べたものになっている。
 
 メディナ憲章の中身は、およそ次のようなものである。避難者と援助者(いずれもムスリム)が、一つのイスラム共同体(ウンマ)を構成する。ウンマの構成員は平等である。非ムスリムも、税金や戦費を拠出すれば、共存を保証される。ウンマはムハンマドによって統治される。などなどである。
 
 ここで、イスラム共同体(ウンマ)の意味合いについて、一寸考えてみよう。ムハンマド以前のメッカやメディナは、国家のない社会であった。全体の首長もいないし、如何なる政治機構もない。人々が税を納めることもないのだが、公教育の施設も福祉施設もない。警察も裁判所もない。すべては慣行により処理された。そして時に、武力によってもめ事は解決されたのである。
 
 また当時のアラビア半島では、由緒ある家柄を誇り、血縁によるえにしを尊ぶ気風が残っていた。また、一族のものが殺されれば、これに復讐するまで戦いを続けることを義務であり美徳とする、「血の復讐」の観念が、男たちの行動を強く縛っていた。
 
 しかしウンマの建設によって、メディナはムハンマドを絶対的な指導者とする、「国家」らしきものに変身していくのである。絶対唯一神の信仰の下、部族や氏族の血の絆を否定した信者の共同体が、政治的組織体としての体裁を整えたのである。また、アラブの血の絆を否定したことによって、イスラムには民族を越えて拡大する、「世界宗教」としての性格が備わることになった。(前掲「イスラームの歴史1」p3~13、p70~73)
 
 ただ、メディナでのムハンマドを困惑させたことがあった。当初ムハンマドは、神を同じくするユダヤ教徒との、友好な関係を目指していた。エルサレムへの礼拝や、贖罪の日の断食など、ユダヤ教徒の慣行を採用するほど、一目置いていたのである。しかしそれは、ムハンマドの片思いでしかなかった。ユダヤ教徒は、メディナ憲章に規定されている税金を払わないだけでなく、ムハンマドを預言者として決して認めようとはしなかった。
 
 ユダヤ教徒に失望したムハンマドは、礼拝の方角をエルサレムからメッカに変え、独自の断食日を設けた。そして以降は、ユダヤ教を越えた一神教の教義確立へと、努力の方向をシフトさせていくのである。
 
 こうして動き出したウンマ建設の次になすべき事は、聖戦(ジハード)であった。つまり、イスラムを脅かす敵に立ち向かい、イスラムを拡大するための戦いである。ユダヤ教徒を始め近隣の勢力を打ち破った後、630年には、メッカの征服に成功する。メッカに入ったムハンマドは、カアバ神殿にあった様々な偶像を破壊した。そしてここを、イスラムの聖殿にすげ替えたのである。
 
 ムハンマドは、その僅か2年後に亡くなっている。しかしメッカ征服を契機に、半島各地のアラブ部族や氏族が、次々にメディナに使節を派遣し、ムハンマドから安全保障を得る見返りに、あるものはイスラムを受け入れ、あるものは税の納入を約束し、その権威を承認した。
 
 これらの盟約の締結によって、この短期間に、ウンマを統率するムハンマドは、アラビア半島のほぼ全域を、緩やかに統合する体制を作りあげたのである。これがイスラム国家の原初形態である。(「イスラム教の本」学習研究社、p25~42)(「ナビゲーター世界史2」鈴木敏彦、山川出版社p191~192)(前掲「イスラームの歴史1」p22)(「図解宗教史」塩尻和子など監修、成美堂出版p77)
 
2.何故アラビア半島に一神教が生まれたのか
 
(1)アブラハムの3宗教(セム的一神教)
 
 第2部−1で述べたように、ユダヤ教、キリスト教、イスラムは、アブラハムの宗教(セム的一神教)と呼ばれ、いわば兄弟宗教である。根本教義の上でも、この世界が唯一神によって創造された時から、神のプログラムが始まり、世界は、終末→最後の審判→永遠の来世生活へと向かっているという世界観で一致している。
 
 また、旧約聖書に登場する預言者は、3宗教とも正当な預言者として認めているし、3宗教ともエルサレムを聖なる都と認めている。(但し、イスラムでは至聖の聖都はメッカである。)なお、イスラムがエルサレムを聖地とする理由は、天使に連れられてエルサレムを訪れたムハンマドが、ここから天上界への旅に出たと伝えられるためである。エルサレムにある岩のドームが、まさにその場所だと言われる。
 
 キリスト教は、ユダヤ人でユダヤ教徒であったイエスが、ユダヤ教の一種の宗教改革として、己の宗教的信念を説くことから始まった。それが弟子達に受け継がれ、キリスト教という一教団として、独立していったという経緯がある。だから、キリスト教がユダヤ教の宗教的系譜を受け継いでいることは理解できる。
 
 しかし、ユダヤ教の教義が確立したのは西暦紀元前5世紀頃のことであり、キリスト教は紀元後1〜2世紀に、新訳聖書が編纂されている。ところがイスラムが誕生したのは、紀元後7世紀のことであり、先ず時代的に大きな隔たりがある。地域的に見ても、メッカはアラビア半島の砂漠の中に浮かぶ、人口1万の小さなオアシス都市であった。そして、キリスト教を国教とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の辺縁からも、数百キロ離れていた。
 
 更に当時のアラビア半島では、多くの部族がそれぞれ部族の多神教信仰を持っていた。彼らのアイデンティティは、部族の伝統と血のつながりにあり、外敵に対しては、死をも怖れぬ精神が讃えられた。いわば、遊牧民的価値観が重んじられていたのである。そして、今も世界から巡礼者を集めているカアバ神殿には、諸々の部族の信仰の対象であった神像や、聖なる石と言った類のものが、脈絡もなしに雑多に祀られていた。
 
 このように、ユダヤ教やキリスト教と時代的にも地域的にも離れており、しかも多神教徒で取り囲まれていたメッカの地で、何故ユダヤ教やキリスト教と気脈を通ずる、一神教が生まれたのであろうか。前述したように、イスラムの使徒(預言者)ムハンマドは、メッカ近くの山の洞窟で瞑想を重ねている時、神の啓示を受けたと言われている。そのような神秘的体験は、宗教の開祖につきものの体験であるから、当然それはあったであろう。
 
(2)ムハンマドによる一神教情報の獲得
 
 しかしコーランを注意深く読むと、ムハンマドが旧約聖書や新訳聖書の知識に、精通していたことがよく分かるのである。ムハンマドは、モーセやイエスをはじめとする預言者の名前を挙げ、彼らが唯一神の教えを世の中に広めたことを認める。旧約聖書や新約聖書もイスラムの教えと同様、神の啓示の書と認め、ユダヤ教徒やキリスト教徒も、イスラム教徒と同じく「啓典の民」とするのである。
 
 しかし、今までの預言者の教え、あるいはそれを受け継いで布教した弟子達の教えには不完全なところがあり、ムハンマドがそれを完成させる最後の預言者として、この世に出現したとするのである。例えば、ユダヤ教の選民思想や、イエス=メシア説、キリスト教の三位一体説を批判し否定ている。
 
 ムハンマドが説いた教えは、彼の死後20年ほどして「コーラン」にまとめられている。その内容は、メッカでの啓示、その後移住したメディナでの啓示からなり、前後23年にわたって培われた教えからなっている。多分ムハンマドは、先輩一神教の内容を批判的に学ぶと共に、自らの思索や神秘体験(神の啓示)とを練り合わせて、新しい一神教を作り上げたものであろうと考えられる。
 
 こうした問題の謎解きの鍵は、ムハンマドが布教の基地とした、メッカやメディナが、商品取引や運送を生業とする商業都市であったことにある。オアシスでは自活できる規模の農業は不可能だったから、隊商を組んで商業活動に従事したのである。北はシリア方面、南はイエメンと広域移動を行い、それにともなって様々な情報に接したのである。また、契約の文書化などを通じて、共通の言語を持つようになっていた。
 
 古くからの商業活動が、ムハンマド時代の少し前から、急速に活発化して行くのであるが、それには国際情勢が影響を与えたと思われる。と言うのは、当時、アラビア半島に隣接する2つの巨大帝国があった。ササン朝(ペルシャ)とビザンツ帝国である。この2つの国の争いが激化し、昔からのオアシスの道(シルク・ロード)が、両国の国境付近で途絶えてしまった。そこで、新たに国際中継貿易のメインルートとして、紅海沿岸が浮かび上がったのである。
 
 今まで、殆ど歴史的にも注目されず、文明の空白地帯であったメッカやメディナなどのオアシス都市が、いわばタナボタ式に、突然脚光を浴びることになった。ムハンマド自身、若い頃から隊商貿易に加わり、シリア、パレスティナなどを見聞し、その過程で、一神教のユダヤ教やキリスト教から、強い影響を受けたと言われている。(前掲「ナビゲーター世界史−2」p188〜191)
 
 また、ユダヤ教やキリスト教そのものも、メッカやメディナに流入していた。例えば、ムハンマドの妻の従兄弟は、キリスト教信者であった。彼は、ヘブライ語を書き、聖書を暗唱することができた。また、前述したように、メディナには多数のユダヤ人が住んでおり、ムハンマドはユダヤの律法学者と議論をして、ユダヤ教の知識を増していった。(前掲「イスラム教の本」p25〜34)(前掲「イスラームの歴史1」p60〜63)これも前述したが、信者の避難先であったエチオピアでも、キリスト教徒との接触をしていた。
 
(3)イスラム誕生時の社会状況
 
 このようにして、一神教に関する情報は、ムハンマドの周辺に、既に豊富に存在したのである。しかし情報がいくら身近にあっても、それを自分の信仰として選択するかどうかは、また別の問題である。ムハンマドはアブラハムの子孫であるという伝承があったようだから、一神教への親近感があったのかもしれない。だが本当の要因は、当時の社会情勢にあったと思われる。
 
 商業貿易が繁栄して、社会に富が蓄積されると、当然の現象として貧富の差が拡大した。そしてこれが、旧来の秩序の崩壊と、階層対立、部族対立を引き起こし、社会は不安定になった。ムハンマドはそのような状況を見て、地域社会の秩序を回復し、皆の融和を図るには、地縁・血縁によって限定された部族神ではなく、普遍的な神を信仰するしかないと考えたのではないであろうか。当時ビザンツ帝国は、キリスト教の下で豊かな安定した社会を営んでおり、その情報もムハンマドは把握し参考としたに違いない。
 
 彼は、神の下での正義が行われる社会、部族や言語、肌の色を越えて、神の下での平等な社会を目指した。だから、富を独占する富裕な階級を糾弾した。宗教革命に併せて、社会改革をも目指したのである。自らの出自であるハーシム家の属するクライシュ族も、その批判の矢面に立たされたので、ムハンマドの教えに反対し、迫害したのである。
 
 また、平等化を目指せば、ムハンマドも神格化されてはならない。彼は、神の御言葉を預かり、仲介する「預言者」に過ぎないからである。他の人々同様、ムハンマドも神の被造物であり、「飯を食べ、市場を歩く」人間なのである。こうして彼は、唯一神の下、正義と平等が保持される、イスラム共同体(ウンマ)を建設しようとしたのであった。
 
3.イスラムの教えと風習 
 
(1)シャリーア(イスラム法)
 
@コーラン
 
 イスラムの最も重要な教えは、その聖典「コーラン」に書かれている。コーランは、ムハンマドが23年間にわたって、唯一神アッラーから下された啓示を述べたものとされる。彼の死後20年が過ぎた頃、第3代カリフ(ムハンマドの後継者で、ウンマの政治的指導者)の命により編纂されたと見られる。アラビア語で話しかけるような調子で書かれており、詩のような美しい表現になっていると言われる。
 
 どうやらその内容は、ムハンマドが受けた啓示を、パピルスや羊皮紙に、何人かの助手を使って書き留めさせたもののようである。しかし、死の直前まで啓示を受け続けていたムハンマドは、まとまった書物としてのコーランを完成させることが出来なかった。(前掲「イスラームの歴史1」p82~83)
 
 「イスラム」とは「神への絶対的服従」を意味する。だからコーランの内容は、勿論アッラーへの絶対的服従を中心とする教義が重要である。しかし、日常生活でのタブーや、結婚・相続・商売の仕方など、生活全般にわたる規則が書かれている。だからイスラム教は、単なる宗教ではなく、政治・経済・社会・文化など、信者のあらゆる活動分野に関する「生活の体系」であるとされている。そして、都市の商人の地位が高く評価されるので、イスラムは都市の宗教、あるいは商人の宗教とも言われる。
 
Aハディース(ムハンマドの言行録)
 
 コーランの次に重要視されるのが、ムハンマドの言行(スンナ)の記録「ハディース」である。ハディースもコーラン同様、第3代カリフの命で編纂されたと言われる。コーランは神の言葉を綴ったものであるが、ハディースは人間ムハンマドの語った言葉と行動の記録である。だからハディースは、普通の人間にとって倣いやすい内容となっている。
 
 つまりイスラムの教えは、ムハンマドを通じて神から下された啓示と、ムハンマドの言行そのものとの、2つを支えとして出来上がったものなのである。だから、632年、ムハンマドが亡くなった時、ムスリムたちは困った。もちろん精神的支柱を失った打撃もあった。しかし、より深刻な問題は、神の言葉と切れたことであった。
 
 イスラム共同体(ウンマ)内に起こった問題や、対外的な問題は、ムハンマドの生存中には、ムハンマドに聞けば解決できた。それが出来なくなったのである。しかも、ムハンマドは最後の預言者とされており、新しい預言者が生まれることは望めなかったのである。
 
 またムハンマドの死後、イスラムの教勢と支配圏は急速に拡大していった。膨大な数の改宗者がウンマに加入し、宗教上、あるいは実生活上で、それまでにはなかった新たな問題や、判断に迷う問題が次々に出てきた。
 
 ムスリム達は、こうした諸問題への対処策に、決着を付けるよう迫られた。そこでコーランとハディースを基本としながらも、更に新しい事態に適応する事項を追加・補完する形で、「シャリーア(イスラム法)」を編纂することにしたのである。既に、ムハンマドの死後100年が経過していた。
 
Bシャリーア(イスラム法)の体系化
 
 シャリーアの体系化を行ったのは、「ウラマー」と呼ばれるイスラムの学者たちである。
体系化に当たって法源とされたものは、当然、コーランとハディースであった。次に、この2つでは対処できない、新しい現実問題に対する規定整備に用いられたのが、全イスラム共同体レベルでのウラマーの「合意(イジュマー)」である。それと同時に、既に成立している類似の条文からの、三段論法による「推論(キャース)」も認められることになった。
 
 このような、シャリーアの形成プロセスを、イジュティハード(解釈の営為)と言う。かくてシャリーアは、コーラン、ハディース、イジュマー、キヤースの4つを法源として、成立することになった。こうして、ムハンマド亡き後、イスラム教徒たちがムスリムとして正しく生きるための規範を、制定する手続きも整備されることになった。
 
 しかし、これらの過程では多くの論議が重ねられ、完成型に近づくには極めて長い年月が必要で、9世紀までかかっている。そして、啓示を重視するか、理性・推論に重きを置くかなどの、ウラマーたちの主張の違いから、様々な学派が生まれることになった。(ここでは参考までに、スンニ派の4学派を挙げておこう。ハナフィー派、マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派である。名前は、それぞれの始祖とされる法学者の名前を取っている。)
 
 だが、やがてすべてのムスリムは、いずれかの学派に所属し、その解釈によって裁判所で判決を受け、商売の契約を結ぶことになっていく。つまり、様々な法体系を持つ複数のシャリーアが、国家によって承認され、現実社会の中で有効に機能したのである。これがムスリムの、現実主義的な対応能力なのであろう。
 
Cウラマー(イスラムの学者)
 
 なおここで、「ウラマー(学者)」について、簡単に説明しておこう。イスラムにはキリスト教や仏教のように、聖職者(僧侶)にあたる階層はない。ウラマーはイスラムの教えを色々解釈したり、生活の仕方に関する法的意見(ファトワー)を出して、一般の人々を教え導いたりするので、外見上は聖職者に似ている。しかし彼らは通常、教授だったり裁判官だったりと、他の仕事を持っており、聖職者という特定の階層には属していないのである。
 
 つまりウラマーは、宗教に関する諸学の知識を持つ人を指す。そして彼らの中から、イスラムの中核となるコーラン学者、ハディース学者、法学者、神学者などの学者が生まれるのである。法学者と神学者の違いは、法の解釈や適用、宗教的儀礼に関するものが法学者の学問領域、護教(異端や他宗教の攻撃からイスラムを守ること)に関するものが神学者の学問領域と考えてよいであろう。(前掲「イスラム教の本」p59~64、「ナビゲーター世界史2」p193,p200,p218)
 
 更に付け加えると、9世紀以降になり、シャリーアを取りしきるウラマーの役割は、一層重要になっていく。例えば、公正な君主であるか、不公正な君主であるかの判定さえも、ウラマーの学識に委ねられるようになっていくのである。(「都市の文明イスラーム」佐藤次高、鈴木董編、講談社現代新書p24)
 
(2)六信・五行(ロクシン・ゴギョウ)
 
 シャリーアは、ムスリムの生活全般に関する法であるが、内容的には大きく、宗教的規範と法的規範に分けられる。シャリーアの中でも、特に宗教的規範に関わるものが、六信・五行(ロクシン・ゴギョウ)である。この六信・五行を見れば、ムスリムが何をどう信じ、何を考え、何を実践してきたのか、その大筋が理解できる。そこで、以下その内容について、概説することとしよう。
 
@六信
 
 六信とは、ムスリムが、その絶対的真実性を信じなければならない、以下の6つの対象を言う。
 
○アッラー
 過去・現在・未来を通じて、永遠に存在する唯一絶対神である。万物の創造主、あらゆる事象の根源、無限の慈悲の神、そして最後の審判の主宰者と位置づけられている。
 
○天使
 アッラーが、光から創造した霊的存在で、アッラーと人間との中間的存在であると考えられる。四大天使のうちの2人、ガブリエルとミカエルは旧約聖書にも登場する。その他にも、多くの役割を担う多数の天使がいる。天使と敵対するサタンも存在する。
 
○啓典(ケイテン)
 啓典として重要なのは、旧約聖書の中の「モーセ五書」と「ダビデへの詩篇」、新約聖書の中の「福音書」、そして「コーラン」である。
 
 コーランと他の啓典の違いは、その完全性にある。コーラン以前の啓典も、アッラーの啓示には違いないが、そこで語られた真理は部分的なものであり、また、その後の人間の手によって歪曲されるなどして、不完全になっている。コーランだけが、神の言葉そのままの至純・完璧な天啓書であり、人類に2度と天啓が下らないという意味で、最終天啓書であるとされる。
 
○預言者
 アッラーは、ムハンマド以外にも、これまで多数の預言者を使って、地上に教えを伝えたとされる。コーランには25人の預言者が記録されているが、中でも重要な預言者は、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドの6人である。
 
 ムハンマドを除く5人の預言者は、いずれも神の言葉を正しく受け取り、その啓示を人々に伝えようとしたが、その弟子達が、啓示を正しく伝えることに失敗した。そこで神は、最後の啓示を下すべくムハンマドを預言者として招命したとされる。
 
○来世
 イスラムも、ユダヤ教、キリスト教同様、最後の審判と天国・地獄の来世生活があると説く。
 
 終末の時が来ると、天使がラッパを吹き鳴らし、無数の死者達が生前の姿のまま墓からよみがえる。そこで、神による最後の審判が行われ、先頭組(特に優れた神の使徒)、右組(善行を積んだ使徒たち)、左組(悪行を積んだ不信心な者たち)に分けられる。そして、前2者は天国へ、後者は煉獄と地獄に振り分けられる。煉獄は期限付き懲役の獄舎で、地獄は無期懲役の獄舎である。
 
 煉獄概念が生まれたのは、4~5世紀のキリスト教においてであった。教父アウグスティヌスの発案と言われる。これが、イスラムにも取り入れられたと見てよかろう。
 
 天国は安楽な生活が出来る別天地である。男たちには美しい処女妻が用意されている。女性については何も書かれていないので、ジェンダー間の均衡を欠いていると言わざるを得ないであろう。また、地獄は黒煙もうもうとしており、そこに落ちた人々は永遠の責め苦にさいなまれる。
 
○天命
 人が天国に行くか地獄に落ちるかは、生前の行いによって決定される。しかし、天命が存在し、人間の行為も含めた一切の事柄は、あらかじめ神によって定められているとされる。
 
 キリスト教カルヴァン派における予定説に似た考え方である。しかしこれは、一歩間違えると、悲観的な宿命論に陥る恐れがある。だから、この天命を巡っては、人間の自由意志との関連で、様々な神学上の論争が巻き起こるのである。
 
A五行
 
 イスラムでは、信仰の実践が特に重要視される。六信が完全でも、以下の五行が出来ていないと、その信仰は本物とは見なされない。毎日の暮らしの中で、五行を忠実に実践し、自分の信仰をより強固なものに育て上げていくことが期待されている。
 
○信仰告白
 「アッラーのほかに神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり。」という言葉(カリマ)を唱える行である。イスラム教徒は1日に5度の礼拝を行うが、そのたびにこのカリマを唱える。これによって不動の信仰心を養い、またアッラーに対する信仰を、日々新たにするのである。
 
○礼拝
 神への感謝と服従の心は、必ず形に表さなければならない。礼拝はその代表的な儀礼である。メッカに向かって、夜明け(日の出前)、正午、午後、日没、夜半の1日5回、必ず神を礼拝する義務がある。また金曜日には、皆がモスクに集まって、集団礼拝が行われる。
 
○断食
 イスラム暦第9月(ラマダーン月)の30日間、日の出から日没までの一切の飲食を絶つ。水や茶、タバコも禁止され、性行為も御法度である。夜になると、飲食、性行為が許される。
 
 イスラム暦は太陰暦なので、季節と月は太陽暦のように一致せず、年々ずれていく。ラマダーン月が真夏や真冬になる時の、30日の断食はかなりの苦行であるらしい。また、断食そのものもフラストレーションを溜まらせ、断食月にはイスラム諸国の食糧消費が、年間最高になるという。
 
○喜捨(キシャ)
 喜捨は本来自発的なものである。しかし、イスラム諸国では、自発的喜捨以外に義務としての喜捨が定めてある。1年以上所有している財産について、財産の種類によって決められた税率に従って喜捨が行われる。喜捨は政府によって徴収され、コーランの定めに従って、貧者の救済などに使われる。
 
○巡礼
 イスラム暦第12月の8日から10日にかけて、決められた手順に従って、メッカのカアバ神殿にお参りする行である。手順は、死期を悟ったムハンマドが行った、「別離の巡礼」に従って、作られていると言われる。全世界から、民族や言葉の違いを越えて、約200万人が集まり、同じ白衣をまとい、同じ祈りを捧げる。
 
 他の義務と違って、必ず行わなければならないわけではないが、旅費や時間が許せば、生涯に1度は行くのが望ましいとされている。現在では、混乱を避けるために、国ごとに人員の割り当てがある。生涯に何度でも訪れてよいが、3年に1度が原則になっている。(前掲「イスラム教の本」p44~58、p86~94)
 
(3)イスラムの風俗習慣
 
 若き諸賢よ。イスラム世界は、日本人にとって異文化そのものである。驚くべき風習や、信じられない法律も多い。しかし、見逃してならないのは、世界の半分もの地域で信仰され、10億人以上の民を律していることである。そこには、西欧的な価値観でははかれない、もう一つの生き方があるように思われる。その代表的なものを、幾つか拾い上げてみることとしよう。(前掲「イスラム教の本」p71~85)
 
○祈り
 
 イスラムの祈りの対象は、唯一絶対の神アッラーのみである。だから五行の項で述べたように、祈りは決められた時間に、決められた方式で、厳格に執り行われる。
 
 イスラム諸国では、しばしばバスが止まる。そして、ゾロゾロと砂漠に降り立った乗客や運転手たちは、それぞれが祈り専用の小さな絨毯を敷き、メッカの聖所カアバ神殿に向かって、敬虔な祈りを捧げ始める。その光景は圧倒的で厳粛ではあるが、非ムスリムにとっては異様な風景である。だが、彼らにとっては当然の義務であり、欠くことの出来ない日常そのものなのである。
 
○食事
 
 ムスリムは豚肉を食べない。ムスリム自身もその本当の理由を知らない。一般には、気温の高い中東地域では、脂の多い豚肉は腐りやすいからだとか、豚は不浄なエサも平気で食べてしまうので、病気に感染している可能性があるからだとか言われるが、定かではない。コーランに神の啓示として書かれているから、それをただひたすら信じればよいのであって、ムスリムにとって、理由の解明などは全く必要がないのである。
 
 羊や鶏の肉は食べてよいが、それを屠殺する時には儀式が必要である。「アッラーの御名において、アッラーは偉大なり」と唱えつつ、鋭利な刃物で一気に頸動脈と喉を切開する方法のみが許される。私も、かって北九州で研修センターを経営していた頃、ムスリムを多数宿泊させた経験がある。動物を殺すイスラムのしきたりを知っている業者が、神戸にしかいないというので、そこから鶏肉を取り寄せた思い出がある。
 
○女性
 
 イスラム世界では、厳しい男女隔離が行われている。女性は、夫や家族などの男性以外には、顔や身体を見せるべきではないとされ、戒律の厳しい国では、街を歩く時も全身を黒い布で覆わなければならない。男性の来客が入室可能なのは、応接間を兼ねた男性の部屋だけであり、女性の部屋は、中を覗くことすら許されない。
 
 フランスでは、ムスリム女性のスカーフ着用が、法律で禁止されるなどの騒動が起こっている。フランスでは、全人口の1割弱がムスリムであり、更に増加が見込まれるので、文化摩擦は今後も続いていくことであろう。
 
 進化生物学の立場からいえば、子育てに関して男性からの資源投資が大きい社会であるほど、男性はより強く父性の確証を得ようとすると言われる。そのために、女性の性行動ををはじめとする行動一般を、コントロールするようになると予測される。これを配偶者防衛と言うが、上述したムスリムの習慣も、父系社会における配偶者防衛の機能を果たしていると見られる。(「進化と人間行動」長谷川真理子、放送大学p172~173)
 
○割礼(カツレイ)
 
 ユダヤ教では、生後8日目に、ペニスの表皮を切除することが義務であることは前述した。ムスリムの場合は、生後1週間から12歳くらいまでに行うが、7歳ころが望ましいとされている。コーランには割礼について言及がなく、ハディースのみに記されているので、学派により、義務とされる場合もあれば、慣行(スンナ)とされる場合もあるようだ。
 
 割礼の風習は、古代エジプト、アフリカ中央部、太平洋諸島、オーストラリアの原住民、アメリカインディアンの一部でも、儀式として習慣化していたと報告されている。何故行うのか、理由は必ずしも定かではない。
 
 ただこれらの地域は、すべて高温である。高温下で活動すれば、当然、汗や分泌物が多くなる。包茎状態ならば、それらが乾かず、湿疹などになる恐れがある。それで包皮の一部を切り取って、それを防いだのではないかという説が、現在最も有力である。切り取った包皮は、焼くかモスクの境内に埋められるのが一般的である。
 
 なお、女性にも割礼がある。こちらの理由は、「過剰な性的快楽を防ぐため」と言われる。小陰唇を切るか、クリトリスを切るか、その包皮の一部を切るかの、3つの方法がある。地域によっては、結婚前には性器を縫合し、結婚と共にもう1度切開し、出産後にまた縫合し、夫が子供を欲するようになるとまた切開し、ということを繰り返す社会もあるという。これも、前述した配偶者防衛、すなわち父性の確認のための女性の性行動のコントロールに外ならない。(前掲「進化と人間行動」p172)
 
 しかし、女子割礼は、近年非常に稀になってきていると言われる。
 
○結婚
 
 「ムスリムになると4人の妻が持てる」と言われる。実際には1人の妻が多く、複数の妻というケースは少ない。また、ムスリムの好色がその源になっているという説は、完全な誤解である。
 
 4人の妻を持つことが啓示されたのは、ムハンマドのメディナ時代の激戦で、ひどい負け戦になり戦死者が続出して、多数の未亡人と孤児が生じた時である。ムハンマドは「お前達が孤児を公正に扱いかねることを心配するなら、気に入った女を2人なり3人なり、あるいは4人なりを娶れ」と言う、神の言葉を告げたのである。つまり、戦争未亡人の救済が本来の目的であった。また、娶った妻は平等に扱うべきことも、併せ述べている。
 
 なお男性は、ユダヤ教徒、キリスト教徒の女性との結婚が許されるが、女性はムスリム以外とは許されない。ここにも、ジェンダー間の不均衡が見られる。結婚は、親族の話し合いで決定されることが原則である。血縁が濃いことが喜ばれるので、いとこ婚が多い。
 
○葬儀
 
 葬儀はごく簡素である。死後速やかに埋葬されるが、決して火葬は行われない。それは、地獄に落ちるものに、神が与える厳罰だからである。土葬に当たっては、顔はメッカの方角に正しく向けられる。
 
 墓地や墓石も簡素であり、年月が経つと、どれが誰の墓か分かりにくくなることもある。墓参もあまり盛んとは言えない。これは、偶像崇拝を禁止する教えだからという学者もいる。しかし、第1部のメソポタミアにおける祖先崇拝の項で述べたように、支配民族がシュメル人からセム系の人々に変わると、突然、祖先崇拝が淡泊・冷淡になっているのである。そうした古えからのセム系民族の葬祭習慣が、そのまま残っているのではないかと思われる。
 
 ただムスリムにとっては、死は終わりではなく、最後の審判に向けての旅立ちである。後は、神様任せと言うことなのであろうか。
 
○刑罰
 
 罪に対しては、厳重な刑罰で望むのがイスラム法である。例えば窃盗である。右手首を切断して街頭に晒す。こうした刑罰には、厳格な裁定と論理がある。それによれば、本来盗むという機能を持たない手首が、その機能に反したことで、その人間から切り離されたのであり、人間を罰したのではないというのである。
 
 しかし、基本的には見せしめの効力こそが重要なのであろう。ちなみに、既婚者の姦通や、麻薬に関する犯罪は、原則的に死罪である。
 
 現在、コーランに基づくイスラム法が国家法となっているのは、サウジアラビア、イラン、リビア、スーダンなどの一部の国である。それ以外のイスラム諸国では、市民法と呼ばれるごく一般的な法律が国家法となり、イスラム法と併用されている。婚姻や民事についてはイスラム法、それ以外は市民法という場合が多い。
 
○金融
 
 イスラムは「商人の宗教」と言われているのに、不思議な戒律がある。貸した金に、利子を付けてはいけないと言うのである。それは売買によって得た正当な報酬ではなく、他人の金を利用することによって得た、神の意志に反した不労所得である、と言うのがその理由である。
 
 実は、ムハンマドもメッカ時代までは利子を認めていたようである。ところが前述したように、メディナにおけるユダヤ人たちの態度にムハンマドは怒り、ユダヤ人と手を切る。そして、ユダヤ人高利貸しに対する恨みと非難が表面化し、利子を取ることは恥ずべき事だと、声を大にして宣言したのである。
 
 コーランでは、簡潔な表現で利子禁止が語られている。ハディースでは、物に対する利子や、投下資本から生じる利子について、複雑に述べられている。しかし、それらの間には矛盾する表現があり、解釈を巡って数々の議論が展開されてきている。
 
 しかし現実には、イスラム法に従いながら実質的には利子を取る、いわば合法的脱法行為が行われてきている。例えば、合法売買という仕組みである。ここで「売買」されるのは通常不動産で、Aさんがある土地を同額で買い戻せる条件で、100万円でBさんに売却して代金を受け取る。Bさんは同じ土地を、年間10万円の賃料でAさんに貸すのである。これは売買と賃貸の形は取っているものの、実質的には譲渡担保による年率1割の金銭貸借となっている。この慣行は、イスラム世界で広く行われていたらしい。尚、その際の利子率は、通常15%であった。(前掲「イスラームの歴史1」p211)
 
 現在でも、イスラムに則った銀行では、利子は存在せず、手数料という名目でそれが代用されている。
 
○暦
 
 イスラムの暦は太陰暦である。これは、日中の気温が40度をはるかに越える、アラブ諸国の砂漠とその気候と関係がある。日中は炎熱の地獄であるが、日が沈むと気温は下がり、夜間は随分と過ごしやすくなるのである。
 
 このため、アラブの生活は夜が長く、昼が短いのが普通である。殆どの人が、暑い昼間の2~3時間は、出来るだけ動かず、ひたすらベッドに横になってやり過ごし、1日の始まりは日没後と決まっている。そして、快適な夜中に行動し、また談笑する。イスラム圏では、こうした生活のリズムが一般的である。
 
 このように、快適と安らぎを与える夜の象徴は月である。その月が日々その姿を変えることで暦を支配し、生活のサイクルを生んだのである。一日の始まりは日没後からで、1日は24時間である。月のはじめは新月で決められ、1ヶ月は29~30日である。1年は12ヶ月で、およそ354日である。(太陽暦ではおよそ365日)
 
 ラマダーン(断食)や巡礼などの、宗教的に重要な行事は、すべてこの太陰暦を用いる。それ以外の日常生活は、一般に太陽暦(グレゴリオ暦)を用いている。
 
U.アラブ人によるイスラム世界の拡大
 
1.正統カリフ時代(632〜661年)
 
(1)4人のカリフ
 
 ムハンマドが亡くなると、その後継者としてのカリフが、信者たちの選挙で選び出された。カリフは、神の使徒ムハンマドの代理人である。ムハンマドの代行をするだけで、預言の機能は持たない。こうして、1300年以上にわたるカリフ制度が始まるのである。
 
 正統カリフは、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと4代が続く。都はメディナに置かれた。正統とは異端に対する正統ではない。正統な手続きと、共同体(ウンマ)全体の承認に基ずくという意味である。イスラム史上、正統な手続きで成立したカリフは、この4代のみである。そのため、ムスリムにとって正統カリフの治世は、最も理想的な時期として、現代でも特別視されている。
 
 第1代のカリフ、アブー・バクルは、ムスリムの中の長老であった。ムハンマドの親族以外では、初めてイスラム教徒になった人物である。ヒジュラ(聖遷)にも同行している。ムハンマドが死ぬと、ムハンマドに恭順の意を示していたアラビア各地の諸勢力は、後継者の権威は受け入れないとし、謀反が相次いだ。アブー・バクルは、軍事力でそれらの勢力を圧倒して、アラビア半島を再統一した。
 
 第2代カリフのウマルも長老の一人であった。最初ムハンマドを迫害したが、後に改宗した。彼は軍事能力に長けており、カリフよりも軍司令官を意味するアミールの称号を好んだと言われる。征服活動の指導者であった自分に、相応しいと思ったのであろう。事実彼は、大征服(ジハード)を行い、イスラムの領土を急速に拡大させた。西方ではシリアとエジプトをキリスト教のビザンツ帝国から奪い、東方ではゾロアスター教のササン朝(ペルシャ)を滅亡に追い込んでいる。
 
 前述したように、ビザンツ帝国とササン朝が争い、両国間の古来の交易路が途絶えて、それに代えて紅海沿岸が国際貿易のメインルートになったのである。そのことがイスラム勢力を勃興させ、結果的に、両大国に大打撃を与えることになるとは、まことに歴史の皮肉であると言わざるを得ない。
 
 数千万の人々が暮らす地域の支配者となったアラブ人は、戦士の数にして20万人以下であったと思われる。ウマルは、アラブの戦士達を家族と同行させ、征服した各地に設営した軍営都市(ミスル)に住まわせた。そして、支配下に入った人々から税を徴収し、アラブ人には現金の俸給(アター)が支払われた。軍務や徴税を司る官僚機構も整備されて、国家としての体裁を整えて行った。イラクのバスラや、エジプトのカイロは、ミスルとして建設され発展した代表的な都市である。
 
 第3代のウスマーンは、クライシュ族のウマイヤ家出身である。統治機構の拡大は官僚主義を生み出し、また、ウマイア家偏重の政策を行うウスマーンの治世は、不満を醸成した。やがて不満分子が、メディナのカリフ邸を襲いウスマーンを殺害した。このように、政治的には混乱期であったが、ウスマーンは「コーラン」や「ハディース」を編纂させている。
 
 第4代カリフのアリーは、ムハンマドと同じハーシム家出身で、ムハンマドの従弟であった。また、ムハンマドの娘ファーティマーを妻としていた。しかし、暗殺されたウスマーンと同じウマイア家出身のムアーウイアは、復讐を求めてアリーと深刻な対立関係になる。そして双方は戦闘状態に入る。始め戦況は、アリーに有利に展開した。
 
 アリーは勝利目前で、敗北を引き延ばそうとするムアーウイアの申し入れを受け入れて、話合いに入った。しかし、アリー軍の一部は、話合いそのものを否定し、アリーの陣営を離脱した。彼らは「離脱者(ハワーリジュ)」とよばれる。これに対して、あくまでもアリーへの忠誠を守り抜いた人々がいた。このグループを「アリーの党派(シーア・アリー)」と言い、後に省略されてシーア派となる。
 
 アリーは内乱状態に陥ったメディナを見限り、イラクのクーファに遷都した。ハワーリジュ派は、独自に活動を始めたが、アリーの軍に鎮圧される。しかし、ハワーリジュ派は刺客を送り、アリーを暗殺するのである。こうして、30年という短い正統カリフの時代は終わりを告げる。
 
(2)コーランか貢納か剣か
 
 正統4カリフ時代の領土の広がりは、アラビア半島から西はシリア、エジプト、東はイラク、イランにまで及んでいた。何故、30年そこそこの短期間に、イスラム勢力がこの広大な領土を征服できたのであろうか。また、何故20万程度の軍隊で、数千万人の人々を統治できたのであろうか。理由は大きく2つが上げられる。
 
 1つは、イスラムを拡大する戦争は、聖戦(ジハード)とされ、イスラムの兵士達は、もしこの戦いで死んでも、天国に行けると信じて激しく戦ったからである。現在もなお、天国行きを信じて自爆テロを行うイスラム過激派がいるが、それと同じ心情であったのだろう。いま1つは、ビザンツ帝国やササン朝の支配下に置かれていた住民達が、たとえイスラム勢力に敗れても、信仰の自由は護られ、税も安いことが多かったので、強い反抗をしなかったのである。
 
 よく言われることであるが、イスラム勢力は征服戦争の時、「コーランか剣か」の二者択一を迫ったとされる。しかし実際は、イスラムに改宗するか、人頭税(ジズヤ)を払って従来通りの信仰を保持するか、これらを拒否してあくまで戦うか、という3通りの対応の仕方があったのである。つまり、イスラム教はキリスト教と異なり、信仰の自由をお金で売るシステムがあったのである。
 
 人頭税を支払い、信仰の自由を認められた人々を、庇護民(ズインミー)と言う。ズインミーを認めた点で、異端審問などで、あくまでも異教を排除したキリスト教に比して、イスラム教は宗教的に寛容であったと言えるであろう。(前掲「イスラム教の本」p132~135)(「ナビゲーター世界史2」p194~196)(「イスラームの歴史1」p15~19、p76~79)
 
2.ウマイヤ朝(661〜750年)ー「アラブ帝国」の時代
 
(1)ウマイヤ朝の建国とシーア派の反乱
 
 第4代カリフのアリーが暗殺された後、アリーに敵対していたウマイヤ家のムアーウイヤがカリフを名乗り、ウマイヤ朝を開いた。そして、本拠地シリアのダマスクスを首都とした。その後、カリフはウマイヤ家が独占していく。
 
 しかし、アリーが暗殺され、ウマイヤ朝が成立したことを契機として、イスラムは分裂していく。その経緯は次のようなものである。アリーが暗殺されると、その子フサインの殉教という事件が起こる。フサインは、ムハンマドの従弟アリーを父とし、ムハンマドの娘ファーティマーを母親として、ムハンマドの血を濃く受け継いだ人物であった。
 
 そこで、ムアーウイヤの死後、フサインはカリフの地位につこうとして、ムアーウイヤの息子と戦った。しかし、武運つたなくウマイヤ軍に敗れ、イラク中部のカルバラーというところで、悲惨な戦死(殉教)を遂げたのである。
 
 この事件以降、敗れた勢力は、アリーの血統を引く者以外のカリフを認めないことを特色とする、シーア派というグループを作る。そして、代々のカリフをすべて正統と認めるスンナ派と激しく対立し、これがイスラム教の分裂の始まりとなったのである。
 
 イスラム教の教派の分裂は、神学や教義上の対立ではなく、血統による争いから引き起こされることが、特徴であると言えよう。これは、血の絆を断ち切ることで、世界宗教を作り上げたムハンマドの真意とは、異なると言わざるを得ない。当然、シーア派はウマイヤ朝を認めず、その打倒を目指して、鎮圧にめげず何度も反乱を起こしている。
 
 シーア派に対して、スンナ派がある。スンナ派は、分派を起こさない人々、つまり不特定多数、その他大勢によって緩やかに形成された。従って、過激な行動を好まず、統一と団結を尊重し、意見の違いによる対立より、合意点を見いだそうとする現実的な対応を特徴とする。スンナとはムハンマドの言行を意味するから、スンナ派とは預言者の言行を規範として受け入れる人々と言うほどの意である。
 
        ─────────────────────          
コーヒーブレイク
    ーシーア派とスンナ派ー
 
 フサインの殉教は、シーア派の人々にとっては、歴史上最重要な事件である。この悲劇が精神的支柱となり、シーア派の団結と運動は強固になった。だから、事件の起こったカルバラーは、シーア派の聖地となり、毎年、「殉難祭(アーシューラーの祭り)」が行われている。この祭りでは熱心な信者たちが、フサインの死の苦しみを追体験するために、自らの身体を鞭打って、血だらけになりながら行進する姿が見られる。諸賢の中にも、テレビで見た人がいるに違いない。
 
 現在の信者の数は、スンナ派がイスラム教徒の約9割、シーア派が約1割になっていると言われる。スンナ派は、預言者ムハンマドが残した慣行を重んじる、穏健な思想であるために、長いイスラムの歴史を通じて、多数派を占めてきた。シーア派の理想主義に対して、スンナ派は現実主義であると言われる。
 
 シーア派はムハンマドの時代を理想とし、第4代カリフのアリーの僅かな期間に、理想が回復されたとする。そして、アリーの死後現在に至るまで、理想を裏切っており不正の時代が続いているとする。
 
 シーア派の中では、最高指導者のことをカリフと呼ばず、「イマーム」と称している。アリーを初代のイマームとし、彼の子孫がイマームの権利を持つと考える。また、預言者やイマームを神格化する。イマームこそが、啓示に関するものを除いて、預言者の権能を継承し、イスラムの至高の指導者であるとするのである。
 
 その後シーア派は、アリーの子孫の誰をイマームとするかによって分裂を繰り返し、無数に分派を生んだ。現在では、シーア派の約90%を、「十二イマーム派」が占めている。十二イマーム派は他派と異なり、12代までのイマームしか認めない。その教義によれば、12代イマームは、この不正の時代にあって身を隠している。この世の悪・不正が飽和状態になった時、12代イマームが再臨し、地上を正義で支配すると信じられているのである。(前掲「ナビゲーター世界史2」p197)([イスラム教の本」p137、p162)
 
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(2)ウマイヤ朝の統治
 
 ウマイヤ朝の統治には、重要なことが2つある。1つは征服活動が更に進められ、単独政権としては、イスラム史上最大の地域を領有する、大帝国を築き上げたということである。正統4カリフ時代の支配領域に加えて、更に東西に広がった。
 
 東方では西北インドや中央アジアにいたり、西方では現在のチュニジアからモロッコにかけての北アフリカを征服した後、ジブラルタル海峡を渡って、ゲルマン人国家の西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を掌握した。その後、ピレネー山脈を越えて、フランク王国領内に侵入したが、これは撃退されて失敗に終わっている。
 
 征服地では先住民のイスラム化が進み、改宗者が増えた。またウマイヤ朝は、ダマスクスを中心に、各地の軍営都市(ミスル)を幹線道路でつなぎ、その間に馬による通信システムである駅逓(エキテイ)を組織して、情報の中央集権化を図った。
 
 また、カリフの親衛隊や警察などの諸制度が整えられ、独自の金銀貨も発行された。更に徴税などを管理するための官僚機構も整備された。アラビア語が行政用語となり、ペルシャ語やギリシャ語に代わって広まった。
 
 統治で注目すべきいま1つの点は、ウマイヤ朝時代には、帝国の支配者集団となったアラブ人にのみ、多くの特権が与えられたことである。だからこの時代を「アラブ帝国の時代」と呼んでいる。どのような特権かというと、アラブ人にだけは地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)の2種類の税が免除されたのである。
 
 代わりに、この負担を強いられたのは、征服地の先住民であった。しかも彼らは、イスラムに改宗した後も、税が免除されることはなかった。これはコーランの「信者は平等である」と言う教えにも反している。アラブ人以外のイスラム教徒(マワーリー)たちの間で、当然のことながら不満が高まって来たのである。(前掲「ナビゲーター世界史2」p196~198)(「イスラームの歴史1」p121~123)(「イスラム教の本」p136~137)
 
3.アッバース朝(750〜1258年)ー「イスラム帝国」の時代
 
(1)アッバース朝の建国
 
@支配体制の確立
 
 ウマイヤ朝では、上述したように、シーア派や、アラブ人以外のイスラム教徒(マワーリー)らの反発が強かった。それを利用して、ムハンマドの叔父筋に当たるアッバース家は、「ムハンマド家の出身者こそがイスラム法の執行者」という旗印を掲げ、シーア派の支持を受けてウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を建てた。750年のことである。
 
 しかしアッバース家は、預言者の血筋ではあっても嫡統ではないので、アリーの系統であるシーア派に優位を主張できなかった。またシーア派の過激さは、体制維持の障害にもなった。やがてアッバース朝のカリフは、建国の際に利用したシーア派との絶縁を宣言し、弾圧をしている。こうして、アッバース家がカリフの地位を世襲することになるのである。首都は現イラクのバグダードに置かれた。
 
 アッバース朝は、政権の基盤を軍事力で固める一方、神学者・法学者を総動員して、カリフの法的根拠を確立させ、自分たちの権威を固めた。こうして、イスラム共同体(ウンマ)の運営者としてのカリフと、ウラマーの協調体制を確立する。
 
 シャリーア(イスラム法)の整備が進むのも、この頃からのことである。シャーリアは前述の通り、ウラマーによって書かれた。それは、我々が近代的な法システムで馴染んでいる、国家による成文法ではない。だが、イスラムの裁判官(カーディー)は、シャリーアに則って判決を行い、その結論は強制力を持って執行された。シャリーアは、イスラムの教えと結びついて、人々の生活全般を規定し、支配すべきものだからである。その意味では法律そのものであった。
 
Aシャリーア(イスラム法)の柔軟運用
 
 ところが困ったことに、シャリーアは統一されていないのである。多くの問題について学説が分かれ、従ってイスラム社会には、矛盾する複数の法律があることになるのである。スンナ派では4つの学派が重きをなし、シーア派にもいくつかの学派が存在した。
 
 分かりやすい例を挙げると、コーランではワインを飲むことが禁止されている。ではその他の酒はどうか。同じく禁止という説もあれば、酔っ払わない程度であれば合法という説もあり、いずれの学説もシャリーアの規定としてある。そこで、ウイスキーを飲んだ者は、裁判官(カーディー)がどちらの説を支持しているかによって、罪に問われるかどうかが決まるのである。
 
 また、各学派別のシャリーアについても、完全に統一されておらず、時代や地域によって学説が変化している。だから、こうした矛盾を、現実の事態に合致させる仕組みが考えられることになる。先ずウラマーは、それぞれの社会の習慣には柔軟な姿勢を取り、必要とされるものは合法と認めていった。更に信者は、どの学派に属しても良いことになっている。
 
 そして、それらが許される理論立てを、ウラマーたちは整然と構成しているのである。いずれにせよ、イスラム世界の寛容さや柔軟性、逆に言えばいい加減さが表れていると言えよう。しかし、それが人間社会の真実の有り様なのではあるまいか。(前掲「イスラームの歴史1」p90~93)
 
B官僚制と軍人奴隷(マムルーク)制
 
 ただ一方で、カリフの神格化も行われている。今までのカリフは、「預言者の後継者」であったが、それが「神の代理人」になり、絶対君主となっていく。理屈から言うと、神の被造物である人間ムハンマドよりも、カリフの方が偉くなったわけである。
 
 また広大な領域統治のために、官僚制度が整えられた。官僚のトップは宰相(ワズイール)と呼ばれ、大きな権力を握った。ウマイヤ朝時代に設置された、馬による通信システム駅逓は、バグダードを中心にウンマ全体に整備された。これによって、首都と各地の軍営都市(ミスル)を結ぶ情報網が張り巡らされ、高度に合理化されたアッバース朝の支配体制が確立したのである。
 
 更にアッバース朝は、軍事態勢強化のために、中央アジアのトルコ人を多数徴用して、親衛隊を組織した。いわゆる軍人奴隷(マムルーク)である。マムルークはコーランやイスラム法を学び、アッラー信仰を植え付けられた。また軍事学校で厳しい傭兵訓練を受け、卒業すると解放奴隷になった。きちんとしたカリキュラムが組まれ、訓練期間は7年に及んだという。卒業後は軍人として、各地の軍営都市(ミスル)に赴任し、支配統治の実務を担った。
 
 徹底的教育によって、マムルークは強い信仰、ジハード(聖戦)に対する意欲、死後の天国希求において、アラブ人の正規軍戦士と同レベルに洗脳されたのである。その上マムルークは、遊牧民特有の乗馬法に優れ、騎乗のまま弓矢を射るのが得意であった。こうして、新しい機動力や飛び道具を、戦法・戦術として組み込んだイスラム軍は、百戦百勝の軍事力を誇るようになったのである。
 
 マムルークの中には、奴隷出身でありながら、官僚に出世する者も現れた。そして後述するように、9世紀中葉には、政治の実権を握り、カリフを傀儡化するまでになっていく。(前掲「イスラム教の本」p138~140)(「ナビゲーター世界史2」p198~201)
 
 なお正確を期すと、マムルークになったのはトルコ人だけではない。スラヴ人、クルド人、モンゴル人、グルジア人、アルメニア人、ギリシャ人などもいた。マムルークにならない場合は、もっぱら富裕者の家内奴隷として利用された。イスラムは奴隷の存在を否定しなかったのである。(「詳説世界史研究」木下康彦ほか編、山川出版社、p156)(前掲「都市の文明イスラーム」p13~14)
 
(2)イスラム帝国の確立
 
 アッバース朝は、ウマイヤ朝から引き継いだ、広い領土に住む種々雑多な人々を統一するために、イスラムを基盤とした均質な社会の創出に努めた。アッバース家はアラブ系であったが、ウマイヤ朝時代のように、アラブ人だけに特権を与える仕組みを廃止し、イスラム教徒であればアラブ人でなくとも、平等に扱われるように改めたのである。
 
 実際に、宰相などの政府の要職にも、イラン人のイスラム教徒がどんどん付けられた。また、人頭税(ジズヤ)は、アラブ人以外でも、イスラム教徒であれば課せられなくなった。逆に地租(ハラージュ)については、アラブ人でも一定の土地を持っていれば、課せられるようになったのである。
 
 このように、イスラム教徒の中では、民族による差別がなくなり皆平等になったので、アッバース朝は「アラブ帝国」ではなく、「イスラム帝国」と呼ばれるのである。この結果、イスラム教への改宗者が一気に増加した。更に、イスラム教徒の一体感を醸成するために、聖地メッカ、メディナを再建し、五行の一つである巡礼を奨励した。
 
 一方、アッバース家に利用されたあげく、異端として排除されたシーア派は、その反動でますます過激さを増し、内部では主導権争いが生まれた。そして、いくつもの派に枝分かれしていく。(前掲「ナビゲーター世界史2」p200~201)(「イスラム教の本」p138)
 
(3)新首都バグダードの建設
 
 アッバース朝第2代カリフの時代(8世紀)、チグリス河畔に、新首都バグダードが建設された。このバグダードは都市計画に基づいて、直径2キロメートルの円形の城壁に囲まれていたので、円形都市と呼ばれる。その中には、カリフの居城、官庁街、親衛隊の駐屯地などが建てられていた。城壁外には、一般市民の住居や市場が発展し、最盛期には人口100万人を超えていた。ちなみに8世紀、人口が100万人を超えていた都市は、唐の長安だけであった。
 
@都市と王権
 
 イスラムは都市の宗教であると言われる。都市と王権の関係について、独特の理論を展開したのは、チュニス出身のイスラムの歴史理論家、イブン・ハルドウーン(1332〜1406)である。彼の歴史理論については、ワイガヤ青春広場「西洋の発想は直線的、東洋の発想は循環的?」の中で、「政治における循環論」の1つとして紹介しておいたので、参考にしていただきたい。彼の理論を一言で言えば、「都市」と「田舎と砂漠」の相互作用で、政治体制の循環が起こるとする。
 
 彼は言う。「ある民族が王権を手中にすると、彼らは(田舎と砂漠の)簡素な生活を離れて、贅沢で繊細・華美な生活を営むようになる。つまり王権は、奢侈と安息の生活を求めて都市を建設するのである。その意味で、都市は王権の副産物であると言えよう」と。
 
 この見方によれば、王権によって建設された都市には、富が集中し、王権の所有者たちが、そこで贅沢な生活を送るのは、当然の成り行きと言うことになる。ウマイヤ朝のダマスクスやアッバース朝のバグダードについても、このことは充分当てはまるように思われる。カリフの一族や、軍隊や官僚の高位者、大商人などがその典型である。
 
 8世紀のイスラム都市には、貨幣経済が浸透していた。市場(スーク)には、イスラム世界の特産物のほかに、中国の絹織物や陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷など、世界各地からもたらされた商品であふれかえり、現金さえあれば何でも買うことができた。前述の通り、官僚や軍人の俸給(アター)は、すべて現金での支給であった。これは驚くべきことで、当時のヨーロッパや中国、ましてや日本では、俸給の現金払いなど考えられなかった。
 
 都市の人間は豊かな生活を享受し、イスラムの教義や法律についての知識を磨くことが、ムスリム都市に生きる人々の理想であった。それに対して、田舎(農村)や砂漠(遊牧社会)の人々は、都市生活を享受する資格のない粗野な人間であると見なされた。
 
 「都市」と「田舎と砂漠」についてみると、イスラム文化の活動は、都市を中心に営まれた。その典型例として、学生達がイスラム諸学を学ぶ学院(マドラサ)は、田舎や砂漠には存在せず、すべてが都市に建設された。
 
Aワクフ(寄進財産)による都市建設
 
 都市にはマドラサだけではなく、モスク、市場、取引所、隊商宿、病院などが建設されていた。これらの公共施設を建造したのは、カリフやアミール(軍司令官・あとで総督とも)、大商人などであるが、このような事業の実践は、公益推進の理念と密接に結びつき、宗教的に高い価値が認められていた。
 
 具体的には、公共施設に寄進財産(ワクフ)を設定し、そこから上がる収益を活用することによって、施設の維持管理が可能になったのである。ワクフはシャリーアで定められた制度であるが、それには2種類があった。1つは、個人がモスク、学院(マドラサ)、病院、孤児院などに、その管理・維持のための経費を捻出できる、土地や店舗を寄進する慈善ワクフである。いま1つは、個人が子孫のために、私財を信託する家族ワクフである。
 
 家族ワクフについて、簡単に説明しておこう。先ず、一族の中から将来出るかもしれない、困窮者を救済するための予防手段とされた。また、もともとアラブの相続慣習は一括相続であったが、シャリーアによる均分相続の規定によって、女子の婚姻による他家への財産流出、あるいは、財産の細分化が起こった。家族ワクフはそれを防止する手段としても活用された。
 
 実際には両者の混合形態が広く行われたようである。と言っても、分かりにくいと思われるので、以下、東大の佐藤明教授による、簡明な解説を引用しておこう。
 
 「ある金持ちが、自分の財産の保全を考えるとしよう。自己の利益だけのために財産を残すのは、イスラムの理念からは恥である。皆のために何とかする、それがムスリム(イスラム教徒)の行為である。そこでこの金持ちは、自分の持っている商店とアパートの賃借料をワクフとした。
 
 賃借料の半分は自分のため、自分の死後は子孫のために使う。残りの半分は、自分が責任をもって指名する、Aマドラサで授業を行うB法学派の教授の給料に使う、と大衆に約束し、これを文書にした。このような行為がワクフである。
 
 あるマドラサの教授は、特定のワクフの提供者によって指名され、そのワクフから給与を貰う。そのの学生は、別のワクフから奨学金を貰う。学生の寄宿舎の維持費は、別のワクフ持ちである。更に別のワクフは、学生に毎日のパンを提供する。このような形でワクフは運営されるのである。」以上である。
 
 いずれにせよ、ワクフの設定によって、都市作りを進めたことが、イスラム社会の大きな特徴である。(前掲「ナビゲーター世界史2」p199)(「イスラームの歴史1」p28~30、p117~118)(「都市の文明イスラーム」佐藤次高・鈴木董編、講談社現代新書p 96~97 )
 
 
(4)アッバース朝以降のイスラム文化の隆盛
 
 アッバース朝の最盛期は、第5代カリフのハールーン・アッラシードの治世(在位786〜809)であった。彼は、千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)に登場する、王のモデルになったことでも有名である。
 
@外来文化の導入
 
 ハールーン・アッラシードは、対外的にはビザンツ帝国を破り、国内では産業を盛んにした。また、学者や文化人を集めて、科学・芸術を発達させた。ギリシャ語文献を集めるための図書館を建て、アラビア語への組織的な翻訳・研究を進めさせた。この図書館は、次のカリフの時、更に拡充されて、有名な「智慧の館(バイト・アルヒクマ)」となっている。
 
 イスラム時代初期に、征服活動を担ったアラブ・ムスリムは、学問や文化を知らない遊牧の民であった。ところがメッカ、メディナを中心として、同心円状に拡大したイスラム世界は、ヘレニズム化したギリシャ文明、メソポタミアやイランの古代オリエント文明、西北インドを窓口とするインド文明、更には東方の中国文明と接触することになった。アラブ・ムスリムたちは、高度な文明を持つ諸民族と接し、その文化遺産を熱心に学び取ろうと努めたのである。
 
 これは、アラブ・ムスリムの好奇心や探求心の強さにもよるのであろうが、コーランなどに基づき、自然科学の研究は、万物を創造した神の本質を知るものとして奨励されたからである。一方、ビザンツ帝国をはじめとするキリスト教世界では、多神教であることを理由に、古代ギリシャ・ローマの諸学問を排斥する傾向にあった。こうしたアラブ人の柔軟な姿勢は、文化継承に大きな役割を果たしたと言ってよかろう。(前掲「図解宗教史」p70)
 
 アラブ人は、民族にはそれぞれに固有の、優れた特性があると考えていた。例えば、「中国人は技術に、ギリシャ人は哲学と文学に、アラブ人は詩と宗教に、ペルシャ人は王権と政治に、トルコ人は特に戦闘技術に優れている。」とする。各民族をその才能に応じて活用しようとする、合理主義的・現実主義的な考え方がよく現れている。(前掲「都市の文明イスラーム」p14~15)
 
○ギリシャ、インドなどから
 
 そしてギリシャ文化からは、哲学や文学のほか、医学、数学、化学、地理学を学んだ。哲学の分野では、サーマーン朝(後述のイラン系地方政権)の時代以降に活躍したイラン系の哲学者イブン・シーナ、ムワッヒド朝(後述の西北アフリカ王朝)時代にイベリア半島で活躍した、アリストテレス研究のイブン・シュルドの2人を挙げておこう。
 
 インド文明からは数学、特に十進法やゼロの概念のほかに、天文学や暦法あるいは医学などが導入された。数学の分野では、アッバース朝のフワーリズミーが有名である。
 
 天文学の分野では、詩人としても有名なオマル・ハイヤーム(後述のイラン詩人)の、グレゴリウス暦よりも正確な太陽暦がある。また、ウルグ・ベクというティムール朝(後述のモンゴル系王朝)の王の、天文台と「天文表」があげられよう。
 
 化学は、錬金術の分野から発達した。金の価格が非常に高かったので、他の金属から金を作ろうとしたのである。勿論金そのものは合成できなかったが、その結果として化学が発達したのである。化学の用語には、アラビア語がもとになっているものが多い。例えば、アルコール、アルカリ、アルケミーなどが代表的なものである。
 
 外国語文献からの翻訳作業に従事したのは、アラビア語、ギリシャ語などに堪能なネストリウス派のキリスト教徒や、ゾロアスター教から改宗したイラン人ムスリムなどであった。彼らはカリフの庇護の下で、アラビア語への翻訳を精力的に進めていった。
 
○中国から
 
 今一つ忘れてならないのは、中国から伝わった紙の製造技術である。アッバース朝建国の翌年(751年)、中国の唐朝とアッバース朝は、中央アジアのタシュケント東方を流れる、タラス川付近で戦火を交えた。戦争はムスリム軍の一方的な勝利に帰し、中国側は多数の捕虜を残したまま敗走した。
 
 その捕虜の中に、中国人の紙漉(ス)き工がおり、ムスリムはこれらの捕虜から、初めて製紙法を学んだのである。亜麻の繊維や亜麻布を原料としたものであったと言われる。イスラム世界で、次第に製紙工場の建設が進むと、パピルスや羊皮紙から紙への転換が順次行われた。
 
 様々な学問分野での研究の成果は、安価で、しなやかな紙に記され、それを書写して遠隔の地へ運ばれた。また、行政文書が羊皮紙から紙に切り替えられたことも、行政のあり方を根本から変える大変革であった。薄い紙を使えば、伝書鳩に結びつけての遠隔通信も可能になった。
 
 アッバース朝の中央集権的な政治体制の確立にも、行政への紙使用が大きく貢献したことは間違いない。バグダードのカリフは、王宮にいながら、紙に記された報告書によって、地方の物価や徴税の実体、更には地方総督やウラマーや民衆の動向などを、正確に把握できたからである。
 
 中国からは、後にイスラム商人を通じて、羅針盤やその使用法を学ぶ。それを改良し、天体によって船の位置を確認する時代を終わらせ、荒天でも機械で方位を正確に計測して、安全に航行することが可能になったのである。やがて、羅針盤はヨーロッパに伝わり、16世紀の大航海時代に繋がっていく。また、火薬や活版印刷の伝播も、中国からであった。
 
A自国文化の発展
 
 イスラム文化の学問については、「固有(自国)の学問」と「外来の学問」と言う分け方が、一般的に行われている。上述したのが外来の学問である。それに対して、固有(自国)の学問」は、アラブから始まった学問で、アラビア語の研究や、コーランの研究と結びついた、神学、法学、歴史学などである。
 
 アラビア語はセム語系に属し、アラブ人が使う言葉である。コーランはこの言葉によって書かれているが、アラビア語はイスラム世界の共通語になり、文法が整えられ文体は洗練されていった。様々な民族が、アラビア語で著作活動を行い、アラビア語でコミュニケーションできたことは、行政の中央集権化を促進したばかりでなく、学問や技術の発展に計り知れないほどの影響を与えた。
 
 法学では、前述したように、ウラマーによってシャリーアが整備されたことが、一番重要である。神学では、法学が扱わない、異教に対する護教などの分野からスタートした。その後、罪を犯せば信仰は消えるのか消えないのか、あるいは、前述した六信における天命思想と人間の自由意志との関係、などが議論されていく。それらを神学として体系化したのは、アッバース朝より後(セルジューク朝)のイラン人、ガザーリーであった。
 
 歴史学では、これも後代(マムルーク朝時代)14世紀の、イブン・ハルドウーンが、最も重要である。彼は、アラブの生んだ最大の歴史学者であると言われる。その著書「歴史序説」(森本公誠訳、岩波文庫)において、「歴史とは単に事実だけを述べるだけでなく、法則性を探ることだ」と述べて、後世の共感を得ている。もう一人歴史家として、後述のイル・ハン国に仕えたラシード・アッデイーンがいる。ペルシャ語で「集史」という第一級の歴史書を書いている。
 
B文学や旅行記、建築など
 
 補足すれば、文学においても注目すべき作品が生まれている。有名なものには、千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)がある。アッバース朝の王ハールーン・アッラシードが登場する。しかしこの物語はインド起原で、イランやアラビヤの話が加わり、16世紀頃のカイロで、現在の形にまとまったと言われる。
 
 詩の分野でも、アッバース朝と時期的には重なるが、他の王朝下で、世界的に知られたイラン詩人が生まれている。フィルドウシーとオマル・ハイヤームの2人の名前を挙げておこう。前者の代表作は「シャー・ナーメ(王の書)」、後者のそれは「四行詩集(ルバイヤート)」である。
 
 旅行記では、少し時代が下がり14世紀になるが、モロッコのイブン・バットウータがいる。彼の書いた「三大陸周遊記」は、その少し前に書かれたヴェネツイア人マルコポーロによる「東方見聞録」と並んで、当時を知るための最高の旅行記となっている。(前掲「ナビゲーター世界史2」p199~200、(「イスラームの歴史1」p37~41)
 
 最後に建築である。イスラム建築の代表といえば、礼拝の場であるモスクが上げられる。モスクは、イスラム世界が広がるに従って、各地の建築様式を取り入れながら発達したため、地域ごとに様々な特徴が見られる。
 
 しかし、その基本的な構造は、預言者ムハンマドがメディナで暮らした住居に由来すると言われ、中庭と礼拝堂からなるのが殆どである。よく見かける一般的なモスクの構造としては、ドーム状の屋根を持つ礼拝堂と、礼拝を呼びかけるミナレット(尖塔)からなっている。礼拝堂の奥には、礼拝の方角であるメッカを指し示す、窪み(ミフラーブ)が設けられている。
 
 特に、その装飾様式の特徴と思われるのは、内装に見られる美しいアラベスクであろう。曲線模様や連続した幾何学図形による装飾は、偶像崇拝につながる人物像などの造形美術を封じることから生み出されている。(前掲「図解宗教史」p78~79)
 
C旅と移動の文明
 
 イスラム世界では、巡礼の旅、商売の旅、学問の旅に加えて、トルコ人やモンゴル人などの民族移動によって、人の移動と接触が活発に行われた。それを通じて、思想や学問、技術やデザインが遠隔地へ迅速に伝わった。
 
○巡礼の旅
 
 先ず、巡礼の旅については、五行の一つとして前述した。ムスリムへの改宗が進み、イスラム世界が拡大すると、中央アジアやアフリカからもメッカへの巡礼者が増大した。遠隔地からの巡礼は、遊牧民による襲撃や、飲料水の補給などに対処するために、巡礼者はキャラバンを組み、集団で実行されるようになった。
 
 12〜13世紀以降になると、中央アジアやイランからの巡礼者は、イラクのクーファに、アナトリアやシリアの巡礼者はダマスクスに、西アフリカや北アフリカからの巡礼者はカイロに集結し、それぞれの巡礼団に護衛隊が付けられて、メッカに向かうことが慣例となった。巡礼の無事を図ることは、カリフやスルタン(後述:セルジューク朝以降のイスラム世界の王の呼び名)が権威を保持するための、重要な責務となったのである。
 
○商売の旅
 
 次は商売の旅である。7世紀半ば頃までに、イラン、イラク、シリア、エジプトなどを含む広大な地域が、カリフ政権の支配下に置かれるようになった。各地の軍営都市(ミスル)を結ぶ、交通・通信網の整備と安全の確保のために、各地のアミール(軍司令官・総督)が力を注いだ。こうして実現した「イスラムの平和(パクス・イスラミカ)」のもとで、商人たちの交易活動が活発に行われ、広域を結ぶ緊密な商業ネットワークが形成された。
 
 10世紀前後になると、各地の道路事情や特産物を記した地理書が、著されるようになる。ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒の商人たちは、共同で資本を出し合い、商売の利益と損失を、出資額に応じて享受・負担する仕組みを作っていく。異教徒間の協業が、普通になって行ったのである。
 
 12世紀から登場するカーリミー商人(カイロを中心に東西貿易で活躍した商人)たちは、インド洋と地中海を結ぶ紅海ルートで活躍した。彼らは、イエメンの港町アデンで、インド商人から買い付けた香辛料、絹織物、陶磁器、木材などを、紅海西岸から陸路で上エジプトに運び、そこからナイル川を下ってカイロにいたり、更に地中海岸のアレクサンドリアへともたらした。その後これらの商品を、エジプト産の砂糖や小麦と共に、イタリア商人に売り渡したのである。
 
 カーリミー商人の中には、インド西岸のカリカット(現コージコード)、更には中国の広州や泉州まで進出する者も現れた。取引の利益は、後述するマムルーク朝の首都カイロに集められた。そしてカーリミー商人たちは、モスクや学校や病院などの建設、寄進財産(ワクフ)の設定などを行い、カイロの繁栄を支える上で、重要な役割を果たしたのである。
         
○学問の旅
 
 最後は学問の旅である。ムスリムの子弟は、5〜6歳の頃からアラビア語の読み書きを習い、コーランの暗唱を終えると、専門の先生についてイスラム諸学の習得に努めた。初期の時代の授業は、モスクの一角で行われたが、12世紀以降になると、各地の都市に学院(マドラサ)が建設されるようになる。マドラサは寄進財産(ワクフ)の収入で運営されていたから、入学を認められると、学生は無料で食事付きの寄宿生活を送ることができた。
 
 一流の知識人であるウラマーになるには、法学だけでなく、コーランの解釈学、ハディース学、歴史学などを広く学ぶ必要があった。例えば、バグダードのマドラサで勉強した学生は、先生から免状をもらったあと、今度は別の先生を求めて、カイロやダマスクスへと、はるかなる学問の旅を続けたのである。5カ所のマドラサを、19年かけて巡った例が報告されている。イスラム社会では、どのマドラサで勉強したかより、誰に師事したかが、決定的に重要であった。(前掲「イスラームの歴史1」p41~46)
 
       ─────────────────────────      
コーヒーブレイク
  ーウラマーの職歴ー
 
 ウラマーは、マドラサにおける教育を受けて育っていった。マドラサの教育の中心は法学で、それぞれのマドラサは、4つの法学派のうち、どの法学派の教育を行うかは、建設時に定められていた。各法学派のウラマーは、政治支配者にマドラサの建設を働きかけ、政治支配者はウラマーや法学派を保護することで、ウラマーの支持を取り付けるという相互依存の関係が生まれた。
 
 では、ウラマーの資格はどうしたら得られたのであろうか。中世のヨーロッパの大学では、大学からの学位が授与され、中国では、科挙という統一試験をパスして官僚になった。ウラマーの場合は、このような決まった制度はなかった。マドラサから卒業証書が授与されるのではなく、上述のように、個々の先生から授業を受けて免状を貰い、更に別のマドラサで、次の先生に学ぶと言う形で、修業を積み重ねていった。
 
 ウラマーの伝記集を読むと、学習歴や職歴が分かる。例えば、先ずマドラサで、教授の助手となり、やがて小さなマドラサの教授となる。マドラサの教授をいくつか経験したのち、政府の行政職に就く。地方や中央の財務官や書記官を勤めたのち、裁判官(カーディー)となる。カーディーは主要な都市に置かれていたが、首都の裁判官が最高の職で、法行政全体を管掌した。
 
 官職につくための試験制度はなく、学問的な実力と共に、師弟関係による「ひき」が必要であったし、一族の縁故で職を得ることもあった。また、政府の官職の任命権は、政治支配者が握っていたから、カーディーのような高官になるには、支配者との関係も影響し、逆に政治支配者は、官職の任免によってウラマーに影響力を行使した。
 
 ウラマーと言っても、このようにマドラサの助手や、村の寺子屋の先生から、カリフやスルタンの側近まで、広い範囲にわたっていた。従って、一方では都市や村の民衆とも日常的な接点を持ち、他方では政治支配者にも影響を持っていた。かくて、民衆と政治支配者の間に立って、社会のバランスを保つ役割も果たしたのであった。(「イスラーム世界の歴史的展開」三浦徹、放送大学、p67~69)
 
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(5)スーフィズム(神秘主義)の発生と展開
 
@スーフィズム(神秘主義)の発生
 
 第2部ーTの「キリスト教」の項で述べたように、イエスの新しい宗教運動の狙いの一つは、ユダヤ教における、生活全般にわたる細かい律法主義からの脱却であった。イスラム世界に起こったスーフィズム(神秘主義)も、それによく似た現象であるということができる。
 
 スーフィズムのスーフィーとは、アラビア語で神秘主義者を意味する言葉である。スーフィーの語源は、スーフ、すなわち羊毛を指す言葉であった。神秘主義者の多くは、染色をしていない羊毛で出来た粗末な衣装をまとっていた。このことから、彼らのことをスーフィーと呼ぶようになったのである。
 
 スーフィズムの萌芽は、9世紀中頃には見られるようである。しかし、スーフィーたちの教団(タリーカ)が、最初に生まれたのは12世紀、アッバース朝のイラクにおいてであった。アッバース朝の下では、シャリーアが整備され、更には法学や神学の発達によって、イスラム信仰に関する議論が、ますます煩瑣なものになっていく傾向があった。
 
 その反動として、形式主義を排し、精神的な内面の探求によって、神を見いだそうとする一群の人々が現れたのである。それがスーフィーと呼ばれる人々であった。スーフィーたちは、律法的イスラムの立場に反発する。シャリーアを重視しない場合も少なくない。敢えて言えば、単なる形式主義や律法主義に堕したシャリーアは、神に対する許し難い背信であるとしたのである。
 
 神と自己とは直接的な交流が可能であるという信仰の下、神と一体化する道を追求したのであった。その手段として採られたのが、瞑想、断食、体系化された修行法による勤行などの激しい修行である。スーフィーの修行は、仏教の禅などと同じように、師から弟子に伝承する方法が採られ、やがて、スーフィズム教団(タリーカ)として、組織化されていくのである。
 
 彼らによれば、神との一体化を妨げる悪の根源は、自我の存在である。そして自我の存在こそ、欲望、悲しみ、苦痛などの人間の苦悩の根本原因であるとする。そこで、自己否定の道、自我意識払拭の修行を選択するのである。ここにも、仏教に通ずるものを感じることが出来る。
 
A神との一体感の醸成(連唱、歌舞音曲など)
 
 特に連唱(ズイクル)は、仏教の称名念仏を思わせる。連唱は、大まかにいえば、一定のヨガ的な所作と共に、意識を集中しながら、独特の抑揚を付けて、「アッラー」や「アッラーは偉大なり」あるいは「アッラーに栄光あれ」「アッラー以外に神はない」などの章句を、延々と反復し続けるのである。
 
 このようにして雑念を消し、神人一体の妙境に入っていく。この状態は、自他の区別のない、全くの恍惚状態、エクスタシーに満ちた忘我の境地である。この心の状態を、ファナー(消滅)と呼んでいる。禅で言う悟りの境地のようなものであろう。
 
 スーフィズムと仏教の間には、何らかの相互作用があったと考えられている。しかし、学者によっては、仏教の悟りは否定的、ファナーは肯定的であるとする。無神論と有神論を論拠としているようであるが、大脳内におけるシナプス(神経細胞)とニューロン(神経接合部)の挙動を観察すれば、全く同じ様相を呈していると考えられる。スーフィーの立場からいえば、預言者ムハンマドは、神からの啓示をファナーの状態で伝えたのである。
 
 ファナーを得るために、伝統的な連唱(ズイクル)以外に、サマーと呼ばれる熱狂的な歌舞音曲を用いる場合が少なくない。それによって、人工的にファナーの境地を獲得させることが出来るからで、修行の時間が少ない民衆の支持を集めた。現代でも、ロック・バンドに酔いしれ熱狂する聴衆を見ると、納得がいくであろう。
 
 だが、サマーは過激なエクスタシーを追求する傾向が強いため、激しい批判にさらされることも多い。しかしこれは、宗教の現実対応能力を示す現象であるとも言えるのである。と言うのは、イスラム信仰が広がっていくと、必然的に下層民や文盲の人々も信仰に触れていく。彼らは自分でコーランを読むことが出来ない。彼らの頭の中には、従来から信じてきたアニミズムと、新しいイスラム信仰が、混ざり合うのはむしろ自然なことであった。
 
 だから、イスラム教徒になったあとも、従来と同様に、本来のイスラム教では禁止されるような、偶像、聖者、奇蹟などを信じ続けた。更には瞑想や激しい踊りを行って、神と一体化したような恍惚感を得ることが大切だと思う人々も、大勢出てきたのである。こうしてスーフィズムは、世俗化、呪術化、大衆化の波にもまれながら、信者の裾野を広げていった。
 
 スーフィズムの神秘体験は、ファナーに極まる。しかし、スーフィズムの趨勢としては、そこに止まっていてはいけないとする。ファナーを体験した後に、再び世俗世界に帰り、神の御心に従って奉仕生活をすることが、重要視されるようになっていったのである。
 
B聖者
 
 スーフィーの中には、修行の結果、霊感や奇蹟の力を持つ聖者が現れることがある。そして一般大衆からは、生き神様のように崇められたのである。奇蹟の種類としては、予知、予言、透視能力、病気治療、水上歩行、空中移動、雨乞い、物質変換などが知られている。時には、奇術師まがいの聖者が現れることもあったようである。
 
 伝統的な世界に生きているスンナ派の人々から、スーフィズムは異端視されることも多かった。預言者ムハンマドも含め、人間は平等だとする立場からすれば、聖者はあってはならない存在であった。また、神の被造物である人間が、神人一体になることも許されない。現実に、「我は神なり」と叫んで、死刑になったスーフィーもいたのである。
 
C詩の愛好
 
 上述したように、スーフィズムの到達点は、神との神秘的合一にある。その境地を表現するのに、スーフィー達はしばしば詩を用いた。
 
 詩が愛好された理由は2つある。ファナーのような神人合一の超常体験は、論理的文章によっては十分に表現できない。そこで、詩という象徴的技法を使うことが適当であると考えられたのである。
 
 今一つは、もう少し現世的な思惑からである。詩の形で微妙な表現にしておけば、仮にスーフィズムを異端視する勢力からの、思想的な締め付けが厳しくなっても、言いのがれがし易いと考えられたのである。
 
 しかし、スーフィズムは、イスラム商人の活動と共連れで、インドや東南アジア、中央アジア、中国、アフリカ方面へ広がった。言い換えれば、伝道者のいないイスラム世界では、スーフィーや商人を通じて、異教徒をイスラムの理解者にしていったのである。そしてイスラムは、各地の習俗を取り入れながら、民衆の間に定着していった。(前掲「イスラム教の本」p95~119)(「ナビゲーター世界史2」p225~226)(「イスラームの歴史1」p155~195)
 
4.イスラム帝国の分裂
 
(1)後ウマイヤ朝(756〜1031年)
 
 アッバース朝によってウマイヤ朝が倒されると、ウマイヤ一族の中でイベリア半島に逃れた人々が、コルドバを都に王朝を建てた。後ウマイヤ朝である。この結果イスラム世界は、2つの王朝に分裂した。ここでも分裂は、教義によらず血統によるものであった。
 
 後ウマイヤ朝は、イベリア半島に加えて、マグリブ(エジプト以西の北アフリカ)西部の大半を支配下におさめた。首都のコルドバは、10世紀には人口50万を擁し、1600のモスク、8万の商店を抱える大都市となった。クリスタル・ガラスの製法が発明されるなど、文化的にも最先端の都市であった。ただ、マグリブ地方には、やがて小政権が乱立するようになる。
 
 後ウマイヤ朝は、イベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)を、300年近くも支配し、イスラム化を進めた。現在でも、スペイン、ポルトガルには、イスラム文化の香りが色濃く残っているのはそのためである。しかし、この政権下には、ムスリムだけではなく、キリスト教徒や迫害を逃れてきたユダヤ教徒らが、多数共存して住み、活発な文化・商業活動を展開した。
 
 キリスト教勢力は、イスラム支配が始まるとすぐさま、イベリア半島をキリスト教の支配下に取り戻そうとする、レコンキスタ(国土回復運動)を起こす。そして、約800年後の15世紀末に、やっと成功するのである。(前掲「ナビゲーター世界史2」p202)(「詳説世界史の研究」p155)
 
(2)地方政権の樹立
 
 9世紀の初め、ハールーン・アッラシード王の死後、アッバー朝は衰退する。それと共に、アミール(軍司令官・総督)による地方政権の樹立が、特にバクダードから遠く離れた、いわばウンマの周辺地域で続けざまに起こった。これによって、イスラム世界の分裂は、更に深まった。そして10世紀になると、アッバース朝はイラク平原を支配するだけの存在になっていた。
 
 なおここでアミールは、もともと軍隊・遠征軍の司令官を意味していた。彼らは征服した地方で、そのまま居坐って統治に当たったため、地方の総督もアミールと呼ばれるようになったのである。
 
 有力な地方政権の例として、ここでは中央アジアに成立した、イラン系のサーマーン朝(874〜999年)を挙げてておこう。900年から首都となったブハラや商業都市サマルカンド(いずれも現ウズベキスタン)などを中心に、交易で大いに繁栄した。交易品目としては、トルコ人奴隷(マムルーク:軍人奴隷とも)が注目される。しかし、10世紀末には、トルコ系のカラ・ハン朝に滅ぼされている。(前掲「ナビゲーター世界史」p202~203)
 
 ほかにも、イランのターヒル朝(821〜873年)やサッファール朝(867〜903年)、エジプトのトウールーン朝(868〜905年)などが挙げられる。(前掲「都市の文明イスラーム」p102)
 
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ーコーヒーブレイクー
     ヤクザあがりの支配者
 
 地方政権の林立した時代で、非常に興味をそそられるのが、任侠の徒の活躍である。イスラム世界のいくつかの都市では、アイヤール(遊侠、助っ人)と呼ばれる者たちの活動が活発になっていた。特に目立ったのが、カリフのお膝元のバグダードと、現在のイランとアフガニスタンの国境に近いスイースターンであった。
 
 彼らの中には、軍隊を模した組織があり、昔からの伝統を引く「男気」を重んじる気風があった。名前もイスラム的ではなく、蝿親父、裸親父、墓掘り野郎といった、もの凄いものがあった。勿論、親から貰った名前ではなく、仲間内での異名であった。服装も独特の長ズボンをはき、一目でそれと判別できた。言葉遣いも一般とは異なっていた。現代の日本でいえば、ヤクザとか暴力団みたいなものと思えばよかろう。
 
 アイヤールは、街区の行事を取りしきって顔役になり、自分の縄張りからは保護料を取り立てた。そのかわり事が起これば、身体を張ってそこを護った。人々も彼らを助け、争乱になると武器や食糧を出したりして協力もしたようだ。
 
 イランに成立した地方政権サッファール朝の創設者ヤークーブも、こうした任侠団の出身であった。彼は村からスイースターンに出ると、先ず銅細工師になった。次にアイヤールとなり、更に街道強盗にまでなったという。その後、配下の騎兵を得てアミールにまで出世し、スイースターンの支配者になった。銅細工師のことを、アラビア語でサッファールという。これがサッファール朝の名の由来である。
 
 スイースターンの街は、サーマン朝、ガズナ朝、セルジューク朝など外敵の攻撃を11回も受けながら、持ちこたえている。これもサッファール家の軍隊と共に、任侠団の活躍によるところが大きい。王朝自体は、10世紀初めサーマーン朝の支配下に入るが、サッファール家は、まがりなりにも15世紀まで存続できたのも、民衆とアイヤールの支持があったためであろう。(前掲「都市の文明イスラーム」p105~108)
 
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(3)3人のカリフの鼎立(テイリツ)
 
 これまで、イスラム世界は分裂しながらも、カリフという最も重要な地位に就けるのは、アッバース朝の君主一人に限られていた。しかし10世紀前半、その他2人の君主が、自らをカリフと称し始めたため、3人のカリフが鼎立する状況となった。
 
 先ずその口火を切ったのは、北アフリカのチュニジアで、地方政権の1つとして建国されたファーティマー朝(909〜1171)である。この王朝の特徴は、シーア派の中でも特に過激なイスマイル派が建国したことである。イスマイル派は、シーア派の尊崇する第4代カリフのアリーと、その妻でムハンマドの娘ファーティマーの血を引くと称する人物を、カリフとして推戴した。王朝名は、そのファーティマーにあやかったものである。そして、スンナ派のアッバース朝と激しく対立した。
 
 ファーティマー朝は、その後エジプト方面に移動し、カイロ市を建てて、ここを都とした。これ以降、エジプト周辺ではカイロが一番重要な街になる。紅海貿易で大いに栄えた。ここに建てられたアズハル学院は、イスラム神学研究の中心地となった。
 
 ファーティマー朝に負けじとばかり、続いてカリフを名乗ったのは、後ウマイヤ朝の君主である。こうして、イスラム世界に3人のカリフが並び立ち、その分裂が決定的となった。以降、イスラム共同体の統一ウンマは、実体のない理念上の存在となり、今日に至るまで復活していない。(前掲「ナビゲーター世界史2」p201~205)(「イスラム教の本」p140)
 
(4) ブワイフ朝によるバグダード占領
 
 ブワイフ朝(932〜1062年)も、バグダートから遠く離れて、イラン地域に生まれたイラン系地方政権の一つである。サーマーン朝より50年あまり遅れて建てられた。シーア派の十二イマーム派を奉じていた。もともとシーア派の王朝は、歴史上非常に少ないが、10〜11世紀は、ファーティマー朝、ブワイフ朝という、2つの重要なシーア派王朝が建てられた珍しい時代であった。
 
 ブワイフ朝はバグダードを占領し、アッバース朝のカリフから、大アミールの称号を受けて、政治・軍事上の権力を握った。シーア派の大アミールが、スンナ派のカリフを保護するという、「ねじれ現象」が起こったのである。かくて、アッバース朝のカリフは、完全に形骸化した存在になった。
 
 ブワイフ朝の注目すべき行政システムに、イクター制がある。従来政府は、官僚や軍人に、現金の給与(アター)を支給していた。ところが政府の力が衰えて、現金を支払えなくなった。そこで現金に代えて、配下の官僚や軍人に分与地(イクター)を指定し、その土地の徴税権を与えることとした。これがイクター制である。つまり、イクターの保有者となった官僚や軍人が、自分で農民から税を徴収できるようにしたのである。前述したヨーロッパの封建制度に似ているが、裁判その他の、農民に対する経済外的強制は認められなかった。イクター制は、その後のイスラム王朝にも受け継がれていく。
 
 1055年、トルコ系でスンナ派のセルジューク朝がバグダードに入り、ブワイフ朝はまもなく滅びた。(前掲「ナビゲーター世界史2」p204~205)
 
V.非アラブ人を中核としたイスラム世界
 
1.トルコ人とイスラム世界
 
(1)トルコ人のイスラム化
 
 トルコ人のもともとの居住地は、モンゴル高原近辺である。それが9世紀に、中央アジア方面へ押し出して、多くのトルコ人が住むようになった。そのため、現在のトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの4共和国などを含む地域は、トルキスタン地方と呼ばれるようになった。
 
 中央アジアに移動した直後のトルコ人は、前述したサーマーン朝などの支配下に置かれ、軍人奴隷(マムルーク)として雇われていた。彼らは、馬に乗ったまま弓を射ることが上手で、戦争で大活躍したために、利用価値が高かったのである。しかし、徐々にイスラム教を受け入れ、10世紀頃から実力を付け始めたマムルークらが、イスラム王朝を建て始めたのである。
 
 何故トルコ人がイスラム化したのかについては、諸説がある。先ず、ムスリム商人に感化を受けたことである。商売上手なムスリム商人と付き合うためには、ムスリムであることが何かと都合が良かった。また、都会の豊かな商業文化が、イスラムへの憧れをかき立てた。更に、スーフィー(神秘主義者)たちの布教の影響がある。小難しい理屈でなく現世利益を説き、時には奇蹟を見せてくれるスーフィーに感動したのである。
 
 勿論、コーランやハディースを学習させられた、軍人奴隷(マムルーク)の存在もある。これらの諸要因が複合して、トルコ人のイスラム化を進めさせたのであろう。
 
 王朝としては、先ずカラ・ハン朝がある。10世紀半ばに建てられた、トルコ系としてはほぼ最初の王朝である。サーマーン朝を倒して、トルキスタンのイスラム化を進めた。次は、アフガニスタンを中心に建てられた、ガズナ朝とゴール朝(最近はイラン系とされる)である。両王朝ともインドに侵入して、インドのイスラム化を進めた。(前掲「ナビゲーター世界史2」p207)
 
(2)セルジューク朝(1038〜1194年)
 
 トルコ系の王朝の中で、特に重要なのがセルジューク朝である。中央アジアからおこり、西アジア一帯を支配した。この王朝を開いたトウグリル・ベクは、1055年にバグダードに侵入してシーア派のブワイフ朝を破り、スンナ派護持を掲げた。バグダードは再びスンナ派の手に戻ったのである。つまり、前述した「ねじれ現象」は解消された。そしてトウグリル・ベクはアッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を得た。
 
 それ以前の地方政権の長は、「アミール(軍司令官・総督)」の称号を用い、世俗の統治と共に、ある程度の宗教的儀礼を司っていた。しかし、セルジューク朝はアッバース朝のカリフの承認を得て、スルタンの称号を用いることとなった。スルタンとは、イスラム世界の政治・軍事の最高指導者を意味する。以降、イスラム世界の王には、このスルタンという呼び名が多く使われることになる。
 
 セルジューク朝はその後も軍事征服を止めず、11世紀末には、イラン、イラク、シリア、アラビアを含む、西アジア一帯を単一政権のもとに統一した。また、トルコ人のセルジューク朝は、イスラム信仰の擁護者を自認し、これ以後、イスラムの中心はアラブ人に代わって、非アラブ人が担っていくことになる。
 
 更に、スンナ派を護持するセルジューク朝下では、シーア派への弾圧が熾烈を極めた。そのため、シーア派の活動は地下運動化していく。特に、ファーティマー朝イスマイル派の過激な一部は、都市での活動を断念し、山岳地帯へと拠点を移した。
 
 この組織は、セルジューク朝の領域を東西に横断するように、アフガニスタンからシリアにかけて、連鎖状に堅牢な山城を築いた。その総数は、150とも300とも言われている。そこでは、暗殺者の組織的な養成と派遣が行われた。いわゆる暗殺教団(アサッシン)である。この組織の活動は、セルジューク朝の人々を、大いに震い上がらせたのである。
 
 今一つ重要なことは、1071年にビザンツ帝国と戦い、小アジア(アナトリア)を奪い取ったことである。その結果、セルジューク朝の一分派が、そこにルーム・セルジューク朝を建て、多くのトルコ人が移り住んだ。そして、このイスラム勢力の進出に驚いたキリスト教勢力が、十字軍を始める契機となっていくのである。
 
 文化面で注目すべきは、イラン人の宰相ニザーム・アルムルクによって、ニザーミーヤ学院という、スンナ派のマドラサが各地に建てられたことである。前述した、神学者ガザーリーは、このマドラサのイラン人教授であった。更に、これも前述した詩人オマル・ハイヤームが活躍したのも、この時代である。トルコ系の王朝であるにもかかわらず、イラン系の人々の活躍が目立ったのも、この王朝の特色である。なお、公用語としても、ペルシャ語が主に用いられている。
 
 しかし、12世紀後半以降、セルジューク朝の分裂が深まっていく。そして、小アジアのルーム・セルジューク朝は、14世紀まで存続し、十字軍とも戦ったが、イラン方面の支配領域は12世紀末、サーマーン朝から独立していたトルコ系の、ホラズム朝に滅ぼされた。(前掲「ナビゲーター世界史2」p208~209)(「イスラム教の本」p141~143)
 
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ーコーヒーブレイクー
 
    トウグリル・ベクの見た前兆
 
 1055年、トウグリル・ベクはバグダードに入城した。その前年、彼は不思議な前兆を見た。天空に、突然まばゆい光が現れ、1ヶ月以上もその状態が続いた。肉眼でも、長さが5メートル、幅が50センチほどに見えたという。
 
 この現象は、日本でも中国でも観測されている。我が国では、藤原定家の「明月記」に記録がある。実はこれは、牡牛(おうし)座の中の恒星が、超新星となった大爆発であった。現在でもその名残の星雲を見ることが出来る。カニ星雲である。(前掲「都市の文明イスラーム」p132~133)
 
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2.十字軍とモンゴル軍
 
 以上見てきたように、イスラム世界は10世紀頃から分裂していった。そのようなイスラム世界に、思いがけない異教徒たちの侵入が起こる。一つは、11世紀から13世紀にかけての、西方キリスト教国からの十字軍である。いま一つは13世紀、東アジアからの多神教国モンゴル帝国軍の侵入であった。
 
(1)十字軍
 
 勢力を拡大したセルジューク朝の支配は、シリア方面にまで及び、キリスト教の聖地エルサレムも占領したのは事実である。しかし、当初十字軍が唱えたような、キリスト教徒迫害の事実は認められていない。セルジューク朝やファーティマー朝支配下のイスラム世界では、キリスト教徒やユダヤ教徒とムスリムは平和共存していたのである。
 
 もっとも、ここで言うキリスト教徒は、ローマ中央では異端の単性論派(コプト派)であった。単性論派は第2部−1のキリスト教の項で説明しているように、キリストには神性のみがあって人性はないとして、三位一体論のアタナシウス派に追われ、シリアやエジプトに逃れてきていたのである。
 
 また、大昔から多様な人々の往来が、並外れて多かったシリア地方では、巡礼という行為が、ムスリム以外の宗教者についても、基本的権利として認められていた。だから、ヨーロッパからの巡礼者であっても、エルサレムに平和的に出入りすることは、決して難しいことではなかったのである。
 
 しかし、キリスト教勢力は、一方的に「聖地回復」を謳い、十字軍を組織してエルサレムに侵攻してきたのである。その真因については、まだ解明すべき点は多いとのことであるが、一般的には次のように説明されている。すなわち、セルジューク朝にアナトリアを奪われ、その一派のルーム・セルジューク朝の下で、アナトリアにトルコ人が多数移住して、ビザンツ帝国が脅威を感じた。そして、ローマ教皇に援助を求め、イスラム勢力に戦いを挑んできたというものである。
 
 第1回十字軍では、10万とも言われる軍勢が、セルジューク朝やファーティマー朝を撃破して、エルサレムを奪回、エルサレム王国を建設した。その途上、略奪や大虐殺を行ったのである。
 
 そのような事情の中で、シリヤやエジプトの人々は、ムスリムだけでなくキリスト教徒やユダヤ教徒も、突然降って湧いたような暴力的な武装巡礼の意図を、全く理解できなかった。これはイスラム諸政権にとっても同様であった。だから、イスラム勢力の反撃は、随分とノンビリしたものであった。そのため、第1回十字軍では、キリスト教軍に徹底的な蹂躙を許してしまったのである。
 
 しかし、キリスト教軍の非人間的な暴力行為に対して、イスラム側は認識を改めた。以降ムスリムは、「啓典の民」としてのキリスト教徒に対する寛容の姿勢を改め、ジハード(聖戦)の対象としていく。こうして、戦闘は前後7回、200年にわたって断続的に行われた。ヨーロッパ側は、すぐさま聖地も奪い返されている。結論を一言で言えば、キリスト教側の200年の不毛な努力の末に、十字軍は失敗に終わったのである。
 
 結局残ったのは、双方の不信と怨恨であった。ただ、せめてもの慰めは、後進地域であったヨーロッパが、先進地域の中東世界と接触し、多くのことを学ぶことが出来たことであろう。(前掲「イスラム教の本」p144)(「図解宗教史」p84)(「都市の文明イスラーム」p154~179)
 
(2)モンゴル軍
 
 13世紀初頭、チンギス・ハンはモンゴル高原の遊牧民を統一して、モンゴル帝国を築き、東西に遠征を開始する。西、つまりイスラム圏への侵攻は、アフガニスタン地方に始まり、次いでイラクに進軍した。その過程で、暗殺教団(アサッシン)をも消滅させている。
 
 更に1258年には、バグダードを占拠し、アッバース朝を消滅させた。当時、カリフは形骸化して、イスラムの実質的中心は、バグダードからカイロへと移行していたが、バグダートの陥落とアッバース朝カリフの消滅は、計り知れない衝撃をムスリムに与えた。
 
 占領地域には、モンゴル帝国の傘下に、チャガタイ・ハン国(中央アジア)、キプチャク・ハン国(ロシア)、イル・ハン国(西アジア)の3国が建てられた。アッバース朝を滅ぼして建てられたのは、イル・ハン国(1258〜1353年)である。その時、アッバース朝最後のカリフは殺害された。
 
 しかし、新たな支配者になったモンゴル人たちは、異教徒に対して極めて寛容であった。イル・ハン国の7代ハン(国王)は、自らイスラム教に改宗して、イスラムを国教とした。また、イスラム式税制やイクター制を導入し、農業の振興に努めた。モンゴル帝国のもとでムスリムは、商人や官僚あるいは技術者などとして、目覚ましい活躍をしている。特に、徴税と財務は、殆どムスリム官僚に委ねられた。
 
 上記モンゴル3国では、イラン人が積極的に登用されたので、公用語が従来のアラビア語からペルシャ語へと代わり、巨大なペルシャ語圏が形成された。また、3国ともモンゴル人のイスラム化が徐々に進んだ。各国は中国の元(ゲン)を宗主国とする帝国の一部であったので、陸路を通じたムスリム商人による商業ネットワークが広がり、更には東西文化の融合が進み、遠く中国にもイスラム教が伝播した。
 
 元(ゲン)本国においても、ムスリムは経済官僚として抜擢され、都市や港湾などの流通の拠点に配置された。ムスリム商人はそれに呼応して、陸路と海路のユーラシア通商圏を作りあげ、空前の東西交流を実現させたのである。
 
 さて若き諸賢よ。ここで一つの問題提起をしておきたい。それは、同じイスラム世界が、同じ時代に、ヨーロッパ諸国とモンゴル帝国という、全く異質の世界と遭遇した。そして結果的に、一方では不信と怨恨のみが残り、他方では、人間交流と文化交流が起こっているのである。
 
 一方の文化の基底にあるものは、一神教キリスト教であり、他方の基底にあるものは多神教(シャーマニズム)であった。宗教と平和を論じるに当たって、極めて示唆に富む事件であったと言えるであろう。諸賢の考えはどうであろうか。後で、徹底的に論じることとしよう。(前掲「イスラム教の本」p144~145)(「図解宗教史」p84)(「モンゴルの歴史」宮脇淳子、刀水書房p53~54)(「パクスイスラミカの世紀」鈴木董編、講談社現代新書、p35~39)
 
3.北アフリカのイスラム王朝
 
(1)アイユーブ朝(1169〜1250年)
 
 10世紀、カリフを自称し、イスラム世界の分裂に拍車をかけたファーティマー朝については前述した。このファーティマー朝を滅ぼしたのが、クルド人(イラン系アジア人)の武将サラディンである。そして、スンナ派の王朝アイユーブ朝を建てた。ファーティマー朝から引き継いだアズハル学院は、当然ながらスンナ派の研究機関となった。そしてアズハル学院は、その後も生き抜き、現在はエジプト一の大学となっている。
 
 サラディンは、エジプト史上最大の英雄とも言われている。それは、十字軍に奪われたエルサレムをキリスト教勢力から奪回し、これに対して起こされた第3回十字軍も追い返したからである。ヨーロッパ勢力による「聖地解放」に際しての大量殺戮とは違い、サラディンによる奪還は、異教徒保護の姿勢を崩さなかった。エルサレムの奪還は、周辺のヨーロッパ植民地を消滅寸前まで追い込んだ。しかし、シリア海岸部の細長い地域に、植民地はあと100年ほど生き延びることになった。
 
 エルサレムはイスラム教徒にとっても、メッカ、メディナに次ぐ聖地であることは前述した。預言者ムハンマドが、そこから天に昇ったとされる「岩のドーム」があるからである。
 
(2)マムルーク朝(1250〜1517年)
 
 この王朝は、アイユーブ朝のマムルーク(軍人奴隷)軍団の司令官が、アイユーブ朝を倒して建国したトルコ系王朝である。アイユーブ朝はトルコ人マムルークを、かってない規模で導入したが、飼い犬に手を噛まれることになったのである。
 
 この王朝では、奴隷身分からスルタンになったバイバルスの活躍が注目される。アッバース朝を倒してシリアに侵入したモンゴル軍を破り、十字軍も撃退したからである。バイバルスは、自分のスルタンとしての地位を正当化する手段として、アッバース朝カリフの後裔を、新しいカリフとしてカイロに擁立した。これ以降、歴代の傀儡カリフは、マムルーク朝のスルタンを、全イスラム世界の指導者とする機能を担うことになった。
 
 またこの王朝では、経済面でもカイロを中心にした、地中海〜紅海〜インド洋間の貿易が継続・発展した。カーリミー商人の活躍は、前述したとおりである。こうして、13世紀のイスラム世界は、宗教的にも経済的にも、「バグダードからカイロへ」と言う動きの中で、大いなる繁栄をした。
 
 しかし、14世紀半ばのペストの流行によって、エジプトの人口の3分の1を失った。ペストの原因としては、14世紀の世界的規模での寒冷化が挙げられる。またその中で、交易圏の拡大や人的交流の高密度化によって、諸都市の住環境の悪化もあったのである。これ以降も、ペストの流行は、かなりの頻度で繰り返された。(ワイガヤ青春広場「アジアの香辛料が、ヨーロッパ垂涎の商品になった理由」参照のこと)
 
 また15世紀末、ポルトガルによるインド航路の発見以来、ヨーロッパ勢力が直接インド洋貿易に乗り出し、マムルーク朝は、中継貿易による大きな利益を失って衰退した。最終的には、16世紀初め、オスマン帝国によって滅ぼされている。(前掲「ナビゲーター世界史2」p210~212)(「都市の文明イスラーム」p154~192)
 
4.イベリア半島とマグリブのイスラム王朝
 
(1)ムラービト朝 (1056〜1147年)とムワッヒド朝(1130   〜1269年)
 
 イベリア半島では、8世紀から10世紀前半までは、アラブ人の後ウマイヤ朝が最大の勢力であった。後ウマイヤ朝は当初、ジブラルタル海峡対岸のマグリブ(西北アフリカ)も支配下に入れていた。しかし、8世紀後半になると、マグリブには小政権が乱立するようになる。また、後ウマイヤ朝末期になると、イベリア半島自体が、小君主の割拠する、群小諸王の時代になるのである。
 
 マグリブというのは、現在のモロッコ、チュニジア、アルジェリアを含む、西北アフリカ地方を指す。マグリブとはアラビア語で「日が没する土地」の意である。バグダード方面から見た方向を示している。
 
 このマグリブの先住民で、イスラムに改宗したベルベル人が、小政権乱立のマグリブを統一した。ベルベル人は、言葉はハム語系(エジプトなどアフリカ東部・北部の言語)に属し、黒人とアラブ系の混血した人々で、ムーア人という呼び方もされる。やがてベルベル人は、後ウマイヤ朝滅亡後の混乱したイベリア半島のムスリムたちの要望に応える形で、イベリア半島に攻め込み、後ウマイア朝の領土を引き継いだのである。
 
 こうして、ムラービト朝、続いてムワッヒド朝が建国される。そして、イベリア半島とマグリブは、久しぶりに統合されることになった。また両王朝とも、マグリブの中心、モロッコのマラケシュを都とした。
 
 ただ、キリスト教勢力によるレコンキスタ(国土回復運動)が強まるにつれ、イベリア半島内の領土は縮小を続ける。ムラービト朝においては、イベリア半島の3分の2、ムワッヒド王朝では3分の1程度になっている。
 
 ムラービト朝について注目すべき点は、アフリカ西部にあった黒人王国ガーナを滅ぼして、内陸アフリカのイスラム化の端緒を開いたということである。ムワッヒド朝については、経済の発展を背景に、マグリブ地方におけるイスラム文化を高めたことである。いずれにせよ、両王朝の特徴は、サハラ以南のアフリカにイスラム教を広げたことであると言ってよい。(前掲「ナビゲーター世界史2」p212~213)(「図説世界史」東京書籍p109)(「都市の文明イスラーム」p194~230)
 
(2)ナスル朝(1232〜1492年)
 
 これはイベリア半島における、ベルベル人ムスリムの最後の国家である。都はグラナダに置かれ、グラナダ王国という呼び方もされる。キリスト教勢力に圧迫されて、領域はイベリア半島の10分の1にも満たない、南部地域に押し込められた。また、マグリブ地方には、既に小政権が分立していた。
 
 しかし、ナスル朝は経済的には豊かで、都のグラナダに建てられたアルハンブラ宮殿は、イベリア半島に残された、最も美しいイスラム建築と評価されている。この王朝は、1492年、スペイン王国の攻撃によって滅ぼされる。レコンキスタの完成である。以降は、熱狂的なカトリック教国である、スペインの支配領域になった。(前掲「ナビゲーター世界史2」p213)
 
 この時、勝利者スペインは、イスラム教徒だけでなくユダヤ教徒も追放した。そして、極めて厳しい異端審問によって、徹底的なキリスト教化を図ったのである。前述したように、イスラム教支配下のイベリア半島には、キリスト教徒もユダヤ教徒も共存が許された。ここには、同じ一神教であるキリスト教とイスラム教の、異教徒に対する際だった違いが見られるのである。何故そうなのか。ここにも、世界平和を考える上での、問題提起を諸賢にしておきたい。
 
5.中南アフリカ(サハラ以南のアフリカ)のイスラム化
 
(1)西アフリカ
 
@ガーナ王国(8世紀以前〜1076年)のイスラム化
 
 ガーナ王国は、セネガル川上流で、金とサハラ砂漠の岩塩との交易ルートを支配して、栄えた国である。その交易にはムスリム商人が関わり、イスラムの影響が及んでいたが、1076年、前述したムラービト王朝に征服された。これ以降、ガーナ王国の領域だけでなく、サハラ以南のイスラム化が本格的に始まるのである。
 
Aマリ王国(1240〜1473年)
 
 ニジェール川の上流の中心地で、大量の金の取引で利益を上げ、「黄金のマリ国」と呼ばれた。14世紀末、熱心なイスラム教徒であった国王が、メッカ巡礼時に、カイロで大量の金を湯水のごとく使ったため、金の価格が暴落したと言われる。
 
Bソンガイ王国(1473〜1591年)
 
 マリ王国を倒したソンガイ王国は、西アフリカからサハラ以北にも支配を広げ、交易で繁栄した。特に、ニジェール川中流の交易都市トンブクトウ(現マリの都市)は、経済・文化の拠点として発展し、内陸アフリカにおけるイスラム文化の中心地となった。
 
Cソコト・カリフ国(1812年建国)
 
 16世紀末、ソンガイ王国がモロッコによる侵略をきっかけに崩壊すると、イスラムは、それまでのような国家からの保護を受けられなくなった。ウラマー(イスラム学者)やイスラム商人は、在地の権力との衝突を避けながら、ネットワークを広げるしかなかった。いわば、イスラムの雌伏の時代が訪れたのである。
 
 17〜18世紀になると、ヨーロッパの影響を受けて、西アフリカでも、地域社会における市場化や資本主義化が起こった。それに対応して力をつけたのが、家畜飼育者であったフルベ人である。彼らは、食肉や皮革という生活必需品を通して資本を蓄積し、経済の倫理と支配のイデオロギーをイスラムに求め、新しい形の国造りに向けて動き出した。 
 
 そして、有力教団のスーフィー(神秘主義者)でもあったフルベ人のウラマーが、スンナ派の理念に従った社会制度の実現を説き、異教徒に対するジハード(聖戦)を宣言した。これは、マフディー(救世主)待望の世論ともマッチし、大衆の圧倒的な支持を受けるようになる。かくて1812年には、今日のニジェールから、ナイジェリア北部、カメルーン高地にまたがる、19世紀西アフリカ最大の国家、「ソコト・カリフ国」が樹立されたのである。
 
Dトウクロール帝国(1862年建国)
 
 ソコト・カリフ国の成立にも見られるように、19世紀半ばまでの西アフリカのイスラムをめぐる状況は、大きく変わった。ムスリムによる政治と宗教の改革が、時代の趨勢を握る要因と考えられるようになったのである。
 
 そうした状況下で、セネガル出身のトウクロール人スーフィーが動いた。彼は1830年代にメッカに巡礼し、有力スーフィズム教団の、西アフリカにおける教団長代理の資格を得る。彼は、教団の結束力を政治的な力に変えて、民族や階級を超えた大衆組織化に成功し、50年代にセネガルでジハードを起こす。そして1862年に、セネガル川上流から、ニジェール川中流にかけての、広大なトウクロール帝国を建てた。
 
 こうして、18世紀から、ヨーロッパの植民地支配が始まる19世紀後半までに、西アフリカ内陸サバンナは、セネガルからマリを経て、ナイジェリア北部に至るまで、強力なイスラム国家の支配が広がることになった。
 
(2)アフリカ東岸
 
 アフリカ東岸では、古くからアラビアやイラン、インドとの海上交易が盛んであった。代表的な港湾都市としては、マリンディやモンバサ(現ケニアの都市)、ザンジバルやキルワ(現タンザニアの都市)などがある。
 
 文化面では、10世紀以降生み出された、スワヒリ文化が重要である。スワヒリとは海岸に住む人々という意味である。交易のためにやってきたアラブ系のムスリム商人と、先住民の文化が混ざり合って出来たものである。その結果、この海岸地帯では、アラビア語の影響を受けた、スワヒリ語が共通語として広く用いられるようになった。(前掲「ナビゲーター世界史2」p214~217)
 
 スワヒリ海岸におけるイスラム化は、アラビア半島の東南岸の国、オマーンに依るところが大きい。18世紀初め、ポルトガルをこの地方から追い出したオマーンの王朝は、スワヒリ海岸に、統治制度と共にイスラム教を持ち込んだ。
 
 オマーン支配の本拠地ザンジバルは、イスラムの学問センターとなった。正統スンナ派がもたらされたのは当然であるが、一般大衆に対するイスラム布教には、スーフィズム(神秘主義)教団の果たした役割が大きかった。伝統的なズイクル(連唱)儀礼に、護符の作成、秘数学、卜占などの呪術的な実践が結合して、民衆の中にイスラム教が普及し浸透していった。そしてそれは、次第に内陸部へも広がっていく。
 
 しかし結局この地域のイスラムは、海岸部に限定されることになる。と言うのは、この地域のイギリス、ドイツによる植民地化の結果、沿岸部ムスリムによる内陸への、経済的・政治的影響は終わりを告げたからである。
 
(3)アフリカ南岸(ケープ)
 
 17世紀半ばオランダは、アフリカ南端にケープ植民地を開いた。やがてオランダは、ここを植民地支配下のインドネシアから、政治犯を送る流刑地とした。政治犯の殆どがムスリム(イスラム教徒)であり、その中にはスーフィー(神秘主義者)やウラマー(イスラム学者)も混じっていた。こうして、ケープにおけるムスリム・コミューニティが生まれるのである。
 
 ケープで使役された奴隷の大半は、マダガスカルやインド洋の島々、東アフリカ東岸の出身者で、ムスリムではないものが多かったが、彼らの多くもイスラムを受け入れていった。ケープをイギリスが統治するようになり、19世紀、奴隷貿易禁止令が出ると、イギリスは奴隷船の拿捕(ダホ)に乗りだし、その奴隷達の開放先としても、ケープが活用されたのである。彼らもムスリム化した。
 
 こうして、アフリカ南端のイスラム化が進んでいった。もっとも、ムスリムの数はそれほど多くはない。現在、南アフリカ共和国のムスリムは66万人で、全人口の1.5%を占めているに過ぎない。(前掲「イスラームの歴史」p98~112)
 
W. 三大王朝の角逐        
 
 13〜4世紀以降、これも非アラブ人による3つのイスラム大王朝が現れた。それぞれが他に影響を与え、与えられながら、一つの時代を画した。その3国とは、中央アジア、イランのティムール朝、イラン及びその周辺のサファヴィー朝、中東、東ヨーロッパ、北アフリカを領域としたオスマン帝国である。
 
 中でもオスマン帝国は、13世紀末から20世紀初めまで、600年以上も続き、キリスト教のヨーロッパとも、様々な接触を通じて、大きい影響を与え合った。
 
1.ティムール朝(1370〜1507年)
 
 14世紀になると、モンゴル勢力が衰え始める。前述した3つのハン国のうち、キプチャク・ハン国を除く2ハン国(チャガタイ・ハン国とイル・ハン国)は、この世紀に分裂または滅亡した。
 
 中央アジア方面を支配していたチャガタイ・ハン国も、この世紀半ばに東西に分裂し、混乱状態になった。しかし、その混乱の中から、西チャガタイ・ハン国の小貴族出身のティムールが現れて、サマルカンド(現ウズベキスタンの都市)を都に、ティムール朝を建てた。ティムールはイスラム教徒であり、トルコ語を使っていた。
 
 ティムール朝の領域は、旧チャガタイ・ハン国の大部分に、旧イル・ハン国の領土を併せ、トルキスタンからイラン、メソポタミアまで広がっていた。その後さらにティムールは、キプチャク・ハン国や北インドにも攻め込み、1402年には、急発展してきたオスマン帝国を破り、一時的にオスマン帝国の存在を中断させた。
 
 この王朝は、トルコ・モンゴル系遊牧民の軍事力と、イラン系定住民の経済力によって支えられ、統治機構の上でも2重の体制がとられた。遊牧民を統率するためには、名目的なモンゴルのハンを推戴する一方、徴税、財務、司法などの分野では、イラン人ウラマーを官僚として活用した。また、神秘主義(スーフィズム)教団を優遇し、その宗教的影響力を利用して、住民の心を掌握した。
 
 ティムールは、モンゴル帝国の建設者チンギス・ハンの子孫を自称し(事実ではなく、モンゴル貴族の後裔であった)、モンゴル系元朝を倒した明を討とうとして遠征を始めた。しかし、途上で病死して、念願を果たすことは出来なかった。
 
 この時代の文化の特色は、イラン、トルコ、モンゴル系の諸文化が、イスラム文化として統一されたことにあった。チムール朝の歴代君主は、一族や配下の者を従え、テントと共に移動する遊牧君主でありながらも、都市建設に積極的に関わった。都市が、富を創造するメカニズムを、よく理解していたからである。
 
 しかし、テント生活にはこだわり、都市郊外に緑と水に溢れた庭園を多数造った。君主は、庭園の中に大テントを張って寝起きし、しばしば客人を池の畔のあずまやに迎えて、夜通しで宴会を催したという。今でも多くの名園が残っている。この庭園文化は、インドにも引き継がれて行き、同じイスラム文化圏におけるシリア、エジプト、トルコなどとは、全く違った文化的特色を示している。
 
 首都サマルカンドを始めとする領内の各都市で、商工業の発達を背景として、壮大なモスクが建設され、特に、文字、細密画、天文学、暦法などの分野で、優れた成果を上げている。また、前述したが、ティムールの孫で帝位にも就いたウルグ・ベクは、自らサマルカンドに天文台を建て、数学者、天文学者などとして活躍した。文章語としては、ペルシャ語とチャガタイ・トルコ語が併用された。
 
 しかしこの国は、一族の間に領土を分封する遊牧国家の伝統を持っており、常に政治的に分裂する危険性があった。ティムールの死後、文化的な発展とは逆に、政治的には分裂・弱体化し、16世紀初め、トルコ系のウズベク族によって滅ぼされた。そして、領土の北半分には、ウズベク族が、先ずシャイバーン朝を建て、やがてヒヴァ、ブハラ、コーカンドという3ハン国が分立している。また、南半分はサファヴィー朝の領土となった。(前掲「ナビゲーター世界史2」p222~225)(「詳説世界史の研究」305~306)
 
2.サファヴィー朝(1501〜1736年)
 
(1)サファヴィー朝の建国
 
 ティムール朝滅亡後、その領土の南半分(イラン地方)を中心に建国されたのが、イラン系サファヴィー朝である。サファヴィー教団という、神秘主義(スーフィズム)教団の教主を務めていた、サファヴィー家のイスマイール1世が、シーア派のトルコ系遊牧民を軍隊の主軸として、イラン全域の支配圏を握った。公用語はペルシャ語であった。
 
 イスマイールは王朝を建てるとすぐ、シーア派(十二イマーム派)を国教として採用し、スンナ派が多数を占める住民達の、シーア派化を積極的に進めた。そのため、シーア派住民の税金を安くしたり、フサインの殉教を悼むアーシューラーの祭りを盛んに行うなどした。また、王の呼び名としてスルタンではなく、古代イラン以来、王を意味するシャーの称号を用いた。行政面では、イラン人貴族を中央官僚とし、トルコ系遊牧民の有力者を地方長官に任じた。
 
 隣国には、スンナ派のオスマン帝国があったので、両国間では軍事的衝突がしばしば見られた。
 
 というようなことで、このサファヴィー王朝時代に、シーア派の強い信仰を中心とする、イラン人の民族意識が成立したとされることが多い。しかしこの王朝は、現実にはトルコ系部族軍団の力で維持されていたのであり、イラン的側面のみを強調するのは誤りであろう。だが、現在のイランがシーア派の国であることの淵源をなすのは、イランに建国されたシーア派の、遠くはブワイフ朝であり、近くはサファヴィー朝であることは、否定できない事実であろう。
 
        ───────────────────────       
 
ーコーヒーブレイクー
 
    チャルドランの戦い
 
 サファヴィー朝とオスマン帝国は、数々の軍事衝突を繰り返している。その中でも、イスラム世界の歴史、と言うよりも軍事史の流れに、大きな影響を与えた一大会戦があった。1514年、アナトリア高原の東部にある、チャルドランの野で行われた戦闘である。確かな数字は定かではないが、双方とも数万以上の大軍であったと言われる。はっきりしているのは、オスマン軍がサファヴィー軍の、倍以上の兵を擁していたと言うことである。
 
 先にチャルドランに陣を張り、オスマン軍を待ち受けたサファヴィー軍の本営では、決戦の前日に軍議が開かれた。オスマン軍と何度も戦い、その戦闘方法に詳しい将軍が、夜襲を提案した。オスマン軍が陣を敷き終わらないうちに,先制攻撃をかけ、火器が威力を発揮しないうちに、叩いてしまうのが得策であるという意見であった。
 
 軍の中で、この将軍と主導権を争っていたもう一人の将軍が、これに反対した。この戦いは王と王の戦いであり、正々堂々と戦うことが肝要であると言ったのである。結局、最終的な決定は、王イスマイールが下した。彼が選んだのは王の面子であった。その瞬間に、サファヴィー軍の勝機は去った。
 
 サファヴィー軍は、長い行軍で疲労したオスマン軍が、陣を敷き終わるのをじっと待った。そして翌朝、日の出とともに戦いの火蓋が切って落とされた。騎兵でどっと押し寄せるサファヴィー軍をめがけて、オスマン軍自慢のイエニチェリ軍団(後述:歩兵軍団)の、300丁の鉄砲が火を噴いた。
 
 サファヴィー軍は多くの犠牲者を出しながらも、「アッラー、アッラー」と叫びながら、何度も何度も執拗に、オスマン軍の本営をめがけて攻撃を仕掛け、その心胆を寒からしめた。ために、この戦いの後もイエニチェリは、イランへの遠征を嫌がるようになったという。ここにも、天国行きの信仰によって、死をも怖れぬイスラム兵士の姿が、垣間見えるのである。
 
 しかし最後は、火器の威力がものを言った。日が傾く頃には、サファヴィー軍は総崩れになり退却した。夜襲をすすめた将軍は戦死し、これに反対した将軍は逃げ延びた。王イスマイールは、影武者を犠牲にして、辛うじて戦場から離脱した。かくて戦術的に、騎兵に対する歩兵の優位が確立していくのである。
 
 それから60年後、日本でも戦国時代の織田軍と武田軍の間で、長篠の合戦が戦われている。織田の鉄砲隊が、武田の騎兵隊を破った一戦として有名であるが、チャルドランの会戦は、それを髣髴とさせる光景であった。(前掲「パクス・イスラミカの世紀」p80~82)(「詳説世界史研究」p307,309)
 
        ───────────────────────       
 
(2)最盛期
 
 サファヴィー朝の最盛期は、アッバース1世(在位1587〜1629年)の時代である。対外的にはオスマン帝国に奪われていたアゼルバイジャンを取り返し、ホルムズ島からポルトガル勢力を駆逐し、ペルシャ湾の交易ルートを手中にした。他方では、ヨーロッパ諸国と、初めての外交・通商関係を結んだことが特筆される。
 
 国内的には、新首都イスファハーンが建設された。人口は50万人を超え、イスファハーンのモスクやマドラサ、宮殿などの建築物の素晴らしさは、訪れた外国人を驚かせた。イラン人自らも、「イスファハーンは世界の中心(の価値がある)」と言って自慢したという。治安は安定し、国内の道路、橋、隊商宿が整備された。経済面では、品質の優れた絹織物、毛織物などが生産され、世界各地に輸出された。現在でもペルシャ絨毯は、最高級品として有名である。
 
 アッバース1世の死後、オスマン帝国からの侵入が繰り返されて衰退し、1722年、アフガン人によって事実上滅ぼされた。(前掲「ナビゲーター世界史2」p225~227)(「詳説世界史研究」P309~310)
 
3.オスマン帝国(1299〜1922年)
 
(1)オスマン帝国の成立と中断 
 
 トルコ人たちは前述したように、11世紀のイラン、イラク地方を中心に隆盛を誇っていた。セルジューク朝はその代表例である。しかし、12世紀半ばには、モンゴル人に活躍の首座を奪われている。
 
 だが、13世紀の末、アナトリア半島西部では、トルコ人ムスリムたちが再び始動を始めていた。当初は、小集団の兵士達が群雄割拠していた。その中で、ルーム・セルジューク朝に仕えていた、トルコ系遊牧民の族長オスマン・ベイが、小アジア西北部に小さなイスラム国家を建てたのが、オスマン帝国のはじまりである。この帝国は、建国以来600年以上の長きにわたって続いた、世界史の中でも特大の帝国である。
 
 モンゴル高原にいたトルコ人が、根無し草の生活を続けて流浪しながら、遂にアナトリアの地に根を下ろし、思いもかけない大帝国として花を咲かせることになったのである。ここでは、そのオスマン帝国における、16世紀頃までの発展期について、述べることとしよう。
 
 やがて、オスマン帝国はバルカン半島に進出して、ビザンツ帝国からアドリアノープル(現エディルネ)を奪い、そこを首都とした。そして、バルカン南部を征服し、トルコ人の移住を進めていった。しかしバヤジット1世(在位1389〜1402年)の時代に、ティムールに敗れてバヤジット1世自身が捕虜になり、まもなく病死した。その結果、帝国は10年あまり中断に追い込まれたのである。
 
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コーヒーブレイク
 
    ー皇位継承と兄弟殺しー
 
 オスマン帝国のスルタン位の相続については、父から男の子への「父子相続制」が基本であったとされる。しかし、子供間の相続順位は不定であり、法定推定相続人の皇太子が設けられることは稀であった。そこで、残忍とも見える兄弟殺しのシステムが慣行化したのである。
 
 それはバヤジット1世が始めた。彼は自らが皇帝(スルタン)に即位した直後に、兄弟たちを殺した。「皇帝の死後に新皇帝となる王子が決まると、新皇帝の競争者となる可能性のある他の王子たちは、すべて殺される。」という、兄弟殺しの習慣が、この時から始まったのである。最高記録としては、16世紀末、18人が弓の弦で絞殺されたという記録が残っている。
 
 しかし、このため王家の男子が不足し、また宗教指導者からも、道義上の問題ありとする提議があり、17世紀初めには廃止になっている。そして該当する兄弟たちは、スルタンが住むトプカプ宮殿の庭園にある小さな館の一つで、カフェ(籠)と呼ばれる幽閉所に軟禁されることになった。1617年から1837年までに王座に就いた16人のスルタン全員が、この小さな館で、王位継承者として呼び出される日を待ちながら暮らしていたのである。
 
 しかし、公務にも就かず、むなしく日を過ごさせるこのシステムは、スルタンの育成上極めて問題であった。16世紀までのスルタン達は、いずれも王子時代、政治や軍事の修羅場を実体験しながら育ったのである。かくて、後述のスレイマン1世以降、スルタンの統治能力は急速に低下した。(「オスマン帝国衰亡史」アラン・パーマ著、白須英子訳、中央公論社、p40)
 
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(2)大帝国への発展
 
@メフメト2世
 
 オスマン帝国の発展期で、重要な皇帝(スルタン)の一人は、メフメト2世(在位1444〜46年、1451年〜81年)である。1453年、コンスタンチノープルを陥し入れて、1000年以上も続いたビザンツ帝国を滅ぼしたのが、このスルタンである。この時、コンスタンチノープルがオスマン帝国の首都に定められ、以降イスタンブルの呼称が一般化する。
 
 メフメト2世は、荒れ果てたイスタンブルの復興を図り、戦乱を逃れたギリシャ人などを移住させた。モスク、マドラサなどの宗教施設と、市場、隊商宿などの商業施設を連結させた複合施設の建設を進めた。これらの施設を支える財源として、多くの寄進財産(ワクフ)が設定された。こうしてイスタンブルは,東西交易の大センターとして、復興して行くのである。
 
 メフメト2世の在位中に、セルビア、ボスニア、アルバニア、ギリシャ、ワラキアを完全に支配下に置き、黒海各地に勢力を張るジェノバ勢力を一掃するなど、かってのビザンツ帝国全領域を治めることになった。
 
 彼は更に、イスタンブルの人口回復のために、帝国各地から移住を奨励した。移住した人々の中には、ムスリムのみならず、ギリシャ正教徒やユダヤ教徒などの、非ムスリムも多かった。彼らの技能やネットワークを役立てようとしたのである。そしてイスタンブルは、ムスリム6割、非ムスリム4割が共存する街となった。
 
Aセリム1世
 
 いま一人の重要な皇帝は、セリム1世(在位1512〜20年)である。イラン地域に成立したばかりのサファヴィー朝に、前述したチャルデランの戦いなどで打撃を与え、東アナトリアを獲得した。また当時、イスラム世界の中心は,エジプトとシリアであった。セリム1世は、サファヴィー朝とマムルーク朝が結びつくことを怖れ、エジプトへの遠征の途についた。
 
 そして、1517年にはマムルーク朝を滅ぼしている。ここでも、火器が騎兵を圧倒する戦術が用いられた。セリム1世はかくて、エジプト本土やシリア、更にはメッカとメディナも支配下に入れている。
 
 またセリム1世が、マムルーク朝を滅ぼした時に、そこに擁立されていたアッバース朝ゆかりのカリフをイスタンブルに連行し、スンナ派イスラム教の信仰の保護者として振る舞うようになった。そのため、他のスンナ派ムスリム諸国の人々からも、単なる一国家を越えた存在、いわばイスラム的世界帝国としての、高い権威を持った国として見られるようになった。
 
 従来の学説では、セリム一世がカリフ位を禅譲され、1人でカリフとスルタンとを兼ねる、スルタン・カリフ制が成立したとされたことがあった。それは事実ではなく、スルタン・カリフ制の理念は、後述するように、ヨーロッパ列強の進出に対抗し、衰退期に入ったスルタンが、内外のムスリムに影響力を強めるために主張したものである。
 
(3)最盛期(スレイマン1世時代)
 
 オスマン帝国の最盛期は、スレイマン1世(在位1520〜66年)の時代である。多くの戦争に勝って、領土を帝国史上最大にまで広げ、国家組織を整えて、文化も興隆させた。
 
 この時期の対外面を見ると、東方ではサファヴィー朝からバグダードを奪い、西方ではバルカン北方のハンガリーを征服している。1529年には、オーストリアの首都ウイーンを包囲し、陥落寸前まで追い詰めている。(第1次ウイーン包囲と呼ばれる。)また北アフリカも支配下に入れた。こうして、オスマン帝国の領土は、かっての古代ローマ帝国の4分の3を占めるほどになった。首都イスタンブルは、人口50万人を超える大都市となった。
 
 このウイーン包囲は、結局失敗に終わったが、ルターの宗教改革を助ける役目を果たしている。当時、カトリックのオーストリア(神聖ローマ)皇帝は、宗教改革を進めるルター派を弾圧していたのである。(第2部−1、宗教改革の項参照)しかし、オスマン帝国との対立に力を割かれ、ルター派を弾圧しきれなかった。更に、オーストリアのライバルだったフランスは、オスマン帝国に援助を求め、両者は同盟を結んで、多くの戦争を通じて協力し合った。
 
 この流れの中で、オスマン帝国は、フランスを始めイギリス、オランダなどの諸国に対して、領事裁判権を含む通商特権を認める条約(カピチュレーション)を結んだ。これは、強者オスマン帝国からの、弱者ヨーロッパ諸国に対する恩恵的特権付与であった。しかし、18世紀以降にオスマン帝国が衰退してくると、ヨーロッパ諸国はこの制度を、オスマン帝国への侵略の手段として利用することになる。
 
 話を元に戻すと、オスマン帝国は陸上勢力であると共に、巨大な海軍勢力であった。15世紀に、黒海は殆どオスマンの海と化していた。16世紀、スレイマン1世の時代に、オスマン海軍は、スペイン、ベネツィアらの連合艦隊に勝って、地中海の制海権も手中にした。こうして、紅海やペルシャ湾から、インド洋を経て東アジアに至る、交易の動脈を手中にしようとした。しかしこの頃から、ポルトガル勢力の東方進出が起こっており、両者の抗争がその後断続的に続いていく。
 
 国内面でスレイマン1世は、「立法者」とあだ名されているように、行政組織や、シャリーア、カーヌーンなどの法典の整備を行った。なおここでカーヌーンとは、シャリーアを補うために作られた法のことである。
 
 また、領土の拡大によって、多数の民族、言語、宗教を持つ住民を抱え込むこととなった。その統治体制は、イスラムを支配の原理に据え、一方で、地域的慣行にも配慮しつつ、多民族の共存を図りながら、これを中央集権的機構によって統治した。
 
 中央では、スルタンは政治・外交・軍事の全権を大宰相に委ね、大宰相の主催する御前会議で国事が諮られた。スルタンは必要に応じ、隣の小部屋から会議の様子を見守った。そして、書記官僚によって全国に法令(カーヌーン)や命令が伝達された。
 
 また、後述するイエニチェリという強力な常備軍を配置し、「オスマンの平和」が築かれた。この平和の下で、モスクやマドラサなどの公共施設が盛んに建築・整備された。また宮廷文人などによって、オスマン語を用いた年代記や詩文学などが著され、これに付された細密画(ミニアチュール)は、華やかな宮廷や都市の生活を伝えている。
 
 地方は、30余の州に分けて総督が任命された。後述のティマール制を実施する直轄領と、それ以外の納税だけを義務づけられた間接統治領の2種類があった。各州は更に県、郡に分けられ、県には県知事が、末端の郡には裁判官(カーディー)が中央から任命され、行政の責任を負った。またカーディーは、シャリーアに基づき裁判も行った。
 
 しかし、スレイマン1世の死後、1571年には、オスマン海軍はスペイン、ベネツィアの連合艦隊に破れている。その後もしばらくは、繁栄が続いたが、1683年の第2次ウイーン包囲失敗の頃から、徐々に停滞期に入っていく。
 
(4)オスマン帝国の諸制度
 
 最後にオスマン帝国の特色ある4つの制度を見ておこう。
 
@ミッレト(宗教共同体)制度
 
 従来のイスラム世界では、異教徒は税金を払えば、生命、財産、信仰が保証されていた。庇護民(ズインミー)などの制度がそうである。オスマン帝国におけるミッレト制度は、それを一歩進めたものである。キリスト教徒やユダヤ教徒などの非イスラム教徒らに、宗教別の共同体(ミッレト)を作らせ、各共同体の長が内部の規約や紛争に関する責任を負い、信仰、法、徴税などの面で、それぞれの共同体は大幅な自治を認められたのである。
 
 これは、キリスト教徒やユダヤ教徒を、同じ一神教の「啓典の民」として保護する、イスラム国家の伝統を引き継ぐものであった。異端審問のキリスト教に比べて、イスラム教の寛容さを示す制度と言えよう。イベリア半島のキリスト教徒による、レコンキスタ(国土回復運動)が進むにつれて、追放されたユダヤ教徒がオスマン帝国内の都市に移住し、商人として重要な役割を果たしたのが、その良い証拠である。 
 
Aティマール制と徴税請負制
 
 ティマールとは、オスマン帝国の騎士が、軍事的奉仕の代償として、俸給の代わりにスルタンから与えられた、土地からの徴税権のことである。これは、ブワイフ朝で始められ、セルジューク朝などにも引き継がれた、イクター制と同様の制度であると考えればよいであろう。
 
 ティマール制に組み込まれた、地方在住の騎士の多くは、オスマン建国以来のムスリム・トルコ系騎兵軍の末裔であった。彼らの組織化・統制化のために生まれたのが、ティマール制である。つまり、ティマールという知行地、徴税権と言った特権を与えて、忠誠心を確保し、戦時の従軍を約束させたのである。
 
 中央には、次に述べるイエニチェリを中心とする常備軍がいた。しかし、ひとたび戦争になると常備軍のほかに、多くの兵員を動員することが必要であった。現実に、ティマール制による兵力は、総数で最大10数万人に達し、数のうえでは常備軍をしのいだのである。
 
 しかし16世紀の後半から、オスマン政府は、ティマール制に代えて、徴税請負制を採用していく。これは、度重なる遠征の負担に耐えきれず、地方騎士の中には、ティマールを手放すものが増えてきたからである。政府はイスタンブルや大都市で、各種の徴税権を公開競売に付した。大都市で落札した徴税請負人(官僚、軍人、ウラマー、その家族など)は、徴税権を地方在住の有力者に転売した。
 
 このような徴税請負制を権力基盤として、地方名士(アーヤーン)が勃興していく。徴税請負権はやがて終身化し、アーヤーンは富を蓄積し、大土地を所有して、地方の官職を握る有力家系を形成していった。そして、バルカンやアナトリアでは、地方の社会秩序を左右する勢力となっていく。(「詳説世界史研究」p379~380)(「イスラーム世界の歴史的展開」三浦徹、放送大学p110~113)
 
Bイエニチェリ(新軍)の制度
 
 イエニチェリとは、スルタンの親衛隊として征服戦争で活躍した、オスマン帝国最強の歩兵軍団のことである。原初のオスマン軍団は、騎馬戦を得意とするトルコ系ムスリム戦士からなっていた。しかし、ティマール制のもと、征服地を与えられて暮らす彼らは、自立性の強い勢力となっていった。
 
 そこで、アッバース朝時代に確立したマムルーク(軍人奴隷)制度に由来する、奴隷出身者からなる、スルタン直属の親衛隊が、常備軍として創設された。その常備軍の中核をなすのが、歩兵のイエニチェリ(新軍)である。歩兵軍団イエニチェリは、当時の新兵器である鉄砲で武装し、のちにオスマン軍脅威のシンボルとなっていく。
 
 常備軍の構成と規模は、1609年で以下の通りである。騎兵から、歩兵や火器重視の方向へ、推移しているのが見て取れる。
    中核軍団
       イエニチェリ軍団    37,627人    
       騎兵軍団        20,869人
    補助軍団
       砲兵軍団         1,552人
       砲兵車軍団          687人
       鎧(ヨロイ)師軍団    5,730人
    ─────────────────────────          
       計            66,465人
     (注)鎧師軍団は、武具、武器の製作と修理、および工兵
 
 イエニチェリは軍装も先進的で、鎧や兜は着けず、白いフェルトの四角い頭巾と、毛織物の長衣を身につける軽装であった。彼らの行進と集団戦法はまた、軍楽隊の発達をもたらした。音楽が、戦闘における序破急のタイミングを知らせるだけではなく、戦意と団結心を高揚させることを、オスマンは見抜いていたのである。
 
 人類は昔から、音楽が人間心理に与える影響を知っていた。カトリックのグレゴリウス聖歌、スーフィズムの連唱(ズイークル)や、歌舞音曲(サマー)がよい例である。それを、軍事行動に応用したところに、新しい工夫があった。オスマンの軍楽隊は後に、西欧の軍楽隊の発祥にも大きな影響を与えている。
 
 イエニチェリの人員補充は、少年徴集(デヴシルメ)制度によって行われた。それら少年は、バルカン半島などの征服地から、キリスト教徒の10代の子弟が奴隷として集められた。その中から、容姿、才能、健康などの優れたものを選びだし、イスラム教徒に改宗させて、軍事訓練を施したのである。イスラム信仰の植え付けや、軍事訓練についてのノーハウは、既にマムルークに対する教育モデルを持っていた。純真無垢な少年達を、好みの色に塗り替えることは、極めて容易だったであろう。
 
 イエニチェリのメンバーは、現役中は結婚を許されず、軍務に励まなければならなかった。しかし、高い給料を与えられ、実力に応じて昇進が可能で、中には、軍団長や大宰相などの高い地位へ上り詰めた人物も出ている。かくて、スルタンへの強い忠誠心を持った軍団が生まれたのでであった。
 
 つまり、従来から強力無比であったイスラム軍団は、ここに来て、メンバー構成、教育方法、軍装、軍楽隊などで、更にモダンになった。それに加えて、軍の主力は騎兵から歩兵に組み換えられ、旧来の弓矢に変えて鉄砲大砲という新しい飛び道具で武装し、昇進の階段もモラル刺激的に明示されたのである。こうしてオスマン軍は、当時としては他の追随を許さぬ、最新のシステムを持つ軍団に生まれ変わったのであった。
 
 しかし、権力は腐敗しやすい。17世紀頃から、この特権集団の規律が緩み、しばしば反乱に近い事件を引き起こし、これがオスマン帝国衰退の原因の一つとなる。(前掲「ナビゲーター世界史2」P227~232)(「詳説世界史研究」p306~309)(「パクス・イスラミカの世界」p116~162)(「オスマン帝国」鈴木董、講談社新書、p201~202)
 
       ───────────────────────         
コーヒーブレイク
     
      ースルタンの結婚と宮廷小姓ー
 
 オスマン帝国のスルタンの地位は、まぎれもなくオスマン・トルコ系の人々によって担われた。そこには、先祖崇拝の遊牧民の伝統が、なお生き残っているように見える。しかし、スルタンの母親の多くは、非トルコ系出身者だった。当初のオスマン朝では、近隣のしかるべき君主の娘を、嫁に迎えるのが通例であったのである。
 
 ところがセリム1世以降は、大国化したオスマン朝に相応しい王家が、近隣には無くなってしまった。このため、後宮に入れられた、異教徒で異民族の女奴隷が、次代のスルタンの母親となっていくのである。勿論、後宮の女性達は、すべてイスラム教に改宗し、トルコ語を学び、ムスリム・トルコ人になっていた。このように、先ずスルタン自身が、非トルコ人との混血の上に、生を受けていた。
 
 それだけではなく、宰相、大宰相をはじめ、オスマンの枢要なポストにも、非トルコ系の人材が多く就任している。それは、次のような事情による。
 
 少年徴集制度(デヴシルメ)で選ばれた子供達にとって、もっとも栄達の道が開かれたのは、スルタンの宮廷奴隷(小姓)になることであった。異教徒で、どこの馬の骨か分からない少年たちにとって、宰相、大宰相になるもっとも近道だったからである。
 
 こうした小姓の供給源は、購入奴隷、帝国内外からの贈り物とされた子供、近隣の王侯からの人質、反乱者の子弟など様々であった。しかし、もっとも安定した供給源は、デヴシルメであった。その少年群の中から、容姿、知力、体格、将来性などの面で、もっとも傑出した者たちが、宮廷の係官によって選ばれた。そして、小姓としての任務を果たしながら、ムスリムとしての信仰と知識、オスマン人としての教養、官僚や武人として必要な知識や武術が教え込まれた。
 
 彼らは更に再選別されて、選に漏れたものは、常備騎兵軍団要員として外に出された。何度かの選別が繰り返され、残ったエリート中のエリートが、常時スルタンの身の回りの世話をする、最高のポスト群に昇進していった。彼らはその後、外廷の要職、県知事や州総督、宰相や大宰相などに栄転していった。勿論、イエニチェリ出身者との競争もあった。
 
 こうしてスルタンの側近として仕え、スルタンに気心が知られて、スルタンへの忠誠を誓った人物が、帝国各地に散っていった。それは、スルタンが専制支配と中央集権システムを構築するうえでの、人的ネットワークを提供するものでもあったのである。
 
 このように、オスマン朝の首脳や要職の多くに、非トルコ系の血が流入したことも、異種を抱擁する寛容なシステムの成り立ちに、大きく貢献したと考えられる。(「オスマン帝国」p204~229)(「オスマン帝国の解体」鈴木董、ちくま書房、p146~147)
 
       ───────────────────────         
 
Cウラマー(イスラム学者)の体制
 
 イスラムは、政教一元の世界であった。宗教上の規律や礼式だけでなく、人々の日常生活における倫理観や法律までをも、シャリーア(イスラム法)が支配したのである。シャリーアは、コーランやハディース(ムハンマドの言行録)に基づき、ウラマー(イスラムの学者)が、合意や推論によって制定した規範体系であることは前述したとおりである。更にシャリーアは、政治権力や支配の正当性ついての、淵源ともされていたのである。
 
 このように、政治、経済、社会全般をコントロールする、シャリーア形成者としてのウラマーの体制も、オスマン帝国では一つの完成型として成立したのである。(「オスマン帝国とイスラム世界」鈴木董、東京大学出版会p8~9)
 
 当然のことながらオスマン帝国は、自前のウラマー養成システムを持っていた。マドラサ(イスラム学院)が、主要都市に次々と建設された。特にイスタンブルに建設された学院群は、最高学府として位置づけられ、優れたウラマーを輩出した。
 
 ウラマーは、マドラサでイスラム諸学を修めたのち、マドラサの教授や裁判官(カーディー)の職を勤めながら昇進していった。その最高位が「イスラムの長老(セイヒュルイスラム)」であった。そしてウラマーは、宗教問題だけでなく政治・経済・社会問題すべてについて、ファトワー(法的見解)を出し、裁定を下した。またウラマーは、政治的・行政的権力とは別系統の、特別な階層秩序の中に位置づけられていた。その具体例を見ることにしよう。
 
 前述したように、地方組織の末端は郡であった。郡には、ウラマー出身の裁判官(カーディー)が置かれた。彼らは行政上の責任を負うと共に、シャリーアに基づく裁判も行っていた。地方の行政機構としては、郡の上に州や県があり、それぞれ総督と知事が置かれていた。しかしカーディーは、総督や知事とは指揮・命令の関係にはなく、相互補完・相互監視の関係になっていた。と言うのは、カーディーは、イスラム法官の全国的ヒエラルヒーの中に位置づけられており、その頂点には、イスラムの長老が立っていたからである。
 
 またウラマーは、一般的な社会問題についてファトワーを出しただけではない。重要な国事についても、強力な発言権を持っていた。例えば、オスマン帝国の最高意志決定機関は、前述したように、大宰相が主催する「御前会議」であった。その議事の内容は、大宰相が下した決定に従い、スルタンに上奏したうえで、帝国各地に法令や命令の形で伝えられた。これらの決定が、イスラム法上の正当化を必要とする場合は、イスラムの長老による、シャリーアに基づく法的見解によってのみ、正当化が可能であった。
 
 更に、オスマン帝国の最高の権力者スルタンの権威さえ、必ずしも絶対ではなかった。スルタンはシャリーア(イスラム法)の守護者であることが期待された。だから、シャーリアから逸脱したと見なされると、彼の支配の正当性は失われ、退任させられることさえ生じている。
 
 スルタンの退任についても、他の重要裁定と同様に、法的見解(ファトワー)として、ウラマーの頂点にいるイスラムの長老の名で出されたのである。しかも、シャリーアに基づいたファトワーには、誰も異議を申し立てることは出来なかった。
 
 では、そのイスラムの長老(セイヒュルイスラム)は、誰が任命したのであろうか。それはスルタンであった。しかし任命されると、唯一神アッラーの名において、スルタンの廃位を左右する存在になるのである。1612年から1922年までに在位した、23人のスルタンのうち、13人という多くのものが退位させられている。もっともこれは、前述したスルタンの育成システムに欠陥があって、スルタンの資質や能力そのものが劣化したこととも、当然関係があると思われる。(「オスマン帝国」p197~198)
 
X.インド、東南アジア、中国、中央ユーラシアのイスラム化
 
1.ムガル帝国(1526〜1858年)
 
(1)インドのイスラム化
 
 諸賢よ。歴史的に見てインドとは、およそ現在のインド、パキスタン、バングラデシュの3カ国の領域を含む。そのうちのインドは、圧倒的にヒンドウー教徒が多いが、その両脇にあるパキスタンとバングラデシュは、イスラム教徒が多い国である。何故そうなのかは、イスラム勢力がアフガニスタン方面から、何百年もかけてインドに進出し、その中でも特に、現在のパキスタンとバングラデシュ地域に定着したからである。
 
 インドにイスラムの影響が及ぶ端緒になったのは、8世紀のウマイヤ朝時代、西北インドまで領域を広げたことによる。やがて、前述したアフガニスタンに本拠を置くイスラム勢力、トルコ系のガズナ朝(10〜12世紀)と、イラン系のゴール朝(12〜13世紀)がインドに侵入して、イスラム化を進めた。
 
 その後、1206年、ゴール朝の武将であったアイバクが、インドのデリーで自立し、インドに本拠を置く最初のイスラム王朝を建てた。この王朝の君主(スルタン)には、アイバクを始めとして、軍人奴隷(マムルーク)出身者が多かったので、奴隷王朝と呼ばれている。
 
 以降、1526年にムガル帝国が成立するまでの300年間あまり、デリーを都とした5つのイスラム系王朝が北インドを支配し続けた。これらをまとめて、デリー・スルタン朝と呼んでいる。
 
 デリー・スルタン5王朝の名前は順に、奴隷王朝、ハルジー朝、トウグルク朝、サイイド朝、ロディー朝である。最初の4王朝がトルコ系で、ロディー朝だけがアフガン系であった。このデリー・スルタン朝の時代は、まだムスリムが少数であったので、多数のヒンドウー教徒に対しては、無理に改宗させたりせずに、寛容な政策が採られた。
 
 インドでのイスラム教への改宗は、神秘主義(スーフィズム)教団が主導した。それを容易にしたのは、ヒンドウー教におけるバクティ信仰である。この信仰は、ヒンドウー教の神々(シヴァ神やヴィシュヌ神など)に、「絶対的に帰依することを説き、楽器演奏や歌や踊りで、宗教的な恍惚状態を体験することによって、神々との神秘的合一を体得しようとする」宗教活動であった。
 
 バクティ信仰は、南インドで6世紀頃から盛んになり、知識を重んじる仏教には否定的であった。この信仰は、前述したイスラム教の神秘主義(スーフィズム)に、非常によく似ていることがわかるであろう。このバクティ信仰が、14〜15世紀頃、北インドに広まったことが、インドの民衆レベルに、イスラム教を定着させる要因となったのである。
 
(2)ムガル帝国の誕生と発展
 
 イスラム教が、インドに本格的に根付くのは、ムガル帝国というインド史上最大のイスラム帝国が成立した事による。
 
 1526年、ティムールの第5代目の直系子孫で、チンギス・ハンの血も引くと言われるバーブルが、デリー・スルタン朝最後のロディー朝の内紛に乗じて、デリーを占領し、ムガル帝国を建てた。ムガルという名前は、モンゴルの訛りで、インドでは中央アジア方面からの侵入者をこう呼んでいたのである。
 
 ムガル帝国の最盛期は、第3代アクバル帝から第6代アウラングゼーブ帝までの治世の、約150年間であった。
 
@ アクバル(在位1556〜1605年)の時代
 
 第2代目皇帝が、アフガン人との戦いに敗れて、帝国は中断した。しかし、その子のアクバルが、ムガル帝国を再興した。13歳で即位した当時、政権は不安定であった。だが、優れた補佐役に恵まれて、約50年間の治世の間に、ヒンドウー教徒のラージプート諸国をはじめ、敵対する勢力を討ち、帝国の版図を、デカン高原の一部を含む北インド全域に広げた。
 
 ここでラージプートとは、地方の権力者が「古代のクシャトリア(武士)階級の子孫」であることを誇って、自称した名前である。インドにイスラム政権が成立するまでは、インド史上の混乱時代が続いた。この間、ラージプート族出身であることを誇る諸侯によって、多くの地方政権が分立・抗争したので、7世紀半ば以降13世紀頃までを、ラージプートの時代と呼ぶこともある。
 
 アクバル時代の内政面では、州県制を採用して、中央集権的な官僚機構を備え、位階制、土地給与制に基づいて軍隊を編成し、土地測量を行って税制を確立するなど、種々の改革を行って帝国の基礎を固めた。また、首都をデリーから、すぐ南方のアグラに移している。
 
 宗教政策は寛容であった。インドの最大勢力はヒンドウー教徒であったから、イスラム国家のムガル帝国は、彼らと対立を続けることを避けなければならなかった。だから、非イスラム教徒に強いていたジズヤ(人頭税)を廃止し、ヒンドウー教徒の王女を妻に迎え、ヒンドウー教徒を高官や将軍に用いるなど、巧みな懐柔策によってインド統一を進めることに成功した。
 
 更にアクバルは、世界の諸宗教(ヒンドウー教、ジャイナ教、イスラム教、ゾロアスター教、キリスト教など)の折衷を自ら試み、皇帝を首長とする「神聖宗教」を創始したが、宗教的対立解消の目的は達成されなかった。
 
Aアウラングゼーブ(在位1658〜1707年)の時代
 
 第4代、第5代皇帝時代も、宮廷を中心に華麗なインド・イスラム文化が栄えた。第6代のアウラングゼーブ帝は、父親で前皇帝のシャー・ジャハーンを幽閉して、帝位に就いた。彼は、生涯の大部分を征服戦争に費やし、その結果、デカン地方も支配して、帝国の領土を最大にすることに成功した。首都を、アグラからデリーに再び戻している。
 
 しかし、彼は厳格なスンナ派イスラム教徒だったので、宗教政策は不寛容であった。非イスラム教徒をイスラム教徒に変えるのが、神から与えられた自分の使命だと信じていたようである。そして、同じイスラム教徒のシーア派や、ヒンドウー教徒を圧迫し、彼らの反発を招いた。アクバル時代に廃止されたジズヤ(人頭税)も、復活させている。
 
 また、長年の戦争、宮廷の浪費、経済政策の失敗などから、財政は窮乏した。そのため、財政の悪化→重税→反乱の頻発という悪循環に陥り、ムガル帝国の衰退が始まるのである。
 
 良好な関係にあったラージプートの反乱を招いただけではない。後述するシク教徒の反乱に加え、デカン高原西北部の山岳地帯で台頭した、マラータ族の反乱が起こった。マラータ族は巧みなゲリラ戦術で、ムガル軍を苦しめた。彼らは勢いに乗って、マラータ王国、やがて有力諸侯の連合国家(マラータ同盟)を建てている。
 
 アウラングゼーブの死後、反乱は更に拡大して、ムガル帝国の領土は急速に狭まった。反乱諸勢力は各地で地方政権を建て、インドはバラバラに分裂していく。それにタイミングを合わせたように、ヨーロッパ勢力が進出し、インドを更に衰退に追い込んでいくのである。
 
(3)ムガル帝国の社会と文化
 
 ムガル帝国時代には、インド亜大陸の各地に、都市が発達し商工業が栄えた。デリー、アグラ、ラホールなどは、政権の所在地であると同時に、大消費地、経済活動の中心地であった。地方の特産物の生産も増大したが、特に綿織物はインドの代表的な輸出品となり、アジア、ヨーロッパの諸国でもてはやされた。貿易によって大量の銀が流入したため、貨幣経済が発達し、貨幣給与の支給や地税の銀納化も行われるようになった。
 
 ヒンドウー文化、イスラム文化は、本来異質のものであった。しかし、ヒンドウー文化を基礎に、デリー・スルタン朝時代から流れ込んだイスラム文化が接触し、様々な面で融合した。特にヒンドウー文化に理解を示したアクバル以降、この傾向は強められ、インド・イスラム文化が成熟していった。
 
 宗教の分野では、シク教の成立が挙げられる。これは16世紀初めに、インド西北部パンジャーブ地方出身の、ナーナクにより始められた宗教である。ヒンドウー、イスラム両宗教の要素を混合したものである。シク教の教えは、偶像崇拝やカースト制度を否定するもので、ムガル帝国の迫害を受けながらも、パンジャーブ地方を中心に信者を増やした。19世紀には、シク王国を建てている。
 
 言語面では、現在のパキスタンの国語となっているウルドウー語の成立に、ヒンドウー、イスラム両要素の混じり合いが見られる。この言葉は、ヒンディー語をもとにして、イスラム教徒の使っていたトルコ語、ペルシャ語、アラビア語の語彙を、大幅に採り入れて出来たものである。
 
 建築物では、第5代のシャー・ジャハーン帝が、その妃のためにアグラに建てたタージ・マハールは、現在の観光名所でもある。20余年の歳月をかけて完成された、左右対称の美しい白大理石の建物である。イラン・イスラム文明の様式に、インド建築の手法を加えた建築様式になっている。
 
 絵画では、ムガル絵画とラージプート絵画が代表的である。前者は、ムガル帝国の皇帝の保護を受けて発達した細密画(ミニアチュール)で、宮廷風俗、肖像画、歴史画などに優れた作品が多い。後者は、ラージプート族諸王の宮廷の保護を受けて発達し、ヒンドウーの神々や、庶民の生活を描いたものが多い。いずれも、インド伝統の画風に、イランの画風が混ざり合って成立した。(「ナビゲーター世界史2」p233~240)(「詳説世界史研究」P310~312)
 
2.東南アジア諸島部のイスラム化
 
 前述したように、イスラム教は都市・商人の宗教と言われる。イスラム世界では商人の活動が目覚ましく、早くからイスラム教徒の大商業圏(イスラム・ネットワーク)が作られた。
 
 東南アジア諸島部のイスラム化のきっかけも、8世紀頃からのイスラム商人による貿易活動であった。中国では唐の時代から、陸路(シルク・ロード)と並んで、広州や泉州を拠点とする、海の道での交易が盛んになったことは前述した。この時代、中国でアラビアやインド方面との海上貿易を行ったのは、主にアラブ人ムスリムであった。彼らは当然、その海路上にある東南アジアにも立ち寄ったから、それがきっかけになって、この地域にイスラム教が伝わり始めたのである。
 
 東南アジアでのイスラム化が本格化したのは13世紀以降のことである。その理由の一つは、13世紀にモンゴル帝国(元)が、東南アジア方面への侵略を行い、その衝撃で、それまでのヒンドウー教、仏教王朝が倒れて、新しい王朝が各地に建てられたことによる。しかし、最も大きな理由は、この13世紀に、北インドにデリー・スルタン朝が成立し、それと共にイスラムの神秘主義教団(スーフィー)がインドに広まり、それが東南アジア方面に向かって、盛んな布教活動を行ったことである。
 
 そして、14世紀末に建国されたマラッカ王国が、15世紀半ばにイスラム化し、東南アジア最初の、本格的なイスラム教国になったのである。この王国は、マラッカ海峡を扼(ヤク)する場所に位置しており、インド〜中国間の最重要貿易ルート上にあったから、イスラム教の影響を受けたのは当然であろう。東南アジアでは、国王の改宗が一般民衆の改宗を導くというパターンがあり、マラッカも例外ではなかった。
 
 また、16世紀にはスマトラ北端にイスラムのアチェ王国が生まれ、16世紀末には、ジャヴァ島東部に、今までのヒンドウー教国に代わって、イスラムのマタラム王国が成立した。これらの王国は、ヨーロッパ、アジア諸国の商船を迎え、胡椒などの香辛料貿易で栄えた。
 
 このようにして次々と、現在のインドネシアから、ボルネオ、セレベス、フィリピン南部(ミンダナオ島など)方面まで、イスラム化が進行した。この時代における東南アジアのイスラム化の結果 、インドネシアは現在、世界一イスラム教徒の多い国となっている。
 
 しかし、16世紀にマラッカ王国はポルトガルに占領された。18世紀になると、アチェ王国やマタラム王国は、オランダの支配に組み込まれてしまった。(前掲「ナビゲーター世界史」p240~242)(「詳説世界史研究」p314)(「イスラム教の本」p159)
 
3.中国のイスラム化
 
 イスラム勢力が、中国を政治的に支配することはなかった。しかし、中国とイスラムは、様々な形で相互交流をしている。既に、中国からの文化的影響については述べたので、ここではイスラムの立場から、中国を眺めることとしよう。
 
(1)唐、南宋の時代
 
 イスラムと中国が最初に接触したのは、前述したとおり、751年、アッバース朝と唐の間で戦われた、中央アジアにおけるタラスの戦いである。イスラム軍の一方的な勝利となり、紙の製法がイスラム世界に伝わる契機となった。
 
 唐(618〜907年)の時代には、陸の道「シルクロード」を通じて、ムスリム商人が、唐の都長安に姿を見せている。またムスリム商人は、インド洋経由の「海の道」を通じて、中国南東沿岸にやってきている。広州、揚州、泉州などが貿易港として栄え、ムスリムをはじめとする外国人の居留地(蕃坊:バンボウ)も設けられていた。
 
 しかし、唐代に西方から伝わり流行した宗教の代表は、次の三夷教(サンイキョウ)であった。すなわち、ネストリウス派キリスト教(景教)、ササン朝の国教だったゾロアスター教、そしてゾロアスター教から生まれたマニ教である。イスラム教(回教)も、8世紀以降、ムスリム商人によって伝えられている。
 
 南宋の時代(1127〜1276年)になると、海上貿易は更に盛んになり、ムスリム商人の動きもそれに併行して活発化した。広州・泉州に加えて、寧波(ニンポー)が開かれている。また、蕃坊にはモスク(清真寺)も建設されている。
 
 南宋時代において、東西文化史的に重要なことは、この時代の中国で、印刷術、火薬、羅針盤が発明・改良されたことである。これらの技術は、ヨーロッパ・ルネサンスの三大発明と言われるが、中国での実用化の方が数百年も早かったのである。これらは、その後イスラム世界を経由して、ヨーロッパに伝わっていった。(「中国の歴史6」気賀澤保規則、講談社p223~232)(「中国の歴史7」小島毅p328~337)
 
(2)元(ゲン)の時代(1271〜1368年)
 
 中国での東西交流が、有史以来もっとも盛んになったのは、元の時代である。元は、モンゴル高原にいたモンゴル人が、中国に攻め込んで建てた国である。モンゴル人達は中国の元だけでなく、中央ユーラシア全域に広がり、世界史上で最大規模の大帝国を建てた。中央アジアや中東地区における、モンゴル人とイスラムとの出会いについては、先述したとおりである。
 
 元は多民族複合国家であった。厖大な人口を本格的に統治するためには、モンゴル人だけに頼る支配では、間に合わなかった。だから、政権中枢では、モンゴル伝統の側近政治が行われたが、官僚機構は唐時代のものをそのまま継承した。そして、重要なポストには、能力に応じて、モンゴル、ウイグル、キタイ、タングト、ムスリム、漢人などを登用した。
 
 また元は、遊牧軍事力を基盤とする政権でありながら、農業ではなく通商を基軸とする通商経済国家でもあった。首都の大都(現在の北京)と、江南の杭州、揚州、泉州、広州や渤海湾の天津との間は、海運と大運河による水運で結びつけられた。かくて大都を中心として、北のシルクロードと南の「海の道」を連結・一体化した、ユーラシアを循環する、空前の陸海の運輸・交通システムが築かれたのである。
 
 そうした経済運営の主軸になったのが、ムスリム商人と、ムスリム出身の経済官僚たちである。先ず、徴税・財務機能は、ムスリム商人に任された。また各地の拠点都市や、交通・物流の要衝には、必ずムスリムの経済官僚が配置された。典型例を挙げるならば、財務長官として長期にわたって活躍した、アフマドはムスリムであった。
 
 ムスリム達は、海上貿易の基地であった南東部海岸に集住していたが、現地人でイスラムに改宗するものも多かった。ムスリム化した華僑が、14世紀から、東南アジア各地の港湾都市へ進出する現象も起こっている。またムスリム達は、金銀鉱山をはじめとする雲南開発プロジェクトに、ウイグルと共に、数千人規模の単位で、かなり頻繁に幾度も入植している。ウイグルの殆どが仏教徒であったが、次第にイスラムを信奉して、その結果雲南地方は、現在でも中国有数のムスリム地帯になっている。
 
 元時代における、中華本土へのムスリム大量移住は、100万ともそれ以上とも言われる。現在の、800万から1000万にも及ぶ、回族(イスラム教徒)の、直接の源流となった。(「中国の歴史8」杉山正明、講談社、p308~356)(「大モンゴルの世界」杉山正明、角川選書、p269~296)(前掲「ナビゲーター世界史2」p91~175)
 
(3)明の時代(1368〜1644年)
 
 明(ミン)は、元を追い払って漢族が建てた王朝である。元時代から一変して、海禁政策が採られ、中国人の貿易や海外渡航が禁止された。これによって、活発な東西交流が途絶えたのは言うまでもない。これは、倭寇(ワコウ)という日本の武装集団が、中国東岸各地の港を襲ったからである。あとでは、中国人の海賊も倭寇に加わっていく。
 
 海禁政策は鎖国とは違い、外国との交流を国家が独占する政策で、特定の貿易港を決めて、そこでの朝貢貿易しか認めないというものである。ここで朝貢貿易とは、「周辺諸国が中国皇帝を慕って、挨拶の品物を持ってくるから、皇帝様も中国の優れた品物を、恩恵として与えてあげる」という考え方に基づくものである。
 
 ところが、第3代の永楽帝(1402〜1424年)の時代に限って、鄭和(テイワ)を提督とする艦隊を、7回南方海域に派遣している。乗組員2万4千人、艦船数百からなる巨大艦隊であったが、目的は各国に朝貢を進めることであったようだ。
 
 なお鄭和は、雲南出身のムスリムで、永楽帝の宦官として仕えたことを付け加えておこう。鄭和の艦隊は、東南アジア、インド洋、ペルシャ湾にも至り、部下の一部はメッカに巡礼したことが記録に残っている。乗組員にもムスリムがいたのである。永楽帝や鄭和が亡くなると、明は、再び内弁慶の海禁策に戻っている。
 
 16世紀になると、ポルトガル人、やがてスペイン人やオランダ人がやってきて、ヨーロッパのアジア蚕食が始まっている。逆にムスリムの表だった活動は、東アジア史の舞台から消えていく。(「中国の歴史9」上田信、講談社、p132~156)
 
 続いて、東北地方のツングース系女真族が建てた、清の時代(1616〜1912年)となる。清王朝も、解禁策を採った。この時代における中国内地のイスラムついては、スーフィズム(神秘主義教団)が、清朝の支配に対して反抗し、凄まじい弾圧を受けたことを述べておこう。そして、辺境地区に追いやられている。(「イスラームの歴史2」p72,85)(「イスラム原理主義がすべて分かる本」小滝透、講談社p193)清朝は、強大な国家として栄えたが、19世紀以降、ヨーロッパ勢力に半植民地化されていく。
 
4.中央ユーラシアのイスラム化
 
(1)中央ユーラシアの4ハン国
 
 モンゴル高原のモンゴル人達が、13世紀の前半、中華本土に元を建国し、更にユーラシア全域に広がって行ったことは前述した。ここで言う中央ユーラシアとは、西はクリミア半島からカフカス、ヴォルガ・ウラル地方、西シベリア、カザフ草原、そして東は、現在の中国新疆(シンキョウ)を含む中央アジアのオアシス地域に及ぶ、広大な地域を指している。諸賢も、地図を広げながら、読み進めていただきたい。
 
 モンゴル人達が、中央ユーラシアに建てた国は、以下の4つである。すなわち、
1)チャガタイ・ハン国(1227〜14世紀後半)・・・天山山脈北麓のイリ川流域か  ら、サマルカンドを中心とする中央アジアまで
2)オゴタイ・ハン国(1225〜1310年)・・・モンゴル西部のジュンガル地方。  後で、チャガタイ・ハン国に併合された。
3)キプチャク・ハン国(1243〜1353年)・・・南ロシア地方
4)イル・ハン国(1258〜1353年)・・・イラン地方
 
 以下、この中央ユーラシアの地において、イスラムがどのようにして誕生し、どのように生きていったのかを概観しよう。
 
(2)4ハン国のイスラム化
 
 モンゴル人が4ハン国を建てた地域の多くには、既に9世紀以降、トルコ人が広がっており、そのトルコ人達がイスラム化したことは前述した。モンゴル人は、もともと祖先崇拝で、アニミズム信仰の遊牧民であった。その中で彼らは、「天」への素朴な信仰を持ち、多くの宗教は天への信仰では共通すると考えていたので、どの宗教も平等に寛大に扱った。(「大モンゴルの世界p103~104)
 
 モンゴル人達が、征服したトルコ人達と隣接して暮らすようになると、次第にイスラム化していく。先ず、チャガタイ・ハン国がイスラムを保護した。キプチャク・ハン国もそれに続いた。イル・ハン国は、やや時間はかかったが、第7代の国王自らがイスラム教に改宗して、これを国教とした。
 
 やがて、チャガタイ、イルの両ハン国は、ティムールにより征服されている。しかし、ティムール朝(1370〜1507年)も同じくイスラムの国であった。このように、モンゴル人の建てた国がイスラム化した理由は、トルコ人について前述した理由が当てはまると共に、周辺諸国が豊かなイスラムの国であり、国交上も交易上も好都合だったからだと言ってよかろう。(「大モンゴルの世界」p189~229)(「詳説世界史研究」p139~148)
 
Y.ヨーロッパ進出の衝撃
 
1.キリスト教とイスラムの勢力均衡
 
(1)イスラム優勢の時代
 
 イスラムは、7世紀に、文明世界の辺境であったアラビア半島に生まれた。それ以降、イスラム勢力は、ひたすらに膨張を続けた。その様相については、今まで詳述したが、その流れを大づかみに振り返っておこう。特に、今後問題になっていくヨーロッパとの関係を、少しく丁寧に読み解くこととしたい。
 
 東方への膨張としては、7世紀にササン朝ペルシャを滅ぼしている。ササン朝は、ゾロアスター教の信仰を中心として、イラン伝統文化によって支えられた巨大帝国であった。征服地の人々は、税金さえ払えば従来の信仰を許してくれるイスラム勢力を、大した混乱もなく受け入れた。イスラムは、征服地を支配するに当たって、信仰を金で買うシステムを持っていたと言ってよかろう。
 
 こうして、軍事征服だけでなく、民心の掌握にも成功したのである。この成功は、イスラム勢力に大きな自信を植え付けた。この自信を背景に、イスラムはその後、中央アジア、インド、東南アジアへと勢力圏を広げていった。イスラムは商人の宗教である。勢力圏の拡大には、イスラム商人が大いに力を発揮した。彼らは更に、ユーラシア東端の中国にまで、陸海双方の商業路を広げていったのである。
 
 東方への交通・商業路を広げていった反作用として、北アジアのモンゴル勢力にイスラム中央は攻め込まれ、一時はその支配に服したこともあった。しかしイスラムは、その巨大モンゴル勢力さえも包み込み、モンゴルの支配者達をイスラム教に改宗させてしまったのである。
 
 いわばイスラムは、異民族や異教徒との共存を図るシステムを持っていたと言ってよい。ヨーロッパが進出してくる以前、イスラム圏には、民族や宗教の違いを原因とする紛争は、基本的には存在しなかったと言ってよかろう。
 
 ところが、西方ヨーロッパのキリスト教世界との対峙となると、状況が一変する。イスラムが、ヨーロッパ世界と最初に接触したのは7世紀である。その時、イスラム軍は、ビザンツ(東ローマ)帝国から、エジプト、シリアなどを奪っている。その結果、キリスト教圏の重要な教会(五本山)のうち、ローマとコンスタンチノープルを除く、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの3教会は、イスラムの勢力下に入ってしまった。
 
 だが、信仰を金で買うイスラムのシステムは、キリスト教徒にも適用された。だから、キリスト教徒も共存を許され、エルサレムなどへの聖地巡礼も、禁じられることはなかったのである。しかし、高い文化を誇っていたビザンツ帝国の人々は、アラビアの文化果つる辺境からやってきた田舎者にしてやられたのは、どうにも我慢が出来なかったのだろうか。同じ神を尊崇する兄弟一神教でありながら、全くそりが合わなかった。と言うよりもキリスト教には、他宗教と共存する発想やシステムが、そもそもなかったのである。
 
 だから、イスラム勢力のセルジューク朝に、アナトリア(小アジア)を奪われると、ビザンツ側は過敏に反応した。11世紀末、ビザンツ皇帝はローマ教皇と図って、全ヨーロッパの総力を挙げた十字軍を起こしたのである。そして、「聖地エルサレムへのキリスト教徒の巡礼者が、セルジューク朝に迫害を受けている」と、偽りの錦の御旗をでっち上げた。前後7回、200年に及んだ十字軍は、結局失敗に終わっている。
 
 特に、西欧キリスト教世界を震撼させたのは、1435年、イスラム勢力のオスマン帝国による、ビザンツ(東ローマ)帝国の滅亡であった。東西に分裂していたとはいえ、ビザンツ帝国は西ヨーロッパと同じキリスト教を信じる同胞である。それがイスラムに滅ぼされたのであるから、恐怖と憎悪に満ちた目で、イスラムを眺めたのは当然である。
 
 オスマン帝国は更に、バルカン半島を制圧してハンガリーまでを領土とし、また黒海周辺を支配下に置いただけでなく、地中海の制海権まで手中にしている。1529年には、オーストリアの首都ウイーンを包囲し、あわや陥落寸前まで追い詰めている。
 
 一方、オスマン帝国はイスラム世界の覇者となることも狙った。マムルーク朝を滅ぼし、サファヴィー朝から領土を奪うなど、イランを除く中近東のほぼ全域を支配下に置いた。カリフを保護下に置くと共に、聖地メッカ、メディナの保護権も手に入れている。かくて狙い通り、スンナ派・イスラムの中心的役割を担うことになる。
 
 このように見てくると、16世紀までのイスラム勢力とキリスト教勢力の関係は、圧倒的なイスラムの押せ押せムードであった。もっとも、イベリア半島ではやや事情が違っていた。イベリア半島を、イスラムが支配下に置いたのは8世紀である。キリスト教世界では、十字軍が始まる11世紀以降、イベリア半島を取り戻そうという、レコンキスタ(国土回復運動)が始まる。そして、次第にイスラム勢力を追い詰め、15世紀末には完全追放に成功している。そしてこれが、キリスト教勢力の反撃の糸口となるのである。
 
(2)イスラム勢力衰退の要因
 
@衰退の端緒?第二次ウイーン包囲
 
 16世紀以降、イスラム世界を代表する王朝は、オスマン帝国であった。またオスマン帝国は、ヨーロッパと国境を接し、直接的な交流・対立があったという意味でも、イスラムのヨーロッパと対面する最前線であった。だからここしばらくは、キリスト教ヨーロッパとイスラムのせめぎ合いを、ヨーロッパ対オスマン帝国という図式で捉えることとしよう。
 
 オスマン帝国が衰退する端緒となったのは、通説では、1683年の第二次ウイーン包囲からであるとされている。オスマンの作戦は見事に失敗し、オーストリア側に押し戻された。そして、領土のハンガリーなどを失っている。オスマン帝国としては、初めて経験する領土の喪失であり、政治的にも心理的にも大きなダメージを受けている。
 
 心理的にという意味は、次のようなことである。イスラムは、単なる宗教ではなく、政治・経済・社会全般を包摂するシステムである。だから、キリスト教ヨーロッパに対して、オスマン帝国が政治的・軍事的優位を保っている間は、そのことがイスラムの優越性・正当性を示すのだと考えられていたのである。逆に、政治・軍事面で劣位になると、それを支える経済・社会・文化など、イスラムと言うシステム全体の、相対的地位低下と感じられ、宗教としての自信さえもが、揺さぶられる結果となっていくのである。
 
 歴史的事実としては、次のように言うことができよう。第二次ウイーン包囲の失敗を機に、それまで急膨張していたオスマンの領土は全く広がっていない。それどころか、南下政策を進めるロシアに、黒海北岸への進出を許している。またそれ以降、領土の縮小傾向は続くのである。
 
 しかし、オスマン帝国はしぶとかった。膨張のスピードに比べ、縮小のスピードは遙かに緩やかであった。そして、意外と長期にわたる高原期を続け、オスマン研究者をして、理由を探すのが難しいと言わしめるほどの、長命を保つのである。
 
 オスマン帝国自身が、ヨーロッパの蚕食という事実を突きつけられ、その危機を自らのものとして受け止め、理念的にもイスラム教の問題として反省し、また、政治や軍事の実際面でも本格的な改革に乗り出すのは、19世紀に入ってからのことであった。それまでは、「オスマンの平和」と呼ばれる文化の爛熟期を過ごし、スルタンは贅沢三昧に明け暮れたと言っても過言ではなかろう。
 
 このように、キリスト教ヨーロッパとイスラム世界間のバランスが、キリスト教サイドに傾いたこと、それが第二次ウイーン包囲の失敗を機としたことは確かである。しかし、両勢力の勢力逆転の萌芽は、それよりずっと早くに見て取れるのである。
 
A世俗が教会から開放されたヨーロッパ
 
 イスラムは、いわば政教一致のシステムである。キリスト教世界においても、ビザンツ帝国は政教一致であったが、西ローマ帝国の政教は分離していた。そして、ギリシャ正教のビザンツ帝国は、キリスト教世界としては幸いなことに、15世紀、オスマン帝国によって滅ぼされた。かくて政教一致体制は、キリスト教世界から消えた。後には、政教分離を旨とする、カトリックの西ヨーロッパだけが残ることになったのである。
 
 だが、政教分離のカトリック世界においては、政治的権力と宗教的権威が、しょっちゅう取っ組み合いの喧嘩をしていた。端的には、皇帝や国王とローマ教皇との間の確執であった。組んずほぐれつ、上になったり下になったりの繰り返しで、15世紀頃までドタバタは続いた。それと友連れで、神学上でも、理性と信仰のいずれに重きを置くかが、論争になった。
 
 それらに、一応の区切りを付けたのが、14〜15世紀のルネサンスである。神を中心とする世界観から、人間を中心とする世界観への、扉が開かれた。科学上の三大発明として、火薬・活版印刷・羅針盤が生まれ、海外進出など近代を開く契機となった。また天文学が生まれ、教会唱導の天動説が崩れて、人々の中には自由な価値観が生まれ始めていた。
 
 しかし、まだまだカトリックの権威は強く、人々の生活や考え方は、教会に縛られる側面が強かった。それを打破したのが、16世紀の宗教改革である。ルターは、「信仰のみが魂を救う」とし、教会や聖職者は不要だと言わんばかりの、大胆な教説を唱えた。プロテスタントの自由な発想は、人々の思考を更に柔軟にし、自然科学の研究も急速に進んだ。
 
 16〜17世紀のカトリックとプロテスタント間の宗教戦争を経て、17〜18世紀には、完全に政治が宗教より上位になった。また、17〜18世紀には啓蒙思想が興り、理性・合理主義の立場から、旧い権威や制度が批判された。
 
 他方ヨーロッパ勢力は、15世紀末から海外進出を積極化させた。先ずポルトガルとスペイン、その後オランダ、フランス、イギリスなどが続いていく。新大陸についてはいち早く、17〜18世紀の間に殆どを武力によって植民地化した。
 
 アジアには諸々の帝国があったために、最初はおずおずと、おこぼれ頂戴の姿勢で進出した。しかし、オスマン帝国が与しやすしと見られ始めた18世紀以降、ヨーロッパ勢は、アジアの各地に遠慮会釈なく殴り込んだ。こうした過程で、ヨーロッパ各国は重商主義を進め、植民地域からの収奪により、厖大な富を蓄積した。
 
 このようなヨーロッパの、政治・宗教・思想・植民地化・富の蓄積などの経緯を眺めると、次のようなことが理解される。すなわち、理性と信仰、政治権力と宗教的権威の間での、数世紀にわたる葛藤があったこと、そして、理性や政治あるいは世俗が、宗教から解放されて行ったと言うことである。
 
 これらが、ヨーロッパの科学技術の進歩を推し進め、豊かな財政力によって官僚制や常備軍を整備し、世界征服を仮借なく行い得た原動力になったと思われる。それが最終的には、市民革命、民主主義、国民国家の誕生、産業革命、資本主義、帝国主義などに繋がっていったのである。(ワイガヤ青春広場、「宗教と平和第二部−1ー一神教の展開(ユダヤ教とキリスト教)参照のこと」
 
Bイスラム世界の出遅れ
 
 イスラム世界においても、決して科学技術を粗末にしたとは思われない。7世紀のイスラム初期には、学問や文化を知らぬ遊牧の民であったのは間違いない。しかし、アッバース朝(750〜1258年)時代には高度な文明を持つ周辺の諸民族から、優れた文化遺産を学び取ろうとした事は前述した。自然科学についても、万物を創造した神の本質を知るために必要な学問であると、コーランなどが教えていると考えていた。そして、医学、数学、化学、地理学、天文学など多くの科学領域で、優れた学者を輩出している。
 
 しかし、社会のあらゆる分野が、価値判断の基準としてのシャリーア(イスラム法)と、ウラマー(イスラム学者)の宗教的権威で覆われていたので、社会はダイナミズムを欠いていた。世の中は急速に変化する。それに応じて、シャリーアも変化していかねばならない。ウラマーが迅速な即応体制を持っていれば、ダイナミズム不足の欠陥は、ある程度は解消されよう。しかし、権威を持つ体制は、どうしても保守的になりやすく、前例主義に陥りがちである。
 
 また、仮にウラマーの現実対応がスピーディであったとしても、あらゆる社会規範をウラマーが裁定するシステムは、一般大衆から見ると、他人任せの無責任体制である。人々は、思考停止に追い込まれがちで、前頭葉の活性化を欠き、アイデアや創意工夫、建設的な意見が庶民の中から出てくることは、殆ど期待できなかったと思われる。
 
 このようなイスラムが持つ体質について、イスラム自体の中から反省が持ち上がるのは、18世紀、本格的には19世紀になってからである。具体的な例は後述するが、時既に遅しの感が否めない。何故ならばヨーロッパは、14〜15世紀のルネサンス期には問題点に気づき、カトリックの持つ保守性・反動性に反発して、新しい理念のもと創造的社会造りを、自由闊達に始めていたからである。
 
 その時点で、抽象的な神学上の優劣はいざ知らず、生身の人間の生活に関する、現世的・物質的なこの世の仕組み作りのうえでは、両者間での勝負はついていたのである。1492年、レコンキスタ(国土回復運動)が完成して 、イスラム勢力はイベリア半島から追い出された。1571年にオスマン海軍は、スペイン・ベネツィア艦隊に敗れている。これらの事件は、オスマンの繁栄を、何ら脅かすには至らなかったと歴史家は言う。ひいては、オスマン帝国に代表されるイスラム世界も、傷ついていないと言うことになる。
 
 その通りであろう。しかし、キリスト教とイスラム教のオーラ比べという視点からながめると、決してそうは思えない。以下述べるように、彼我のバランスは、人々が気づかないうちに、早くから崩れ始めていたのである。
 
Cヨ−ロッパはイスラムに学んだ
 
 若き諸賢よ。但しここで、慎重に考慮すべきことが一つある。例えば、ヨーロッパ中世のスコラ哲学(神学)の基礎となったアリストテレスの哲学も、元をただせばギリシャからイスラム世界を経由したものである。また、ルネサンスの三大発明、すなわち火薬、羅針盤、活版印刷も、中国からイスラム経由で伝来した技術であった。
 
 イスラム世界における、学問的発達については前述した。ヨーロッパの科学や文化は、イスラム世界の科学や文化を土台にして成長したというのが、歴史的事実である。それらの情報伝達は、早くから始まっていたが、一大ブームになったのは、12〜13世紀の「大翻訳時代」のことである。シチリア島のパレルモや、スペインのトレドがその中心であった。(前掲「ナビゲーター世界史1」p214~15)
 
 イスラム文化圏に保存されていた、多くのギリシャ語、アラビア語の文献が、ラテン語に翻訳されたのである。ヨーロッパはイスラムの進出の驚き、科学や学問の格差に衝撃を受けて、イスラムから、ギリシャ・ローマの古典や、アラビアの進んだ学問を学んだのであった。
 
 18〜19世紀になると、逆に、イスラムがヨーロッパにとった遅れを取り戻すべく、多くの優秀なムスリムの若者達が、ヨーロッパに向かった。しかし、そこで彼らが目にしたものは、物理も化学も数学も、すべてがイスラムをオリジンとするものであることに、気づかされたのである。
 
 その現実を目の当たりにして、イスラムの若者達は色々な思いを秘めて帰国したであろう。しかし多くは、イスラム教の徹底こそが、イスラム世界の遅れを取り戻す最良の道だと主張するようになっていく。穏健なイスラム教原理主義組織は、殆どがこうした観点に立脚していると言ってよかろう。(前掲「イスラム教の本」p180)やや、頭をかしげざるを得ないが、いずれにせよ、イスラムが本当に、ヨーロッパの本質を探り当てて、自己改造の礎石に出来るかどうか、歴史が証明してくれるであろう。
 
 このように、国または政治集団は、数世紀をサイクルとして栄枯盛衰を繰り返す。軍事力・政治力という物質的・世俗的な力の構造だけでなく、宗教や文化という精神的なインフラストラクチャーともども、社会全体として大きく波打っていくのである。(ワイガヤ青春広場「西洋の発想は直線的、東洋の発想は循環的?」参照のこと)
 
 己の足らざる所をいち早く理解し、それを埋める努力をする人間集団こそ、優れた未来を作っていけると言えよう。
 
2.踏ん張るオスマン帝国(17〜18世紀)
 
 前述のように、ヨーロッパの進出により、衰退の気配いを示すイスラム勢力の代表選手として、オスマン帝国を取り上げた。ここでも、イスラムの最前線にあって、ヨーロッパ勢力に抵抗するオスマンの姿を、眺めることとしよう。
 
(1)カルロヴィッツ条約
 
 オスマン帝国衰退の直接的原因になった、1683年の第二次ウイーン包囲について、もう少し詳しく見ることにしよう。
 
 ウイーンはオーストリア王国の首都であった。オーストリア国王は、神聖ローマ帝国皇帝を兼ねており、ヨーロッパ全体を指導する立場にあった。だからウイーン攻撃は、ヨーロッパの心臓部攻撃の意味合いがあったのである。
 
 オスマン軍は、25万の兵士と火砲をもって攻めたので、ウイーンは極めて危うかった。しかしヨーロッパでは、その頃までに、オスマンにも負けない火砲中心の軍事技術が開発されており、また常備軍の整備も着実に進んでいた。更に、オーストリア国王の要請に応じて、3万のポーランド国王軍などの援助があり、激闘の末、オスマン軍は西欧連合軍の前に壊滅・敗走した。
 
 この勝利によって、キリスト教国は、オスマン帝国に対する恐怖感や劣等感を克服したようである。何故ならその後、西側からの攻撃が執拗に繰り返されているからである。オーストリアを始め、ロシア、ヴェネツイアなどがその急先鋒であった。そして1699年、イギリスとオランダの仲介により、ドナウ河畔のカルロヴィッツで条約が結ばれた。その結果、オスマンはハンガリーなどを失い、自国領土の喪失という屈辱を、初めて経験することとなる。別の条約では、ロシアにも黒海北岸の一部を譲っている。
 
 しかし、オスマン帝国も単に受け身の姿勢で、座視していたわけではない。ロシアやヴェネツイアなどへの反攻を行い、その後しばらくは領土的な後退はなかった。(「オスマン帝国衰亡史」p21~56)
 
(2)オスマン帝国内部の動静
 
@ スルタン(皇帝)
 
 国内にも様々な問題があった。最大の問題は、スレイマン1世から後、英邁なスルタンが現れなくなったことである。その原因が、育成システムにあったことは前述した。スルタンは国政の実務を、大宰相や総督、県知事に任せ放しにした。そして、贅沢三昧にふけり、国費を浪費した。
 
 無能なスルタンは、イスラムの長老(セイヒュルイスラム)が、ファトワー(法的見解)を突きつけて、退任させることは出来た。しかし、スルタンの積極的育成法は検討されぬまま問題児を排除する、いわば事後的な尻ぬぐいだけに終わった感がある。それに加えて、後宮(ハレム)の皇后や宦官が、スルタンの選任や国政に干渉し、混乱に拍車をかけた。
 
A大宰相
 
 スルタンの質が低下する中で、オスマン帝国を支えたのは、大宰相であったと思われる。時折ではあるが、極めて優れた人材が大宰相に就任し、国力の維持に奮闘している。
 
 例えば、ウイーン攻撃に失敗したメフメト4世は、快楽主義者で浪費家であった。「狩人メフメト」のあだ名の通り、国富を自分の道楽である大規模な狩りにつぎ込んで、省りみることはなかった。その時、抜群の大宰相2人が輩出して、改革と巧みな国家運営で、国庫は大いに潤っている。
 
 また、カルロヴィッツ条約後も、優れた大宰相が出ている。彼は、西側からの挑戦が休止した期間を利用して、徴税制度を見直し、軍隊の組織化と訓練を行い、新しい帆船艦隊の開発など、精力的な改革運動を行っている。
 
 しかし大宰相は、スルタンの気まぐれで、簡単に交代させることが可能であった。18世紀の初めのスルタンは、15年間に13人の大宰相を交代させている。凡庸なスルタンは、国家の禍の種だったのである。(「オスマン帝国衰亡史」p24~25,p49~50)
 
B西欧化
 
 大宰相の中には、ヨーロッパの優れた方式を導入する者も現れている。そのうちの一人は、上記のように13人の大宰相を辞めさせたスルタンの下で、後半12年を一人で乗り切った大宰相である。彼は、ウイーン、パリ、モスクワなどに外交使節を派遣した。そして派遣者たちには、通商条約の締結の傍ら、外国事情を視察させ、オスマンに適用可能なシステムについて報告させている。その次のスルタンの時代には、外国人専門家を招いて、そのアドバイスを求める、と言うところまで踏み込んでいる。
 
 これらの事実は、今まで自らのシステムの卓越を信じていたオスマン帝国の首脳が、遂に従来の中華思想を捨てて、西欧のシステムの優位を認め始めたことを意味する。
 
 先ず軍事の面で、西欧化がスタートした。フランスの将軍を招き、臼砲、手榴弾、地雷などのあらゆる種類の火器製造や、砲兵隊や工兵隊の育成の指導を求めている。そのお陰で、ロシアやオーストリアとの間で散発的に起こった戦争を、勝利で終わらせることさえ可能になったのである。しかし、西欧化を嫌うイエニチェリの反対によって、その改革にも歯止めがかかっていく。(「オスマン帝国衰亡史」p58~60,p70~73)
 
C イエニチェリ
 
 オスマン帝国常備軍の中核であった、イエニチェリについても変化が起こっていた。彼らは元来、忠実無比なスルタンの奴隷軍団員であった。命令一つで喜んで命を捨てる、西欧にとっては恐怖の精鋭部隊であった。
 
 しかし17世紀初めの頃から、規律も乱れ、帝国の存在を脅かすような存在になりつつあった。イエニチェリは様々な特権を持っていたから、自分たちの子弟を優先的に入隊させるようになった。いわば世襲である。イスラム教徒の父親が、息子をこの特権集団に入れて出世させるべく、キリスト教徒の家庭に寄留させるようなことまで起こっている。
 
 イエニチェリの集団生活も、拘束の少ないものとなった。彼らは結婚を許されて自分の家を持ち、戦争がないときは商業に従事することも可能になった。彼らは、新しい権利取得にはどん欲でありながらも、旧い権利は決して手放そうとはしなかった。スルタンの即位時には、祝い金が賜金として出たが、それも権利化させ、国庫が空の時でさえも暴動を起こして、無理矢理政府から金をむしり取った。
 
 彼らは、人数的にも約10万人に膨れあがり、軍事予算を止めどもなく増加させた。また、彼らは軍政の改革にも反対している。かくて19世紀初めに、力ずくで消滅させられるまで、ならず者軍団として厄介視され、帝国獅子身中の虫であり続けた。(「オスマン帝国衰亡史p43~45)
 
(3)オスマンの平和
 
 スレイマン1世(在位1520〜66年)の大版図獲得時代以降、約2世紀を、「オスマンの平和時代」と呼ぶことが出来よう。確かにその間、ウイーン包囲での敗北があり、散発的な小競り合いはあったが、この時代以降、トルコ共和国が誕生するまでの西側との戦争や民族紛争と比べれば、比較を絶するほど平穏であった。特に、1746年から68年にかけての22年間は、東西南北あらゆる戦線をとってみても、戦争がこれだけの長期間にわたって途絶えたことは、一度も経験したことがなかった。
 
 この「オスマンの平和」時代の、文化的華やかさにとどめを刺すのは、アフメト3世(位1703〜30年)の統治時代であろう。彼は、花、特にチューリップを愛好したので、彼の治世を「チューリップ時代」と呼んでいる。
 
 アフメト3世は、美意識の発達したスルタンで、詩や絵画、カリグラフィー(装飾的書字法)、とりわけ園芸に関心が深かった。そして、贅沢好きであった。国政は全く顧みず、自分の贅沢を支えるためには、大宰相に新税を作らせ財源に当てている。平和な時代だからこそ生きられた、為政者としては欠格のスルタン群の一人であった。
 
 こうしてオスマンの平和は、嵐の前の静けささながらにして続いた。しかし、オスマン帝国は尚武国家として生きてきた故であろう。長い平和で、国の体力は不思議なほど衰えていった。心ある大宰相は、それを押しとどめようと奮闘した。だが、売官、縁故者びいき、賄賂などの悪弊が、行政機関にはびこりだした。陸海軍の改革努力も、西欧化嫌いのイエニチェリが、時計の針を逆に回した。(「オスマン帝国衰亡史p58~60,p73~74)
 
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コーヒーブレイク
 
     ーチューリップ時代ー
 
 アフメト3世は、ボスポラス海峡に湾口を開く金角湾の奥に、素晴らしい離宮を建設し、庭園を噴水や滝で飾った。御前会議の他のメンバー達も、競ってスルタンを見習った。金角湾は、様々な宮殿や別荘で埋め尽くされた。
 
 帝国の高官や外国使節を交えた、絢爛豪華な園遊会や社交の場がしばしば展開された。美しい植え込みのある庭園に建てられた休憩所や東屋(アズマヤ)、諸々の飾り付けや夜の照明に、人々は感嘆した。祭りが開かれ、珍しい見世物、料理やデザートが人々を楽しませた。「笑い、遊び、この世の悦楽を心ゆくまで楽しもう。」と、アフメト側近の宮廷詩人が歌っている。
 
 アフメトが好んだチューリップは、もともとアナトリア野生種の花であった。その球根が、16世紀にヨーロッパに渡り、オランダ人が育てて、1200種以上の変種を作ったという。これをスルタンの宮殿(トプカプ宮殿)に植えたのは、アフメトの父であったが、この花に取り憑かれたのはアフメト自身であった。宮殿の庭園には、何万本ものチューリップが、種類別に所狭しと植えられた。
 
 色々な芸術的表現には、チューリップのモティーフが使われた。4月にはチューリップ祭りが開かれ、夜になると、ゆっくりと燃える蝋燭を、甲羅の上にのせた亀が、チューリップの畝の間を動き回った。照明は、花の色と映え合うように工夫されていた。(「オスマン帝国衰亡史」p60~66)
 
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(4)露土戦争と西欧列強の相互牽制
 
 「オスマンの平和」に終止符を打ったのは、ロシアとの戦争(露土戦争:1768〜74年)であった。ロシアはかねてから、ユーラシア全体で不凍港を求めて、南下政策を展開していた。オスマン帝国はそれを押さえるべく戦ったが、大敗を喫した。そして、黒海の北岸を譲り、また黒海内の自由通行権を与えた。露土戦争はその後も繰り返し起こり、1786〜92年の戦争では、クリミア半島を割譲している。
 
 しかし、オスマン領の簒奪が、一気呵成に進んだというわけではない。西欧各国は、いずれ劣らぬ膨張主義であり、地球上のあらゆる地域を、植民化しようとする野望に燃えていた。但し、お互いに腕力の拮抗するライバルであったから、相互に牽制し合う間柄でもあった。
 
 オスマン帝国は、自分の相対的弱体化を、次第に認識しつつあったから、外交術策を用いて、列強各国の利害対立をうまく利用した。それが、オスマン帝国の延命を助けた、一つの要因であったと言えよう。(「オスマン帝国衰亡史」p75~80)
 
3.東南アジア、インドへのヨーロッパ進出(18世紀まで)
 
 以上、18世紀までの、ヨーロッパ勢力とオスマン帝国との、対立の様子を眺めてきた。その同じ時期に、オスマン帝国以外のアジア諸地域におけるイスラムが、ヨーロッパの攻勢下で、どのような姿にあったのかを見ることとしよう。
 
 簡単に言えば、18世紀前半までは、ヨーロッパ勢力のアジアにおける植民地支配は、東南アジアに限定されていたと言ってよかろう。ヨーロッパ勢力のアジア進出の狙いは、香辛料であったから、その主生産地を押さえたのは、それなりに大成功であった。また、抵抗力の弱い新大陸(北米と中南米)は、ヨーロッパの軍事力の前にすぐ壊滅したが、アジアには強力な軍事力を持つ諸帝国があったから、弱小国しかなかった東南アジアが餌食になったとも言えよう。
 
 しかし、大きな堤も蟻の穴から崩れる。アジアの諸帝国にとっては、16〜17世紀当時の、ポルトガルをはじめとするヨ−ロッパ諸国は、取るに足りない微力な勢力であったに違いない。それに安心して、惰眠をむさぼっているうちに、ヨーロッパによる新しい攻勢の準備が、着々と進められていたのである。
 
 かくて、ヨーロッパが、本格的にアジア全体に対して牙をむくのは、18世紀後半になってからである。
 
(1)東南アジア
 
@ポルトガル
 
 15世紀末に始まり、16世紀に最盛期を迎える大航海時代に、アジア航路を真っ先に開発したのはポルトガルである。狙いは香辛料であった。しかしアジアには、複数の大帝国が併存し、それらをつなぐ交易網では、イスラム商人やインド商人が、海上貿易の中心となって活躍していた。
 
 だから、ポルトガルの領地獲得や居留地を見ると、ゴアやセイロン、マラッカ、マカオ、長崎などの、飛び石的な小国支配または港市の拠点化に限定されている。また貿易に関しても、在来の巨大な交易ネットワークの一部に、火器で無理矢理割り込んだに過ぎなかった。それでも、香辛料貿易では大きな利益を得ているのである。
 
 イスラム勢力との出会いとしては、先ず、16世紀初めにマムルーク朝らの連合艦隊を破って、西インド洋(アラビア海)の制海権を握っている。またそのすぐ後、東アジアでほぼ最初のイスラム国家であった、マラッカ王国を滅ぼしている。こうしたイスラム国家との確執も、その目指すところは、キリスト教に対立するイスラム国家打倒というよりも、香辛料交易のための通商路確保の一点に絞られていたと言えよう。そして、目的のモルッカ諸島(香料諸島)へも無事到達し、目的を果たしている。
 
 彼らはその他に、カトリック布教の使命を持っていた。交易拠点を発信地として、インド西海岸、東南アジア、日本、中国などをターゲットにした。ある程度の布教には成功しているが、歴史的な長期的視点で見れば、その成功は極めて限定的であったと言わざるを得ない。
 
 何しろ、人口の少ない小国ポルトガルである。既存の巨大な政治機構や宗教秩序を持ち、軍事力もそれなりに持っていたアジア諸国が相手では荷が重かった。新大陸のスペインがやったように、植民地として制圧し、イスラム教、ヒンドウー教、仏教などの信者を、キリスト教に強制改宗させることは、実力的に到底無理であった。
 
 ポルトガルはやがて、オランダに追われる身となる。
 
Aスペイン
 
 スペインの植民地支配及びカトリック布教の中心は、新大陸であった。弱い抵抗を排除し、伝染病をも味方に付けて、驚くべきスピードで目的を達成していた。しかし、マゼランが世界周航をしてフィリピンに立ち寄って以降、フィリピンにもスペインが進出した。16世紀に、ルソン島のマニラに拠点を作り、フィリピン諸島の植民地化と、カトリックの布教を進めた。
 
 しかし、南部のミンダナオまでは、カトリックの普及が進まず、現在でも南部の島々にはイスラム系の住民が多い。
 
Bオランダ
 
 16世紀末から17世紀にかけて、ヨ−ロッパ各国の商人達は、莫大な利益が期待できる東方貿易に参入する決意をした。そして、国家の支援を得て、国策会社としての東印度会社を設立し、次々にアジア航路を開いていった。ポルトガルの後を追って、インドネシア方面に進出したのがオランダである。
 
 先ずポルトガルを破り、次いでフランスやイギリスも寄せ付けず、モルッカ諸島を始め、主要な香辛料生産地を独占支配し、莫大な利益を上げた。17世紀半ばには、アフリカ南端に植民地を開き、インド航路の主導権を握った。また、ポルトガルを追い出した後は、日本や中国などとの交易でも潤っている。
 
 イスラムとの関係では、18世紀半ばに、イスラムのマタラム王国を滅ぼして、ジャワ島の大部分を支配することになった。ただ、イスラムにとって幸いなことに、オランダ人は実利的で商売一途であり、キリスト教宣教への情熱がなかったので、イスラム教徒は手つかずに残ることになった。
 
 その後オランダは、18世紀末頃までには、現在のインドネシア共和国のうち、ジャワを中心とする周辺諸島のおおかたを、植民地支配することになっていく。しかし、上述の宗教事情に変化はなかったので、インドネシアが世界最大のイスラム教国になる、素地が作られたと言ってよいであろう。なお現在、人口2億3800万のうち、88.6%、約2億1千万人がイスラム教徒である。(朝日新聞2/17/2011)(「ナビゲーター世界史3」p257~260)
 
(2)インドへのイギリス進出
 
 オランダに引き続き、17世紀、アジアに進出したのは、フランスとイギリスであった。しかし、両国ともオランダによって、香料諸島から締め出しを食っている。イギリスの商館員が虐殺された、香料諸島内でのアンボイナ事件はそのよい例である。そこで両国は、インドに狙いを付けた。
 
 しかしインドには、イスラム・スンナ派の強大なムガル帝国があった。ムガル帝国は、西欧と外交関係を持つ事など、全く関心の外であった。ヨーロッパ人は、自国商品を海外に運ぶ、運送業者に過ぎないと思っていたのである。だから、イギリスもフランスもこの広大な国を植民地支配できるとは夢にも思わず、貿易に専念したのである。そして、両国の競争は激烈さを増していった。
 
 インドからの輸出品は、木綿(キャラコ)を中心に、染料の藍、火薬用の硝石、中国産の茶などであった。ヨーロッパ側には、インドが欲しがる商品はなかったので、決済はすべて銀であった。ヨーロッパの銀の減少が憂慮され始めた頃、新大陸からの銀が、その埋め合わせをするようになっていった。
 
 その頃、フランス、イギリス両国は、インドだけでなく、北アメリカでも植民活動を有利にするために、何度も戦っている。ヨーロッパ大陸との戦争とも連動し、第2次英仏100年戦争と言われる戦いで、それは1689年から1815年の100年以上にもわたったのである。インドでも、1757年に、カルカッタの北方プラッシーで戦端が開かれている。イギリスがフランスに圧勝し、インドにおける貿易権を独占していく。(前掲「ナビゲーター世界史3」p110~114)
 
 そのイギリスに、更に追い風となり、商社活動に止まらず、インド植民地化への野望を膨らませたのが、ムガル帝国の弱体化であった。インド社会はもともと不安定で、争乱・反乱の芽が潜んでいた。宗教的にも、イスラム、ヒンドウー、シクその他が混在していた。社会階層も、カーストにより四分五裂していた。また各地には、有力諸部族が割拠していたのである。それを、強力なムガル政府が重しとなって、うまく押さえていたのであった。
 
 ところが、ムガル帝国の版図を最大にした皇帝アウラングゼーブ(位1658〜1707年)が、ムスリムの立場に立った不寛容な政策や、反ヒンドウー政策、反シク教政策などを行ったために、各地で反乱が起こり始めたのである。
 
 アウラングゼーブの死後には、凡庸な皇帝が続き、帝位争いに明け暮れて、国内への重しがきかなくなった。ガンジス川流域の諸侯は、次々に独立していった。西北方からは、ペルシャやアフガン勢力の侵攻が相次いだ。パンジャブ地方では、シク教徒が力を強めた。西部デカンでは、ヒンドウーのマラータ族が勢いを回復し、マラータ同盟を結成していく。南部デカンでは、ムガル帝国軍の将軍が独立を宣言し、ハイデラバード王国を建てた。更に南には、ムスリムのマイソール王国が強力になっていた。
 
 イギリスは、インドのこのような状況につけ込んで、植民地化を進めた。イギリスの、世界における植民政策は、「分割して統治せよ(divide and rule)」が常套手段である。インドにもそれを適用した。そして先ず、フランス軍を掃討したベンガル地方から始めた。イギリス軍は、インド人傭兵(シパーヒー:セポイとも)を、忠実な兵士に育て上げた。軍事費その他の経費には、支配する土地のインド人から徴税し、それを財源とした。イギリスの優れた艦船や火器は、インド側にとって大きな脅威であった。
 
 もはや貿易商ではなく、植民勢力に転化したイギリスは、先ず、マイソール王国を破って南インドを押さえた。次いで、ハイデラバード王国を保護下におく。更に、3次にわたるマタータ同盟との戦争に勝って、中部・西部デカンに支配権を確立した。こうして、18世紀後半の約50年の間に、インドはイギリスの操り人形に成り下がっていくのである。(前掲「詳説世界史研究」P310~312,p386~388)(「ナビゲーター世界史3」p252~54)
 
 一方、ムガル帝国は、止めどもなく衰退を続け、やがて、デリー周辺数平方キロにしか影響力の及ばない、一地方政権に転落てしまう。そして皇帝は、イギリスの年金受給者となり、その保護下に置かれた。
 
 また蛇足ながら、イギリスがオランダに香料諸島から追われ、インドに軸足を移さざるを得なかったのは、非常に幸運だった。何となれば、17世紀末からヨーロッパでは、香辛料の人気が下がり、代わりにインドの木綿の人気が高まったからである。その肌触り、涼しさ、洗濯のしやすさなどから、毛織物主体であったヨーロッパの衣類市場を、席巻したのである。(ワイガヤ青春広場「香辛料を中世ヨーロッパが欲しがった理由」参照のこと)そしてこの木綿が、イギリスで機械生産されることになり、産業革命をおこさせる商品として変身したことに留意しておこう。
 
Z.ヨーロッパに蹂躙されるイスラム
 
1.イスラムの内的覚醒
 
(1)3つの立場
 
 ヨーロッパの進出による衝撃は、イスラムの精神世界にも、覚醒を促さずにはおかなかった。18世紀の初めから19世紀にかけて、ムスリムの、特に知識人や支配層の間に、激震が走った。その震度は、軍事的・政治的な圧力が強まるのに比例して、大きくなっていった。その反応を一言で述べると、如何にしてヨーロッパ的近代に対応するかと言うことであった。だが、その対応の姿勢には、いくつもの考え方の違いがあった。
 
 しかし、考え方に違いはあっても、イスラムの社会的現実が、時代に合わなくなってきていると言う認識では、一致していたと言ってよかろう。だから、厳しくいえば、「イスラムそのものが時代遅れなのか」という問いかけに対する回答を、それぞれが迫られていたのであった。大きく言って、3つの考え方があった。
 
 一つは、従来のイスラム的な体制を護持し、その伝統を守ろうとする保守的な立場である。軍事や産業の近代化によって、危機を乗り切ろうとしたオスマン帝国の中にも、宗教的には保守派が多かった。彼らは、宗教思想においては伝統墨守主義であり、先人達の知的遺産に大きな価値を置いていた。永遠の教えであるイスラムが、時代遅れになるはずはないと信じていたのである。
 
 その対極にあるのが、もはやイスラムは、宗教としても文明としても役に立たないと見て、むしろ西洋化によって、新たな発展を得ようとする立場であった。彼らはイスラムという集合体ではなく、民族なり国家なりを拠り所として、自由主義、民主主義、民族主義など、様々な近代思想を受け入れようとしたのである。宗教は、個人の信条の問題として割り切られた。これが、トルコ共和国の成立に繋がっていく。
 
 以上二つの極の中間にあったのが、イスラムと近代とを何らかの形で、統合したいという立場であった。その場合も、近代にウエイトを置くか、イスラムを重視するか、のニュアンスの差があった。前者をイスラム近代主義、後者をイスラム復興主義と呼んでいるが、両者の区別は明確な線を引けるようなものではなかった。そして両者とも、政治や科学における劣勢原因を、ムスリム(イスラム教徒)たちがイスラムの正しい理解を欠き、誤った社会実践を続けたことに求めた。(「イスラームの歴史2」小杉泰編、山川出版社、p27~29)
 
(2)ワッハーブ運動
 現状を反省し、実践的な社会改革を推し進めようとする思想や運動は、18世紀に入ると、イスラム世界の各地で見られる。その代表的なものとして、ワッハーブ運動を取り上げよう。これは、アラビア半島で、イブン・アブドルワッハーブが起こしたものである。
 
 イブン・アブドルワッハーブは、「預言者ムハンマドの教えに帰れ」という、復古主義を主張した。そして、伝統への盲従を否定し、コーランやハディース(ムハンマドの言行録)に立脚し、時代に即応した解釈の営為(イジュティハード)が必要であるとした。
 
 彼の目から見れば、伝統的なウラマー(イスラム学者)は、体制の翼賛者か自己利益の追求者に堕していた。また統治者達も、自己の権力維持に汲々として、イスラムへの義務を怠っているとしか見えなかった。更に、スーフィズム(神秘主義)も、「逸脱」として強く否定した。
 
 この運動は、アラビア半島の豪族、サウド家の保護を得て拡大し、19世紀初頭にはメッカ、メディナを占領して、ワッハーブ王国を誕生させている。この王国は一時滅亡したが、何度かの再興運動の後、20世紀にはサウジアラビア王国として繋がっていく。(前掲「ナビゲーター世界史3」p246)(「イスラームの歴史」p6~9)
 
(3)レジスタンス運動
 
 18世紀の改革思想は、イスラム社会を内部から変革しようとするものであり、それまでの伝統に対する挑戦として現れた。ところが19世紀になると、ヨーロッパ列強の侵略が露骨になった。そのため、内部での改革運動は、外部に対するレジスタンスの組織化という側面を持つようになった。イスラム再生への願いが、反植民地主義の闘争と結びついたのである。
 
 様々なイスラム教団によるレジスタンス活動が行われ、特にアフリカでは、戦争という手段に訴えている。しかし、近代的な産業と軍事力を備えた列強と戦って、それを阻止する力は、どの教団にもなかった。そのため、イスラム復興の流れは、近代に対応した政治的・社会的運動にシフトしていくことになる。
 
(4)アフガーニーとその弟子達
 
@アフガーニー
 
 イスラム改革思想家の中で、19世紀もっとも有名なのはアフガーニー(1838〜97年)であろう。出自はよく分からない。彼は、イスラム世界の各地だけでなく、イギリス、ロシア、ドイツなど世界を駆けめぐる、革命的思想家として過ごした。その過程で、彼はヨーロッパの植民地主義に反対し、イスラム教徒の団結を説き、エジプトからアラブ諸国、イラン、トルコ、インドネシアに至るまで、大きな影響を与えた。
 
 アフガーニーの立場は、前述した類型よれば、イスラム復興主義と言うことになろう。彼は、聖典に依拠して、時代の実態に合ったイジュティハード(解釈の営為)を行うことを唱えた。そのためには、イスラムを近代の文脈で再定義し、独自の解釈により、新しい思想として確立する必要があることを主張したのである。
 
 またアフガーニーは、イスラム世界の総力を結集して、帝国主義に抵抗することを唱えた。それは一般に、パン・イスラム主義と呼ばれることが多い。それを実現するために、ウンマ(イスラム共同体)が信仰上の理念の域を出て、具体的な行動や協調によって連携する、実体的な存在にならなくてはならないと説いた。そしてこれは、後述するように、オスマン帝国のスルタン・カリフ制に影響を与えている。 
 
 更にまたアフガーニーは、既存の体制のままでは、植民地主義への抵抗も叶わないことを知っていた。そのため、オスマン朝などを内部から改革させようと、立憲主義と議会主義を主張したのである。
 
 このようなアフガーニーの名を不朽なものにしたのは、1884年にパリで、雑誌「固き絆」を発行したことであろう。それはアラビア語で書かれた、反専制、反植民地主義、パン・イスラム主義の雑誌であった。イスラム復興を唱える最初のプリントメディアであり、そこには、それまで誰も見たことがないような、近代思想としてのイスラムが語られていた。そして、19世紀後半に発達した、国際的な郵便網を活用し、広く各地に頒布されていったのである。
 
Aアブドウフ
 
 ムハンマド・アブドウフ(1849〜1905年)は、アフガーニーの一番弟子である。パリで師と共に、「固き絆」を発刊した。「固き絆」が名声を得たのは、アフガニーの思想の力と共に、アブドウフ の筆力に依るものといわれる。彼は諸国を巡歴したが、後は主としてエジプトで過ごした。
 
 彼の前半生は、レジスタンスの闘士や革命家などとしての、過激な行動で知られる。しかし後半生の彼は、理性と啓示との調和、宗教と科学の調和を基調とし、イスラム近代主義とイスラム復興主義を、融和する思想を展開した。
 
 そのような彼の経歴を反映しているのであろう。彼を慕った弟子達の思想分布は、いわゆる左翼と右翼が混在していた。また、多くの弟子の中には、思想家だけではなく、政治指導者やウラマーなどが含まれていた。20世紀前半を生きた彼の弟子達は、それぞれアブドウフの思想を継ぎ、西洋的な近代主義や自由主義、イスラム近代主義、イスラム復興主義などの道に、分岐していった。
 
B リダー
 
 ラシード・リダー(1865〜1935年)はアブドウフの弟子であり、アフガーニーとアブドウフ二人の思想を広めた。この3人は「イスラム改革のトリオ」と呼ばれている。
 
 リダーはシリア出身である。思想家であると共に、各地を旅行して取材するジャーナリストであり、国際会議を組織し、有力者に働きかけ、世論に働きかける活動家でもあった。彼は、短命に終わった「固き絆」の続きとして、「マナール(灯台)」を創刊した。マナールは、革新的なイスラム解釈のみならず、各地の情報を満載した。そして、「東はジャワから西はモロッコまで」イスラム世界に広く浸透した。
 
 リダーは、2人の師の改革思想を継承・宣布しただけではない。当時列強に分断されつつあったイスラム世界に、絶えず「ウンマ(イスラム共同体)」の意識を与え続けるべく、努力したことが注目される。
 
 この雑誌は、リダーが亡くなる20世紀前半まで、40年近く定期刊行された。この間に、オスマン帝国は消滅し、イスラム世界のほぼすべてが植民地化され、経済的にもヨーロッパに従属することになった。その間、マナールという「灯台」が吹き消されなかったのは、リダーのイスラム覚醒にかける執念だったのであろう。(前掲「イスラームの歴史2」p3~36)(「ナビゲーター世界史3」p251)
 
2.オスマン帝国の激動 
 
 18世紀後半、オーストリアやロシアの進出に押されて、オスマン帝国の弱体化が明らかになると、中近東全域へのヨーロッパ諸国の侵略が開始された。特に、民族複合国家であるオスマン帝国では、支配されてきた諸民族の、ナショナリズムによる独立運動が盛んになり、そこにヨーロッパ列強が利益を求めて介入したため、様々な問題が起こった。そして19世紀末にオスマン帝国は、「瀕死の病人」と呼ばれるようになっていく。これらの現象を包括的に、西欧各国は「東方問題」と呼んだ。
 
(1)諸民族の独立運動
 
 オスマン帝国の、統治能力の低下と共に、国内諸州は次第に、中央の統治に服さなくなった。そのような地方の不服従的な態度は、民族運動としても盛り上がり、独立運動にまで発展していくことになる。
 
@アラビア半島方面
 
 前述したように、ワッハーブ運動と結びついて、19世紀初頭、アラビア半島にワッハーブ王国が建設され、アラブ民族運動の中心となっていった。
 
A エジプト方面
 
◯ムハンマド・アリー
 
 18世紀後半、イギリスがインドへの植民地支配を強めるにつれ、その中継地としてのエジプトの地位が重要となった。フランスのナポレオンは、イギリスの進出をくじくために、1798年、自ら兵を率いてエジプトに遠征した。イギリスはオスマン帝国を支援して、フランスを屈服させている。
 
 イギリスが撤退すると、オスマン帝国から派遣されたムハンマド・アリーが力を得て、総督の地位を得た。彼はエジプトで、軍隊の近代化政策、商工業の育成などに成功し、オスマン帝国に勝る勢力に育て上げた。
 
 力をつけたムハンマド・アリーは、独立を求めて、オスマン帝国に2度戦いを挑んでいる(エジプト・トルコ戦争:1831〜33、1839〜40年)。アリーは、独立を勝ち取ることは出来たが、フランスやイギリスの介入を経て、英・仏に対して莫大な債務を抱え、内政干渉を受けることになった。(前掲「詳説世界史研究」p379~381)
 
◯ムハンマド・アフマド
 
 スーダンは、1820年、ムハンマド・アリー朝によって征服された。この北からの侵入者に対するスーダン人の抵抗を組織したのが、ムハンマド・アフマドである。彼は1881年に、自らマフディー(救世主)であることを宣言し、重税に苦しむ農民や、商人などを団結させ、イギリス・エジプト軍に対するジハード(聖戦)を繰り広げた。そしてこれに勝ち、1885年にマフディーの国家を樹立している。
 
 この国家は、アフマドの死後も、その権威による教団国家として続いた。しかし、フランスの横断政策を恐れたイギリスは、98年マフディー軍を破り、スーダンを統率下に入れている。(「詳説世界史研究」p382)(「イスラームの歴史」p104~105)
 
Bバルカン半島方面
 
○ギリシャ独立戦争(1821〜29年)の成功
 
 ナショナリズムがギリシャでも燃え上がり、独立運動は、1821年武力闘争に発展した。ロシア、イギリス、フランスは、東地中海への進出を狙って、ギリシャを支援した。またヨーロッパの人々は、ギリシャ文化に強い憧れを抱き、西欧諸国や民間人(イギリスの詩人バイロンなどが有名)からの独立支援もあり、ギリシャは独立に成功した。(前掲「詳説世界史研究」p345~346)(「ナビゲーター世界史3」p182)
 
○その他
 
 後述するロシア・トルコ戦争(1877〜78年)の結果、オスマン帝国支配下にあったバルカン半島の、ルーマニア、セルビア、モンテネグロが独立し、ブルガリアが自治領となった。
 
Cアルメニアの独立運動
 
 アルメニア人は、キリスト教・アルメニア教会派の信徒として、アナトリア東部に住み、独立運動を活発化させていた。19世紀末には、武力衝突も起こったが、オスマン帝国最後の領土であるアナトリア分割には、トルコ人の抵抗は頑強で、第一次大戦後も、アルメニア独立は否定されたままであった。
 
Dクレタ島30日戦争
 
 クレタ島には、多くのギリシャ正教徒が住んでいた。19世紀末、ギリシャの支援を得て独立戦争に突入したが、30日後、ロシアの仲介で休戦となり、オスマン帝国の宗主権は保たれた。しかしクレタ島は、ヨーロッパ諸国の国際管理下に置かれ、総督にはキリスト教徒が任命されて、自治が確立された。(「オスマン帝国衰亡史」p269~289)
 
(2)ヨーロッパ列強の侵略
 
@ロシア 
 
 ロシアは、18世紀後半から、不凍港を求めて南下し、オスマン帝国に様々な圧力をかけてきた。19世紀に入ってからも、ロシアとオスマン帝国との間には、繰り返し武力衝突が起こっている。またその都度、ヨーロッパ諸国、特に英・仏が利権を求めて介入している。その中の、主要な事件を見ることにしよう。
 
○エジプト・トルコ戦争(1831〜33年、1839〜40年)
 
 これは前述したように、ムハンマド・アリーの独立要求戦争である。ロシアは、オスマン帝国を助けて、この地域に進出しようとしたが、英・仏・オーストリアの干渉で、野望は叶えられなかった。
 
○クリミア戦争(1853〜56年)
 
 ロシアがオスマン帝国に対して、その域内に住むギリシャ正教徒の保護権を要求し、これをオスマン帝国が拒否したために、黒海北岸のクリミア半島を中心とした地域で、戦争となった。オスマン帝国を英・仏が支援したために、ロシアは大敗し、黒海に軍艦を浮かべることも、要塞を作ることも出来なくなった。18〜19世紀を通じて、オスマン帝国が戦勝国側に立った唯一の例である。
 
○ロシア・トルコ戦争(露土戦争:1877〜78年)
 
 オスマン帝国内の、ギリシャ正教徒の民族運動が弾圧されたことを口実に、ロシアがオスマン帝国に戦争を仕掛けた。英・仏などの支援もなく、オスマン帝国は単独で戦って敗れている。これによって、バルカン半島の、ルーマニア、セルビア、モンテネグロが独立し、ブルガリアが自治領になったのは、前述したとおりである。 
 
Aイギリス、フランスなど
 
 英・仏のオスマン帝国領への進出の様相は、諸民族の独立運動や、ロシアの南下政策の中で述べてきた。ここでは、エジプト、北アフリカに絞って述べることとする。
 
○エジプト方面
 
 ムハンマド・アリーが独立を得たエジプトは、19世紀後半から、英・仏への経済的従属を強めていった。
 
 1858年からは、フランスによってスエズ運河の建設が進められた。工事費の70%を負担したエジプトは、運河完成後、経済破綻に襲われた。そのため、エジプトが所有していた運河会社の株式は、イギリスに買収され、エジプトには厖大な借金だけが残った。こうして、エジプトに対するヨーロッパの内政干渉は、ますます厳しくなった。
 
 それに対して、アフガーニーやアブドウフに影響を受けたアラービ・パシャは、「エジプト人のエジプト」というスローガンを掲げて、国家再興運動を展開した。そして、1882年には、新憲法の発布に成功している。しかし、自己の権益侵害を怖れたイギリスは、軍事介入してエジプトを占領下に置いてしまった。これ以降エジプトは、イギリスによるアフリカ分割の基地となっていく。(前掲「ナビゲ−ター世界史3」p197~201,
p244~248)
 
○北アフリカ方面 
 
 北アフリカも16世紀以降、チュニジア、アルジェリア、リビアなどが、オスマン帝国の支配下に入っていた。それを実効支配していたのは、トルコ系の軍人であった。19世紀以降、ここに進出したヨーロッパ勢力はフランスである。
 
 アルジェリアでは、1830年のフランスによるアルジェ占領で、植民地化が進んだ。これに対して、ムスリムに推戴された司令官は、聖戦(ジハード)を呼びかけ抵抗した。しかしフランスは、徹底的な軍事鎮圧によって47年に降伏させ、植民地支配下に組み入れている。
 
 チュニジアは、1881年、フランスによるチュニスの軍事占領をきっかけに、保護領となっている。(前掲「詳説世界史研究]p382)
 
 リビアは、英・仏による分割の狭間にあったが、1912年にイタリアの保護国となっている。かくてオスマン帝国支配下の、北アフリカ全域の分割が決定した。
 
 なお、シリア、イラクなどのアラブ地域が植民地化されるのは、第一次大戦による、英・仏占領以降である。
 
(3)オスマン帝国の改革
 
 オスマン帝国も西欧の優位に気づき始めると、今までのプライドを捨てて、次第に西欧に学ぶ姿勢を見せ始める。先ずそれは、18世紀の前半、軍事技術の面から始まった。その成果は、ロシアやオーストリアとの、その後の散発的な戦争で実証された。
 
 しかし、政治制度・社会制度についての西欧化を考え始めるのは、18世紀も終わる頃である。そして、本格的に手をつけるのは、19世紀になってからであった。遅きに失したと言えよう。
 
 具体的には、以下に述べるような改革に手をつけると共に、国内産業の振興、鉄道網の整備などを進めていく。だが、スルタンの浪費と度重なる戦争は財政を悪化させ、前述したクリミア戦争(1853〜56年)のさなか、英仏の銀行から初めての借款を行った。その後、借款は繰り返され、総額は雪だるま式に膨れあがっていった。
 
 たまたま起こった 世界不況に見舞われる不運もあり、1875年、帝国は債務の履行延期を宣言し、事実上破産した。債権国の西欧列強は、帝国の財政を後見する組織、「オスマン帝国債務管理局」の発足をスルタンに認めさせた。そして、100人に上るヨーロッパ人専門家による、税収を担保にした債務返済の管理が行われたのである。(「イスラーム世界の歴史的展開」p124)(「オスマン帝国衰亡史」p194~222,p250)
 
@「新制」
 
 1768年から92年までの、2度にわたる露土戦争の敗北は、スルタンのセリム3世(位1789〜1807年)にも、国内改革の必要性を痛感させた。1791年に、22人の聖俗著名人に、オスマン帝国の改革について答申させた。そして、「新制」と呼ばれる西欧化の改革案を発表した。
 
 軍政を始め、税制、教育、地方制度など、数多くの改革項目が掲げられた。しかし、体制にしみついた偏見と因習は根深く、多くは実現できなかった。特に軍政については、西欧化を嫌うイエニチェリの反抗が大きかった。これを押し切るためには、次のスルタン、マフムト2世の登場を待たねばならなかった。
 
 マフムト2世は、イエニチェリの暴走を嫌うウラマーやイスタンブル市民を味方につけ、策略をこらして、イエニチェリ排除に乗り出した。武力攻撃や、相次ぐ処刑によって、数千人のイエニチェリを殺し、1826年、悪名高きイエニチェリ軍団は、名実共に消滅したのである。こうして、支配者を脅かす集団が無くなり、スルタンの地位は久々に安定した。
 
 マフムト2世は、大宰相の権限を分散して、省庁的行政部門(司法、財政、通商など)を設置し、スルタンへの権限を集中した。また、ティマール制を廃止し、西欧技術習得の各種学校を作り、オスマン初の郵便制度を作ったりしている。
 
Aタンジマート(恩恵革命)
 
 内政改革で特筆すべきものは、1839年のアブデユルメジト1世(位1839〜61年)の、ギュルハネ勅令に基づき実施されたタンジマート(恩恵革命)であろう。タンジマートとは、ロシア語のペレストロイカとほぼ同じ意味で、一連の改革運動のことを言う。
 
 これが恩恵革命と言われるのは、スルタンがこれらの革命を、上からの恩恵として行おうとしたからである。またギュルハネ勅令とは、トプカプ宮殿のギュルハネ庭園で発したからである。アブデユルメジト1世は、内外に対して開明的スルタンとして、統治することを示したのである。特に、ムスリム優位に不満を持つ国内の非ムスリムや、西欧化政策に懐疑的な西欧諸国に対する、申し開きでもあった。
 
 内容としては多岐にわたるが、スルタンは臣民の生命と財産を護ること、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の法的平等を擁護すること、陸海軍への徴兵を平等に行うことなどを謳っている。
 
 19世紀のオスマン帝国の改革としては、最も重要なものである。しかし保守派の抵抗や、列強の干渉で、中途で挫折させられている。
 
Bミドハト憲法
 
 タンジマートの最後の成果は、1876年、アブデユルハミト2世(位1876〜1909年)が、自由主義的思想家ミドハトを宰相に任命して、いわゆるミドハト憲法を制定させたことである。これは、アジアで最初の憲法で、二院制議会、責任内閣制が定められている。
 
 また、アフガーニーに影響を受けたアブデユルハミト2世の、パン・イスラム主義のもとで、オスマン朝のスルタンが、ウンマ(イスラム共同体)全体を代表する、カリフであるとの考え方が普及した。いわゆるスルタン・カリフ制である。カリフ位復活が重要なのは、19世紀に、イスラム復興=ウンマ復興を呼びかける思想が普及する中で、ウンマの象徴が復活した点にあった。アブデユルハミトはまた、パン・イスラム主義の推進策として、メッカ巡礼を支援し、ヒジャーズ鉄道を引いて人気を博した。
 
 だが、このミドハト憲法は、保守派から反対を受け、アブデユルハミト自身、スルタンの権限の抑制を嫌った。スルタンはミドハトとも合わず、やがてミドハトは追放されている。そして1878年、ロシア・トルコ戦争の勃発を理由に、スルタンの命令で憲法は停止された。その後30年にわたり、議会も開かれていない。かくて、またもやオスマン帝国の改革は挫折したのであった。
 
C統一と進歩委員会
 
 しかし、タンジマート期に、西欧の教育・思想を享受した官僚や知識人の間には、専制を批判し、立憲制に基づく改革を求める思想的底流が強く流れていた。彼らは自らを「新オスマン人」と名乗った。
 
 その系譜をつぐのが、1889年に結成された「統一と進歩委員会」である。別名を「青年トルコ」とも言う。彼らは、アブデユルハミト2世の弾圧を受けながらも、運動を続けた。そして1908年、遂にスルタンは屈服し、憲法の復活と、第2次立憲制の時代が訪れることとなる。(前掲「詳説世界史研究」P382~383,p430)(「ナビゲーター世界史3」p248~249)(「ナビゲーター世界史4」p48)(「イスラームの歴史2」p17,p245)
 
3.ムガル帝国の滅亡
 
(1)イギリス支配の進展
 
 18世紀後半の50年で、インドの大部分はイギリス支配に服したことは前述した。19世紀になるとイギリスは、更に征服し残した地域にも、勢力を広げていく。例えば、ネパールのグルカー族と戦って、これを支配下に置いている。次いで、インダス川下流のシンドを服属させている。また、シク教徒のシク王国を破って、パンジャブ地方を併合している。
 
 イギリスが、このような積極策に出たのは、単に領土を獲得して、地税を徴収するだけのためではなかった。本国においては、産業革命が進んでいた。それに伴いインドが、原料生産地及び商品市場として、重要性を高めていたことが指摘できる。
 
 例えば、綿布を見てみよう。手織りで上質なインド綿布は、インドの主力輸出品として、ヨーロッパ衣類市場を席巻した。ヨーロッパでは、毛織物業者の倒産が相次いだという。イギリスは先ず、インドからの綿布輸入を、法律でストップさせた。そして、この綿布を機械織りにする技術革新を行い、生産性を向上させることに成功したのである。そして、イギリス産の安価な綿布が、大量にインドへ逆流することになった。
 
 このため、インド綿布の家内手工業は破壊され、失業者が町に溢れた。かくてインドは、イギリスの思惑通り、綿花をイギリスに輸出し、綿製品を輸入する商品市場になったのである。
 
(2)大反乱とインド帝国の成立
 
 上記のように、強引なイギリスのインド支配は、インド人の間に反感と不満を募らせた。特に、保守的なヒンドウー教徒、イスラム教徒の、キリスト教徒に対する反感は大きかった。一方、ヨーロッパ思想の輸入と共に、ヒンドウ教やイスラムの伝統を踏まえつつ、現状を改革しようとする動きも見られるようになった。
 
 例えば、カースト制度への批判、女性の地位向上などの提言などがなされた。また、あらゆる宗教は、同一の真理を目指すとの主張も現れている。教育を通じての近代化も唱えられた。アジア人初のノーベル賞受賞者のタゴールは、インド古来の思想とヨーロッパの近代思想の、融和を唱導した文豪として知られている。
 
 イギリスに対するインド人の反感は、シパーヒー(セポイ)と呼ばれる、東インド会社のインド人傭兵が起こした反乱を契機に、1857年一気に爆発した。シパーヒーはこれまで、イギリスによるインド侵略の先兵となってきたが、白人将兵との待遇差が大きく、これが不満の種になっていた。
 
 直接の火種は、イギリスがシパーヒーに、新式の銃を使わせようとしたことである。ところが、その弾薬包には、火薬が雨で濡れないように、牛や豚の脂が塗られていたのである。牛は、ヒンドウー教徒にとっては聖なる動物であり、豚は、イスラム教徒にとって不浄な動物である。だからシパーヒーは、銃の使用を拒否した。これに対して、イギリス人将校が暴力を振るい、インド大反乱に火をつけた。
 
 反乱軍はデリーを占領して、すでに名目だけの存在になっていたムガル皇帝を擁立した。反乱のニュースが伝わると、イギリスから地位や権力を奪われた旧王侯、旧地主、生活に苦しむ農民、職人、小商人など、広い層のインド人が、カーストや宗教の区別なしに、これに加わった。反乱は、中部、北部インドにも波及した。
 
 イギリスのインド支配も、一時は危うくなった。しかし反乱軍には、統一がなかった。イギリスは、近代兵器による徹底的な殺戮によって、2年後に、辛うじて鎮圧に成功した。
 
 この反乱の結果、ムガル皇帝は廃位され、1858年、3世紀にわたって続いたムガル帝国は滅亡した。イギリスは、インドを東インド会社支配から、イギリス政府の直接支配に移した。さらに1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国が成立した。こうして名実共に、イギリスのインド植民地支配は完成し
たのである。(前掲「詳説世界史研究」p387~390)(「ナビゲーター世界史3」p256~257)
 
(3)イギリスの反動的政治とインド民族主義
 
 イギリスの完全支配が行われるようになると、植民地政府は意識的に、反動的な政策に乗り出した。以前には少なくとも、インド人を自治に向けて訓練し、準備させるという見解が述べられていた。しかし今や、固有の社会的・文化的欠陥からして、インド人は自治に不適であり、未来永劫にわたって、イギリスに支配されねばならないといった意見が、堂々と表明されるようになったのである。
 
 そして、分割統治を一層露骨に進めた。例えば、兵士の間に民族主義的な感情が育たないように、宗教、カースト、部族、出身地域を単位とする部隊編成が行われ、その単位での忠誠心が鼓舞された。それは成功した。イギリスは、その忠実なインド軍を使って、1885年にはビルマをインド帝国に併合し、次いで、アフガニスタンに侵攻している。勿論そのような軍事費は、すべてインドからの税収によってまかなわれた。
 
 またイギリスは、鉄道・鉱山などに資本を投下し、大きな利益を上げている。他方インド社会は、世界で最も貧困な国へと落ち込んでいく。それは、19世紀後半の飢饉で頂点に達する。約50年間の間に、2800万人以上のインド人が、命を落としたと推計されている。
 
 このような中で、インドの民族主義運動は、次第に高まりを見せていく。そして1885年、インド国民会議が作られた。設立趣旨は、各地の民族主義的活動家の友好的な関係を促進すること、あるいはカースト、宗教、出身地域の別にかかわらず、民族統一の意識を発展強化させること、などとなっている。
 
 この会議は、イギリス主導で作られており、民族主義的な意識を持つ知的エリート層の、不満のはけ口として作られたとされている。しかしやがて、このメンバーが、反英運動の中心となっていく。(「近代インドの歴史」ピパン・チャンドラ、粟屋利江訳、山川出版社、p160〜199)
 
 インド民族運動が激しくなるのは、20世紀初頭である。そして、英貨排斥(英国の商品を使わない)、スワデーシ(国産品愛用)、スワラージ(インド人による自治)、民族教育(インド人のための教育)の、4つを掲げて、運動が進められていく。(前掲「ナビゲーター世界史−4」p46)
 
 しかし、インドがイギリスの支配下から脱し、独立を果たすのは、2つの世界大戦後の、1947年であった。
 
(4)西洋的近代化とインド・ムスリム
 
@ワリーウッラー
 
 西欧のアジア進出に対して、アラビア半島のワッハーブ運動が、イスラム覚醒の口火を切ったことは前述した。しかしこれはイスラム世界の中での、孤立した動きであったのではない。インドも同じく、イスラム復興の拠点であった。インドでの運動主導者は、ワリーウッラー(1703〜62年)で、奇しくもワッハーブ運動を起こした、アブドルワッハーブと、同じ年に生まれている。
 
 ワリーウッラーは、従来のシャリーア(イスラム法)の解釈において、伝統の学派が因習に盲従していることを批判し、コーランやハディース(ムハンマドの言行録)に立脚して、時代に即応したイジュティハード(解釈の営為)が必要であることを説いた。ワッハーブ派と同じ主張であることがわかるであろう。こうしてワリーウッラーは、インドにおける改革思想の唱道者となり、その主張は、イギリス侵攻へのレジスタンスを生みながら、インドにおける近現代思想の主要な源泉の一つになったのである。
 
 イギリスのインド支配が進む中で、ムスリムの社会では、大きく言って3つの潮流を生む。一つは、キリスト教、シク教など異教徒支配への反抗である。これはムジャヒディーン(ジハード戦士運動)や反英運動にも繋がった。第2は、西洋近代科学を受けいれながら、ムスリムの地位向上を図ろうという運動である。イギリスとムスリムとの和解を目指す動きとなった。第3は、西洋的近代技術を活用しながら、イスラム改革や布教を実践する動きである。これらが、お互いに絡まりながら、展開していった。
 
Aアフマド・ハーン
 
 イギリスがインド大反乱を鎮圧すると、上記第2の立場が出てくる。アフマド・ハーンがそれを代表する。大反乱に対するイギリス人の敵意と、ムスリムへの誤解を解こうとしたのである。更に、イギリスの支配を「侵略」ではなく「恩恵」として受け入れる姿勢を示している。彼は、イギリスの自由思想に基づいて、西洋的近代の受容と、イスラム的価値観の維持による、インドの近代化を目指そうとしたのである。
 
 しかし、前述したアフガーニーは、インドでイギリスの脅威に目覚め、パン・イスラム主義と帝国主義に対する団結を訴え、アフマド・ハーンを激しく非難した。だが、アフマド・ハーンの啓蒙思想の中から生まれた大学は、インドやパキスタン建国時の官僚や士官、政治家など、イスラムエリートを輩出している。
 
Bデーオバンド学派
 
 近代技術を導入して、イスラム改革を推進する運動が、上記第3の立場である。その代表が、ワリーウッラーの思想を受け継いで北インドに設立された、デーオバンド学院である。デーオバンド学派は、イスラム復興の大衆化を図ろうとした。
 
 先ず、インド各地に、学派の理念を体系的に教える学校を作った。そして、ペルシャ語に代えて、簡明な口語のウルドウー語を普及させた。これは雑誌や新聞などの大衆メディアで、宗教的解釈などの情報を流し、ムスリム・ネットワーク拡大を促進するのに役立つた。また、女性の地位向上など社会改革への提言も行っており、やがて、反英運動にも連なっていった。
 
 1914年、第1次世界大戦が始まると、インド国民会議派は、大戦後のイギリスが、インド人に自治を与えてくれることを期待して、イギリス支持を表明した。だが、オスマン帝国がイギリスと戦争状態になったため、インドのムスリムは、反英及びオスマン帝国支持に変わった。
 
Cヒラーファト運動
 
 1919年、後述する、イギリス人によるインド人無差別大量虐殺事件(アムリットサール事件)が起こると、ヒンドウーとムスリムが、反英の立場で協調した。これをヒラーファト運動という。20年、ヒラーファト宣言で反英運動が始まるが、インド・ムスリムは併せて、パン・イスラム主義の立場から、オスマン帝国のカリフ擁護を唱えている。
 
 しかし、オスマン帝国の敗戦と、カリフ制の廃止により失望感が広まり、ヒンドウーとイスラムの対立が始まった。指導者ガンジーが運動の停止を宣言すると、運動は急速に衰えていった。
 
 その後インドのムスリムは、デーオバンド学派の主導で、ボランティアによる布教活動に専念を始める(ジャマーアト運動)。この活動は、イスラムの基本信仰を伝えるべく、10余名の布教グループを各地に派遣するものである。インド・パキスタン分裂後の現在でも、世界各地で活発に行われており、本拠地パキスタンでは、毎年11月の年次集会に、100万人以上が終結すると言われる。(「イスラームの歴史2」p165~183)
 
4.イラン、アフガニスタンなどへのヨーロッパ進出
 
(1)イラン方面 
 
@ロシアとイギリスの進出
 
 イラン地方には、シーア派(十二イマーム派)のサファヴィー朝(1501〜1736年)が、18世紀初めまで権勢を張っていたのは前述した。その滅亡後、混乱していたイランの地を、平定することに成功したのはカージャール朝(1796〜1925年)である。カージャール朝は、イラン人を主体としたが、宗教的にも軍事的にも、サファヴィー朝の系譜をひく、トルコ系遊牧君主の国であった。
 
 19世紀以降、南下政策をとるロシアが、カフカスや中央アジアへの領土拡大を狙った。カージャール朝も反撃したが、1828年ロシアに敗れ、トルコマンチャーイ条約によって、東アルメニアを失い、治外法権と市場の開放を強要された。これが、カージャール朝の衰退の始まりであった。
 
 他方でイギリスは、大切な植民地インドを護るために、イランへ勢力拡大を図った。そして、ロシア同様の不平等条約を押しつけている。こうしてイランは、北部はロシアの、南東部はイギリスの勢力下におかれて、半植民地化した。
 
Aバーブ教徒の反乱(1848〜50年)
 
 英・露の侵略に対して、生活を圧迫された民衆の抵抗運動が起こった。バーブ教徒の反乱である。バーブ教とは、イスラム教シーア派の1グループである。これは、封建制や外国勢力の進出に反発する、農民らの反乱だった。しかし、政府軍に激しい弾圧を受けて鎮圧された。
 
Bタバコ・ボイコット運動 (1891年)と立憲革命(1906年)
 
 カージャール朝は、軍事・政治などの近代化を進めようとした。しかし、財政を維持するために、鉄道、通信、地下資源など各種の利権を、次々に外国に譲渡した。1891年には、イギリスにタバコの専売利権を譲る契約をしている。これに対して激しい抵抗運動が起こった。
 
 この運動では、前述したパン・イスラム主義の指導者アフガーニーの影響を受けて、宗教指導者層(ウラマーなど)や商人が活躍したことも、大きな特徴である。徹底的な禁煙運動が進められ、やがて契約は廃止されている。これ以降、イラン人の民族意識は高まっていった。
 
 そして1906年、経済危機が深刻化する中、専制政治に対する批判が強まり、イラン立憲革命が起こった。国王は譲歩して立憲制樹立の詔勅を発し、仮憲法が成立して、国民議会も生まれた。しかし、イギリス、ロシアの介入で立憲制は崩壊した。(「イスラーム世界の歴史的展開」p127)
 
C英露協商
 
 英・露両国は1907年、このころ共通の敵として、成長してきたドイツと対抗するために、イランを南北の勢力圏に分けることで妥協し、英露協商を成立させた。その結果イラン(カージャール朝)は、両国の緩衝地帯として、辛うじて独立を保持し続けることが出来た。
 
(2)アフガニスタン、ウズベキスタン方面
 
@アフガニスタン
 
 アフガニスタンでは、ロシアに支援されてカージャール朝が進出してきた事に対抗し、イギリスが侵攻して、1838年から1919年にわたる、3回のアフガン戦争が起こっている。第1次ではイギリスが敗れ、第2次ではイギリスが勝って、アフガニスタンを保護領化したが、第3次にはイギリスがまた敗北して、アフガニスタンは独立を回復した。
 
Aウズベキスタン
 
 上記とほぼ同じ19世紀の後半、現在のウズベキスタンにあたる地域にあった、ウズベク人の3ハン国(ヒヴァ、ブハラ、コーカンド)を、ロシアが占領下に置いている。(前掲「ナビゲーター世界史3」p249~251)(「詳説世界史研究」p284~285)
 
5.東南アジア、東アジアの植民地化
 
 18〜19世紀の東南アジアにおけるムスリム(イスラム教徒)の主な居住域は、現在の国名でいえば、インドネシア、マレーシア、フィリピン南部、タイ南部などである。このうち、インドネシア、マレーシアについて、19世紀のヨーロッパ勢力が、どのように植民地化を進めたのか略述しよう。
 
(1)インドネシア
 
 インドネシアについては、オランダがポルトガルを追い払い、18世紀中には、ジャワ島を中心とした周辺諸島を、ほぼ制圧したことは前述した。
 
 19世紀に入りナポレオン戦争(1804〜14年)が起こると、オランダ本国がナポレオンに占領され、オランダ東印度会社は解散している。また、ヨーロッパでオランダと戦っていたイギリスがジャワに侵攻し、1811年にこれを占領するなどの混乱が起きている。しかし、ナポレオンの敗北後、この混乱は収まり、ジャワはオランダに返還された。
 
 その後、1825〜30年にかけては、ジャワ戦争が勃発した。これは、圧政に不満を抱くジャワ島住民の、オランダに対する大反乱であった。オランダはこれを鎮圧した後、1830年、現地総督の発案で、強制栽培制度を実施している。
 
 これは、「住民に耕地の5分の1を供出させ、そこで国際商品のコーヒー、サトウキビ、藍などを強制的に栽培させ、その作物を安く買い上げる」制度であった。この結果、オランダは大きな収益を上げたが、原住民は稲作が損なわれて食糧難が起こり、何10万人もの餓死者を出している。その犠牲の大きさに、本国でも批判が起こり、1860年代から徐々に廃止された。
 
 そしてオランダは、19世紀後半から20世紀初めにかけてのアチェ戦争で、スマトラ島北部のイスラム国家、アチェ王国を滅ぼしている。こうしてオランダは、現在のインドネシア共和国の、ほぼ全領域を支配することになった。
 
 オランダはイスラムを弾圧せず、むしろ植民地行政に組み込もうとした。例えば、イスラム法廷を住民社会に根付いた制度として認め、公的機関としている。また、この地域のウラマーは、殆どがスーフィーであり、中東・インドの学問伝統に繋がっていた。
 
 一方、交通手段が発達するにつれ、東南アジアからの大量の巡礼者が、聖地メッカを訪れるようになった。その中には、メッカに居着いてしまう者も多かった。最盛期には、メッカの人口の半分をインドネシアの居留者がしめたと言われている。そして、彼らの言語であるマレー語は、アラビア語に次いでメッカでの第2言語となった。
 
 当時のメッカは、ワッハーブ派など改革思想が盛んに唱えられていた。それに影響を受けた居留者たちは、帰国後、オランダに対する反乱と独立運動の担い手になっていった。(「イスラム教の本」p159)(「イスラーム教の歴史2」p213)
 
(2)マレーシア
 
 アジアにおけるイギリスは、主としてインドの植民地経営に力を注いだ。しかし、18世紀末から、マレー半島にも進出している。オランダを駆逐して、順次ペナン、シンガポール、マラッカを獲得し、これらを併せて1826年に海峡植民地を設立した。
 
 更に、北ボルネオを獲得したのち、1895年にマレー連合州を設立して、ゴムのプランテーションや、錫鉱山を開発して利益を上げていった。ゴム農園には、インドから多数の労働者が送り込まれた。また、錫鉱山の労働力として中国から渡ってきた人々が、現在の東南アジアにおける華僑(カキョウ)のもとになった。(前掲「詳説世界史研究」p391)(「ナビゲーター世界史3」p258~260)(「イスラム教の本p159)
 
 なおイギリスは、インドでの経験から、宗教に対しては慎重な姿勢を取った。各州では、宗教事項に関する権限を、在地のイスラム権力に委ねた。(「イスラームの歴史2」p211~212)
 
(3)非ムスリム地域
 
 東南アジア、更には中国を含む東アジアの非ムスリム地域も、19世からは凄まじいスピードで、ヨーロッパ列強に植民地化、半植民地化されていった。この地域で独立を保ったのは、タイと日本の2カ国だけであったのである。
 
6.アフリカにおける植民地化
 
 エジプトや北アフリカなど、アフリカ大陸のうち、オスマン帝国支配下にあった地域の植民地化については、既に述べたので、以下、その他の地域について略述する。
 
(1)植民地化の進展
 
 アフリカは長い間、暗黒大陸と呼ばれ、ヨーロッパからすると、一部を除いて手つかずの状態であった。しかし、19世紀になるとヨーロッパは、遅まきながら、アフリカが豊富な地下資源や農産物を産出する、重要な大陸であると気づいた。そして、急速に領土分割が進むのである。
 
 そのスピードは、「1875年には、アフリカの面積の10%を、ヨーロッパ人が支配した。1895年には、アフリカの10%の面積をアフリカ人が支配した。」と表現されるほどであった。その契機になったのは、列強のアフリカ分割に関する、ベルリン会議(1884〜85年)である。植民地化の様相は、まさしく、腐肉に群がるハゲタカさながらであった。
 
 先ず、ベルギーはコンゴを、ポルトガルはアンゴラを獲得した。イギリスは、南北両方向から植民を進め、それは縦断政策と呼ばれている。北からはスエズ運河の支配から始まり、エジプト、スーダンを手にした。南からは、アフリカ南端のケープ植民地をオランダから奪い、その北のトランスヴァールやオレンジを制圧した。その他、ケニア、ナイジェリア、ガーナ、ローデシア(現ジンバブエ)を手に入れている。
 
 フランスの植民地化は東西方向に進められ、横断政策と呼ばれている。アルジェリアの攻略、チュニジアやモロッコの保護国化を行い、東方のジブチにまでつないでいく。更に海を越えて、マダガスカル島も獲得している。
 
 それらに遅れて割り込んできたのが、ドイツとイタリアである。ドイツはトーゴーランド、南西アフリカ(現ナミビア)、東アフリカ(現タンザニア)、カメルーンを獲得した。イタリアは、エリトリアやソマリランドを、20世紀初頭には、トリポリとキレナイカ(現リビア)を確保している。かくて、20世紀初頭、アフリカの独立国として残ったのは、エチオピア帝国とリベリア共和国(アメリカでの解放奴隷が1847年に建国)だけとなった。(前掲「ナビゲーター世界史ー4」p24〜31)
 
(2)植民支配下のムスリム達
 
@仏領西アフリカ 
 
 フランス領となったセネガルやモーリタニアでは、トウクロール帝国ムスリムなどのの軍事的抵抗が簡単に納まったわけではない。しかし、キリスト教徒との共存を通して戦乱を回避し、社会的安定を取り戻すべきだという主張が、有力なウラマーの間で強くなる。
 
 またフランス植民地当局も、住民を安定した農業生産に振り向ける手段として、ムスリムは有用であると判断していた。ただし、黒人ムスリムは中東アラブのムスリムと異質であり、その影響から隔離されるべきだという「黒人イスラム(イスラーム・ノワール)」論が唱えられた。その結果、中東への巡礼や留学を抑制し、雑誌・新聞の輸入も制限された。かくて、仏領西アフリカには、他のイスラム世界とは異なった、独自のイスラムが浸透することになった。
 
 それを主導したのが、スーフィズム(神秘主義)教団の伝統を受け継ぐ、スーフィー達であった。中でも、アマドウ・バンバの創設した教団が注目される。この教団は、文字・知識とは無縁な農民や職業戦士を、農耕集団として組織化し、教団導師への徹底的な献身が、すなわち労働であるとする、特異な信仰スタイルを生み出した。
 
 当初フランスは、植民政策に及ぼす影響を恐れて弾圧し、アマドウ・バンバを流刑にしている。しかしその信仰スタイルが、落花生の増産に役立つことに気づき、フランスは方針を転換して、教団に広大な土地を割譲するなどの優遇措置をとった。こうしてバンバの教団は組織を拡充し、農民の間に勢力を伸ばしていった。
 
 かくて20世紀の初めには、混乱は収まり、仏領西アフリカは、落花生、綿花などの生産物を輸出する、世界市場の周辺地域として再編成されることになった。(「イスラームの歴史2」p112~114)
 
A 英領ナイジェリア
 
 19世紀における西アフリカ最大の国家だったソコト・カリフ国は、イギリスに殆ど抵抗することもなく、1903年に降伏した。イギリスは広大な領地を少ない要員で統治するために、在来の統治体制をそのまま温存した。イスラム法による裁判が認められ、キリスト教布教も抑制された。
 
 しかし、英領ナイジェリアの南部地区は、早くからキリスト教の布教が進んでいた。また南部地域は、港湾を持ち輸出品も豊富であった。こうして、ムスリムを中心とする北部と、キリスト教徒中心の南部は、経済的な格差とも結びついていたのである。このような矛盾を抱えたまま、しかも、イギリスが勝手に引いた国境線をそのままにして、20世紀半ばのナイジェリア独立に向かい、その矛盾が爆発することとなる。(前掲「イスラームの歴史2」p112~118)
 
7.中央ユーラシアの植民地化
 
 諸賢もよく知っているように、20世紀の初め、中央ユーラシアの大部分は、ロシア帝国の版図に属し、東部の新疆だけが中国清朝の統治下にあった。いずれも、異教徒の統治下に組み込まれた中央ユーラシアのムスリム達は、その後の、ソ連と中国の長期に及ぶ社会主義体制を経験している。このような歴史は、この地のムスリム社会に、他地域とは違った独特の性格を与えている。ここでは差しあたり、19世紀までの推移を眺めることにしよう。
 
(1)キプチャク・ハン国とロシア
 
@ヴォルガ、クリミア地方
 
 モンゴル人の建てたキプチャク・ハン国(1243〜1502年)は、当時ルーシーと呼ばれたロシアの、諸侯国を征服して建国された。それから300年。片田舎の小都市に過ぎなかったルーシーのモスクワは、モンゴル統治下で、少しずつ文明化された。
 
 ロシア諸侯国の中でもモスクワ侯国は、巧みな政治手段でモンゴルに取り入り、力をつけていく。15世紀になると、キプチャク・ハン国は部族国家に分裂を始め弱体化していく。そのような中でモスクワは、諸侯国を併合して強大化する。やがて、ロシアをほぼ統一してモスクワ大公国となり、また東方正教会(ロシア正教会)の主教の座も手に入れている。
 
 画期的であったのは、16世紀半ばモスクワ大公国が、ヴォルガ川流域にあった、モンゴルの部族国家カザンを滅ぼしたことである。キプチャク・ハン国の要であったヴォルガ地域を制圧したことで、ロシアは東方の広大な草原や森林地帯へ、大発展するきっかけを手に入れたことになる。あとロシアは、コサック騎兵やモンゴル・トルコ系遊牧民を組織して、シベリアやカザフ草原に向けて送り出した。ロシアとムスリムの形勢は完全に逆転し、ムスリムはロシアの支配に服することとなった。
 
 モスクワ大公国が倒れて、17世紀前半に成立したロマノフ朝(1613〜1917年)の歴代皇帝(ツアーリ)が、支配下のムスリムに対してとった政策は、概して抑圧的であった。モスクの大規模破壊も行われている。また、ロシア正教への改宗も政治的に進められた。改宗者には、税や徴兵の免除などの特典を与えている。
 
 これに変化が起こったのは、エカチェリーナ2世(位1762〜69年)の時代である。彼女は、オスマン帝国からクリミア半島を奪ったことで知られるが、ヨーロッパ啓蒙思想の影響を受けていた。そして、イスラムは進んだ宗教であるとの認識を持ち、ムスリム臣民に対して寛容な政策をとる方が、ロシアの国益に叶うと考えた。
 
 確かに先見の明ありで、ムスリム商人によるロシアと中央アジア間の通商は飛躍的に伸びて、国庫を潤した。また彼女は、ウラマーの身分を承認し、イスラムを公認の宗教として、内務省の管轄下に置いた。諸賢よ。これは、他宗教を絶対に認めない、潔癖なキリスト教国においては、驚くべき異例の現象であった。スラブ民族の懐の深さ、あるいはいい加減さのせいであろう。
 
 ロシア帝国内のムスリム人口は、およそ2000万人を数えており、それは、総人口の10数%を占めていた。これはオスマン帝国のムスリム人口に勝っており、帝政ロシアは、巨大なムスリム人口を抱えた多民族帝国であったことがわかる。
 
 しかし、カフカス地方のムスリムには、ジハード(聖戦)で抵抗され、山岳地帯では、長期にわたるカフカス戦争(1818〜64年)が起こっている。手を焼きながら何とか征圧している。この地方は今でも、ロシアに対する、ムスリム抵抗のシンボルになっている。
 
Aトルキスタン地方
 
 トルキスタン地方の、チャガタイ・ハン国を継承したティムール朝も、16世紀には分裂・弱体化し、トルコ系のウズベク族に滅ぼされている。そして、ヒヴァ、ブハラ、コーカンドという3ハン国が分立したことは、前述した通りである。中央アジア方面に、積極的に進出を進めたロシアは、19世紀後半、コーカンドを滅ぼし、ブハラ、ヒヴァの2つを保護国としている。
 
 カザフ草原やトルキスタンでは、ロシアはイスラムの統制を行わず、既存のイスラムをそのまま放置する政策をとった。無用な介入は、ムスリムの反抗を招きかねず、いずれ進んだロシア文明の前で、イスラムは弱体化すると考えられていたフシがある。植民地統治は、綿花ブームによってムスリム社会にも富をもたらし、鉄道網の整備は、メッカ巡礼や、他のイスラム世界との交流をもたらした。その過程でイスラム社会は、ロシア化するよりもむしろ、その独自性を高めていった。
 
 ロシアも次第に、イスラム覚醒の気配に気づくようになる。その中で、1898年に起こったアンディジャンの蜂起は、ロシア統治に衝撃を与えた。これはフェルガナ地方東部のムスリム2000人が、ロシア軍兵営に夜襲を敢行した事件である。しかし、このスラブ系入植者へのジハードは、失敗に終わっている。だが、「過激で危険なイスラム」というイメージが、ロシア人の心中に増幅されたことは間違いない。 
 
(2)清朝とイスラム
 
 18世紀、モンゴル人の支配下にあった東トルキスタンの土地を奪い、清朝が新しく領土とした新疆には、ウイグル人を中心とした多くのムスリムが住んでいた。ジハード(聖戦)が繰り返し起こったが、特に19世紀後半のムスリムの反乱は、この地域での清朝統治を麻痺状態に陥れた。
 
 一時は、ムスリムの独立政権が建てられたが、清朝軍の再征服を受けた。そして、新疆省が設けられて、中国内地と同様の統治システムが導入された。(前掲「大モンゴルの世界」p298~323)([詳説世界史研究」p394~395)(「イスラームの歴史2」p131~143)
 
[.2つの世界大戦とイスラム世界
 
1.第1次・第2次世界大戦
 
(1)戦争の推移
 
 15世紀末から、ヨーロッパ列強による世界分割競争が始まった。新大陸(北米・中南米)の分割は、ほぼ無人の荒野を進むがごとく、スムーズに終わった。アジアは、巨大帝国が睨みをきかせていたから、一筋縄ではいかなかったが、18世紀後半から19世紀にかけて、蚕食は急速に進んでいった。ヨーロッパのお目こぼしに預かっていたアフリカも、19世紀には一挙に分割された。アジア、アフリカのイスラム世界も、例外ではなかった。
 
 そして、20世紀初めの第1次世界大戦によって、ヨーロッパ列強による世界分割は、一段落を告げたということができよう。ところが、続いて第2次世界大戦が起こった。これは、後発の帝国主義諸国(ドイツ、イタリア、日本など)が、先発帝国主義諸国(イギリス、フランス、アメリカなど)に対して、分け前を要求した戦争であった。既に世界分割は終わっていたから、新しい領土獲得のないゼロサム・ゲーム(得失点の総和は一定のゲーム)であったと言えよう。
 
 なお、ここで帝国主義とは、19世紀後半から20世紀初めにかけての、欧米諸国による無制限な膨張政策を言う。
 
 先発の帝国主義諸国は、いわゆるブロック経済を形成した。これは、本国と海外の領土を一つのブロックにまとめ、その中では互いの関税を低くして貿易を活発にし、逆にブロックの外の国々に対しては高い関税をかけて、貿易から閉め出そうとする経済政策である。 
 
 後発帝国主義諸国は、その壁を食い破って、自前の権益圏を確保しようと戦いを挑んだのである。そして、結局は後発諸国が惨敗した。その原因はいろいろあるが、究極的には、物財の生産力や航空機・艦船の動力として、必須のエネルギーである石油資源を、持っているか持っていないかの差であったと言えよう。
 
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コーヒーブレイク
 
     ー石油の一滴は血の一滴ー
 
 20世紀は戦争の世紀であり、石油の世紀であった。石油を持った国々が戦勝国となり、持たざる国々が敗れたのである。アメリカやソ連は自国に豊富な油田を持ち、イギリスはイランの石油を支配していた。一方、ドイツ、イタリア、日本は石油の輸入国であった。当時のスローガン通り、まさに石油の一滴は血の一滴であった。
 
 日本にいたっては、第2次世界大戦開戦の4ヶ月前まで、敵となるアメリカから石油を輸入していたのである。だから日本は、開戦と同時に東南アジアに進出し、パレンバンなどの石油基地を押さえたのである。それでも不足し、私の小・中学時代、航空機用燃料として、松の樹液(松根油)を採取させられたのを覚えている。
 
 ドイツにも石油はなかった。しかし、ルール炭田などに石炭は豊富であった。そこでドイツは、石炭液化工場を建設し、それをエネルギー源としていた。連合軍は最初、ドイツの航空機組み立て工場を爆撃した。優れたドイツの戦闘機が、連合軍の爆撃機に多大な損害を与えていたからである。次に、エンジン工場に爆撃を集中した。機体があっても、エンジンがなければ飛べないと考えたからである。
 
 最後に気が付いたのが、石炭液化工場の爆撃であった。燃料がなければ、飛行機は飛べないからである。これで、ドイツの命運は尽きた。もっと早く、連合軍がそれに気が付いていれば、ヨーロッパの戦争はもっと早く終わっていたであろう。石油の決定的な重要性を裏書きするエピソードである。(「エネルーギー学の基礎」吉岡一男など編、放送大学、p176~178) 
 
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(2)大戦後の世界情勢と平和維持機構
 
 ここで、第1次・第2次世界大戦が、人類史のうえでどのような意味を持っていたのかと言うことを考えてみよう。現象的には、第1のポイントとして、米ソ2超大国の出現と言うことである。それぞれ資本主義圏と社会主義圏の旗頭として、直接の戦争はしなかったが、勢力下の国を動かして、代理戦争が続発した。いわゆる冷戦である。しかしこれは、経済的に停滞した社会主義陣営の、全面的な敗北と言うことで決着がついた。そして、アメリカが、唯一の超大国として生き残った。
 
 現象面のポイント第2は、戦争に懲りた各国が、平和維持の国際機構を作りだしたことである。一つは国際連合であり、一つは国際通貨基金(IMF)や世界銀行などを核とする、ブレトンウッズ体制である。前者は、政治的な話し合いで、紛争を解決しようとするものであった。後者は、ブロック経済が悲劇を生んだことを反省して、垣根のない自由貿易で、経済的にも協力していこうという体制である。これらの機構は、色々問題は抱えながらも、その基本理念は守られ続け、成果を上げていると言ってよかろう。(「ナビゲーター世界史」p49~70,p129~160)
 
(3)世界大戦の人類史的意味
 
 しかし、2つの大戦は、もっと本質的な構造変化を生んだ。この大戦を契機に、従来地球表面のあらゆる地域を分割支配し、収奪を続けてきたヨーロッパ・キリスト教勢力が、遂に行き詰まり、衰退する時代を迎えることになったのである。また逆に、収奪される側だった植民地・半植民地各国が、ナショナリズムの旗のもと独立し、開発途上国と呼ばれながらも、経済的な興隆を始めたのである。
 
 何故そうなったのか。色々な理由が挙げられる。先ず第一には、2つのの世界大戦を戦った帝国主義諸国は、主としてヨーロッパ列強同志であったということである。いわば、食物連鎖の頂点に立つ猛獣同士の、共食いが起こったのである。しかも、ヨーロッパと言う地域自体が戦場になった。軍人の戦死だけでなく、民間人も大量殺戮に見舞われ、人口は大きく減少した。厖大な軍事費が浪費され、生産施設や生活環境も荒廃した。
 
 ヨーロッパは、更にダブルパンチを食らった。植民地が次々に独立したのである。今まで、アジア、アフリカ、中近東はヨーロッパにとって、第一次産品の供給地であり、工業製品の販売先であり、金融資本の投資先であった。そして、ヨーロッパの繁栄や、贅沢な生活を支え続けてくれる、金の卵を産み続けるガチョウだったのである。それら諸国の離反・独立は、ヨーロッパにとって大きな打撃であった。
 
 これは、政治・経済は言うに及ばず、宗教的にも文化的にも、更には民族的自尊心さえもが、ヨーロッパ・キリスト教的なものに抑圧されていたことに対する、反動的な動きであった。各地で、燎原の火のごとく民族主義運動が起こり、次々に独立国が誕生していったのである。ヨーロッパ各国は、当然のことながら、それらの動きを弾圧しようとした。だが、諸国の独立への願望やエネルギーを抑圧する力は、もはやヨーロッパには残っていなかった。
 
 と言うよりも、戦争の後遺症によって息も絶え絶えになり、ヨーロッパ自体の生存さえもが、危うくなっていたのである。今までの栄光の姿を知る者にとっては、信じがたい光景であった。ヨーロッパ蘇生の頼みの綱は、アメリカの経済支援であった。マーシャルプラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)は、まさしくそのような性格のものだったのである。
 
 また、ヨーロッパ各国が危機意識を持ったのは、個別の国がバラバラのままでは、米ソという超大国にはとても対抗できない、弱小国の集まりでしかないと言うことであった。ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)〜EEC(ヨーロッパ経済共同体)〜EU(ヨーロッパ連合)というヨーロッパ統合の流れは、衰退するヨーロッパ勢力の、必死の巻き返し努力の表れである。
 
 統合の核となったのは、キリスト教的共同体という理念である。その空間的スケールから見ると、古代ローマ帝国を髣髴させるような、壮大なプロジェクトである。しかし、その努力が報われるかどうかは、目下のところ予測できない。
 
 というのは、21世紀に入っても、ギリシャあるいはアイルランド発のユーロ危機などで、EU全体が揺さぶられており、それが、スペイン、ポルトガル、イタリアなどに飛び火する危険性をはらんでいるからである。(報道によると、2011年4月、ポルトガルに飛び火した。)それは、EUというシステム自体に矛盾があることを示唆している。一言で言えば、通貨は共通なのに、財政政策は各国バラバラだと言うことである。また、現メンバー各国よりも人口の多い、イスラム国トルコが加入を希望しており、問題を複雑化している。
 
 白人の人口も、次第に減少傾向にある。第二次大戦の戦火による人口減に加えて、少子化が進んでいるのである。人口が横ばうためには、合計特殊出生率(一人の女性が、生涯に生むと思われる平均的な子供数)が2.1でなくてはならないが、2.0を大きく割り込んでいる国が多い。
 
 だから大戦後のヨーロッパでは、戦後復興を進めるには、絶対的な労働力不足があった。それを補うために、厖大な移民を受け入れてきた。彼ら移民達は、非熟練労働に集中的に利用されて、社会階層の底辺に位置づけられ、居住区や教育機会、社会福祉などにおける差別が目立つ。
 
これが社会の不安定化に繋がる恐れもある。(「社会階層と不平等」原純輔ほか著、放送大学、p195~96)また、イスラム圏諸国からの移民も多く、キリスト教文化との文化的摩擦が起こっている(例えば、フランスには、500万人にのぼるイスラム教徒移民がいる。[TIME,July16,2010,p7])。だから、移民反対を訴える、右派の政治勢力も勢いを増している。
 
 こうして、昔は宗主国と植民地という、地理的に離れていた階層関係が、ヨーロッパ大陸という狭い一地域の中で、新しい階層関係として再生産されているのは、皮肉な現象である。しかし、大局的に見れば、植民地として苦しんだ、いわゆる開発途上国も、現在は、人口増や経済的勃興が確実に起こっている。そうした中で、ヨーロッパの国際的地位の低下は、避けられないであろう。
 
 まだ、かっての支配国と被支配国の、勢力逆転までには至っていない。しかし、大きなトレンドとしては、中国やインドを擁するアジアや、ブラジルを擁する南米など、従来の被抑圧地域の国々が急速に力をつけてきており、やがて明白な勢力逆転に繋がっていくであろう。では、イスラム世界について、同様のことが起こるのかどうか、以下に見ていくこととしよう。
 
2.オスマン帝国からトルコ共和国へ
 
(1)トルコ革命
 
 19世紀末、オスマン帝国は「瀕死の病人」と呼ばれながらも、必死に西欧化・近代化を図った。しかし、期待するような成果は、なかなか上がらなかった。そして、20世紀に入ってからも、バルカン半島、北アフリカなどの領土を、次々に失っていった。
 
 オスマン帝国の運命を決定づけたのは、第1次世界大戦である。負け組のドイツ、オーストリア側に荷担したことが致命傷であった。残っていたシリア、イラクなどのアラブ地域も、イギリスに占領された。こうして国土はアナトリアと、バルカン半島ではイスタンブル周辺だけになってしまったのである。
 
 ところが、アナトリア南部はヨーロッパ連合軍に占領され、更には、ギリシャ軍がアナトリア西部のイズミル地方を占領した。また、旧帝国内のギリシャ人、アルメニア人、クルド人が独立国家樹立の動きを見せ、オスマン帝国は解体の危機に瀕した。
 
 多分、難局に陥った民族の中に生まれる、一つのヒーローの典型例なのであろう。大戦時、トルコの一軍司令官だった、ムスタファ・ケマル・パシャが立ち上がった。アンカラ東方の町で諸州代表者会議を開き、トルコ民族の主権と領土の保全、国民議会の招集などを決議し、祖国解放運動の口火を切った。
 
 ヨーロッパ連合国に押しつけられたセーヴル条約は、トルコという国が、地球上から消えかかるほど厳しいものであった。しかしそれが、トルコ民族結集の勢いに油を注いだ。そして、各地のパルチザン兵(非正規兵)や農民の兵力を動員して、ギリシャ軍を破りイズミル地方を奪回したのである。
 
 祖国解放戦争の遂行過程で、ケマルの指導力とカリスマ性は強化された。スルタン制を廃止してオスマン帝国を滅亡させ、条約改正でセーヴル条約を撤廃し、連合軍の撤退を勝ち取った。更に1923年、アンカラを首都とするトルコ共和国の樹立、人民党の設立、カリフ制の廃止と続いていく。これに伴い、政教分離(イスラム法の廃止)の実施、マドラサを廃止するなど、国家制度の世俗化に踏み出し、主権在民と議会制を原理とする憲法を採択した。
 
 このようなケマルの世俗主義に対しては、イスラム保守派、特にスルタン側からの猛烈な反発があった。双方は、身の毛もよだつような、相互殺戮を繰り返している。しかしケマルは、反対派を徹底的に弾圧・処刑し、しゃにむに勝利を手にした。
 
 ケマルは、一層世俗化政策を進める。反動の温床だとして神秘主義(スーフィズム)教団の活動を禁止し、トルコ帽や女性のヴェールの着用禁止、イスラム暦(太陰暦)に代わる太陽暦の採用、女性参政権の承認、一夫多妻を禁じた新市民法の公布など、矢継ぎ早に各種施策を取り入れている。更には、トルコ共和国の宗教はイスラムであるとする憲法の条項を削除し、アラビア文字にかえてローマ字を取り入れた。
 
 イスラムの内的覚醒の項で説明した3つの立場のうち、もっとも一方の極にあった、「脱イスラム」「西欧化」によって、新たな発展を期する立場を取ったのである。そしてイスラムではなく、民族や国家を拠り所にして、自由主義、民主主義などの西欧的近代思想を徹底して取り込んだのであった。イスラムについては、信教の自由のもとで、個人の信条の問題とされたのである。(前掲「詳説世界史研究」p461~462)(「イスラム原理主義がすべてわかる本」p45~47)
 
 ただ、20世紀も末になるとトルコは、表向きは禁止のスーフィズムに対して、寛容な姿勢を見せる傾向にある。大学におけるスーフィズム研究の復活は、その例である。また、イスラム主義政党である福祉党や、その流れを汲む公式発展党(2001年結党、2010年現在政権党)の主要なメンバーが、スーフィズムの教団導師と繋がりを持っていることは、公然の秘密である。(「イスラーム教の歴史2]p94)
 
 このようにトルコ共和国は、イスラム諸国のうち、思想的にヨーロッパ諸国と最も近い国となった。目下トルコは、ヨーロッパ連合(EU)へ加盟し、経済的にもヨーロッパと一体化しようと考えて、努力をしている。しかし、加盟が実現すれば、メンバー国最大の人口を持つこと、また、イスラムに対するキリスト教徒の違和感・反感などから、実現はかなり先になりそうである。
  
(2)イスラム国家か?近代的国家か?その葛藤
 
@カリフ制の崩壊と民族主義・世俗主義
 
 トルコ共和国が、スルタン・カリフ制を廃止したことは、イスラム世界に大きな衝撃を与えた。イスラム世界に、ウンマ(イスラム共同体)と言う考え方があったことは前述した。ウンマ概念を支えるものは、カリフ制であった。イスラム世界の中核を担ってきたオスマン帝国による、ウンマの象徴の放棄は、トルコがイスラム世界におけるイスラム的な中心であることの停止宣言であった。それは、全世界のムスリム(イスラム教徒)にとって、精神的支柱の瓦解を意味した。
 
 既に、イスラム圏は物理的に、ヨーロッパ勢力によってバラバラに分割されていた。それに重ねて、ウンマの精神的靱帯とも言うべきカリフ制が無くなったのである。今まで多民族や異教徒が混在して、一つにまとまってきたイスラム圏が、それぞれの地域の多数派民族を代表とする国民国家へと、変貌を遂げることになっていったのである。(「イスラム教の本p157)
 
 だから、第2次大戦後、アジア・アフリカの国々が、次々と独立を遂げたときは、「イスラム国」を名乗るケ−スは殆ど無かったと言ってよい。アラブ地域でも、急進的な民族主義の時代であった。エジプトのナセルは、56年にスエズ運河を国有化して「民族の英雄」となり、ナセル主義はアラブ諸国に燎原の火のごとく広がった。民族主義のもう一つの代表であるバアス党(バアスは復興の意味、アラブ民族復興社会主義党)も、アラブ各地で伸長し、シリアやイラクで権力を握っている。
 
 これらの国々は、いずれもアジア・アフリカの「新興国」「発展途上国」として姿を現した。当時は近代化論が盛んであり、近代化が進めば世俗化も進行し、宗教の政治的・社会的役割は終わると信じられていた。イスラムは、近代化の阻害要因として論じられることさえ多かったのである。もっとも、イスラム復興の動きがなかったわけではない。しかしそれは、民族主義や世俗主義の熱気に押し潰されていった。
 
Aイスラムは西欧が嫌い
 
 上述のような傾向は、1960年代まで続いたと言えよう。しかし、イスラム世界の潜在意識の中には、共通して鬱屈した反西欧感情があった。一言で言えば、西欧が嫌いなのである。その理由は、おおよそ次のようなことである。
 
 第1は、近代までの数百年間は、イスラム世界が師であり、西欧キリスト教世界は弟子であったという事実である。その師弟関係が、近世になって逆転したことで、イスラム圏の西欧嫌いは決定的なものとなった。第2の理由は、その師弟関係逆転が、軍事征服を伴ったことである。つまり、弟子が師匠であるイスラムを植民地にしたということに対する、怨念が生まれたのである。
 
 第3は以上の系であるが、西欧の、師たるイスラムに対する忘恩的姿勢である。もしイスラムの学問がなければ、ヨーロッパにアリストテレスやプラトンも伝わらず、いわんやルネサンスもなく、従って近代西欧も生まれず、暗黒の中世のまま、偏狭なキリスト教に支配されていただけのはずである。西欧は、そのことを忘れた、あるいは気づかないふりをした、忘恩の徒であるというのである。
 
 更に、第2次大戦後、イスラム世界のど真ん中にイスラエルを建国し、それを欧米が支援し続けているということに対する怒りがある。これらの怨念をストレートに表現し、反西欧に傾斜するのがイスラム原理主義である。それを何とか押さえて、現実的な対応を取るのが、穏健なイスラムと考えられる。(「イスラム原理主義がすべてわかる本」p11~17)
 
 いずれにせよ、このような怨念・情念が、アラブ世界を反西欧的団結へと、再び誘導する起爆剤として作用したようである。1970年代になると、イスラム復興主義が頭をもたげてくる。カリフを中心としたウンマではないが、イスラムの反西欧主義・イスラム同胞意識を核とした、連帯感が生まれていくのである。
 
 しかし、イスラム復興の気運が生まれたとは言っても、近代化不要論が強くなったわけではない。イスラムの原点への回帰を唱えつつも、近代化の必要性に関する認識については、いささかも変わってはいなかった。前述した、アフガーニー、アブドウフ、リダーという、いわゆる「イスラム改革のトリオ」が唱導した理念が、世界の新しい政治・経済情勢に対応する形で、再燃してきたということができよう。
 
 トルコ共和国における、20世紀から21世紀にかけての、宗教事情の変化を前述したが、それもこのようなイスラム世界の思想変化と、無縁ではあり得ないであろう。
 
 以下、民族主義・世俗主義とイスラム復興との葛藤を含めて、2つの世界大戦後のイスラム世界が、どのように変貌していったのか、概観することとしよう。
 
3.イスラエル共和国の成立
 
 2つの世界大戦後における、イスラム世界の変貌を見るに際して、どうしても避けて通れない現象がある。それは1948年、アラブ圏のど真ん中に生まれた、人造国家イスラエル共和国の誕生である。それは、イスラムに突き刺さった棘とも、あるいは反西欧とイスラム連帯の促進剤とも言うべき、国家であった。
 
(1)パレスチナ問題の発生
 
 ユダヤ人は、紀元1世紀から20世紀まで、約2000年間、国家を持たず、世界に離散(ダイアスポラ)して生活していた。その間、様々な迫害を受け、苦難に遭遇し、ユダヤ人の国家建設は彼らの悲願であった。(「ワイガヤ青春広場ー一神教の展開・ユダヤ教とキリスト教」参照のこと)
 
 第1次・第2次世界大戦は、イスラエル誕生の重要な契機になった。第1次世界大戦中イギリスは、ユダヤ人からの戦争への協力(資金提供)を条件に、バルフォア宣言を出している。これは、シオニズム(ユダヤ人がパレスチナに国家建設をしようという運動)を、援助するという内容になっていた。
 
 ところが戦勝国側は、その他にも戦争への協力を得るために、秘密外交を行って、アラブ地域で多くの協定を結んでいる。重要なものとしては、フセイン・マクマホン協定(イギリスは、アラブ人のオスマン帝国からの独立に協力する)、サイクス・ピコ協定(イギリスがイラクを、フランスがシリアを勢力圏に置き、パレスチナを国際管理下に置く)の2つがある。
 
 それらの協定は、それぞれの間で全く矛盾しており、なかんづく、アラブ人を欺く内容になっていた。この結果が、今日まで続く中東紛争(パレスチナ問題)の原因となったのである。
 
 特にバルフォア宣言は、パレスチナにおけるアラブ人の立場を、完全に無視したものであった。断りもなく、アラブ人が住んでいる地域に、ユダヤ人国家を建てれば、移住してくるユダヤ人と先住アラブ人との間に、問題が起こるのは理の当然であったからである。
 
(2)イスラエルの建国と中東戦争
 
 第二次世界大戦後、国際連合によって作られたパレスチナ分割案に基づき、1948年、イスラエル共和国の成立が宣言された。ユダヤ人から莫大な資金協力を得た、戦勝国側からの、アラブ人への一方的押しつけであった。
 
 アラブ側は、即刻それに反発し、第1次中東戦争(1948〜49年)が起こっている。しかし、欧米の軍事支援を受けたイスラエルが勝ち、パレスチナの土地の80%を支配することになった。そして、100万人ものパレスチナ難民が生まれたのである。
 
 第2次中東戦争(1956〜57年)は、エジプトのナセル大統領による、スエズ運河国有化宣言に反発して、英・仏とイスラエルがエジプトに侵入した。しかし、この3カ国は、国際世論の非難を浴びて撤兵したので、停戦が成立した。
 
 第3次中東戦争(1967年)は、イスラエル軍が奇襲攻撃で、シナイ半島(エジプトから)、ヨルダン西岸、ガザ地区、ゴラン高原(シリアから)を占領した。そこにユダヤ人の入植が進められ、アラブ系住民は追い出されたので、パレスチナ難民は激増した。この時、パレスチナ解放機構(PLO)の議長にアラファトが就任し、対イスラエル・テロ活動が激化した。
 
 第4次中東戦争(1973年)は、エジプト・シリアが奇襲攻撃を仕掛けて、初めてイスラエルに打撃を与えた。しかしイスラエルは間もなく反撃に成功した。この時、アラブ石油輸出国機構はイスラム間での連帯を見せ、「イスラエルに味方をする国々(主に先進資本主義国)には石油を売らない」という戦略を立てた(石油戦略)。石油輸出国機構(OPEC)も同調した。その結果、石油の奪い合いが起こり、一気に石油価格は4倍に跳ね上がった。(第1次石油危機)
 
 その後、エジプト・イスラエル平和条約が結ばれてシナイ半島が返却されたり、PLOとイスラエル間でパレスチナ暫定自治協定が結ばれるなど、平和が進むかに見えた。しかしその後、パレスチナ人とイスラエルとの間には、アメリカの仲介にもかかわらず、一進一退の不安定な関係が続いている。(「ナビゲーター世界史4」p175,p222~225)
 
(3)今後の見通し
 
 以上述べたように、イスラエルはイスラム側から見れば、思いもかけず降って湧いた疫病神であった。中東戦争の結果を見ても分かるように、イスラエル軍は、欧米特にアメリカの援助を得て最新兵器で武装ているし、また核爆弾も持っている。だからイスラム圏は、軍事力では勝算がない。
 
 しかしイスラエルは、イスラム・アラブの大海に浮かぶ小さな船に過ぎず、欧米に対する反感とイスラム世界の連帯を強めるための、触媒の役割を持たされていると言えよう。またユダヤ人は、出生率でもアラブ人に劣るので、将来人口は逆転する。民主主義原則を貫けば、パレスチナ人がイスラエルの政治権力を握ることは明らかである。その場合、もしユダヤ人がパレスチナ人を力で押さえ込めば、南アフリカのアパルトヘイトと同じ結果になるだろう。
 
 だからイスラエルは、占領地をパレスチナ人に返して、パレスチナ国家を成立させ、2国共存を図る以外に、ユダヤ人の未来はないことを知るべきであろう。(「ワイガヤ青春広場ーパレスチナに平和はもたらされるか」参照のこと)
 
4.アラブ諸国の動向
 
(1)エジプト
 
@ムスリム同胞団の誕生
 
 アラービーの敗北以降、エジプトでは反英・独立運動が続いたが、第1次大戦勃発と同時に、イギリスはオスマン帝国の宗主権を否認し、エジプトを保護国とした。第1次大戦後も、エジプト国民はワフド(民族代表団)党を結成して、独立闘争を続けた。イギリスはやむなく独立を認め、エジプト王国が誕生している。
 
 だが、世界恐慌の下、経済は混乱し国民の不満は増大した。1929年、ハサン・バンナー(1906〜49年)によって、ムスリム同胞団が結成され、イスラム国家の樹立による社会的公正の実現を訴えて、勢力を拡大した。
 
 ムスリム同胞団は、当初、教育や社会活動を主としていたが、やがて政治運動の側面を強め、40年代にはエジプト最大の政治結社となっていった。エジプトは、名目的な独立は遂げていたが、イギリスはスエズ運河の権益を離さず、第2次大戦後も、イギリスの実質的な支配が続いていた。
 
 同胞団の反英闘争も続いた。前述した、イスラエルの独立に伴う第1次中東戦争にも、同胞団は義勇兵をパレスティナに送り、名声を博している。かくて同胞団は、他のアラブ諸国にも支部を作っていく。パレスティナ、シリア、ヨルダン、イラクなど、その勢力は更に大きくなった。
 
 ところが、本部のあるエジプトでは、下部組織が暴走し、バンナーは暗殺される。54年、秘密結社として結成された自由将校団(the Free Officers Movement)のナセルが全権を握ると、ムスリム同胞団は非合法化されてしまった。
 
Aナセルの時代(1954〜70)とサダトの時代(1970〜81)
 
 ナセルは52年、王制打倒のクーデターを成功させた。そして56年、スエズ運河国有化宣言を出したことで、第2次中東戦争が起こった。大統領のナセルは、この戦争を指導して、アラブ民族運動のリーダーとしての地位を固めた。そして、大企業の国有化、計画経済などの社会主義政策による、近代化・世俗化を進めていく。しかし67年の、第3次中東戦争で、あまりにも惨めな負け方をしたので、権威を失墜し、まもなく病死した。同時に、ナセル主義が力を失い、イスラムへの回帰が始まった。
 
 サダト大統領はナセルの後継者であるが、政策は全く異なっていた。アラブ民族主義の色合いを薄めて、ムスリム同胞団の復活を容認している。そして、世俗化と再イスラム化を並行的に進めている。一方、アメリカやイスラエルと協調していく道を選んだ。そして79年、アメリカの仲介で、エジプト・イスラエル平和条約を結んで、イスラエルとの国交を樹立した。しかし、その動きを反イスラムと見なされて、イスラム過激派に暗殺されている。
 
Bムバラクの時代(1981〜2011年)
 
 サダトのあとはムバラク政権が成立した。ムバラク大統領は、自由化を進めながら、他方ではアラブ諸国との関係修復にも努めた。彼はサダトの路線を踏襲したと見ることが出来よう。ムバラクの下で、近年のエジプト経済は、年率6〜8%の成長を遂げ、政権は安泰だと思われていた。
 
 しかし、それが自信過剰になったのであろうか。彼の政権運営は、次第に保守的で強圧的になっていく。例えば、彼の政治姿勢に反対する政治家や裁判官は、投獄・拷問などの迫害を受けた。また、ムスリム同胞団への圧力も強め、2010年の議会選挙では、不正操作によって同胞団の議席を、88から一挙にゼロにしている。更に、30年の長期にわたる政権にしがみつき、82歳という高齢にもかかわらず、6期目の大統領選出馬を意図したのである。
 
 若者の高失業率や、物価の上昇による生活苦が、直接の引き金になったことは確かである。しかし、政治改革への期待は、国民の間だけでなく、ムバラクの閣僚の中でさえ強かったのである。かくて、チュニジアの政変に触発され、またツイッターやフェイスブックなどの通信革命にも影響を受けて、ムバラクは大統領の座から引きずり下ろされることになった。
 
 なお、この政変で重要だったことを2つ挙げておこう。一つは、独裁者といえども手がつけられなかった、イスラム教のモスクが運動の拠点になったことである。今一つは、世界10位を誇る軍隊が、中立を守って動かなかったことである。今後のエジプトがどうなるのかは、予断を許さない。多分、軍部とムスリム同胞団などの宗教勢力が、鍵を握ることになるであろう。(「詳説世界史研究」p492~93,p501,p527)(「イスラームの歴史2」p37~51)(「ナビゲーター世界史4」p221~222)(「TIME February 14/2011」p16~25)
 
(2)サウジアラビア 
 
@近代化とそれへの反発
 
 19世紀初頭、この地域にはサウド家によるワッハーブ王国があった。しかし、オスマン帝国の命を受けた、エジプトのムハンマド・アリーに滅ぼされた。オスマン帝国からメッカの管理権を委ねられていたフセインは、前述したフセイン・マクマホン協定で、イギリスからアラブ諸国の独立支援の約束を得て、オスマン帝国に反旗を翻した。
 
 ところが、第1次大戦が終わると、フセインの王国はサウド家の攻撃を受けて崩壊した。イギリスはサウド家の独立を認めて、1932年、サウジアラビア王国が成立した。サウジアラビアは、ワッハーブ派の伝統を受け継ぎ、イスラム各教派の中でも、戒律が厳しいのが特徴である。
 
 第2次大戦後も、建国以来の保守的な体制が取られていた。しかし、急激なアラブ民族主義の高まりに対応できず、国王をファイサルに代えて、王国の政治・経済・社会の近代化に舵を切った。だが、憲法や議会を持つまでには至らなかった。
 
 第4次中東戦争(1973年)時には、前述のように、石油輸出国機構(OPEC)、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の中心となって、石油戦略を指導し、石油危機(オイル・ショック)を起こしている。サウジアラビアは、石油埋蔵量で圧倒的な地位を誇っており、それ以降、石油を戦略商品として用い、世界経済における発言力を強めている。(「ナビゲーター世界史」p175,p224)(「イスラームの歴史2」p49~50)
 
 しかし、サウジアラビアの親米政策や、石油危機以降のオイルダラー流入による世俗化の進展に対して、イスラムの立場からする反発が強まった。そして現在は、伝統的ワッハーブ派への回帰などで、イランに次ぐ保守的なイスラムの国になっていると言えよう。
 
 また2011年、エジプトなどの動乱に影響され、特に、隣国バーレーンにおけるシーア派のデモの高まりを受けた、王政に対する反発や、国内少数シーア派の政治・経済改革の要求デモなどが起きている。それに対して、政府側が神経質になっており、武力鎮圧も含めた強硬姿勢を強めている。
 
Aメッカ巡礼
 
 サウジアラビアについて、特に述べておかねばならぬ事は、メッカへの巡礼についてである。
 
 20世紀後半になって、ジャンボジェット機などによる交通革命が、巡礼を容易にした。また、もともと巡礼熱の高かった、インドネシア、ナイジェリアなどと言った産油国の石油価格の高騰による所得向上は、巡礼熱に拍車をかけた。
 
 20世紀前半の巡礼は、毎年数万人であった。ところが、20世紀も終わりになると、200万人を超える規模に拡大した。サウジアラビア政府は、聖地の様々な施設の収容能力を次々に拡大していった。それでも巡礼者は増加を続け、サウジアラビア政府はイスラム諸国会議機構とはかって、巡礼者の規制に乗り出した。
 
 今では、加盟国の人口1000人につき1人の、巡礼者を送り出す権利があるものとして、国際協調がなされている。これはイスラム連帯の新しい形であり、国家間の協調の指標として、宗教が実質的な役割を果たしており、画期的なことであるといえよう。(「イスラームの歴史2」p245~247)
 
(3)イラクとシリア
 
 前述したサイクス・ピコ協定により、フランスはシリアを、イギリスはイラク、パレスチナを委任統治領とした。アラブ側は反発・抵抗したが、英・仏は、前述したフセイン・マクマホン書簡の当事者であるフセインの子を、イラク王やトランスヨルダン王にするなどの懐柔策を採った。この時、歴史的な統一体であったシリアは、現在の国家すなわちレバノン、シリア、パレスチナ、トランスヨルダンに分割された。
 
 各地で独立運動が続き、英・仏もそれら勢力と妥協せざるを得なかった。イラクは1922年にイラク王国として独立している。またレバノンは44年に、シリアは46年に独立した。(「詳説世界史研究」p460~461,p463)
 
@イラク
 
 イラクでは、イギリスの支援を受けていた王政が、1958年の共和革命(イラク革命)によって倒された。この時期以降、人口の6割を占めるシーア派の間にも、世俗主義的なイデオロギーに惹かれるものが急増した。それに危機意識を持ったウラマーらは、イスラム政党を作って対抗している。
 
 しかし、1968年にバアス党(アラブ民族復興社会主義党)が権力を握ると、世俗主義と反イスラム政策が強められた。イラン革命(1979年)が起こると、イラクでも、それに刺激を受けたムスリム同胞団など、イスラム的反体制派による革命の兆しが見えた。
 
 同じ79年に、サダム・フセインが全権を掌握すると、そうしたイスラム復興運動を弾圧し、バアス党の支配体制を強化した。彼はイスラム指導者を処刑し、更に、自国内シーア派系住民に、イラン革命が波及するのを防止するために、イラン領内に攻め込んだ。8年にわたる、イラン・イラク戦争(1980〜88年)は、国連が調停に乗り出すまで決着がつかなかった。
 
 サダム・フセインは、1990年、石油資源を狙って隣国のクエートに侵攻し、翌年、アメリカを中心とする多国籍軍に敗れている。また、後述する2001年の同時多発テロに衝撃を受けたアメリカは、イラクが大量破壊兵器を持っているとのニセ情報によって、イギリスと共にイラクを攻撃し、フセイン政権を崩壊させた。(「イスラームの歴史2」p50~51)
 
 その後、新政府が誕生したが、占領軍とその協力者に対する憎しみに基づくテロと、シーア派とスンニ派間の宗派対立テロが続発し、またアラブ人とクルド人の民族対立も加わり、混乱が続いている。
 
Aシリア
 
 シリアでも、他のアラブ諸国同様、民族主義運動が強まり、シリア・バアス党が台頭した。それに対して、イスラム同胞団を始めとするイスラム勢力も力をつけ、1970年代になると、両者の対立は深刻になった。80年代は凄惨な内戦状態となり、最後はバアス党が、同胞団を武力によりねじ伏せる形で終止符が打たれた。
 
 それ以降シリアでは、バアス党のアサド家が独裁的な統治を行っている。アサド家は、少数派のシーア派(総人口2200万人の15%)に属するが、世襲的に大統領権限を独占し、長期政権を維持している。国は50年間に及ぶ非常事態宣言下で、厳しい治安統制を行ってきた。
 
 2011年のアラブの動乱は、シリアにも波及し暴動も起こった。しかし、政府は武力弾圧で臨み、かなりの死者も出している。非常事態令は解かれたが、国民への締め付けは一層厳しくなっているようである。外国メディアを締め出しているので、詳細は明らかではないが、シーア派イランの支持を受けており、安定を望む多数派のスンニ派もあまり動かず、政権支配は揺るぎそうにないように思われる。(TIME April8/2011、p16)(「イスラム原理主義がすべてわかる本」p43~44)
 
(4)イエメン、オマーン、バーレーン
 
 第二次大戦後、アラビア半島においても、民族主義、世俗主義が力を得た。伝統的なイスラム王朝であった、半島南部の北イエメン、オマーンがそうである。なお、アラビア半島では、1961年クエートが、71年には、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタールも独立した。いずれも、同じ世俗主義的流れの中で成立したと考えてよかろう。
 
@イエメン
 
 北イエメンは長い間、シーア派の系譜をひく王朝が盛衰してきた。ところが、1918年に生まれた王朝は、62年、エジプトの支援を受けた自由将校団に打倒された。サウジアラビア王国は、君主国が連鎖的に倒れることを怖れて王党派を支持し、エジプト支援の共和派との間で内戦が続いた。そして70年、王党派と共和派の妥協の結果、共和制が成立したのである。1990年には、ソ連の崩壊によって、その支援を失った南部地域を統合して、イエメンが生まれている。
 
 イエメンの特徴は何といっても、後述するテロリスト集団アルカイダ(カイダは基地、根拠地。アルは定冠詞)の、一大供給源だということである。その理由は次のように要約できるであろう。この国には、石油などの資源が乏しく、周辺アラブ諸国へ出稼ぎに行く者からの送金で生きている。首都サナアでは、アラビア半島では珍しく乞食が溢れていると言われる。それほど貧しいのである。
 
 人口増加率が高く、30歳以下の若者が、国民2400万人の74%という驚くべき高率を占めている。しかも、15歳から29歳までの半分が、学校にも行けず職にも就けない、いわゆるニートである。おまけに、アルカイダの指導者オサマ・ビン・ラディンの出自であるビン・ラディン家は、イエメン出身である。まさに、アルカイダ徴募の最適環境と言えよう。
 
 更に政権は、アラブ諸国の例に漏れず、独裁的で汚職がはびこり、現大統領のサレハは、23年という長期にわたって権力の座にある。国内的には、北部ではシーア派の反乱、南部では分離独立運動が起こっており、政情は激しく動揺している。2011年のチュニジアやエジプトの動乱は、それを一層促進した。
 
 一方アメリカは、テロリストの温床であるとして、「アラビア半島アルカイダ(AQAP)」を叩くべく、この政権に軍事援助を行っている。しかし、この不安定な政権を今後どうするのか、後継者選択も含めて決断を迫られている。(「TIME、MARCH14/2011」p28~33)
 
Aオマーン
 
 オマーンの主要なイスラム学派は、前述したハワーリジュ(離脱者)派(シーア派とスンニ派が分裂する時に、そのいずれにも与しなかった一派)の流れを汲む、穏健派であった。この派のウンマ(イスラム共同体)代表の選出の仕方は、優れた信徒の中から選出されれば誰でもよいという考え方であった。
 
 だから、1960年代まで続いたオマーン朝イマーム(教主)は、世襲によらず選挙で政治的指導者として選ばれてきた。しかし、このイマーム制も、世俗的な君主であるスルタンによって制圧され、その系譜が絶えた。その後のオマーンは、スルタンによる絶対君主制を続けている。石油や天然ガスを輸出し、政治的には安定していると言われている。(「イスラームの歴史2」p44~45)
 
Bバーレーン
 
 ペルシャ湾岸アラブ国の一つバーレーンは、もと英国領であったが、1971年に独立した。この国は、ペルシャ湾内のバーレーン諸島から成る、人口約110万の小さな首長国である。産出量は少ないものの、石油が頼みの綱である。
 
 この国の特徴は、政治権力がスンニ派の王室に握られており、人口の7割を占めるシーア派住民を支配していることである。2011年、チュニジア、エジプトの動乱に刺激されて、シーア派住民は、就職差別などの不当な扱いの改善や、議院内閣制を要求して、デモを繰り広げている。
 
 王室側は、武力行使を押さえて、一定の譲歩を示してはいるが、議院内閣制などの政治的要求を受け入れれば、スンニ派王政が崩壊しかねず、拒否している。そのため、王制打倒を叫ぶ若者も多く、デモ終結の見込みは立っていない。(「朝日新聞、2011年3月5日」p8) アメリカは、バーレーンに第5艦隊の基地を置いており、また、親米サウジアラビアの王室が、湾岸諸国の王政の不安定化に危機意識を持っており、迂闊に動けない状態である。
 
(5)北アフリカ
 
 長らくオスマン帝国の支配下にあった北アフリカの、チュニジア、アルジェリア、リビアは、19世紀〜20世紀にかけて、西欧の植民地となった。しかし、これらイスラム諸国は、反植民地闘争を通じて独立を勝ち取っている。
 
@チュニジア
 
 1881年にフランスの植民地となったが、1956年に独立している。アラブ諸国の中で、もっともトルコに近い、脱イスラム、世俗化を推し進めたのはチュニジアであろう。建国の父ブルギバは、独立の翌年に王政を廃止し、その後共和国大統領として、長い間独裁的に支配した。彼は、ラマダン月の断食を拒否したことなどで知られている。
 
 やがて、イスラム復興の高まりにつれて、社会的緊張が強まると、彼を強制的に引退させて、87年からベン・アリ政権が成立した。ベン・アリも世俗主義を堅持した。しかし彼は、独裁者の性癖とも言うべき長期政権へのしがみつきが見られ、しかも、貧富の格差や若者の失業問題などには冷淡で、汚職のはびこる政権運営を行った。
 
 そのため、2011年初頭、アラブ諸国のトップを切って、民衆の反乱が起こった。軍も殆ど動かず、またフランスも介入するのを拒否したので、ベン・アリは国外逃亡を余儀なくされた。その後、暫定政権も生まれているが、チュニジアの将来は不透明なままである。(「イスラームの歴史2」p42)しかし後述するように、チュニジアはアラブ諸国の中で、民主化一番乗りを期待できる条件を持つ国でもある。
 
Aリビア
 
 リビアは、イタリアの植民地であったが、1951年、トリポリやキレナイカなどから成る連合王国として独立した。アフリカで、戦後初めての独立国であった。しかし1969年、ガダフィーによるクーデターで王政は倒されている。
 
 ガダフィーは、イスラムとアラブ民族主義及び社会主義を融和した思想を、建国の基礎に置いた。直接民主政を標榜し、政党なし、議会なし、政府なし、元首なしの政治体制を唱えている。しかし、事実上の国家元首はカダフィーであり、彼の独裁国家であるということができよう。
 
 ガダフィーは、徹底した反西欧、反キリスト教主義であり、1970〜80年代にかけて、リビア発のテロがヨーロッパやイスラエルで続発した。特に、88年のイギリス上空におけるパンナム機爆破事件は、欧米を震撼させた。アメリカなどは、経済制裁を課し、更にはガダフィー暗殺を企てている。
 
 さすがのガダフィーも、2003年のイラク戦争におけるサダム・フセインの運命を、自分の末路と感じたと言われるが、次第に態度を軟化させた。そして核武装の放棄宣言や、パンナム機の犠牲者に対する補償の申し出を行ったりしている。一方アメリカなどは、経済制裁やテロ国家指定を解除している。そのような関係改善を背景に、豊富な石油資源獲得を目指して、欧米や中国などは、次々に開発契約を結んできた。(「ナビゲーター世界史4」p216)
 
 しかし、42年にも及ぶ長期の独裁政治に、国民の反発は強まってきている。隣国チュニジアやエジプトの反乱を機に、リビアでも反政府運動が起こった。しかしガダフィーは一歩も引かず、武力攻撃で応えた。そのため、完全な内戦状態に突入した。政府側が武力では勝っており、長引けば反政府側は鎮圧される懸念が大きい。欧米が、どのような反政府勢力支援に出るか注目されている。
 
Bアルジェリア
 
 アルジェリアはフランスの植民地であったが、第二次大戦後、民族解放戦線(FLN)が、反仏の武装闘争をすすめた。フランスは軍備を増強して鎮圧に努めたが、財政負担に耐えられなくなり、1962年、アルジェリアの独立を認めた。(「詳説世界史研究」p502)
 
 20世紀後半、複数候補による大統領選挙、先進国との外交の活発化などを行って、民主化傾向、国際融和の姿勢を見せるようになった。しかし、アラブ諸国の例に漏れず、首長が権限にしがみつく傾向は、この国でも変わらない。現大統領は、任期5年の2期制であった条項を撤廃し、3選を可能にし、強権支配を続けている。
 
 石油、天然ガスに恵まれているが、失業率が高く、食糧価格高騰や、政治腐敗に国民の不満は高まった。隣国チュニジアに触発されて、2011年、反政府運動が起こっている。しかし、20年近く続く非常事態宣言下にあり、デモは弾圧されている。
 
5.イランとアフガニスタンの動向
 
(1)イラン革命
 
 イランには、トルコ系のカージャール朝(1796〜1925年)があったが、第1次大戦中も、イギリス、ロシアから圧迫を受け、威信は低下していた。そこで、レザー・ハーン(位1925〜41年)はクーデタを起こし、自ら国王(シャー)を名乗って、パフレヴィー朝を建てた。その後、国名をペルシャからイランに変えている。しかし、一番重要な石油の利権は、イギリスに握られたままであった。
 
 レザー・ハーンは、ケマル主義を自認し、トルコと同じような世俗主義国家を考えていた。しかし、シーア派のウラマーと妥協せざるを得ず、ケマルのようにイスラムの息の根を止めることが出来なかったので、矛盾に満ちた仕組みしか出来なかった。更に、レザー・ハーンは、第2次大戦中、親ドイツ的な態度を取ったために、英・ソの圧力で退任させられている。
 
 一方、民族主義運動の矛先は、反王制及びイギリスのイラン石油独占に向けられた。モサデグ(在任1951〜53年)が国民戦線の指導者となり、首相として、石油国有化宣言を行っている。
 
 しかし、アメリカの後押しを得て、レザー・ハーンの息子パフレヴィー2世(位1953〜79年)が、モサデグを追放して国王に帰り咲いた。彼は「白色革命」と称して、農地改革、工業化、女性参政権などの西欧化政策を、積極的に実施した。だが、増税、貧富の差の拡大などで、国民の間に不満が高まった。反乱が続発し、国王は軍の無差別銃撃で応えた。
 
 1979年、シーア派のウラマーであるホメイニが、「イラン革命」を起こしてパフレヴィー朝を倒した。そしてイランは、シーア派(十二イマーム派)の国家になった。イラン・イスラム共和国憲法は次のように述べている。「救世主(隠れイマーム)の再臨までは、正しく人々から尊敬されるウラマー(イスラム学者)に国家と社会の指導を任せる。」と。イスラム国家の完全復活であった。
 
 イラン革命の混乱の中、イランからの石油輸出が止まったために、石油価格が高騰し(第2次石油ショック)、世界に衝撃を与えた。更には、この混乱に乗じて、イラクが戦争を仕掛けてきたために、前述のイラン・イラク戦争(1980〜88年)が起こった。
 
 イランは、欧米特にイスラエルに対する敵視が激しい。一時、保守派の大統領も出たが、イスラエル殲滅や核武装を唱える強硬派の大統領が生まれて、欧米との間で緊張が続いている。(「詳説世界史研究」p492)(「ナビゲーター世界史3」p102,p220)(「イスラム原理主義がすべてわかる本」p51~59 )
 
(2)アフガニスタンとアルカイダ
 
@アフガニスタン
 
 イギリスとの間の3回にわたるアフガン戦争に勝ったアフガニスタンは、1919年、独立が国際的に承認された。その後は、保守的な王朝の下で、近代化は非常に緩やかにしか進まなかったが、1973年には、国王の従兄弟による共和革命が起こった。
 
 1978年には、共産党のアフガニスタン人民民主党が、権力を掌握している。その一方、イスラム復興運動が始まり、イスラム協会、イスラム党などが設立されている。79年には、共産党政権を守ると称して、ソ連軍が侵攻すると、イスラム復興諸派は、スーフィー教団、王党派、部族勢力とも連携して(時には反目しながら)、反ソ闘争を継続していった。
 
 反ソのイスラム勢力は、ムジャヒディーン(ジハード戦士)と呼ばれた。共産主義という共通の敵を持つことで、イスラム勢力の連帯現象が起こり、エジプト、ヨルダン、イエメン、アルジェリアなどからアラブ人義勇兵が参加した。一方、アメリカの支援を受けたため、米ソの代理戦争的様相も帯びた。80年代を通じた戦いによって、89年にはソ連軍の撤兵を勝ち取り、92年には共産政権も倒している。
 
A アルカイダの反米闘争
 
 上記のアフガニスタン闘争を共通の場としたことで、イスラムの国際的闘争のネットワークが誕生した。その中心的な組織者の一人が、アルカイダのオサマ・ビン・ラディンであった。今までの経緯から分かるように、アルカイダは本来、反ソ義勇兵を基盤としていた。それを決定的に変容させたのが、前述した1990年の湾岸危機であった。この年、イラクがクエートを占領・併合したので、湾岸戦争が起こった。
 
 アラブ人の国が、他のアラブ国を占領することで、アラブ民族主義のさらなる衰退を招いた。しかし、イスラム世界にとって衝撃的であったは、イスラムの盟主サウジアラビアが、イラクの脅威に対処するために、アメリカ軍に基地を提供し、国内に招き入れたことである。イスラム国家が非イスラム国家の軍事援助を受けて、他のイスラム国家と戦うことの可否が、イスラム世界の論議の的になった。
 
 ビン・ラディンはこの問題について、メッカ、メディナの2聖地を擁するアラビア半島全域を聖域と考え、聖域がアメリカに占領されたとの解釈をした。それ以降、彼とその支持者達は、反米路線を採るようになり、アメリカ側もアルカイダを敵視するようになった。そして、それが2001年9月11日の、同時多発テロに繋がっていくのである。こうして、冷戦が終わり唯一の超大国となったアメリカと、イスラム・ゲリラ組織が、真正面から対峙する構図が出来上がった。
 
 同時多発テロは、アルカイダのメンバーにハイジャックされた民間機が、ニューヨークの世界貿易センター・ツインタワーとワシントンの国防総省に突入して、多数の死傷者を出した事件である。いまだかって一度も、本土を攻撃されたことのないアメリカにとって、極めて深刻な打撃となった。アメリカは「反テロ戦争」を宣言した。
 
 先ず、2001年にはアフガニスタンを攻撃した。そして、アルカイダを匿ったとして、タリバン政権が駆逐された。新しい政府は出来たが、アメリカの支援がなければ統治能力のない、脆弱なものでしかない。またタリバンやアルカイダは、パキスタンとの国境地帯に潜み、アメリカ軍や政府側にゲリラ戦を仕掛けて、国内を混乱させている。
 
 次にアメリカは、「先制攻撃ドクトリン」を唱え、脅威に対して先制攻撃を加える権利を主張した。そして、03年、サダム・フセインのイラクに対する攻撃として現実化する。フセインが、核兵器あるいは大量破壊兵器を持っており、かつ、アルカイダと結びついているという疑惑をもとに、アメリカ、イギリスを中心とする多国籍軍が、イラクを攻撃してフセイン政権を壊滅させた。
 
 しかしイラクでは、アメリカに対する武装闘争が始まり、イスラム諸国からの義勇兵がイラクに集まった。この時アラビア、イエメン、パキスタンなどからイラク入りした義勇兵は、徹底的な武装闘争を推進する急進派となった。更に、政治的に相容れないと、ムスリム同士(特にスンニ派とシーア派)でさえも、不信者と断罪して攻撃する過激派も登場した。(「イスラームの歴史2」p262~266)
 
 アフガニスタンとイラクに攻め入った、アメリカを先頭とする多国籍軍は、民主主義的政治システムや平和な社会の確立というような、目的を達成せぬままに撤退しつつある。では、彼らが後に残したものは、混乱以外に何があるのであろうか。独りよがりのイデオロギーを押しつける傲慢さによって、中世の十字軍時代と同様の、相互不信と憎悪だけを人の心に刻みつけたとすれば、どこに人類の進歩があるのであろう。
 
 2011年、オサマ・ビン・ラディンは、パキスタンで、アメリカの特殊部隊により急襲・殺害された。これはアメリカの「反テロ戦争」における、象徴的な勝利であった。しかしすべてのアルカイダが、ビン・ラディンの指揮下にあるわけではない。欧米キリスト教勢力が、反イスラム的な言動を続ける限り、ムスリムの心は溶けず、イスラム過激派によるテロは、今後も世界各地で起こることを覚悟しておく必要がある。
 
6.中南アフリカ(サハラ以南のアフリカ)の動向
 
 この地域では、1957年に、ガーナが戦後最初の黒人の独立国家となった。そして、1960年は「アフリカの年」と呼ばれており、この年だけで17カ国が独立している。1963年には、アフリカ諸国の統一と連帯を目指した、アフリカ統一機構(OAU)が、2002年には、その延長線上に、ヨーロッパ連合(EU)をモデルに、アフリカ連合(AU)が誕生している。
 
 だが、植民地時代のヨーロッパ諸国による、恣意的な境界の設定が、独立後の各国の境界を規定するケースが多かった。これをイスラムという立場から眺めると、独立後の様々な矛盾や困難を生み出すことになっている。
 
(1)ナイジェリア
 
 西アフリカでは、歴史的な流れから見ると、イスラムは北のサハラから内陸サバンナに向かって南下していった。それに対して、西欧の植民地支配とキリスト教は、南の海岸と森林地帯から、北の内陸に向かって進んでいった。このため、北部のサバンナ地帯と、南部の森林地帯では、同じアフリカ人同士とは言っても、部族的相違と重なって、経済的格差や宗教文化の違いがはっきりと見られる。
 
 このような特性を持つのは、植民地経営上の都合から、内陸サバンナと海岸部を結びつけられた国々である。例えば、ナイジェリア、ガーナ、コートジヴォワールなどがそうで、経済格差や教育格差をめぐる問題が、イスラムとキリスト教という宗教問題に結びつき、国民統合の阻害要因となっている。
 
 こうした状況は、北部のアラブ系ムスリム勢力と、南部の黒人キリスト教勢力が、長い間抗争を続けてきて、最近(2011年)住民投票の結果、南部の分離独立が決まった
スーダンでも、共通しているものである。ここでは、ナイジェリアの事例を見ることとしよう。なお、ナイジェリアのムスリム人口は約1億1千万人で、世界第4位である。
 
 1962年、イギリスの植民地であったナイジェリアは、北部、西部、東部の3州から成る連邦制の国として独立した。北部ナイジェリアでは、ソコト・カリフ国以来の、伝統的な政治文化が形成されていた。また、ハウサ族、フルベ族の人たちを中心に、サハラ以南における最大のムスリム人口を擁していた。かくて、連邦議会では、北部の政治結社が多数派を占め、北部の政治勢力が優勢に立っていたのである。
 
 だが内陸に位置する北部は、港湾を持ち輸出産品に富む南部(東部州、西部州)に対して、経済的には大きく遅れを取っていた。特に、南部で開発された油田は、その格差を更に拡大した。1966年、北部勢力に不満を持つ、イボ人将校による軍事クーデターが発生した。そして、北部のムスリム政治指導者を含む、連邦政府幹部が殺害された。
 
 その報復として、北部州にいたキリスト教徒イボ人が、ムスリムによって大量虐殺された。これを契機に、東部州は連邦からの離脱と、ビアフラ共和国の独立を宣言し、連邦軍との間で内戦状態になった。いわゆる「ビアフラ戦争」である。結局、東部州の降伏に終わったが、100万人を超えるイボ人難民を出した内戦は、ナイジェリア社会に深い傷を残した。
 
 北部のムスリムは、州のレベルではイスラムの普遍的な価値を標榜しつつ、連邦レベルではキリスト教勢力との関係を調整するという、困難な課題を担うことになった。イスラム的価値の実現を求める北部は、中東のイスラム主義運動からの刺激を受けつつ、失業、政治の腐敗、社会的不公正、犯罪や売春の増加などの社会悪に対する懸念と、それに対する政治の無策に対する怒りが、ムスリム大衆に浸透していった。
 
 99年に、北部諸州でシャリーア(イスラム法)導入の動きが起こり、大衆の間に熱狂的な支持が広がった。これに対して、キリスト教徒は危機感を深めたが、2000年、北部でのシャーリア導入をめぐる衝突で、キリスト教徒側に1000人を超える死者が出た。これに対して南部では、北部出身のムスリムに対する報復虐殺が起こり、数百人規模の犠牲者を出している。
 
 このような、イスラム的価値の追求と、連邦制維持というジレンマを、解く方程式はなかなか見いだせていない。今後も、この難題は継続して行くであろう。(「イスラームの歴史2」p116~118、p121~123)
 
(2)セネガル
 
 フランス植民地であった西アフリカの中でも、セネガルは、アフリカにおけるイスラムの、成熟した形をよく示していると言えよう。植民地時代、他のイスラム世界と隔離されたために、セネガル特有の色彩を持ったイスラムが、在来の文化や社会の中に深く浸透し、そのイスラムを核とした、特色のある社会的・文化的現象を生み出している。
 
 フランスの政教分離の原則を受け継いだセネガルは、政治的な世俗主義を一貫して守っている。だが、ムスリムが国民の95%を占め、その大半が何らかの形でスーフィズム(神秘主義)教団に関わっているので、イスラムの存在は政治的に大きな影響力を持っている。だから政府は、教団の指導者達と良好な関係を作り、大衆の願望や不満が、危険な形で噴出しないように気を配っている。
 
 イスラムがそれだけの力を持ち得ているのは、前述したスーフィー教団の聖者、アマドウ・バンバによるところが大きい。バンバの墓廟は巨大な巡礼地となっており、毎年数百万人の巡礼者を集めていると言われる。彼の図像は、写真、絵画、ステッカーなどなど、あらゆる形に模写・復刻されて、広く流布している。ここにも、偶像崇拝を嫌うイスラム本流とは違う、セネガル・イスラムの特色が見られる。
 
 1970年代以降、一次産品の国際価格下落と旱魃で、農村経済が崩壊した。しかし農民達は、バンバの教団の絆によって、労働と信仰を結ぶ特有の信仰スタイルを確立し、苦難を乗り越えていった。そして、農民だけでなく、零細な都市労働者をも取り込んだ信者のネットワークは、現在では、セネガル経済の無視できない要素にまでなっている。
 
 更にアマドウ・バンバの教団活動は、今日ではヨーロッパやアメリカへの移住を通じて、グローバル化していることも注目される。(「イスラームの歴史2」p118~121)
 
7.南アジア(インド、アフガニスタン、バングラデシュ)の動向
 
 今まではこの地域を、インドとして纏めて記述してきた。しかし、第2次世界大戦後、インドからパキスタン、バングラデシュが分離独立した。今後はこの地域を南アジアという表現に改めることとしよう。
 
(1)インドのイギリスからの独立
 
@独立まで
 
 第1次世界大戦中、イギリスはインドに協力させ、その見返りに、戦後には自治を与えると約束した。しかし実際には、1919年にとんでもない見返りを与えた。それは、インド統治法とローラット法である。インド統治法の内容は、インド人の自治要求の期待に逆らうものであったし、ローラット法にいたっては、裁判抜きで容疑者を投獄できるという、ひどい弾圧法であった。
 
 更に、アムリットサール事件が起こった。これは、パンジャブ地方のアムリットサールで開かれたローラット法反対の集会に集まった人々に、イギリス軍が「弾が尽きるまで」無差別に発砲し、1000人以上ものインド人犠牲者が出たという事件である。
 
 それに対して、ガンディーが、サティヤーグラハ(真理の把握)を唱えて、非暴力・不服従運動を行った。しかし、これらの反英運動は、指導者の意見対立、またヒンドウーとイスラム両教徒の対立、それにつけ込んだ、イギリスによる分割統治政策や、激しい弾圧などが重なり、静まってしまった。
 
 その後1929年、インド国民会議派のラホール大会で、ネルーが指導者となり反英運動が再開された。この時掲げられた目標は、従来の自治ではなく完全独立であった。これに対してイギリスは、様々な懐柔策を試みたが失敗した。そして1935年、イギリスは新インド統治法を制定したが、これもインドの真の独立には、ほど遠いものであった。
 
 しかし1945年、第2次世界大戦が終わると、イギリスにはもはやインドを押さえる力はなかった。そして1947年、インドはイギリスから独立した。
 
Aインド独立後
 
 ネルーがインドの初代首相になり、非同盟諸国の中心人物として活躍した。非同盟諸国とは、戦後米ソ間の冷戦が激しくなる中、いずれの陣営にも属さない、いわゆる「第3勢力」である。平和共存、民族解放闘争の援助、植民地主義反対などを宣言し、平和を維持しようと世界に呼びかけた。
 
 しかし現実には、チベットのダライ・ラマの、インドへの亡命が原因で、中印国境紛争(1952〜62年)が起こっている。更に、後述するように、パキスタンが分離独立すると、カシミール地方をめぐって、インド・パキスタン戦争を行っている。そして、核武装を強行している。
 
 ネルー以降首相になった、インディラ・ガンディー、その息子のラディブ・ガンディーも暗殺され、混乱が続いた。しかし近年インドは、IT産業の発達も目覚ましく、貧しいインドのイメージから脱却している。特に最近は、世界経済のエンジンBRICs(ブリックス=ブラジル、ロシア、インド、中国)の一角として、注目を浴びている。(「ナビゲーター世界史4」P97~99,P163~64,P226) 
 
(2)パキスタンの独立
 
@イスラム化と世俗主義の狭間で
 
 インドが独立した1947年、パキスタンのインドからの分離独立運動の先頭に立ったのは、ジンナー(1876〜1948年)であった。ジンナーはインドのムスリムが、
ヒンドウー教徒とは、言語、宗教、習慣などを異にする、別個の民族であるとした。そして、民族自決に基づき、ムスリムが国家を持つべきであるという「二民族論」を提唱した。
 
 こうしてパキスタンは、インドを挟んで東西に国土を持つ、特異な国家として成立したのである。この独立に伴い、インド領内にいたムスリムはパキスタン側へ、パキスタン側にいたヒンドウーやシク教徒はインド領へと移動した。その際発生した動乱で、数十万人の犠牲者が出ている。
 
 またこの地域における最大の懸案事項は、カシミールの領有をめぐるインドとパキスタンの対立である。前後3回にわたって、インド・パキスタン戦争が起こっている。両国の対立は、1998年、双方が核実験をしたことで緊迫した。その後は、外交を通じて関係改善が進められているが、パキスタンはイスラム世界唯一の核保有国となった。
 
 さて、ジンナーは独立に当たって、西洋的な議会民主主義に基づく、世俗的な国家の建設を目指していた。しかしその後、現在に至るまで、パキスタンがイスラムの原則に立脚するイスラム国家か、世俗的なムスリム国家かという議論は続いている。一言で言えば、政教分離をするのかしないのかと言うことになろう。
 
 実際政治面でも、世俗化に傾斜しがちな政府と、世俗化に反対するイスラム諸勢力との間での、せめぎ合いを中心に展開された。政府の姿勢も揺れており、イスラム化にもっとも近づいた例としては、1977年のズイヤーウル・ハク政権が挙げられよう。ズイヤー大統領は戒厳令下で綱紀粛正を掲げ、預言者とその子孫を冒涜する罪の適用(冒涜法)、シャリーア法廷の設置、利子の廃止、宗教税の導入などを行っている。
 
Aパキスタンの国際化とイスラム化
 
 しかし、このような国内での世俗とイスラムのせめぎ合いは、1970年代の後半以降、冷戦の影響と、国際的なイスラム復興の波の中に巻き込まれていく。と言うのは、その頃から西欧諸国は、パキスタンを、ソ連の影響下にあるアフガニスタンに対する反共拠点とした。そして、反共主義を掲げるアフガニスタン人ムスリムをパキスタンに呼び、反政府活動を、ジハード(聖戦)として支援し始めたのである。
 
 79年、ソ連軍はアフガニスタンの共産政権保護を口実に侵攻した。こうして対ソ戦が始まると、パキスタンは、冷戦における西側の代理戦争当事者になり、西側から莫大な支援金が供与されたのである。また、共産主義に対するジハードが掲げられたため、世界各地のムスリムもムジャヒディーン(ジハード戦士)として参戦した。かくてパキスタンは、対ソ戦争ジハードの基地となった。
 
 同じ79年に、隣のイランではシーア派イスラム革命(イラン革命)が起こった。イランは反米の旗印を掲げたので、パキスタンは西側に協力的なイスラム国家として位置づけられ、86年のソ連のアフガニスタン撤退まで、豊富な資金を獲得した。
 
 対ソ戦終了後、欧米からの支援は打ち切られた。政府も軍政から民政に移行し、国家におけるイスラム化は急速に影を潜めた。91年の湾岸戦争では、パキスタン軍は多国籍軍の一員として、ムスリム国家であるイラク攻撃に派兵を決定している。
 
 しかし、このような世俗化の波の中でも、南アジア社会ではイスラム化の運動が勢いを増した。中でも、「アヨーディヤー事件」は、世界の注目を集めた。伝説によると、インド北中部のヒンドウー教の聖地、アヨーディヤーにあるイスラムの寺院は、イスラム王朝ムガルの創始者バーブルが、ヒンドウーの神ラーマの寺院を破壊して建設したというのである。92年、一部のヒンドウー教徒がこれを破壊し、ヒンドウーとムスリムの衝突が、南アジア各地に拡散し、ムスリムを中心に1000人以上の死者を出した。
 
 また、ボンベイ(現ムンバイ)生まれで、イギリス国籍の作家ラシュディーによる小説「悪魔の章句」(1988年)が、預言者ムハンマドに対する冒涜にあたるとして、イランのホメイニによる死刑宣告が出ている。その後、同様の死刑宣告が、文学界や映画界でも出されている。また、デンマークにおけるムハンマドへの中傷画に対する、ムスリム側の反発でも、パキスタンではアメリカ系の銀行や商店が襲撃されている。
 
 一方、隣国のアフガニスタンでは、イスラム原理主義の新興勢力タリバンが力を得て、98年には国土の9割近くを制圧した。タリバンとは、イスラム神学生(タリブ)の複数呼称である。この時期、タリバンと手を組んだ、オサマ・ビン・ラディンのアルカイダによる反米闘争が始まる。そして、2001年の同時多発テロに繋がっていく。アメリカを中心として、「対テロ戦争」が始まり、アフガニスタンへの軍事攻撃が行われた。
 
 パキスタンは、対テロ戦争への協力を表明し、アメリカへの接近をはかって軍事援助を受けた。しかし、これは国民の大多数を占めるムスリムの反発を招いた。イスラム過激派が台頭して、反米あるいは冒涜法改正反対などの理由から、自爆テロや穏健派暗殺などが頻発し、パキスタンの治安を脅かしている。社会は必ずしも、それを支持しているとは思われないが、過激派を恐れて沈黙を守っている。(「イスラームの歴史2」p183~202)(「TIME March 21/2011」p28~31)
 
(3)バングラデシュの独立
 
 パキスタンは、ムスリムを固有の民族とする、2民族論に基づいて成立した国家である。ところが、東と西のパキスタンの間で、標準語をウルドウ語にするかベンガル語にするかという対立、西パキスタンのほうが経済的に優位である、などが問題となった。そして、東パキスタンにおいて、ベンガル・ナショナリズムに基づく、独立闘争が起こった。東パキスタンをインドが支援した結果、1971年の第3次インド・パキスタン戦争が起こった。その結果、その年の末に、バングラデシュが独立した。
 
 独立間もない72年、バングラデシュでは憲法で世俗主義が謳われ、イスラムを掲げる宗教政党は認められなかった。しかし、これには反発があり、77年にはイスラム政党の復活が認められている。更に、82年にクーデターで実権を掌握し、大統領に就任したエルシャドは、政権維持のためにイスラムを政治に利用した。88年にイスラムを国教とし、休日を金曜とするなどイスラム化を進めている。
 
 このようにバングラデシュでも、パキスタン同様、イスラム化と世俗化の間で揺れているのである。現在も、ベンガル人とムスリムのアイデンティティーの、いずれが優先されるべきか、と言う議論に決着がついていないのである。(「イスラームの歴史2」p192,p197~198)
 
(4)南アジアのイスラム世界に占める位置
 
 南アジアは、パキスタンに1億7000万人(インドネシアに次いで世界第2位)、バングラデシュに1億3000万人(世界第3位)、インドに1億人など、合計4億人近くの、世界最大のムスリム人口を抱えている地域である。内9割がスンニ派、残りがシーア派である。
 
 しかしこの地域全体で見ると、10億のヒンドウー教徒に対しては少数派であり、イスラムはマイナーな集団として周縁化される。更にイスラム世界でも、イスラム本流を称するアラブ世界から眺めると、非アラブ圏と言うことで周縁化される。つまり、南アジアのムスリムは、二重の意味で周縁化されているのである。
 
 しかし、南アジアのムスリムは、18世紀以降、この地域で起こったイスラム復興思想で、イスラム世界全体に影響を及ぼした。更に現代では、南アジア系ムスリム移民が、本国における経済成長や優れたIT技術を背景に、世界各地を結ぶネットワークを構築している。
 
 しかも南アジアは、既に詳述したように、イスラム復興の拠点でもある。中東、アフリカ、中央アジア、東南アジアから、ムスリムが南アジアに留学しているのである。また、前述したように、20世紀末からアフガニスタンで展開された対ソ戦争には、世界各地のムスリムがパキスタンを拠点として、ジハード(聖戦)に参加している。
 
 今後も、南アジアのムスリムは、こうしたダイナミズムを維持して、イスラム世界の一つの核的存在として、自己形成を続けるであろう。(「イスラームの歴史2」p165~166)
 
8.東南アジアの動向
 
(1)インドネシア 
 
@スカルノの時代
 
 インドネシアにおける、オランダの植民地支配に対する独立運動は、1920年設立のインドネシア共産党と、1927年設立のインドネシア国民党を中心としたものであった。前者は、アジアで最初に作られた共産党であり、後者はスカルノに指導されていた。イスラムは、ナショナリズム運動の一翼を担う間もなく、第2次世界大戦に巻き込まれた。
 
 第2次世界大戦(1938〜45年)では、東南アジアのほぼ全域が、日本軍に占領され、その軍政下に置かれた。日本はムスリムに関する知識を殆ど持たず、これといったイスラム対策は立てられなかった。ムスリムは日本軍を逆利用し、来るべき独立国家において、イスラム指導者が社会で活躍できる基盤を作ろうとした。
 
 またスカルノは、大戦中には日本と協力しながら、オランダからの独立運動を進めた。そして、日本降伏後に独立を宣言し、初代大統領(在任1945〜67年)となった。これを認めないオランダとの間で、4年以上の外交交渉とゲリラ闘争を経験しなければならなかった。オランダが主権を委譲したのは50年である。
 
 スカルノは民族主義を強く掲げ、イスラムに特に配慮をしない多宗教共存国家として出発した。イスラムからの反発は弾圧したが、この経験から国軍は、政治がイデオロギーに拘泥すると、国家は分裂すると考えるようになった。そして、65年の「九・三〇」事件では、軍部が共産党員数十万人を虐殺し、党を壊滅させた。共産党と良好な関係を持っていたスカルノは失脚した。
 
Aスハルト時代とそれ以降
 
 この事件を処理して大統領になったのは、国軍出身のスハルト(在任1968〜98年)である。スハルトはイスラムの支持を受けて政権の座に着いたにもかかわらず、イスラムの脱政治化を図った。そして、イスラム系政党や団体には、国家とイスラムのどちらに忠誠を尽くすのか、踏み絵を突きつけた。
 
 こうしてスカルノは独裁者の道を歩み、中国と断絶してアメリカとの友好関係を持った。そのため西側の資本が入り、インドネシアの経済は発展した。しかし、貧富の差の拡大や、スハルト一族による利権の独占で、国民の不満は高まり、98年辞任に追い込まれた。
 
 このような経緯から分かるように、インドネシアは国民の大半がイスラムであるにもかかわらず、イスラムを国教とせず、信教の自由を保障する道を選んだ。公認された宗教としては、イスラムの他プロテスタント、カトリック、ヒンドウー、仏教、儒教がある。国立のイスラム大学を持つが、欧米のイスラム研究機関に学ぶ者も多く、宗教的寛容、多元主義を標榜するリベラルな学説を展開する、人材を多く輩出している。
 
 スカルノの後、急速に民主化が進展したが、少なくとも中央レベルでの政治に、イスラムの影響は小さくなっている。ただ、民主化に伴う地方分権では、地方自治体による「シャリーア条例」への指向が高まったが、女性の行動を規制したり、宗教的少数派に圧迫を加えたりと問題も多い。
 
 なお、2001年同時多発テロが起こって、アメリカのアフガニスタン攻撃が起こると、インドネシアが過激に反応した。世界的に注目を集めたのは、 「ジャーマ・イスラミア」と呼ばれる、アルカイダとも繋がりのあるグループが、02年、バリ島で爆弾テロを起こしたことである。その後も、同グループによる爆破事件が数回起こっている。
 
 同様事件は、タイ国境、フィリピンでも続いた。穏健というイメージのある東南アジアのムスリムが、暴力との関係で報道されるようになった。しかし、社会から支持されているとは言い難い。(「ナビゲータ世界史4]p100,p230~31)(「イスラームの歴史2」p219~40)
 
(2)マレーシア
 
 第2次大戦後、日本が敗れると、イギリス軍が帰って来た。しかし、民族運動の高まりの中で、イギリスは独立を承認し、1963年、マレーシア連邦が成立した。
 
 しかし植民地期に、イギリスが大量の移民を受け入れたため、複雑な民族構成となり、国民統合の障害となった。マレー半島では、中国系とインド系は人口の半分を超え、都市部の富裕層を占めた。マレー系は経済的下層を構成し、多くは農民であった。
 
 シンガポールでは、中国系が人口の4分の3を越えていた。そして民族対立や財政問題から、わずか2年で連邦から分離・独立した。マレー半島では69年、マレー系と中国系が衝突して流血の大惨事を起こしている。これを受けてマレーシア政府は、民族共存による統一国家促進を謳い、マレー系に多い貧困層の撲滅や、民族別人口構成比が、産業・業種の構成比に反映されるように、マレー人を近代セクターへ移動させることが目指された。
 
 また、マレー人保護という観点から、そのアイデンティティであるイスラム擁護の政策も推進されている。1981年に政権の座についたマハティールは、「ルック・イースト」(日本や韓国の経済発展に学ぼうというスローガン)を掲げて近代化政策を進めたことで知られているが、政府主導による緩やかな形での、イスラム化政策を進めた。
 
 マレー人保護の根拠規定は憲法である。憲法では、宗教の自由を保障しながらも、イスラムを連邦の宗教としている。しかも同じ憲法で、マレー人の定義として、@ イスラムを信仰すること、A通常、マレー語を話すこと、Bマレーの習慣に従うこと、を挙げている。このように、イスラムとマレー人に特別の位置づけを与えて、マレー系優遇を進めているのである。
 
 更に憲法では、宗教事項は州政府管掌事項とされている。各州には、ムスリムの最高権威者スルタンがおり、スルタンに法的助言をするムフティー(法的裁定官)がいる。そして、シャリーア(ムスリム法)裁判所が存在するのである。インドネシアに比べ、遙かにイスラム化の傾向が強いと言ってよかろう。
 
 経済面でも政府は、イスラム金融の育成を本格化させた。一般金融に比してまだシエアは小さいが、今後の発展が見込まれている。教育面でも、国際イスラム大学が学生数8000人を誇っている。そのうちの1500人は留学生であり、インドネシアやフィリピンからの留学が多い。この大学は、この地域におけるイスラム研究の拠点の一つになっている。(「イスラームの歴史2」 p214~240)
              
9.中央ユーラシアの動向
 
(1)ロシアとイスラム
 
@ 社会主義革命とイスラム
 
 エカチェリーナ2世の治世から、ロシアにおけるイスラム社会の活性化と、イスラムの覚醒が始まった。これに先鞭をつけたのが、ヴォルガ・ウラル地方のウラマーであった。彼らは、隊商の往来が活発になると、中央アジアにおけるイスラム教学の中心地ブハラ(現ウズベキスタンの都市)にも留学した。また、先述したマナール(灯台)誌などで、カイロやイスタンブール発のイスラム改革思想にも触れていた。
 
 そのような思想活動と連動して、政治運動も胎動を始めた。その契機となったのは、日露戦争(1904〜05年)の最中に起こった、1905年の革命である。続いて、1917年の革命が起こると、その活動は更に活発化した。
 
 なお、1905年の革命とは、戦争でロシアが不利となる中で、国民の不満が高まり、労働者らが労働条件の改善や戦争の中止を求めて、皇帝からの譲歩を引き出した事件である。また、1917年の革命とは、ロマノフ王朝が倒れて、ソビエト政権が成立した社会主義革命である。ソビエトとは、「評議会」の意だが、労働者・兵士・農民から成る政治勢力を言う。マルクス理論に基づく社会主義革命を、世界は初めて経験し、大きな衝撃を受けた。
 
 革命政権を掌握したレーニンとスターリンは、当初、ムスリムに対して、信仰の自由を宣言し、協力を呼びかけている。しかし、内戦に勝利を収めたソビエト政府は、次第に、イスラムの伝統と秩序を解体する政策に向かう。
 
 民族自決の原則に基づくと称して、民族毎に共和国を作り、それをソビエト連邦の中に統合しようとした。つまり、パン・イスラム共同体への帰属意識に代えて、仮想現実的な「社会主義民族」の形成を目指す試みであったと言えよう。こうして史上で初めて、ウズベキスタンやトルクメニスタンなど民族別国家(内実は多民族構成であった)の誕生を見た。
 
 1920年代になると、ソビエト政府による、イスラムに対する激しい攻撃が始まった。イスラムの制度や慣行を、社会主義建設の障害と見なし、イスラム法やアラビア文字の廃止、モスクやマドラサ(イスラム学園)などの施設の閉鎖、ワクフ財団の国有化を行い、ムスリム知識人に対する抑圧を強めた。とりわけ、スターリン時代の粛清は激しく、多数のムスリム知識人を処刑し、またテロも横行した。ソ連は、イスラムに代えて、普遍的で世俗的なソビエト文明を植え付けようとしたのである。
 
 しかし、1939年、第2次世界大戦が始まり、独ソ戦が熾烈になると、ソビエト政権はムスリム諸民族の動員と協力を必要とした。そこで、シャリーアを司る宗務局の開設や、マドラサの再開を認めるなど、ムスリム組織の設立を公認した。しかしこれらは、いわば御用組織であり、イスラムの伝統は冠婚葬祭や、聖廟への参詣など、慣行の中にようやく姿を残すだけになった。
 
 およそ70年にわたるソ連の時代に、イスラム社会は大きな変容を遂げた。国家と宗教を峻別する世俗主義の原則が浸透した。また、連邦規模の計画的な人員配置や移住政策の結果、都市部を中心に住民の多民族化が起こり、ロシア語が共通語になった。(「ナビゲーター世界史4」p80~88)(「イスラームの歴史2」p138~149)
 
Aペレストロイカとイスラム
 
 1970年代になると、ソ連の計画経済が、西側の自由主義経済に対して、とても勝ち味のないシステムであることが明らかになった。そのような中、中央アジアの南部地域では、若いイスラム学徒の間に、イスラム覚醒の動きが生まれた。体制迎合的な宗務局を批判し、真のイスラムへの回帰による社会形成を唱えた。彼らは、アフガニスタンのソ連軍に対する、ムジャヒディーンのジハード(聖戦)の成り行きを見て、イスラム復興への確信を深めていった。
 
 1980年、ソ連にゴルバチョフ政権が登場すると、米ソ関係は急速に改善され、冷戦は終結に向かった。ゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)という大胆な改革を進めた。ペレストロイカでは、社会主義経済の効率の悪さを改めるために、市場経済を大幅に採り入れた。グラスノスチでは、これまで国民に隠していた大切な情報を公開したり、政府への批判や思想・表現の自由を認めた。
 
 これらの改革は、信仰の自由に繋がり、イスラムの再生をもたらした。モスクやマドラサの再建や新設が行われた。イスラム関連の雑誌や書籍が、書店に並んだ。海外からも大量のコーランが寄贈され、海外のマドラサへの留学生も増えていった。
 
 1991年のソ連解体後に生まれた、中央アジアにおける新しい独立国家(カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)の指導層も、世俗主義の原則を踏襲しながらも、イスラムは民族文化の重要な要素であり、新しい国民統合に役立つことを理解していた。イスラムの偉人の顕彰や、スターリン時代に粛清された知識人の再評価も起こっている。
 
 1999年に創設された、ウズベキスタン国立の、タシュケント・イスラム大学は、イスラムを始めとする諸宗教の学術的な研究と教育を目的としている。そこには、世俗主義に適合したイスラムのあり方を提示しようとする、政府の意図が読み取れる。(「ナビゲーター世界史4」p198~202)(「イスラームの歴史2」p151~156)
 
Bイスラムの政治化と過激化
 
 ペレストロイカの下でのイスラムの覚醒と併行して、イスラムの政治化も進んだ。イスラムを個人の信仰の次元に止めることなく、現実の政治や社会にも適用することを主張し、イスラム国家の構想すら提示するようになった。
 
 ロシア連邦に属する北カフカスでは、もっともイスラム化が進んでいると言われたダゲスタンで、独立への動きが起こった。ダゲスタンは、アゼルバイジャンの北隣で、カスピ海に面する共和国である。しかし、ロシア軍に弾圧され、運動は沈静化した。
 
 同じく、ロシア連邦からの独立運動が起こり、ロシアとの苛烈な戦争を展開したのが、ダゲスタンの北隣チェチェン共和国である。アラブ系ムスリムなど外部からの、武器、資金、兵士などの提供もあり、ロシアへの徹底抗戦が叫ばれた。ロシアは軍事弾圧でのぞんだが、モスクワの劇場や地下鉄、あるいは周辺の北カフカス共和国などでのテロが続発した。その後、ロシアの特殊部隊によるチェチェン武装勢力の掃討作戦により、テロは下火になったように見えるが、まだ不穏である。
 
 中央アジアでは、先ずウズベキスタンが挙げられる。革新派ムスリムの勢力が強いフルガナ地方が運動の中心となった。彼らの活動が、地方行政機関の機能を奪うほどに成長すると、政府はそれら「イスラム原理主義の脅威」に対して、厳しい弾圧を行った。他方、革新派ムスリムは、武装組織を結成していく。
 
 次いでタジキスタンでは、ソ連解体後に極度の政治不安定状態に陥った。その中で、ムスリム系の政党が公認され、党勢を拡大しながら急進化していった。間もなく、旧共産党政府との間でタジキスタン内戦が始まると、ムスリム系政党は国内での大衆動員力を発揮すると共に、アフガニスタンのムジャヒディーンから武器を調達し、内戦の最大勢力となった。この戦いには、ウズベキスタンの武装勢力も参戦している。
 
 タジキスタン内戦の「教訓」に学んだ、中央アジア諸国の政権は、革新派ムスリムに対する警戒と抑圧を一層強化した。その際「イスラム原理主義の脅威」が、口実として利用された。
 
 2001年の同時多発テロが起こると、対テロ戦争を始めたアメリカは、アフガニスタンへの侵攻基地を中央アジアに置いた。そしてアメリカと中央アジア諸国は、「イスラム原理主義」という共通の敵に対して協調を始めた。しかしその後も、国際的な背景を持つと思われる反政府武装集団が、中央アジア各地でテロを引き起こし、各国政府とイスラム過激派との綱引きが続いている。(「イスラームの歴史2」p156~164)
 
(2)中国とイスラム
 
 1949年、中華人民共和国が成立すると、新疆地区は「開放」という名の下に、現在の新疆ウイグル自治区として組み込まれた。自治区という特別の地位は、ウイグル人の人口比率や、イスラムの伝統の強さに配慮したものであった。新疆のウイグル人は、49年当時329万人で、総人口の76%を占めていたのである。
 
 「開放」後、共産主義中国による、イスラム法廷の廃止やワクフ財団の没収など、イスラム的制度の解体が進んだ。それが無神論の宣伝と共に、極端に行われたのは、大躍進期(1958〜62年)と文化大革命期(1966〜76年)であった。この間、多くのモスクや聖廟が破壊され、多数のイスラム指導者が迫害を受けた。イスラムの儀礼や慣行に対する統制も強化された。
 
 1980年代に改革開放政策が本格化すると、宗教に対する抑圧は緩和され、イスラムは再び日の目を見ることになった。宗教施設の再建やメッカへの巡礼の許可などの、一連の施策が採られたからである。経済開発の進展と共に、ウイグル社会の世俗化も加速した。
 
 しかし中国当局は、ウイグル人の分離独立の動きには、過度な警戒感を示している。特に、1991年にソ連が解体すると、中国は、隣接する中央アジア諸国から新疆に入り込む、「イスラム原理主義」やウイグル民族主義の動きに神経を尖らせている。
 
 その一つの表れが、漢人の送り込みである。そのため、現在ウイグル族は、新疆ウイグル自治区内人口の、45%に比率を落としている。(「2011/2/27朝日新聞」p4)更に、漢語教育による同化の脅威、漢人・ウイグル人間の経済格差の拡大など、ウイグル人の中に、閉塞感や不満が蓄積されている。
 
 中国の報道管制によって実態は不明であるが、この頃からジハードや、独立要求を掲げる蜂起が報じられるようになっている。中国の少数民族対策が、はらむ矛盾を露呈しているのであろう。最近では、中央アジア諸国との、経済・軍事面で関係強化を図る、中国の積極的な外交政策が目立っている。(「イスラームの歴史2」p150~151,p163~164)
 
\.グローバル化時代のイスラム
 
1.イスラム世界の連帯
 
(1)イスラム諸国会議機構とムスリム・ウラマー世界連盟
 
 オスマン帝国が崩壊し、カリフ制度が廃止されて以来、イスラムをウンマ(イスラム共同体)として結びつけるような存在は失われていた。そして、第2次世界大戦後、多くのイスラム諸国が植民地支配を脱して、独立を勝ち取っていったが、その原動力となったのは民族主義であった。そして、しばらくは民族主義の勢いが、アラブ世界を包むことになる。
 
 例えば、エジプトのナセルは、第2次中東戦争を指導して、アラブ民族主義のリーダーとなった。また、彼を筆頭とするアラブ民族主義の陣営は、62年の北イエメンでの共和革命を皮切りに、中東に残る君主制を打倒することを目指していた。
 
 その脅威に対して、サウジアラビアやヨルダンなどの君主国は、共和革命の波及を防止しようとイエメンに介入し、イエメンではエジプトが支援する共和派と王党派の戦いが続いた。しかし、67年の第3次中東戦争で、エジプトがイスラエルに大敗北をすると、事態は一変した。エジプトはイエメンから手を引き、サウジアラビアとも和解することになった。
 
 和解を象徴するのが、サウジアラビアとモロッコの提唱で開催された、69年の第1回イスラム首脳会議である。エジプトも、今までの行きがかりを捨てゝ、この会議に参加した。そしてこの会議は、イスラム世界がトータルとして、戦後改めて国際的に再浮上するきっかけとなった。
 
 他方、そのような動きを加速させたのは、67年の第3次中東戦争であった。第2次中東戦争までは、アラブ・イスラエル紛争として、民族的色彩が濃かった。しかし、第3次中東戦争では、イスラエル軍による東エルサレム占領が、イスラム世界に衝撃を与えた。旧市街を含む東エルサレムは、宗教的象徴が多数存在する、イスラム第3の聖地である。だからこの占領は、イスラム世界全体の問題として受け止められたのである。
 
 更に、69年になると、聖地にあるアクサ・モスクが、ユダヤ系オーストリア人によって放火され、イスラム諸国を震撼させた。かくて、前述した第1回イスラム首脳会議が、モロッコで開催されることになった。この会議で、「イスラム諸国会議機構(OIC)」の設立が決定された。
 
 イスラム諸国会議機構(OIC)は、2001年には加盟国が57に達している。イスラム首脳会議は、2008年までに、総計14回開催されている。この機構が、メッカ巡礼の混乱を、多国間調整したのは前述した。また、様々な下部機関を持っており、経済、教育、科学その他様々な分野で、加盟国間での協力を行い、民生面でも、識字率の向上や貧困の撲滅など幅広いテーマを掲げている。
 
 また、1973年の第4次中東戦争に際して、石油戦略を発動したのも、そうした連帯の一環である。発動したのは、サウジアラビア、クエート、オマーンに加えて、71年の独立から間もないアラブ首長国連邦、カタール、バーレーンという、君主制アラブ産油国であった。このような新興の湾岸産油国が結束して、イスラエルと戦うエジプト、シリアに協力したのである。
 
 湾岸の産油国は、一挙に4倍に跳ね上がった石油価格によって、大きな収入を得ることになった。いずれの国も、部族的伝統としてのアラブ意識と、イスラム的アイデンティティを強く持っていた。だから、彼らの発言権がアラブ諸国の中で増したことは、中東におけるイスラムの思想的重みと、ムスリム同士の連帯感を高めることに繋がった。
 
 また、ウンマ(イスラム共同体)の知的指導者の集まりとしては、ムスリム・ウラマー世界連盟が、2004年に結成されている。その目的は、2001年の同時多発テロなど、急進派・過激派による危機が深まり、欧米諸国との摩擦も増えたため、中道派ウラマー(イスラム学者)を結集して、イスラム世界の穏健なコンセンサスを形成することにあった。非常に多くの国のウラマーが参集し、スンニ派のみならずシーア派も含めた、諸学派をまとめた点が高く評価されている。(「イスラームの歴史2」p61~62,p259~262,p267)
 
(2)武装闘争のネットワーク
 
 イスラム諸国会議機構(OIC)の最大の弱点は、加盟国間に軍事的な同盟や協力がないことである。例えばトルコは、イスラエルと軍事的に連携し、アラブ諸国とは同盟してこなかった。またトルコは,NATO(北大西洋条約機構)の重要なメンバーであり、その軍事的な考慮の中には、イスラム的要素は入っていない。
 
 そうしたイスラム世界における軍事的な空隙を埋めたのが、1980年以降の、ゲリラ闘争による連帯である。79年、アフガニスタンへのソ連侵攻に対する反ソ闘争には、数万人と推定される「アラブ義勇兵」が参加した。彼らは、共産主義と戦うイスラム・ゲリラに大義を見い出し、エジプト、ヨルダン、イエメン、アルジェリアなどから参じた。そして、ソ連軍を撤退させ、共産政権の打倒を果たしたことは、前述の通りである。
 
 こうして、アフガニスタンにおける反ソ闘争を共通の場として、国際的なイスラム武装闘争のネットワークが成立した。その中心的な組織者の一人がオサマ・ビン・ラディンである。また彼がその後、反米路線を歩くことになったこと、同時多発テロが起こったこと、アフガン戦争が起こりイラク戦争が起こった経緯は、前述した。
 
 イラクでは、アメリカ軍の占領に対する武装闘争が始まり、やがて内戦状態に陥った。その過程で、サウジアラビア、イエメン、パキスタンなどからの義勇兵がイラク入りし、殆どが急進派に身を投じ、ジハード(聖戦)を遂行した。
 
 このようなイスラム過激派に対して、対話を推進しようとする動きが、先述したムスリム・ウラマー世界連盟の結成に繋がっていくのである。(「イスラームの歴史2」p262~267)
 
2.イスラムと立憲主義
 
 「法治主義」あるいは「法の支配」は、西欧近代国家における政治原理として、極めて重要視されている。それは、国王による恣意的な統治権の発動を、拘束するための手段として発達したからである。イスラム世界において、それがどのように理解され、どのように実体化されているかを見ることとしよう。
 
 イスラム世界も、元来シャリーア(イスラム法)による「法治主義」の概念を持っている。しかしこの法は、議会において審議・決定される法ではない。コーランとハディース(ムハンマド言行録)を法源として、ウラマー(イスラム学者)の解釈によって生成するものである。
 
 しかもウラマーの主張の違いで、様々な学派が生じる。それらの学説は、多くの法学書に書かれているから、不文法ではないが、いわば「学説法」であり、制定法のような明示された条項は存在しないのである。歴史的なイスラム王朝では、君主が法令(カーヌーン)を定めているが、これは統治上の行政的な規則であって、ウラマーの解釈によるシャリーアとは次元が異なるものとされてきた。
 
 ところが19世紀のイスラム世界では、このようなイスラム法の伝統を破る、2つの事件が起こっている。一つは憲法の制定であり、今一つは民法典の制定である。イスラム世界初の憲法は、1861年、チュニジアで制定された。次に1876年、オスマン帝国の「ミドハト憲法」が続いている。
 
 その内容は、両者とも西欧の憲法の影響を強く受けたものであった。ことにミドハト憲法は、イスラムの優位や宗教の差別についても言及せず、「オスマン臣民の平等」を主張していた。だから、国家のイスラム性を否定するものとして、保守的なイスラム勢力からの批判の対象になったのである。しかし、この2つの憲法によって、立憲思想が具体化・実体化し、その後イスラム改革派は、立憲制を要求するようになった。
 
 民法典については、これもオスマン帝国の、タンジマート改革の末期に作られている。イスラム法学に立脚して、条文式の法律を作った最初の試みであった。だがこれは、イスラム法の「ウラマーの解釈に基づく法」という性格に反するとして、長らく批判的に考えられてきた。しかし20世紀も半ばになると、イスラム法に立脚する法律を制定することで、イスラム法が実効性を持ちうるという認識が広まり、この民法典は、その先駆的な試みとして、肯定的に評価されるようになった。
 
 憲法についても、制定法の定着と共に、自明のものと考えられるようになった。19世紀末には、エジプトのアラービーによる新憲法、20世紀初めには、イランの立憲革命が起こったことは前述した。更に、アラブ諸国では次々と憲法が制定された。第2次世界大戦後に独立した国々は、いずれも憲法を持つことを、独立国家の要件と理解するようになった。
 
 1979年のイラン革命後制定されたイラン・イスラム憲法は、イスラム国家が持つ現代的な憲法として最初のものであった。その中には、国家が定める法律は、イスラム法と憲法に合致していなければならないと規定されていた。革命後のイラン議会は、これに立脚して様々な法律を定めた。
 
 こうして、イスラム法の至上性を犯すことなく、国家の基本法としての憲法を、定めることが可能となったと理解された。イランはシーア派であるが、スンニ派の国々でも、イスラム憲法の試みが追求されてきた。こうして21世紀初めまでに、イスラム立憲主義は、イスラム世界のかなりな範囲で広がりを見せている。
 
 しかし、イスラムを謳う以上、イスラム的な原則を、憲法の中に盛り込むことが必要である。具体策としては、「イスラムは国家の宗教(国教)である」という国教条項、「イスラム法は立法の主要な源泉である」「イスラムの教えに反する法律は無効である」というイスラム法条項を、憲法で定めるのが主流のようである。(「イスラームの歴史2」p270~274)
 
3.欧米におけるイスラムの広がり
 
(1)ヨーロッパのムスリム達
 
@ ムスリム移民の増大
 
 ヨーロッパにおけるムスリムの人口は、第2次世界大戦以降、急速に増大した。これは戦争によって壊滅したヨーロッパが、復興を図るに当たって、絶対的な労働力不足に直面し、それを補うために厖大な移民を受け入れたのである。彼ら移民は、非熟練労働に集中的に利用されて、社会の下層を構成するグループとなっている。
 
 ほぼ、かつての植民地からの移民が中心である。戦前には宗主国と植民地という地理的に離れた階層関係が、ヨーロッパという狭い地域の中で、新しい垂直的な上下の階層関係として、再生産されているように見える。
 
 例えばイギリスには、インド、パキスタン、バングラデシュからが多い。1950〜60年代に急増し、51年には5000人しかいなかったムスリムが、91年には125万〜150万人にまで増加した。80年代以降は、アラブ系移民も増加したが、南アジアが圧倒的に多い。その他のヨーロッパ諸国においても、傾向は似たり寄ったりである。
 
 フランスは植民地時代から一貫して、アルジェリア、モロッコからの移民が多かった。ところが、さらなる労働力不足を補うために、西アフリカ諸国、東南アジア諸国、南アジアなどからの移民も増加した。オランダも旧植民地との繋がりで、インドネシア、スリナムからの移民が多く、あと、トルコやモロッコからもやってきている。植民地の少なかったドイツでは、トルコからの移民が最大のムスリム集団である。これは政府間協定で、トルコからの労働力を受け入れているからである。
 
 以上、移民の出身地を見れば、ほぼイスラム地域であることは一目瞭然であろう。しかし、イギリスは1960年代末から、フランスやドイツでは、第1次石油危機(73年)以降、新規移民の抑制に転じた。イスラムと西欧近代との文化摩擦や、自国青年層の失業率の増大など、社会不安につながる恐れがあるからである。
 
 しかし、それまでの移民が家族を呼び寄せることは、人権上認められており、また、白人よりも出生率が高いので、ムスリムの人口は増加している。総人口に対する比率(2006年推計)は、イギリスが3%、フランスが10%、オランダが6%、ドイツが4%となっている。宗教別の人口でみると、いずれもキリスト教に次ぐ第2の宗教となっている。
 
A同化政策と文化摩擦
 
 移民の第1世代は、出身国のアイデンティティを持ち込んでいたが、2世、3世になると、イスラム復興は新しいアイデンティティをもたらした。つまり自分を、ホスト国の市民として、あるいは、ムスリムとして、どちらの意識を強く持つかと言う、アイデンティティの相克である。
 
 ホスト国では多くの場合、移民に対して同化主義的な政策を基本としている。それに従えば、「自分は第1にここの国民であり、次に個人の信仰はイスラムである」と言う、アイデンティティの階層化が望ましことになろう。しかし、1980年代以降のイスラム復興世代においては、それでは済まないということが明らかになってきている。
 
 むしろ、西欧近代と出会う中で、世界宗教としてのイスラムを問い直し、グローバル化の中で、ムスリムとしての一体化を高める方向に変容してきている。そのため、ホスト社会からの疎外を、イスラムの同胞精神で埋め合わせようとする若者のみならず、社会的に成功を収めたムスリムでも、個人的な内面の信仰に閉じこもることなく、信教の自由として、イスラムの社会的実践の認知を求める傾向が生じている。
 
 このような文化的な差異は、前述したラシュディーの死刑判決や、ムハンマド風刺画事件に現れている。もう一つ文化摩擦の事例として、「スカーフ着用問題」がある。かつては近代化の中で、特に髪を隠すことにはこだわらないイスラム社会も増えていたし、ヨーロッパへの移民達も、特にスカーフを着用することはなかった。ところが、1980年代のイスラム覚醒の中で、イスラムの象徴として、女性達がスカーフを被り始めた。
 
 これはヨーロッパに、「ムスリムの可視化」として、社会的な緊張を引き起こした。特にフランスは過敏な反応を示し、2004年には「スカーフ禁止法」を制定するに至っている。その論理は、公立学校という公共の空間で、宗教的シンボルを用いることは、政教分離の原則に反し、フランス共和国の基本原理に反するということである。ムスリム側の反論は、服装の自由は基本的人権の一部であり、宗教的義務の履行の妨害は、信教の自由の原則に反するというのである。
 
 これらの動きに対して、ヨーロッパでは、移民排斥の右翼政党が勢いを伸ばしている。ムスリムの可視化が問題となるならば、今後ムスリム人口の増大を背景に、モスクの建設が進むと予見される。巨大なモスクは、一層大きな議論を巻き起こすことになろう。ヨーロッパが将来、ムスリムとどのように融和していくのか、大きな挑戦を受けていると言ってよかろう。
 
(2)アメリカのムスリム  
 
 アメリカへの移民は、ムスリムに限らず、アメリカの広大な土地と、豊富な資源、自由な風土に憧れ、うまくいけばチャンスをつかんで、「アメリカン・ドリーム」を実現させたいという、人間共通の欲求に基づくものであったと言えよう。ムスリム移民が登場するのは、19世紀後半で、旧シリア地方からのアラブ移民が主であった。
 
 20世紀半ばには、非アラブの南アジア諸国、イランなどからも移民が増加した。今日では、非常に多様な国々からのムスリム移民と、その子孫がアメリカに住み着いている。正確な統計ではないが、21世紀初頭のムスリム人口は、600〜700万と推計され、ユダヤ人と肩を並べると考えられる。
 
 アメリカの場合、移民の他にいわゆる「ブラック・ムスリム」の存在が大きい。1930年に、黒人ムスリムの団体「ネイション・オブ・イスラム」が発足し、その後勢力を伸ばしてきた。始めその教義は、「白人は黒人よりも、色素の少ない劣等人種である」など、白人による差別を裏返した黒人優位主義を含み、イスラムの正統教義とは異なっていた。
 
 しかし、1960〜70年代の人権運動の成功以降、温和な傾向を見せている。メンバーに対しては、飲酒、麻薬、賭博、売春、様々な犯罪からの更正と、尊厳のある人生を説いている。教義も、次第に正統なイスラムに近づいてきてはいるが、移民達のムスリムとは、今日でも別グループを構成している。
 
 移民の増加に伴ってモスクも急増し、2006年現在で、大小あわせて2000以上が建設されている。モスクについては、イスラム過激派による同時多発テロの標的となり壊滅した、ニューヨークの世界貿易センター跡地近くに、モスク建設の計画が進められ、キリスト教徒からの猛反発を受けている。
 
 アメリカにおいては、ヒステリックにムスリムをテロリストと同一視する人々もある。キリスト教とイスラムの間に横たわる、文化的・宗教的深淵は、簡単に埋まりそうにはない。2011年、フロリダのキリスト教会牧師が、コーランを焼いて、ムスリムの過激な反応を招いているのは、その一例である。(「イスラームの歴史2」p251~253)
 
].問題提起
 
1.イスラムと民主主義
 
 若き諸賢よ。以上、イスラムの誕生から、今日に至るまでの経緯を概観してきた。しかし、内容が多岐にわたったため、読みくたびれた人もいるであろう。ようやく論文を終わるに当たって、全体総括の問題提起を行うこととしたい。
 
 第一の問題は、イスラム世界に民主主義が成り立つかと言うことである。と言うのは、2001年の同時多発テロが、イスラム原理主義者による犯行であることが分かり、イスラムは「自爆テロ」のような、危険で不可解な行動をする集団であるという理解が広がった。他人だけでなく自分の生命をも軽んじる、人間性否定の宗教集団と、民主主義とは両立不可能ではないかという疑問があるからである。
 
 また、2011年のチュニジアを始めとする動乱によって、ムスリム国家は、おしなべて独裁的な権力者や王政に支配されているという現実が、露わになった。憲法や議会は持っていても、それを隠れ蓑にした独裁政治が行われており、そこには、民主主義のかけらさえも無いように思われるからである。
 
(1)民主主義とは何か
 
 この問題を検討するに当たって、先ず、民主主義とか民主主義に基づく政治とは、どんな事なのかについて考えることとしよう。諸賢は日本の議会制民主主義の中に生きているから、国民に選挙された議員により、政治の方針・内容が審議・決定されるシステムを民主主義と考えるかもしれない。しかしこれは、議会政治ではあるが、必ずしも民主主義ではない。と言うのは、イスラム世界の多くの国では、議会政治の形式は取っているが、政治の実態は、およそ民主主義とは、ほど遠い国が多いからである。
 
 現在の、多くのイスラム諸国の政治を見ると、既に述べたことからも分かるように、殆どが、長期的に居坐る独裁的な権力者と、その一族や取り巻きが、政治権力を独占している。議会は存在しても、その議員たちは、独裁者の見解に従うか、あるいはその利益に奉仕する者だけが、当選するように仕組まれており、選挙民はその事実から目や耳を塞がれている。だから議会は、独裁権力の翼賛体制に成り下がっているのである。
 
 2011年、チュニジアやエジプトに始まり、アラブ諸国を揺るがせている動乱は、そのような独裁権力に対する国民の反乱である。しかし、それらの革命が成功しても、民主化が達成されるとは限らない。何故ならば、新しく生まれる政権が、独裁的政権ではない保証はないからである。
 
 このように考えてくると、民主主義や民主政治の本質は何か、ということが見えて来る。民主主義というのは、一般国民が国家運営に関する権力を持ち、その権力を自ら行使するという立場を示す政治理念である。だから民主政治は、そのような権力を持った一般国民が、自分たちの意志に基づいて、政治を運用していく仕組みに外ならない。
 
 民主政治を最も簡潔に表現した言葉としては、「Government of the people, by the people, for the people(人民の、人民による、人民のための政府)」がよく知られている。これは、アメリカの南北戦争(1861〜65年)の時、北軍が勝利を決定づけたゲティスバーグにおける、リンカンの名演説に使われた言葉である。ここにおける人民とは、現在の国民国家では国民と言い換えてもよかろう。確かに、上に述べた民主主義の理念を、端的に表現していると言えるだろう。
 
 ただ、国民の数は多いから、直接的にその意見を国政の場で論議できない。だから、国民の立場を代弁する議員を選び、代議制(代表民主制)を採っているのである。議会制は、人口の多い国に、民主主義を成り立たせるための手段に過ぎず、代議制の名に隠れた、独裁政治もあり得るのである。諸賢も、古代ギリシャでの都市国家(ポリス)では代議制を採らず、すべての市民が集まって議決する、直接民主政が行われたことを知っているはずである。
 
 また、国民の意見は一様ではなく、むしろ多様に分かれている場合の方が多い。多数者の意見を全体の意見として擬制する制度が、多数決制度である。しかしこの制度は、下手をすると、少数者の貴重な意見を踏みにじり、場合によっては、衆愚政治や独裁政治に陥る危険性を持っている。このように日本の議会民主政も、様々な欠陥を持っていることが分かるであろう。
 
 以上諸賢は、中学生の頃に学んだ民主主義や民主政に関するイロハのおさらいをした。しかし、これらのことは、今後の議論を展開するうえで、大切な要素を含んでいるので、ややくどくなったが、述べておくこととした。
 
(2)民主主義はお金がかかる
 
 では、どうして今までアラブ諸国には、民主主義が導入できなかったのであろうか。一言でいえば、貧しかったからである。民主主義というのはお金がかかるのである。我々人間は、様々な欲望を持っている。だから、リンカンの言う人民は、「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」などという、儒教的教えで悟りすましている聖人君子ではない。生々しい生理的・心理的欲望の垢にまみれた俗人である。
 
 2011年3月11日、日本が経験した東日本大震災を考えてみたらよい。表面的にはスマートな文化生活の奥底に潜む、人間の根源的な生存欲求があからさまになった。衣食住は当然として、不安を防ぐ正確な情報、物流・交通や通信の手段、電気やガソリンなどのエネルギー、老人や乳幼児に対する医療などに対する欲求が、如何に痛切なものであるかが見せつけられた。
 
 そのような俗人が選んだ民主主義政府は、それら俗人の俗世間的な欲望を、満たしてやらないといけない。もしそれが出来ないような政府であるならば、国家主権を持つ人民達は、その政府を倒すであろう。代議士達も常に選挙民の顔を見て、国家予算を地元に利益誘導するような、人気取り政策につい走ることになるのである。こうして、人民を満足させるためには、豊富な物財や、それを調達するための資金が必要である。
 
 現在、日本を含めた民主主義だと言われる国を眺めてみたらよい。すべての国が、赤字財政で悩んでいる。これは、年金や医療費などの福祉費用が急激に膨張したからである。植民地からの上がりが無くなり、経済成長も余り望めないのであるから、今まで同様に国民の欲望を満遍なく満たそうとすれば、金が足りなくなるのは当然である。
 
 政治家は金を捻出するために、増税は選挙民の評判を落とすので、国債を発行する。言い換えれば借金をするわけである。それが国内で消化されたとしても、結局その借金返済のあては、我々の子孫の懐である。我々は、子孫に対して借金を残すという、不面目なことをしているわけである。
 
 しかし、これが外国からの借金となると恐ろしい。自国の予算や経済政策を、自国で立てられなくなる。既にヨーロッパでは、ギリシャ、アイルランド、ポルトガルが、EU各国からとIMFからの融資を受けないと生きていけなくなっている。新聞は余り大きく報じてはいないが、これは民主主義の危機である。
 
 何故ならば、自国の経済政策が、他国の干渉によって左右されることになるからである。現実に、ギリシャやアイルランドは、融資の条件として賃金抑制を始めとする様々な予算カットを約束させられている。それを不満とする国民は、暴動を起こすなど、政情不安になっている。今後どのようになるか、予断を許さない。
 
 歴史的に見ても、先述したエジプトがその良い例である。19世紀前半オスマン帝国から独立したムハンマド・アリー朝は、近代化を進めた。しかしその過程で、外債によって国家財政は破綻した。スエズ運河をイギリスに売却しただけでなく、外国人財務監察官に国家予算を仕切られ、その指示にしたがって歳入の大部分は、外国に対する債務の返済に充てさせられた。そのため、国民への過酷な徴税が強行されたのである。
 
 エジプト人の不満を背に受けて、アラービー・パシャが、1881年、軍を率いて立ち上がり、「エジプト人によるエジプト」のスローガンのもと、立憲制の要求を王朝側に突きつけた。国民大多数の支持を得て、一時は憲法制定、議会の開催などにこぎ着けている。しかし、議会による予算管理を恐れたヨーロッパ列強は、これに軍事介入して、アラービー運動を崩壊させた。そしてエジプトは、イギリスの軍事統治下に入っていく。かくて、雛が生まれかけたエジプトの民主主義は、卵の段階で潰されたのである。(「詳説世界史」p381~382)
 
 このように、お金に困っている地域には、民主主義は生まれず独裁権力が生まれるのである。何故なら、独裁権力政治は、国が貧しくても成り立つ、金のかからないシステムであるからである。そんな馬鹿な話があるかと、諸賢は思うであろう。しかし、地球上を眺めてみるがよい。独裁権力が仕切る国家の、一人あたりGNPは、先進民主主義国に比べると非常に低い。中には、一日1ドル以下という、限界的な生活費で生きている国民を、多数抱えている国も多いのである。
 
 ところが、そのような国でも、独裁者とその周辺だけは極めて豊かである。逆に言えば、独裁者だから貧しい国民の殆どから、お金を少しづつ巻き上げ、自分だけが豊かになれている。国民一人あたりの金額は些少でも、多数の国民から吸い上げれば、大きな金額になる。例えば、日本人一人あたり100円を拠出しても、総額は120億円になるのである。そして、独裁者は自分の資産を、欧米諸国に分散して隠匿している。その金額は、何兆円という驚くべきものであることが報じられている。
 
 「民、百姓は生かさず殺さず」という、封建時代の故事さながらの事態が、現代の独裁政治においても横行している。石油などの資源に恵まれた国家でも、旧来の独裁システムのうま味に中毒した権力者は、教育や医療や福祉などの便益を小出しに、恩着せがましく与えてはいるが、国民への均霑は極力小さく押さえて、甘い汁の殆どを吸い上げている。
 
 そして独裁者は、その権力を離すまいとしがみつく。自分と一族を護るために、何十年も権力の座を確保し、またそれを世襲しようとするのである。このような情報化の世界である。そのような事実は、国民もうすうす気づいて不満を感じているはずである。
 
 だからそのような国民を統制するためには、親衛隊を中核とする軍事力と、秘密警察の網の目を張り巡らした弾圧の仕組みが必要になる。2011年チュニジアに始まった動乱は、殆どのアラブ諸国が、共和制・王政にかかわらず、そのような権力機構に支えられていることを、暴き出している。
 
 このようなイスラム諸国に、欧米は自由と民主主義を輸出しようとしている。それが先進諸国の、後進諸国に対する神聖な義務であるかのような言い方をする。しかし、よく考えてみるがよい。自分たちが自由と民主主義を獲得できたのは、植民地各国を収奪して、自分たちの国に富を蓄積できたからに外ならないことを。また、後進諸国は彼らの収奪によって貧しくされ、独裁的な権力によってしか、統御できなくなったことを。
 
 だから現在、民主主義でございと嘯いている国でも、貧しくなれば民主主義は維持できなくなるのある。そこで、民主主義が如何にお金がかかるシステムなのか、お金が無くなると民主主義は本当に維持できなくなるのか、歴史的事実を挙げて証明することとしよう。
 
(3)古代ギリシャ民主主義の盛衰
 
 諸賢よ。先ず我々が、中・高校で民主主義のモデルとして学んだ 、古代ギリシャを取り上げよう。ギリシャは奴隷制度を持っていたし、女性の参政権を認めていなかったから、真の民主主義とは言えないであろう。しかし、男性の市民は、平等の政治的権利を発動できたのであるから、その限りでは、ギリシャ的と言う装飾語つきの、民主政であったということが出来よう。
 
 そのような民主政を支えたのは、豊かな財力であった。では、その富はどこから来たのであろうか。ギリシャはもともと、貴族政治であった。ところが、前7世紀頃から、広く黒海や地中海に進出し、植民地を建設して盛んに貿易を行うようになった。後述する、17〜18世紀におけるヨーロッパ重商主義のはしりとも言える動きである。現在の、マルセイユ、ナポリ、タラント、シラクサなどは、当時の植民地の名残りなのだ。これにより、ギリシャでは商工業が盛んになり、平民の中にも豊かな階層が現れ始めた。
 
 ギリシャの都市国家(ポリス)における権力の源泉は、植民地との間、ポリスの間における戦争遂行可能な軍事力であった。従来の戦争では、騎馬を駆使した貴族が独占的に活躍していたのである。経済力を持った平民は自ら武装し、重装歩兵として戦闘の主力を構成するようになる。そして、その力を背景に、貴族に対して参政権を要求するようになったのである。こうして、重装歩兵民主主義と呼ばれるものが誕生した。
 
 ギリシャは、豊かな富と軍事力を背景に、東方の大帝国アケメネス朝ペルシャの侵攻さえをも食い止めている。いわゆるペルシャ戦争(前500〜前449年)である。市民やポリスが団結したギリシャは、互角以上に戦い、最後は勝利を収めているのである。マラソンの語源となった、マラトンの戦いについて聞いた諸賢も多いであろう。
 
 ペルシャ戦争の中心となって戦ったアテネは、戦後、ギリシャ全ポリスの指導的な地位についた。そして、デロス同盟を組織して、他のポリスを支配した。デロス同盟というのは、ペルシャの報復に備えるための同盟で、デロスとは、同盟資金を保管する金庫が、最初に置かれた島の名前である。
 
 戦争終了後、アテネの指導者となったペリクレスの下で、民主政治は完成したと言われ、この時代をペリクレス時代(前443〜前429年)と呼んでいる。ペリクレスにとって幸いだったのは、ペルシャの報復が全くなく、そのため、デロス同盟の資金が手つかずであったと言うことである。
 
 ペリクレスは、有り余るその資金を、アテネの町の復興資金として使った。更に、現在でも観光名所として有名な、パルテノン神殿などの建築資金にさえも使っているのである。このようにお金を、湯水のように使ったら、その政治家が国民から高評価を受けるのは当然であろう。ペリクレス時代が実現したのは、デロス資金のバラマキによる、人気取り政策によるところが極めて大きいと考えられる。
 
 と言うのは、ギリシャの政治について書かれた、アリストテレスの「アテナイの国政」(村川堅太郎訳、岩波文庫)や「政治学」(山本光雄訳、岩波文庫)を読んでも、ペリクレスを、政治家として余り買っていないのである。もっともアリストテレスは、アレクサンドロスの家庭教師をしたような人で、民主政よりも賢人による貴族政を望んでいたと考えられるフシがある。
 
 しかし私は、歴史書通り、ペリクレス時代が最も民主政華やかなりし時代であったことは、間違いない事実であったと思っている。だが、ここで大きな疑問が湧き起こってくる。民主政治を誰もが望む優れたシステムであるとするならば、ギリシャの民主政治はもっと後世まで続いてよかったはずである。ところが残念なことに、しぼんだ風船のようになっていくのである。
 
 やがて、ペロポネソス戦争(前431〜前424年)が起こると、市民の生活の基盤であった農業が荒れ、また貨幣経済が広まって、豊かな市民はますます豊かになり、貧しい市民はますます貧しくなった。こうして、比較的平等な市民たちの強い仲間意識で結ばれていた、今までのポリス社会は崩壊を始める。
 
 歴史書によると、市民間の貧富の格差が拡大することによって、市民共同体意識が薄れ、むしろ個人主義的な風潮が重んじられる社会(ヘレニズム社会)に、変質を遂げていったとされている。そこには貧富の差、あるいは中間階層の没落が強調されているが、実態は貧しい人々を救うことの出来ない政治体制に変質したということであり、国家財政がそれを許さないほど急迫したということなのである。
 
 こうして、ギリシャの民主主義は滅びていった。それは、デロス同盟の資金も底をつき、民主政を支えるお金が払底したからであった。かくてギリシャは、マケドニアの王政支配に組み込まれ、アレクサンドロス大王の出現を許すことになる。(「ナビゲーター世界史1」p53~67)
 
 古代ローマの民主主義についても、ギリシャと同じような形で勃興し、同じような金詰まりの中で滅びた。その詳細については、ワイガヤ青春広場、「人口爆発は民主主義を支えられるか」で述べているので、参考にして貰いたい。
 
 ただ付言するならば、ギリシャ人やローマ人は、民主制を究極の政治形態であるとは考えていなかったようである。2世紀のローマで活躍した、ポリビオスの政治循環論によれば、政治制度は、君主政ー暴君政ー貴族政ー寡頭政ー民主政ー衆愚政ー君主制と循環していくとしている。(「ナビゲーター世界史1」p71)現代の民主政が、衆愚政になることは絶対にあり得ないと、果たして断言できるであろうか。
 
(4)絶対主義を支えた重商主義
 
 諸賢よ。では次に、白人達が誇る、ヨーロッパの民主主義について考えてみよう。先ず、世界史の本を開いてみて欲しい。そうすると西欧近代の叙述は、大航海で始まったヨーロッパの植民活動が先ず起こり、王が主権を持つ主権国家体制(絶対王政)の成立、次いで市民社会(民主主義社会)の形成、と言う時代的順序になっていることに気が付くであろう。
 
 これを翻訳し直すと次のようになる。先ず植民地からの収奪によって富を手に入れ、その富によって絶対王政が栄え、その栄華と圧政に反発した人民が、王政を転覆あるいは形骸化して、人民が権力を持ち、富の平等分配を可能にする仕組みを作ったのである。このように、ヨーロッパの民主主義は、植民地から巻き上げた豊富なお金があって、初めて成立可能であったと言ってよいであろう。
 
 何故ならば、生産力が低くて貧しかったヨーロッパの中世では、封建制度のシステムの中で、諸侯や教会によるお金の一極集中が起こっている。一般民衆は、貧しいままに放って置かれ、富の分配のあり方は、現在のアラブ諸国における独裁政治と、ほぼ似通っていたからである。
 
 ヨーロッパの植民地支配の様子は、この論文のZ、[に、また、ワイガヤ青春広場「パレスチナに平和はもたらされるか」のW、X、Yに、詳細に述べているので、参考にして貰いたい。一言で言えば、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなどの西欧列強が、新大陸、アジア、アフリカなどを植民地として支配し、お金を貯め込んだと言ってよかろう。
 
 16〜18世紀にヨーロッパがとった経済政策は、重商主義と呼ばれる。国家が統制・干渉して、植民地を含めた商業ネットワークで、貿易を盛んにして、国富を増進しようとした政策である。具体的には、国内産業を保護育成して輸出を増やし、輸入を減らすことで貿易黒字を増やすという方法である。そのために植民地は最大限に利用・収奪され、国内産業の原料供給基地であると共に、国内産品の輸出市場とされたのである。
 
 国内産業と言っても、まだ産業革命の前であったから、農業と(道具を使った)手工業であった。手工業としては、資金を持った人が、農民や職人に原料や道具を貸し付けて製品を作らせる「問屋制家内工業」や、工場を建てそこに労働者を集めて製品を作らせる「マニュファクチャ」であった。しかし、これらの生産方式(プロト工業)は、当時としては画期的なもので、「分業と協業」で高能率を挙げるよう工夫されていた。やがてこの「分業と協業」が機械の発明につながり、産業革命の時代が始まるのである。
 
 一方、植民地における労働力は、当初、原住民を酷使したが、過労や伝染病などで多数死亡して労働力不足となった。そこで、アフリカの若い黒人を、動物さながらに狩り集め、奴隷船で労働力不足地域に送り込んだのである。およそ、1000万人以上の黒人が、特に新大陸を中心に奴隷労働としてこき使われた。屈強な若い青年層を失ったアフリカの社会は、崩壊していったのである。
 
 ところで、このように植民地から収奪した富は、先ず、絶対王制下の王侯貴族などのために使われた。彼らの贅沢な生活を支え、絶対王政を護持・強化するための、官僚制度や常備軍が整備されたのである。また、どうして王だけがそんな権利を独り占めしてよいかを、人々に納得させるために宗教が使われた。王権神授説というのがそれで、「王の支配権は、その王家だけが特別に神から授かったものである」とされたのである。
 
 だから、17〜18世紀に栄えた文化は、絶対王権を豪華に飾るための、宮廷文化であった。諸賢も知っている、パリ郊外のベルサイユ宮殿や、ポツダムのサンスーシ宮殿は、その当時に作られたものである。有名な画家たちも、王侯貴族の身辺を飾るための絵を描いた。ヘンデルやモーツアルトも、王侯貴族のために作曲し、楽曲はその館で演奏された。庶民のための展覧会や音楽会などは、全くなかったのである。
 
 しかしこの時代には、科学や哲学・思想の分野では、ルネサンスや宗教改革の系譜の中で、新しい潮流が起こり始めた。実験に基づく実証的な科学(ニュートン、ラボアジエなど)、理性的な合理哲学(デカルト、ベーコン、カントなど)、合理主義の立場から旧い権威や制度を批判する啓蒙思想(モンテスキュー、ヴォルテールなど)、レッセフェールを唱える経済学(ケネー、アダムスミスなど)がそうである。これらの知的活動が、絶対王政を批判する急進的な思想の土壌を、形成していったのである。
 
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 コーヒーブレイク
 
    ーヴェルサイユ宮殿とルイ14世ー
 
 ヴェルサイユ宮殿は、ブルボン王朝のルイ14世が、「朕は国家なり」と称して、王の権威を見せつけるために、莫大な費用と20年余りの歳月をかけて建設させた、豪華な宮殿であった。ここでは、朝から晩まで、王を中心とした派手な儀式が行われていた。
 
 ルイ14世が朝起きた時は、「お目覚めの儀式」があった。これだけでも、弟や王子からの挨拶、乳母の王への接吻、アルコールで手を洗ったあと、その日に身につける鬘(カツラ)やハンカチを選ぶ儀式、軽い食事、剣や装身具を身につける儀式、・・・等々という具合で、キリがなかった。この時、王にハンカチを渡す仕事を与えられた貴族は、それだけで大変な名誉になった。
 
 その後もミサ(神への祈りの儀式)、臣下たちへの様々な命令、国務会議、そして昼食の儀式へと続いた。王の食事を運ぶ行列にぶつかると、臣下たちはそれに頭を下げねばならなかった。昼食後は、多くの臣下たちを連れて散歩、午後の仕事、豪華な夕食のあとは舞踏会、音楽会、トランプ遊び、そして就寝の儀式と言う毎日が過ごされた。
 
 更に、王の排便の(儀式?)時も、それに参列できることが名誉だったとなると、我々の理解を超えてしまう。このように、国王と貴族の信じられないほどの格差を、国民に見せつけることによって、絶対王権の強大さを、誰にでも分かるようにする舞台が、ヴェルサイユ宮殿であったのである。(「ナビゲーター世界史3」p88)
 
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(5)生活革命
 
 17〜18世紀は、アジアや新大陸などの植民地から、新規な商品がヨーロッパに大量にもたらされた。例えば、茶や砂糖やタバコ、更には絹や木綿など、いずれも最初のうちは贅沢品であった。そしてこれらは、貴族達を中心とした上流階級のステイタス・シンボルとなった。
 
 しかし、重商主義の下、商業が発達した結果、貿易商人達を中心とする豊かな都市市民や、マニュファクチャなどで利益を上げた、プロト工業(産業革命以前の工業)の起業家達が台頭し、上流階級の消費習慣を真似するようになった。そして、ヨーロッパ人の生活が、大なり小なり急激に変化することとなった。このような変化は、植民地経営で最も成功した、イギリスが特に際立っていた。イギリスが、アジア産の茶に、カリブ海の砂糖を入れて飲む紅茶の国となったのは、その典型である。
 
 新しい食品としては、特に新大陸から多くの種類が入ってきた。ジャガイモ、トマト、トウモロコシ、トウガラシ、カカオなどが重要である。特にジャガイモは、悪い自然条件でも育ちやすく、同じ面積の土地で、小麦の4倍の人口を養えたのである。そのため、人口が増加したヨーロッパの人々を、飢えの苦しみから救うことになった。
 
 17世紀後半のイギリスの都市、特にロンドンでは、多くのコーヒーハウスが生まれた。コーヒーハウスは身分に関係なく、誰でも出入りが自由であった。そこでは新しい飲み物である砂糖入りのコーヒーや紅茶を飲み、タバコをくゆらせながら、文化・政治・経済その他あらゆる話題について、自由で活発な論議が展開された。
 
 従って、そこにはあらゆるタイプの情報が集まり、ジャーナリズムも成立した。初期の新聞や雑誌は、コーヒーハウスで多くの人々に読み聞かせるものであった。株式などの証券の取引もここでなされたため、保険会社や証券取引所のもとになった。また、次第に似た意見の者が、特定の店に集まることになったため、トーリーやホイッグという初期の政党も生まれた。近代科学をはぐくんだ王立協会も、コーヒーハウスを舞台に成立した。
 
 コーヒーハウスの中には、ようやく知られ始めた、アジア、アフリカやアメリカの、珍しい動・植物を見せて客寄せをするところもあり、そこから植物園や動物園が生まれた。19世紀になると、ロンドンの植物園を中心とする、イギリス帝国各地の植物園を結ぶネットワークが完成し、植民地の植物の移植や改良が進められ、その成果を利用したプランテーション開発が世界的に進行した。中国で作られていた茶を、インドやスリランカで、大量栽培するようになったのは、その一例である。
 
 こうしたイギリス人の生活習慣は、他のヨーロッパ諸国にも広がっていった。そして彼らの生活は、アジアや新大陸の植民地の生産物や動・植物相と、切っても切れない関係になっていくのである。(「詳説世界史研究」p279~280,p339)(「ナビゲーター世界史3」p18~19)
 
(6)産業革命とイギリス民主主義
 
 イギリスの絶対王政は、17世紀初めのエリザベス2世(女王)時代に絶頂期を迎える。しかしそれは、ヨーロッパ大陸諸国と異なり、官僚制や常備軍の整備が十分でないままで、成立したのが特徴である。ただ、常備陸軍は小さかったが、島国らしく海賊出自の海軍は強力であった。官僚制、特に地方政治を支えたのは、ジェントリと呼ばれた、中小の地主や新興商人から成る地方名士であった。
 
 そしてイギリスは、既に以前から議会制度を持っていたが、ジェントリを中心とする中産階級が、議会のイニシャティヴを取るようになっていく。国王派と議会派は、しばしば対立したが、ピューリタン革命(1640〜60年)と名誉革命(1688年)の2つの革命を通過点として、王権に対する議会の優越が決まった。
 
 産業革命を推進したのも、これらジェントリである。フランスとの重商主義戦争が繰り返され、それに勝ち抜いたイギリスは、ジェントリの政治権力独占の下、植民地帝国としての地歩を固めていった。そして、それを踏み台に産業革命の幕を開けていく。産業革命については、諸賢もよく知っていると思うので、詳細は省く。むしろ、産業革命が植民地支配なしでは成り立ち得なかったこと、また産業革命を通して新しい市民社会が生まれたことを、いくつかの事例を通して理解を深めて貰うこととしよう。
 
 産業革命が、綿工業の分野での機械の発明によって開始されたことは、よく知られている。木綿はもともとインド産である。イギリスは17世紀頃から、インドの手織りの綿布(キャラコ)を輸入し始めた。その涼しさ、洗濯のしやすさ、染色のしやすさなどで、ヨーロッパ産の毛織物に遙かに勝っていた。
 
 そのため、ヨーロッパへの綿布輸入は急増し、イギリスの毛織物業は倒産が相次ぎ、失業者が町に溢れた。慌てた政府は、1700年と1719年、「キャラコ禁止法」を成立させて、その輸入をストップしている。あわせて、これをイギリスでも製造しようと、様々な工夫がされているうちに、紡績機や紡織機を発明することになったのである。
 
 イギリスでは機械化だけでなく、水力から蒸気へ、木炭からコークスへとエネルギー転換にも成功した。鉄鋼業も発達し、鉄製の機械が普及していった。既にインドを植民地化していたイギリスは、インドを安価な綿花供給基地とし、イギリス綿布の輸出市場としたのである。更に、短繊維綿花から長繊維綿花への原料転換にも成功した。かくて、生産性で圧倒的な格差をつけられた、インドの手工業的綿工業は、壊滅的な打撃を受け、凄まじい貧困状況へと落ち込んでいったのである。
 
 他方、綿花や綿製品は、大西洋三角貿易の重要商品となっていた。イギリスは、アフリカに木綿や火器を輸出し、また、アフリカからの奴隷をカリブ海や南部アメリカの大農場へ輸出し、カリブ海からは砂糖の他に綿花を輸入したのである。これを大西洋三角貿易と称する。
 
 その結果、奴隷貿易の中心地リヴァプールに近いマンチェスター周辺に、綿工業が発達した。世界的スケールの、見事な収奪機構だと言わざるを得ない。産業革命と三角貿易は、相互循環的に影響を強めあい、それがまた富の蓄積と植民地支配を、一層促進したのである。
 
 産業革命はまた、民主主義を進める一つの梃子になった。と言うのは、諸賢もよく知っているように、こうして世界の工場となったイギリスでは、資本家階級と労働者階級という全く新しい階層構造が生まれることになった。労働者達は、最初は低賃金、長時間労働、劣悪な労働・生活環境にさらされた。しかし、彼らはお互いに団結して、労働組合を結成し、資本家に要求をぶっつけて、労働条件や生活の向上を図ろうとした。またイギリスはそれを可能にする、十分な資金的余裕を持っていた。
 
 これらの労働者の運動は、マルクス主義を始めとする社会主義理論を生み、政治運動としても広がっていった。そして、労働者の権利・利益を代表する、政党も誕生したのである。やがて、労働者保護の法律が、次々に制定されることになる。このように、産業革命は、機械工場労働者という新しいパターンの人間集団を包摂する民主主義を、資本主義社会に根付かせることになるのである。(「詳説世界史」p337)(「ナビゲーター世界史3」p114~115,p124~131)(「概説イギリス史」青山吉信など編、有斐閣選書p98~117,p140~160)
 
(7)アメリカ独立革命と先住民                     
                                       
 北米大陸でのヨーロッパ諸国による植民活動の中で、イギリスの植民活動は現地に定着したことに特色がある。というのは、他の国はおおむね交易のために植民し、海岸付近に拠点を作った。ところがイギリスは、交易のみならず耕作のためにも植民し、内陸にまで活動を広げたからである。そして、アメリカ東海岸に13植民地を開いていく。
 
 しかし、そのようなイギリスの活動は、先住民すなわちアメリカ・インデアンたちに、惨禍をもたらすことになった。何故なら第1に、先住民たちは土地を取り上げられ、また先住民征服戦争と呼ばれる戦いで虐殺され、生き残った者は、西インド諸島に奴隷として売り飛ばされているからである。第2に、先住民達が免疫を持たない、天然痘やハシカなどに罹患して次々と病死し、人口を急速に減らしたからである。
 
 一方、イギリス本国の重商主義から見れば、植民地アメリカの役割は、原料供給地・製品市場であり、税収源であった。イギリスは植民地獲得を巡って、特にフランスと多くの重商主義戦争をしているが、そのため財政難に陥り、植民地からの収奪を強めた。当然アメリカも対象となり、課税が強化された。これに対して植民地側は反発し、アメリカ独立戦争に繋がっていくのである。                                                              イギリス、フランスの植民活動や、独立戦争の詳細については、ワイガヤ青春広場「一神教の展開(ユダヤ教とキリスト教)」の、V−6,7に記述してあるので参考にして欲しい。いずれにせよ、諸賢も知っているとおり、植民地側が勝利を収め、1783年、アメリカ合衆国として独立を果たしている。                   
                                       
 独立直後、アメリカ合衆国の領土は、大西洋岸からミシシッピー川までしかなかった。これ以降合衆国は、猛然と西進を始める。また、ヨーロッパ諸国からの領地買収や、それら諸国との戦争によって、領土を西方に拡大していった。
 
 19世紀後半になると合衆国は、こうして手に入れた西部地方の開拓に力を入れ始める。そのためには、より多くの開拓者を西部に入植させる必要があった。手始めに、農民が広大な土地を、安く手に入れるように計らった。特に1862年の「自営農地法」では、5年間居住し開墾すれば、160エーカーまで土地を無償で取得できるようにした。同時に、道路網や運河、鉄道などのインフラ整備にも力を入れている。     
                                       
 しかし、いずれの土地にも先住民が住んでいた。だが、土地の取得欲に取り憑かれた開拓者達は、先住民に不義理の限りを尽くして、土地を次々に奪っていった。また政府も、その流れを促進させ、武力で先住民を追うことを可能にした。その根拠法が、「先住民強制移住法」である。移住を拒否する権利は、先住民に認められなかった。    
                                       
 悲劇の一例として、よく引き合いに出されるのが、チェロキー族の「涙の旅路」である。彼らは、現在のヴァージニア、アラバマ、テネシーなどの諸州に住んでいたが、強制的にオクラホマへ移住させられている。1万5千人が厳寒の中を移動し、4千人が命を落としている。勿論、先住民には抵抗した者もいた。しかし、すべてが武力で弾圧された。そして19世紀末、南ダコタ州のウーンデッド・ニーの大虐殺で、先住民の反抗意欲は完全に失われた。                            
                                        私が若い頃見せられた、ハリウッドの「西部劇」映画は、勇敢で思慮深い白人が、無知で獰猛なインデアンを蹴散らして、西部開拓を進めた英雄物語であった。事実は、先住民の生活根拠をことごとく奪った、強盗そのものが白人達であったのである。
                                         通常の歴史書では、共和国アメリカの民主主義は、王国イギリスから独立して勝ち取ったと言う面が強調されている。そして、国民の叡智と努力の結晶が、今日の世界第1の経済大国を生んだとされている。しかし、アメリカの民主主義は、先住民の血と汗と涙の上に成り立ったものであることを、忘れてはならないだろう。                                                 
 リンカンの「人民の、人民による、人民のための政府」という言葉を前述した。しかし、アメリカ民主主義の本質は、「白人の、白人による、白人のための政府」であった。その証拠に、黒人奴隷や先住民には、政治的権利は何一つ与えられなかったのである。
                                         カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの民主主義も、全く同じパターンで成立している。つまり、先住民収奪による富の蓄積と、宗主国イギリスからの独立という経過を辿っているのである。その詳細については、ワイガヤ青春広場「パレスチナに平和はもたらされるか」のW、Xを参考にして欲しい。(「アメリカの歴史と文化」遠藤泰生、放送大学、p31~41,p61~78)(「ネイティブ・アメリカンの世界」青柳清孝、古今書院、p79~85)(「ナビゲーター世界史3」p223~226)                      
(8)フランス革命
 
 フランスの民主政は、1789年のフランス革命により始まった。フランス革命は、それまでの絶対王政(ブルボン王朝)を倒して、民主政を確立した大事件であった。と言えば簡単であるが、実情は民主政と王政の間で、何度も揺れ戻しが起こった。そして、本格的に民主政になるのは、1870年、ナポレオン3世による第2帝政が終わり、第3共和制(1870〜1940年)が始まってからと言ってよかろう。その間、約80年が経過している。
 
 18世紀当時のフランスでは、アンシャン・レジーム(旧制度)と称する体制のもとで、支配層が特権を独占して平民を抑圧していた。アンシャン・レジームというのは、具体的には、絶対王制下の身分制度や領主制度のことと考えてよい。
 
 身分制度は通常、第1身分(神に仕える聖職者達が属した特権身分)、第2身分(国王に仕える貴族達が属した特権身分)、第3身分(以上の2つに仕える平民達が属した特権のない身分)に分けられる。特権身分は、豊かな生活をしているのに、税金を納めなくてもよい特権を持っていた。第1・第2身分をあわせて、全人口の2%を占め、残りの98%の第3身分を支配していたのである。
 
 第3身分については、豊かな階層から極貧の生活をしている者まで、多層にわたっていたが、次のように整理できよう。
 
 都市生活者の最上層には、特権商人が居た。国王に多額の税金を納めながらも、商売上の特権を貰い、大きな利益を得ていた。いわば絶対王政に寄生していたのである。その下にはブルジョワジー(中産階級の市民)がいた。商業活動に従事した新興の勢力で、第3身分の中では豊かな方であった。都市の最下層には、職人や日雇いの労働者が、貧しい生活をしていた。農村においては、広い自分の土地を持った富農もいたが、一般的には土地を持てず、小作農としての苦しい生活を強いられていた。
 
 領主制度は、中世からそのまま継続していた。領主階級は、地代徴収権、領主裁判権を始め、通行税、市場税を農民や市民から徴収する権利を持っていた。
 
 このような社会状況の中で、18世紀になると、新興のブルジョワジーや富農層は、啓蒙思想やアメリカ独立革命などの影響を受けて、アンシャン・レジームに対する不満を高めた。そして、身分制度の撤廃や、重税の廃止、経済活動の自由などを求める声が強くなっていったのである。
 
 そして1789年、バスティーユ牢獄の襲撃と共に、革命運動が勃発した。最初は、穏健派の指導から始まり、やがて過激派が国王をギロチン刑にするような事件も起こっているが、諸賢もほぼ知っていると思うので詳細は述べない。ただ、革命当初に起草された人権宣言は、事件の紆余曲折を貫いて、民主政を勝ち取った理念であると考えられるので、それを見ることとしよう。
 
 人権宣言は3つのポイントからなっている。@すべての人間は自由で平等である。A主権は国民が持っている(主権在民)。B所有権(私有財産)は不可侵のものである。このうちBが分かりづらいが、これまでの封建社会では、人々の財産は国王や領主から簡単に横取りされていた。それを禁じるというもので、努力して手に入れた財産は保証されることになり、その後の資本主義の発達に不可欠の条文となった。
 
 革命の結果を簡単に見ておこう。領主の封建的特権は廃止された。経済統制(ギルドなど)が廃止された。ブルジョワジーの商売の自由が認められた。農民は小作農から土地所有農民になった。そして特に重要なことは、男性の普通選挙制度が定められたことである。(「ナビゲーター世界史3」p145〜164,p211 〜212)
 
(9)ロシア革命とスターリンの独裁
 
 ソ連(ソビエト連邦)は、諸賢もよく知っているとおり、マルクス主義に基づいてロシアに建国された共産国家である。理念としては、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という理想国家を狙ったものであった。つまり、体力と知力に優れた者は、大いに能力を発揮して生産に従事し、そうでない者は、ほどほどの働きで許される。しかし、すべての者が、平等に自分が欲する物財を自由に消費できるという、民主主義の極致と言うよりも、夢物語みたいな社会を構想していたのである。
 
 マルクスは、ドイツの哲学・経済学者である。彼は、世界史における生産構造・階級構造の推移を分析し、また、産業革命後の資本主義社会の動きを究明した。そして、新しく生まれた、資本家階級と労働者階級という対立する階級構造の中で、労働者階級が次第に力をつけ、社会主義社会に移っていくという理論を立てた。それは、多くの人々の共感を呼び、特に若者達は、前述した理想社会実現を夢見たのである。
 
 マルクスの描いた社会は、植民地経営や三角貿易、産業革命などで、丸々と肥え太ったイギリスというビーカーの中で純粋培養すれば、ある程度可能だったかもしれない。また人間が、俗世界の欲望の垢にまみれず、同胞意識に溢れ、情け深い存在であったら、まだ可能性はあったであろう。しかし、人間は前述したように俗人であり、また理論の実験場は貧しいロシアであった。万が一つにも、成功は望めなかったと言えよう。
 
 ロシア革命は紆余曲折を重ねたが、1917年、レーニンに率いられた労働者・兵士が武装蜂起して、ソビエト(労働者と兵士の代表者組織)政権が誕生した。そして、地主の所有地を没収して、土地の所有権を廃するなど、共産主義実現への口火が切られている。しかしレーニンは、革命後開かれた憲法制定議会を武力で封鎖して、反対勢力を追放している。労働者のためと言いながら、形式だけの民主主義体制を取って、実際には、極端な独裁国家となる第1歩を踏み出したのである。
 
 革命後、反革命勢力や外国からの干渉軍との戦いが始まる。ソビエト政権は、赤軍という軍隊を強化し、秘密警察を組織して、それらの事態に対処した。また、戦時共産主義という、経済の国家統制を進めている。すべての企業は国有化され、農民から穀物を強制的に徴発した。しかし、素人の労働者による工場運営で、生産力は7分の1に落ち、農民も生産意欲を失った。その結果、農民には数百万人もの餓死者が出ている。
 
 レーニンが死去すると、スターリンが台頭する。彼は政治的なライバルを暗殺・追放するなどして、絶大な権力を集中する。しかし彼も、重工業を優先した経済政策で失敗している。農民に過重な負担をおわせ、農村が荒廃し、またもや数百万人の餓死者を出している。貧しいソ連には、それを救うすべがなかった。
 
 スターリンはそれ以降、多くの裁判を通じて、共産党幹部、軍の最高指導者と一般市民多数を処刑し、また極寒のシベリア強制収容所送りとした。その数は、1000万人に上ると推定されている。このような大粛清以降、人々はスターリンの影におびえながら生活した。
 
 1936年には「スターリン憲法」が成立している。これには公正な選挙、言論・出版の自由を始め、民主主義に必要な国民の権利が、形の上ではすべて認められている。しかし国民の権利は、「社会主義体制の強化に反しないならば」と言う条件がついていた。この条件が満たされるかどうかは、最終的にはスターリンのみが判断できたのである。
 
 表面上、如何に美辞麗句が並ぼうとも、レーニンやスターリンの独裁下では、生活の苦しい一般国民の不満は大きかった。時折、それが反乱という形で噴出した。それを抑えるためには、軍隊と秘密警察による、徹底的な弾圧しかなかったのである。このように、ロシアの地を実験室とした、マルクス主義的民主主義の試行は、完全に失敗に終わった。民主主義の実現のためには、お金が充分ないといけないと言うことを、諸賢にも納得して貰えたと思うが、如何であろうか。
 
 スターリン後も権力闘争を勝ち抜いた者が、国家最高権力の座につていく。官僚主義が跋扈し、自由な発想を欠いたソ連は、西側との技術力格差を次第に広げられていった。かくて、ソ連経済は停滞し、結局冷戦にも敗れて、1991年、ソ連は解体するのである。(「ナビゲーター世界史4」p80~88,p198~202)
 
(10)中国「社会主義市場経済」モデルの成功
 
 中国最後の清王朝は、世界に冠たる豊かな大帝国であった。しかし、19世紀から20世紀にかけての100年間に、帝国主義列強による半植民地化、外国との戦争、内戦が続き、中国は貧しい国になってしまった。そして第2次世界大戦後の1949年、中華人民共和国が成立して、中国人はようやく、自分で自分の国を統治できるようになった。
 
 新しい中国を率いたのは毛沢東である。彼は共産党内の権力闘争に勝ち、次第に独裁者になっていく。彼は計画経済を進めていくが、「第2次5カ年計画」で大失敗を犯している。計画の杜撰さに自然災害が追い打ちをかけ、農村は荒廃した。そして、2000万〜4000万人という信じがたい餓死者を出しているのである。(「中国の歴史11」p151)
 
 そして、毛沢東が強行した「文化大革命(1966〜76年)」は、災難の10年と呼ばれる動乱の時代であった。新しい文化・思想を創造する革命であると唱えながらも、紅衛兵と呼ばれる青少年を動員して、大混乱を起こした。約300万人が投獄され、約50万人が処刑されて、人的にも、経済的にも、文化的にも、中国に計り知れない打撃を与えた。
 
 毛沢東が死去すると、権力闘争に勝ったケ小平が後継者になった。彼は毛沢東路線と大胆に決別した。「4つの現代化(農業・工業・国防・科学技術面でのレベルアップ)」を唱え、改革・開放路線を始めた。先進資本主義国からも、ためらわず技術導入を行い、積極的に市場経済を取り入れ、貧富の格差が生まれることさえ容認したのである。
 
 ただケ小平は、共産党独裁という体制だけは、断固として守り抜いた。それは、1989年の天安門事件で示された。世界中で、共産党独裁政権が倒れていく中、中国でも自由化運動が盛り上がった。学生や市民達が、天安門広場でデモや集会を行い、エスカレートして、共産党政権の存続すら危ぶまれた。しかしケ小平は、戦車や銃弾で、その運動を徹底的に弾圧した。
 
 かくて、共産党独裁と市場経済を組み合わせた、「社会主義市場経済」という不可思議な政治・経済モデルが出来上がる。経済活動の自由は許すが、政治活動の自由は許さないというわけである。そして、このモデルは、その後の江沢民や胡錦濤にも引き継がれている。市場経済導入は大成功で、中国のGDPの伸び代は、毎年10%を越す勢いを見せ、2011年には日本を抜いて、世界第2位の経済大国に躍り出た。
 
 しかし、共産党独裁の旗印を下ろす気配はない。反体制派のノーベル平和賞の受賞者さえも投獄し、その家族にさえ受賞式への出席を許していない。何故か。共産党の首脳には、中国がまだ貧しいという共通認識があるからであろう。確かにGDPでは日本に並んだ。しかし、人口は日本の10倍である。ということは一人あたりのGDPでいえば、日本の10分の1でしかない。
 
 しかも、貧富の差は極めて大きい。特に沿岸部と内陸部の隔たりは甚だしい。この段階で民主政を導入すると、社会は混乱を起こすと読んだに違いない。だから、中国首脳は、次の主たる経済目標が、貧富の格差解消であることを、明確に打ち出しているのである。これは賢明な選択であると私には思える。
 
 最近の中国の動きを見ていると、ソ連を始めとする世界の独裁政権とは、ひと味違うという思いを抱かされる。2011年には、今後5年間のGDP成長目標を7%としている。これは、経済規模が10年間に2倍になる、スピードであることを意味する。10%超という超高度経済成長によるインフレ懸念や、過熱経済に伴う社会のひずみを大きくしないための、妥当な政策設定であると考えられる。
 
 一人あたりGDPを増加させるためには、GDPそのものを大きくするだけでなく、人口の増加を抑制しなければならない。人口の増加率がGDPの増加率を超せば、一人一人は逆に貧しくなるからである。中国が頑固に継続している「一人っ子政策」は、豊かさ実現のための、良い方策である。少子高齢化が日本以上に進むという批判はある。しかし、先ず個々人を豊かにすることを国の指針として、批判に動じる様子はない。
 
 現実に、豊かになった上海などの都市部では、少子化政策をとらなくとも、出生率が先進国と肩を並べ始めていると言われる。1人あたりGDPの伸び率が、現在のトレンドで推移するならば、いずれは、「一人っ子政策」を廃止しても、人口増を抑制出来る時期が来るに違いない。と言うのは経験的に、所得向上と少子化傾向は相関するからである。
 
 世界最大の民主主義国と言われるインドは、人口制御システムを持たない。新聞の報道によると、2011年の人口は、12億1千万人と言うことであり、その人口増は止まることを知らない。近く、中国を追い抜くことになろう。一部の国民は豊かになったかもしれないが、多くは貧困の中に取り残されており、毛沢東主義を掲げるゲリラ集団の、地方での跋扈が報じられている。インドは、民主主義の仮面を被った、格差拡大社会であるようにも見えるのである。
 
 やや脱線したが、中国と他の独裁政権が違うのは、トップの交代が権力闘争によらないと言うことである。ケ小平までは権力闘争が激しかったが、江沢民以降、ルールに則り一定任期毎の交代が行われている。これは、共産党エリート集団内において、エリート民主主義とも言うべき、合意形成が行われていることを示している。
 
 勿論その背後には、強力な軍がいる。中国の軍備増強が、周辺国に脅威を与えていると言うことは、軍事予算への軍の強い発言権を意味する。トップの権限行使も、軍を含めた集団的合意により決定されているはずである。
 
 また、独裁者は民意を問わない。民意を無視するから独裁者なのである。ところが中国首脳には、民意に出来るだけ耳を傾けようとする姿勢が見られる。この2〜3年の例でいえば、大豪雪で鉄道輸送に障害が生じたり、大震災で村落が崩壊したりすると、トップ自身が直接現場に駆けつけ、激励する姿が見られる。それがメディアで広報され、国民の不満や要求を封じ込める、単なる独裁政治とは異なるという印象を、国民に与えていることは間違いない。
 
 かくて、かっての中国共産党は、「労働者階級の前衛」であった。しかし今や、資本家の入党も許されるようになり、「中華民族の前衛」へと姿を変えたように思われる。つまり、事実上の「階級政党としての党」の放棄、多様な階層を内包する国民政党への変容と言ってよいであろう。(「中国の歴史11」p352〜353)
 
 勿論中国は、少数民族問題、環境問題、貧富の格差、汚職などなど、多くの問題を抱えている。少子高齢化問題も、遠からず浮上して来るであろう。しかし、一党独裁の中で経済成長を実現し、国民を豊かにすると言う、歴史的に見ても全く新しい政治・経済モデルを、人類に対して提供をしようとしているように見える。それが成功し、国民の多くが豊になった時、政治的にも言論や出版の自由などが認められ、中国型民主主義と呼ばれるシステムが生まれることを望みたい。(「ナビゲーター世界史」p232〜235)
 
(11)イスラムは民主主義と両立できるか
 
@西欧からの押しつけは禁物
 
 以上、民主主義にはお金がかかること、現在民主主義国家であっても、国家が経済的に破綻したら、民主主義を維持できなくなることを、色々な事例を挙げて説明してきた。また、イスラム諸国が一部の例外を除いて、王政・共和制を問わず、独裁的な政治システムを取っているのも、基本的には植民地としての収奪を受け、貧しさの中に放置された結果であることを説明してきた。
 
 では、このよう前提条件を置いた上で、イスラム諸国が民主主義国家になり得るのかどうかを考えてみよう。当然のことながら、それは可能である。しかし、民主主義というと、西欧デモクラシーというバター臭い概念を学問的に定義し、それを物差しにして、他のシステムを測定するという印象を受ける。あるいは、先進的西欧をモデルとして、それを後進諸国が金科玉条のごとく追随する、と言う印象もある。西欧は神であり、開発途上国はそれにひれ伏す信者の如くである。
 
 しかし、西欧型ではない民主主義があっても、いっこうに構わない。ただ、私の理解で引用した、「人民の、人民による、人民のための政府」という、方向性さえ間違わなければいいのである。例えば、先述した中国の動きは、「人民による」を当面「共産党独裁による」としながら、「人民による」への軟着陸を狙っているように思える。そして、多分中国スタイルによる、民主主義が生まれることになろう(ことを期待する)。
 
 イスラム諸国も豊になれば、「人民のための政府」の誕生が期待できる。チュニジアを始めとするアラブの動乱は、豊になりつつあるイスラム諸国で、独裁権力の圧政と富の独占に対する、人民の鬱憤が吐き出されている現象と考えてよいであろう。
 
 しかし、それがどのような形で「人民のため」の物となるかは、現在の所はっきりしない。軍、ムスリム同胞団、大衆運動指導者など、色々な勢力による政権獲得のケースが考えられる。それらのせめぎ合いの中で、また、世界を駆け巡る多様な情報からの選択肢の中で、次第にイスラム独自の姿が形を現して来るであろう。仮にそれが回り道に見えようとも、先進国を自負し、先輩風を吹かせたがる欧米勢力からの、お節介は無用である。イスラム世界が、自己責任で生み出す、民主主義こそ望ましいのである。
 
 欧米諸国は、自分たちの貪欲さの結果、貧しくなった旧植民地国の痛みに、責任を感じるべきである。そして、イスラム諸国が豊になろうとする努力への支援と、対立する国内勢力同士の、内戦などによる流血の惨事を押しとどめるような、調停工作などに汗を流すべきであろう。
 
Aチュニジアへの期待
 
 では具体的に、イスラム世界のどこに、どのような形で民主化が起こるのであろうか。私は、トルコは別格として、民主化への先頭を切り、他のアラブ諸国のモデルになるのは、チュニジアではないかと期待している。勿論、2011年のアラブ動乱の口火を切ったのが、チュニジアであった事は重要である。しかし、それだけではない。歴史的に、期待を抱かせるに足る伝統を持っているからである。
 
 先ず、紀元前のことではあるが、ローマとのポエニ戦争で名高いカルタゴが、まさにこの土地で交易により栄え、「地中海の女王」の名を欲しいままにしている。その遺跡は、世界遺産としても登録され、観光名所となっている。また、前述した歴史哲学者イブン・ハルドウーンは、チュニジアの首都チュニス出身である。チュニジアは、そのような人類史に残る伝統に輝いているのである。
 
 また16世紀以降、チュニジアは長らく、オスマン帝国の支配下にあったが、18世紀初めにフサイン朝として独立している。そして、1861年には、イスラム世界として初めての憲法を発布し、立憲君主国となっている。これは、オスマン帝国のミドハト憲法(1876年)よりも、10数年早い憲法制定であった。そして、西欧化政策、富国強兵策を進めている。
 
 1878年、フランスの植民政策下で、チュニジアは保護領となってしまった。しかし20世紀初めには、トルコに倣って「青年チュニジア党」を結成し、チュニジア独立を目指している。独立したのは1956年である。57年には王政を廃止し、トルコのケマル主義に近い、脱イスラム、世俗化政策を推進している。
 
 このように、西欧化、脱イスラム、世俗化などを、繰り返し試みたのがチュニジアであった。ただ、そのたびに挫折を経験しているが、それらの試練が国民を政治的に鍛えてきたはずである。
 
 そして、今回の革命の受け皿になったのが、若者達の知的レベルの高さであったと言えよう。チュニジアでは、初等、中等、高等教育のシステムもよく整備されている。革命の引き金の一つとなったのが、大学卒の20%と言う高失業率への不満であった。しかも彼らの間では、情報機器の普及率が極めて高く、それが革命勢力に力を与えた情報ネットワークを産んだのである。更に、女性の社会進出率も、アラブ世界の中で最も高いと言われている。
 
 チュニジアの面積は日本の5分の2、人口は1000万人超である。経済的には、必ずしも豊であるとは言えない。小麦とオリーブなどの農業が中心産業である。石油や天然ガスの産出は、あるにはあるが乏しい。鉱物資源はリン鉱石中心である。イスラム国(全人口の98%がスンニ派ムスリム)でありながら、ワインを生産する世俗国家でもある。
 
 ただ、EUとの交易は活発で、またEUからの資本投下による国内産業の育成にも努めている。EUへの出稼ぎ者による国内送金も多い。経済成長率は、3〜5%である。食糧自給率は100%以上であるから、まずまずの安定した経済状況であると言えよう。少なくとも、独裁政治でなければ、統一が維持できない国情にはない。
 
 しかし前述したとおり、若者の失業率が高いのは大問題である。他のアラブ諸国同様、30歳以下が総人口の大半を占めている。それら若者の知的・肉体的エネルギーを、革命後のチュニジア再建に、如何に活用していくかが、民主化達成に向けての、最も大きな課題であると言えよう。(「チュニジア」外務省HP)
 
Bイスラム世界の問題点克服
 
 当然のことながら、チュニジアだけでなく、他のイスラム諸国にも改善すべき問題は山積している。それを、他に頼ることなく、自己責任で解決していくべきである。以下、いくつかの問題を例示してみよう。
 
 第1は、豊になるためには、産業構造を変革していかねばならないと言うことである。イスラム諸国には、石油などを始めとする鉱物資源を豊富に持つ国が多いので、それに頼ろうとする傾向が強い(但し、エジプト、ヨルダン、レバノン、チュニジアなどは石油資源に恵まれていない)。
 
 最近はBRICsを始めとする開発途上国における活発なエネルギー需要は、資源価格を高騰させ、それら資源国の財布を膨らませている。2011年の日本における原発事故は、原子力発電所建設へのブレーキをかけ、その傾向を一層助長することになるであろう。
 
 しかし、それに甘えてはいけない。それら鉱物資源は、自分たちの汗と智慧で生み出した資産ではない。自然から偶然貰った、いわばタナボタの贈り物である。しかも限りある資源であり、意外に速いスピードで枯渇していく。だから、資源収入があるうちに、他の産業への構造転換を行うことが必要である。それらの智慧を国民から引き出すためにも、普通教育のみならず、高等教育に対する投資、更にはソフト・ハードのインフラ投資や雇用の確保が必要となろう。
 
 イスラム諸国の特徴は、若い人の総人口に占める割合が、非常に高いことである。30歳以下の人たちが、60〜70%という国は数多い。これは高齢化が進む欧米諸国に比べて、極めて有利な点である。これら若い人たちの、肉体的・知的エネルギーを活用して、新しい国造りに役立たせるべきであろう。これからの30〜50年 が勝負である。その間に、独裁者が積み上げてきた富を、上述のような投資に振り向けることの出来る国民だけが、「人民のための」システム作りに成功するであろう。
 
 第2は、若年層構成比率の高さと裏腹の関係にあるが、人口問題である。21世紀に入る段階での人口予測では、世界の人々が30%増加する間に、ムスリムの人口は50%増加すると推計された。2001年のムスリムは、世界人口の約2割であったが、21世紀半ばには、世界人口の3分の1となり、宗教別人口では、キリスト教を抜いて第1位になると考えられている。
 
 ムスリム人口の殆どが、発展途上国に住んでいることを思えば、疑いもなく、これは生活水準の低下を招く。個別の国にとっては、食糧や住宅、エネルギーの不足、深刻な都市化などを意味するであろう。GDPがいくら増加しても、その増加率を人口増加率が上回れば、一人あたりGNPは減少するから、現状よりも更に貧しくなる。これでは、民主化どころの騒ぎではなくなる。
 
 イスラム諸国会議機構(OIC)は、このことに気が付いているようである。様々な決議を行い、各種の閣僚会議や専門家会議で、具体的な改善案を提出しているが、十分な成果を出していない。また、湾岸の産油国は、厖大な資金を蓄積しているが、それをイスラム世界の開発に役立てることにも成功していない。しかし、時間的な余裕はあまりない。ムスリム世界における、誰かの、あるいはどの国家かの、強いリーダーシップが期待されるところである。
 
 第3は、これも人口問題とも絡む、重大な懸案事項である。それは、女性の地位向上である。人口問題から言っても、最終的に子供を産む、産まないを決定するのは女性である。社会的にも、人口の半分を占める女性の、知的・肉体的エネルギーを捨てることは、大きな損失である。コーランは「人間としての男女平等」を説いていると言われる。しかし、現実のムスリム社会では、男性優位に立っていることはムスリム自身も認めている。
 
 単純な例を挙げると、男性は異教徒の女性と結婚できるが、女性はムスリム以外とは結婚できない。その他にも、数え上げると切りがないような、差別的事例が見られる。更に驚かされるのは、タリバンのように、女性に対する教育は不要だと主張する、勢力があると言うことである。アフガニスタンでタリバンが勢力をふるっていた時代には、女子教育はことごとく廃止された。このようなことはイスラムの宗教的な原理とは何の関わりもなく、旧来の因習に基づく偏見でしかない。
 
 学びたいという欲求は、人間共通の欲求である。学ぶことは生命が伸びることであり、生命が伸びることを抑制するのは、自然の法則に反する。そのようなことをコーランが説いているはずはないし、そのようなことを教えるウラマーがいるならば、それは邪教を広めていると言って差し支えないであろう。
 
 世界的な傾向としてムスリム女性も、教育水準の高まりと、社会進出の度合いに応じて、男女平等の問題に非常に神経質になっている。ムスリム社会が、男性優位・女性蔑視の旧来の習慣に固執するならば、女性たちの反乱のリスクは大きい。それは、欧米キリスト教社会でも起こったことであり、同じ人間社会である以上、当然ムスリム社会でも起こる。(「イスラームの歴史2」p277~278)
 
2.イスラムと政教分離
 
(1)異教徒支配における政教分離
 
 イスラムの問題点は何か。もっと端的に言えば、イスラムの宗教としての欠陥は何か。最近そのようなテーマが、私の周囲でも論議されるようになった。それに対する多くの反応は、「イスラムの最大の問題点は、政教分離が出来ていないことである。あるいは、政教一致であるということである。」ということに集約されるように思う。
 
 これは、西欧の近代との対比で、捉えられているケースが多いようである。例えば、アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言が、西欧における近代的思想の源流であると考えて、それとイスラムとを比較する考え方である。それは、人間の自由・平等を謳い、王やキリスト教の束縛から、人民を解放したという西欧史に基づいている。政教分離の定義は、信教の自由を保障するために、政治と宗教がお互いに介入することを禁じる事であるから、西欧についての事実認識としては、ほぼ妥当であると言えよう。
 
 一方、イスラムとはコーランにあるとおり、「神への絶対服従」を意味する。コーランは、その他に日常生活のタブーや、結婚・相続・商売の仕方など、生活全般にわたっての規則がすべて書かれている。そしてイスラム法(シャリーア)は、コーランとハディース(ムハンマドの言行録)に基づき、ウラマーのイマージュ(意見の一致)とキャース(類推)によって成立している。その成立過程を、イジュティハード(解釈の営為)と呼ぶことは前述した。
 
 だからイスラムは、単なる宗教ではなく、政治・経済・社会・文化など、ムスリムの活動分野すべてに関わる「生活の体系」なのである。このように見てくると、確かにムスリムである限り、政治と宗教(イスラム)は原理的に分離不可能であり、政教一致であると言えよう。
 
 しかし、イスラムが政教一致であると言うのは間違いだ、とする学者もいる。政治権力者であるカリフは、シャリーアに従って政治を執行しているのであって、教えそのものを決めたり改めたりする権限は持っていないというのである。つまり、政治はシャリーアに包摂されているのであって、政治=宗教ではないと言うのである。(「イスラーム世界の歴史的展開」三浦徹、放送大学p47~50)
 
 確かにそうであろう。だが、政治が宗教と密接不可分であり、少なくとも政教分離とは言えないのであるから、これを政教一致と呼んでも、一向、差し支えないであろう。ここでは、学問的定義の正確さよりも、常識的な理解のしやすさを優先させることとしよう。
 
 閑話休題。ところが不思議なことに、イスラムは7世紀の誕生から、政教分離であったように見える。と言うのは、イスラムの支配者は、税金さえ払えば、異教徒が自分の宗教を信じることを許したのである。つまりイスラムは、信教の自由を金で買わせるシステムを持っていたと言ってよかろう。寛容とも言えるが、いい加減とも見える。このシステムは、その後19世紀まで続いていく。オスマン帝国のミツレト制度がそれである。
 
 一方キリスト教は、誠に潔癖であり不寛容であった。両者の違いが対照的に展開されたのは、イベリア半島においてであった。イスラムの支配者は、ウマイア朝(661〜750年)からナスル朝(1230〜1492年)まで、ムスリムとキリスト教徒、ユダヤ教徒の共存を許した。
 
 ところが、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が完成すると、ユダヤ教徒やムスリムは追放された。隠れユダヤは密告によって宗教裁判にかけられ、処刑されたのである。多くのユダヤ人は、オスマン帝国に逃げて、安住の地を求めている。
 
 このように、支配下の異教徒との関係で考える限り、キリスト教は政教一致であり、イスラムは政教分離であったと言ってよい。イスラムの支配者達は、少数の征服者が多数の異教徒を支配するためには、イスラムを強制するより、税を対価に信教の自由を許し、また異教徒たちを人材として活用した方が、より実際的な統治手法であると考えたのであろう。
 
 人材活用について補足すれば、キリスト教徒は、植民地支配下の先住民やアフリカ黒人を、労働力として酷使しただけだといえよう。それに対してイスラムは、軍人奴隷(マムルークやイエニチェリ)を軍事力の中核としただけでなく、彼らをエリートとして育て、政権の中枢にまで登用しているのである。
 
 しかし、後世になって明らかになるように、そのようなイスラムの政治システムは、求心力がなければ、統治下の諸部族や軍団が、バラバラの集団に分裂する危険性を抱えていた。だから、カリフ制やウンマ(イスラム共同体)の概念が、大切にされたのであろう。比喩は適切ではないかもしれないが、カトリックにおけるローマ教皇のような、求心力を求めたのであろうと思われる。
 
(2)イスラムの覚醒と政教分離への影響
 
 こうして、支配下の異教徒との関係では政教分離、同じムスリムの間では政教一致というシステムが続いていく。どうしてなのかを、簡単に説明しよう。イスラムは世界を、ムスリムが支配する「イスラムの領域」と、異教徒が支配する「戦争の領域」に分けて考える。「イスラムの領域」には多くの異教徒がいるが、彼らは庇護民(ズインミー)として扱われ、統治に服して税金を払えば共存の対象となる。
 
 ところが「戦争の領域」に住む異教徒は、ムスリムのコントロール外に置かれるから、それが侵攻してきた場合には、徹底的な抵抗が義務づけられる。それが、ジハードである。ちなみにジハードで戦死したものは、殉教者と呼ばれ、最後の審判を待たずに、天国への道が保証されると考えられている。(「イスラム原理主義がすべて分かる本」p175~176)
 
 そして、このような区分けは、うまく機能していったと言ってよいであろう。しかし18世紀になると、西欧近代との邂逅の中で、「イスラムの領域」も強烈な衝撃を受けることとなる。その詳細については、「イスラムの覚醒」の項で分析した。
 
 その衝撃に対する、イスラム世界の反応を簡単に要約すると、大きく3つの立場に分かれた。第1の立場は、伝統的なイスラム体制を護持するというものである。第2の立場はその対極にあって、イスラムはもはや役に立たず、西欧化によって新たな発展を得ようとするものであった。第3の立場はその中間にあって、イスラムと西欧近代とを何らかの形で統合したいとするものであった。
 
 この第3の立場の中から、イスラム近代主義とイスラム復興主義が生まれた。イスラム近代主義とイスラム復興主義を、厳密に区分けしようとすると、その境界は曖昧になる。両者とも、ムスリム達の社会的現実が、時代に合わなくなっていることは認めていた。彼らはその原因を、イスラムそのものではなく、ムスリムたちがイスラムの正しい理解を欠き、誤った社会的実践を続けたことに求めた。
 
 だから両者の差は、イスラムと近代が対立する局面において、どちらを重視するかという点に尽きるであろう。そして、その対立は、現在までも続いているのである。
 
 これらの立場が、政治的システムとして具体化されるのは、第1次・第2次世界大戦以降のことである。先ず、第1次大戦後のトルコ共和国において、第2の立場が鮮明に示された。例えば、スルタン制度やカリフ制度を廃止して、イスラム世界を仰天させた。また、シャリーアを廃止して、国家制度の世俗化に踏み切った。
 
 トルコ共和国の拠り所は、もはやイスラムではなく、民族主義であり、民族を母体とする国家であった。そして、自由主義あるいは民主主義などの、西欧的近代思想を導入し、主権在民と議会制を原則とする憲法を採択した。イスラムについては、信教の自由の下、個人の信条の問題とされたのである。
 
 第2次世界大戦後、多くのイスラム諸国が独立したが、その殆どが民族主義に拠り所を求め、世俗主義的政治体制を取っている。エジプトを始めとするアラブ諸国、イラン、パキスタン、インドネシア、マレーシア、中央アジア諸国などなど、いずれもしかりである。
 
 厳しいワッハーブ派の伝統を受け継ぎ、第1次世界大戦後の1932年に独立したサウジアラビア王国は、第1の立場による保守的体制を守り切れるかに見えた。しかし、第2次世界大戦後の急激なアラブ民族主義の高まりに対応できず、政治・経済社会の近代化・世俗化に舵を切っている。
 
 このように、2つの世界大戦後のイスラム世界は、むしろ政教分離的な傾向が主流であったと見て間違いない。この現象は、トルコ共和国の成立過程で、カリフ制度が無残に廃止され、ウンマ的結合の絆を失ったこと、その結果、ムスリムではなく、民族主義と新生独立国家に、存立の基盤を置かざるを得なかったからであると考えてよかろう。併せて、ムスリム諸国が植民地化されたことによる、西欧に対するインフェリオリティ・コンプレックスがあったのかもしれない。
 
(3)イスラム復興の気運
 
 ところが1960年代になると、イスラムによるアイデンティティを求めて、イスラム復興活動が息を吹き返してくる。それと共に、イスラム連帯の気運も高まってきた。そのきっかけになったのは、第3次中東戦争(63年)での、イスラエルによる東エルサレムの占領と、ユダヤ教徒によるエルサレムのアクサ・モスク放火(69年)であった。そして、イスラム諸国会議機構(OIC)が生まれたことは、既に述べた。イスラエルが、イスラムの再覚醒に火をつけたのである。
 
 その典型例がイランであろう。1979年、シーア派のウラマーであるホメイニが、世俗主義のパフレヴィー王朝を倒して、イランを12イマーム派の国家とした。そして、憲法にもイスラム国家であることを謳い上げたのである。法律も、コーランと憲法に合致する限りで有効とされている。つまり、前述した第1の立場による国家形成であった。かくてイランは、ウラマー支配の政教一致国家となったのである。
 
 他のイスラム諸国においても、イスラム復興運動のトレンドは見えてはいるが、イランほどの徹底した政教一致体制は取っていない。いずれも、世俗主義とイスラム復興主義の間で、揺れ動いていると言ってよかろう。法律制定の面で具体的に説明すると、行政法や司法手続きに関する法律は、イスラム色のない世俗法であり、民法の中で家族法には、イスラム色を濃く残していることが多いと言えよう。
 
 このように、イスラム諸国は、草創時に遡っても、また現代を見ても、字義通りの政教一致体制は、イランを除いては存在しないと考えてよかろう。しかしながら、世界の多くの人々から、イスラムが政教一致の、理解不能な宗教であると見られているのは何故であろうか。
 
 多分これは、自爆テロをも辞さない、イスラムの武力闘争ネットワークの形成に起因すると思われる。更にそれが、「イスラム原理主義」という言葉と結びつけられ、イスラムの排他性や攻撃性が、イスラムの原理そのものから生み出されているという、理解がなされているように感じられる。そして世界の恐怖心や拒絶感を、その頂点まで高めた事件が、2001年9月11日の同時多発テロであった。
 
(4)原理主義と武装闘争
 
 もともと「原理主義」という言葉は、19世紀末から20世紀初めにかけての、アメリカ・キリスト教の中から生まれた。その最大の特徴としては、聖書無謬(ムビュウ)説が挙げられる。聖書の記述は、神学的にも歴史的にも科学的にも正しく、誤りは全くないとする立場である。科学理論一辺倒に見える、世の中の風潮に反発して生まれた。だから、ダーウインの進化論は聖書に反するものとして否定される。(ワイガヤ青春広場「一神教の展開(ユダヤ教徒キリスト教)V−8参照のこと)
 
 イスラム原理主義という名称は、上記キリスト教原理主義からの借用である。過激派イスラムに対して、メディアが、その場しのぎに作りだした造語である。アメリカ国内における、頑迷なキリスト教信者を指す「原理主義(Fundamentalism )」を、そのままイスラムにくっつけてしまった。同時多発テロ以降、政治家もジャーナリストも、こぞって「原理主義」という言葉を使い始めたのである。(「イスラムの怒り」内藤正典、集英社新書p38)私も以後、普及している原理主義という言葉を使うこととする。
 
 イスラム原理主義も、「コーランとハディース(ムハンマド言行録)に帰れ」という、復古主義的な立場を取る。そして、個人のイスラム法(シャリーア)遵守も唱えるが、イスラム法が社会全体に行き渡ることが必要であると考え、「政治社会体制のイスラム化」を叫ぶ事になっていく。つまり、政治権力を握らなければ、真のイスラム社会は実現しないと考えるのである。だから、考え方としては、政教一致的であると言えよう。
 
 また、現代のイスラム原理主義の組織的原点になったのは、ムスリム同胞団であると考えてよかろう。ムスリム同胞団の起原は、1929年のエジプトであるが、その後、シリア、イラク、ヨルダン、アルジェリアなど、アラブ諸国にも影響を与え、その主張を基盤とした政党を生み出している。その主張が、すぐさま武装闘争やテロリズムに結びつくわけではない。しかし、シリアのバアス党と戦ったムスリム同胞団のように、テロや軍事行動に走る可能性を持つ。
 
 イスラム原理主義の本格的な台頭は、1970年代からと考えれる。それは、イスラム復興の趨勢と時期的に重なる。そして、1979年のイラン・イスラム革命が、原理主義者たちのイスラム信仰と、その行動について、自信を深めさせたと言ってよいであろう。
 
 それが具体的な形として現れたのは、先ず1979年の、ソ連によるアフガニスタン侵攻に対する「アラブ義勇兵」である。無神論の共産主義と戦うイスラム・ゲリラとして、ムジャヒディン(ジハード戦士)が活躍したことは、前述した。
 
 次は、アラブ世界に突き刺さった棘「イスラエル」にまつわる、闘争である。ここでは、イスラエルのレバノン侵攻に対する、原理主義者のレジスタンスと、パレスチナにおける原理主義者の民衆蜂起(インティファーダ)について、述べることとする。
 
 PLO(パレスチナ解放機構)は、アラファトに指導され、1964年に生まれたパレスチナ闘争組織である。対イスラエル・テロ活動が活発化すると、イスラエルの反撃により、PLOは南レバノンに拠点を移した。イスラエルは、エジプトと平和協定を結んでいたので、後顧の憂い無くレバノンに侵攻し(82年)、首都ベイルートを落としている。
 
 しかし、PLOを始めとする様々な武装組織は、伸びきったイスラエルの補給線に、大量の弾薬を抱えた自動車を突っ込ませ、自爆テロを多発させた。米仏両軍司令部にも、自爆テロが仕掛けられ(83年)、両国は撤退を余儀なくされている。今でも記憶に残るのは、17歳の少女が、自爆テロに参加し、殉教していることである。
 
 そして、レバノン南部には、レバノン原理主義勢力(ヒズボラー)を根付かせることになった。ヒズボラーは、シーア派組織でイランとの結びつきが強く、資金援助・軍事援助を受けている。
 
 今一つのインティファーダは、1978年に始まった、イスラエル国内におけるパレスチナ人の民衆蜂起である。それを指導したのが、ムスリム同胞団の影響を受け、南西部ガザ地区を支配し、イランの支援を受けているハマス(イスラム抵抗運動)である。90年代には、ユダヤ側とムスリム側双方からの、テロが続発した。ユダヤ原理主義者が、モスク内で自動小銃を乱射する。それに対して、イスラム原理主義者が報復する。
 
 こうしたテロが繰り返される中、中東和平を進め、93年にはパレスチナ暫定自治協定を締結し、アラファトと握手をしたラビン・イスラエル首相は、神に対する裏切りを犯したものとして、ユダヤの青年に暗殺されている。その後も、ハマスの自爆テロは続発し、路線バスや繁華街で、自らを人間爆弾としていく。かくて、憎しみの連鎖が止めどもなく続いていくのである。(「イスラム原理主義がすべて分かる本」p92~100)
 
(5)同時多発テロ 
 
 最後に、イスラム原理主義と、切り離せないイメージを与えた、2001年の同時多発テロの経緯を、かいつまんで説明しよう。そのためには、アルカイダやタリバンの成立から述べる必要がある。
 
 アルカイダは、オサマ・ビン・ラディンによって、1980年代に設立されている。1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、それに対してムジャヒディン(ジハード戦士)が立ち向かったことは前述した。もともとアフガニスタンには、スーフィズム(神秘主義)の力が非常に強く、ムジャヒディンに見られるような、原理主義がはびこる余地はなかった。しかし、ソ連の侵攻で伝統社会が崩れ、その間隙を埋めるように、原理主義が広がっていったのである。
 
 ムジャヒディンはパキスタンに解放区を設け、サウジから資金援助を受け、アメリカから武器援助を受けながら、反ソ抵抗運動を行った。オサマ・ビン・ラディンも、その中の一人であった。ビン・ラディンには組織能力があり、厖大な自分の資産を背景に、アルカイダ(カイダは基地、アルは定冠詞)を組織していく。かくてアルカイダは、当初、ソ連軍という無神論者に対する戦闘集団だったのである。
 
 オサマ・ビン・ラディンの父は、イエメンを出自とするアラビアの富豪であるが、母はパレスチナの女性であった。そのことを勘案すると、早くからユダヤ教徒や、イスラエルを支援しているアメリカに対する、強い反感を持っていた事は、想像に難くない。
 
 しかし、ビン・ラディンが本格的に、強い反米感情を抱くようになったのは、湾岸戦争がきっかけであった。1990年に起こった湾岸戦争は、イラクのサダム・フセインが、クウェートに侵攻したことで始まる。イギリスの植民政策でクウェートを切り離されたイラクは、クウェートが自国領であるという意識を強く持っていた。そして、クウェートが国境の油田を盗掘したと言う口実で、クウェートに侵攻したのである。
 
 それに対して、アメリカを中心とする多国籍軍が介入した。その時、サウジアラビアが、アメリカ軍に基地を提供した。それを目にしたのが、ビン・ラディンであった。彼は、事もあろうにイスラムの盟主が、異教徒に足場を与え、ムスリムの国家を攻撃させる暴挙に怒りを感じた。そして、メッカ・メディナのあるアラビア半島というイスラムの聖地が、キリスト教徒に蹂躙されたとの解釈をした。
 
 おまけに、アメリカ軍には女性兵士が参加していた。休日ともなると、肌も露わに至る所を闊歩した。女性隔離を徹底する、サウジアラビアでは信じられないことであった。ビン・ラディンならずとも、多くのムスリムがショックを受けたと言われる。ビン・ラディンには、イスラムの社会規範が踏みにじられたと感じられ、耐え難い屈辱であると映ったのであった。
 
 ビン・ラディンのアメリカへのスタンスは、完全に転換した。彼の戦略目標が、「世界的なイスラム戦線を構築しつつ、パレスチナ闘争を支援し、聖地アラビア半島から異教徒(米軍)を追放し、それと結託しているサウジ王政を打倒する。」となったのは、当然の成り行きであったと言えよう。かくて、2001年の同時多発テロが起こる。
 
 アメリカは、犯行グループを、オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダと断定した。そして即刻、アフガニスタンを攻撃し、ビン・ラディンを匿い、アルカイダに拠点を提供したとして、タリバン政権を崩壊させた。
 
 ここで、タリバンについて説明しておこう。タリバンとは、タリブ(神学生)の複数形である。1994年に誕生している。当時のアフガニスタンは、国家というよりも、多くの部族や軍閥など、烏合の衆の寄り合い所帯であったと言ってよかろう。タリバンも、その中のパシュトウン系部族出身のグループであった。
 
 タリバンの指導者は、パキスタンのマドラサ(イスラム学園)で、原理主義的な思想を学び、アフガニスタンで軍事訓練を受けてイスラム戦士となった、神学生出身者であった。彼らは憂国の情と、イスラムへの献身によって、厳格な規律を保っていた。これが民衆の支持を得、多くの武装グループや軍閥、更にはムジャヒディン各派を圧倒して、力をつけていった。
 
 一方で、パキスタン軍部からの支援や、サウジアラビアの資金援助を得ていた。アラブ、チェチェン、タジキスタン、パキスタン、ウイグルなどの、イスラム原理主義者から成る義勇軍兵士が、新たにタリバンのもとに馳せ参じたこともあって、急激に勢力を増大させた。そして、90年代後半には、他のグループを圧倒して、首都カブールを占領し、国土の90%を支配するようになった。かくてタリバンは、旧ムジャヒディンから、装いを新たにした新生ムジャヒディンとなっていくのである。
 
 このタリバンも、アメリカの軍事力の敵ではなかった。アメリカ軍は、短期間でアフガニスタンを制圧し、傀儡政権を誕生させた。しかし、タリバンやアルカイダは、パキスタンとの国境地帯などを根拠地に、ゲリラ活動を続けている。アメリカは撤退を宣言しているが、その後のアフガニスタンがどうなるか、見通しは不明である。
 
 アメリカは、更に2003年、驚くべき行動に出る。大統領ブッシュは「先制攻撃ドクトリン」を唱え、アメリカへの脅威に対しては、先制攻撃を加える権利を主張した。それを現実化したのが、イラク攻撃であった。イラクのサダム・フセインは、核兵器を含む大量破壊兵器を保有し、また、アルカイダと結びついているという嫌疑によって、アメリカ、イギリスを中心とする多国籍軍の攻撃を受けたのである。
 
 アメリカは、一ヶ月半で戦闘終了を宣言した。しかし、大量破壊兵器は、そのかけらも発見できなかった。また、サダム・フセインは、原理主義者どころではなく、イスラムとは何の関係もない、バアス党の世俗主義者だったのである。アルカイダとの結びつきは、勿論無かった。アメリカは慌てて、戦争目的を平和と民主化に切り替えたが、その一国行動主義と呼ばれる利己的な姿勢を、国際社会にさらすことになった。その後のイラクが、内戦に近い混乱状態にあることは、諸賢も知っているとおりである。(「イスラム原理主義がすべて分かる本」p123~147) 
 
(6)キリスト教徒はイスラムが嫌い
 
 以上、原理主義が過激派と結びつき、武装闘争と結びつくとき、如何に悲惨な状況に陥るかを見てきた。今まで述べてきたことからも分かるように、ここで原理主義とは、イスラム原理主義だけを指すのではない。キリスト教にも見られるし、どのような宗教にも生ずる可能性がある。自分だけが正しいとする排他的・独善的な思い込みが、原理主義的発想を産むのである。
 
 しかし、原理主義は一神教において発生しやすいようである。客観的に見て、世界における宗教人口で1位と2位の、キリスト教とイスラムが、血で血を洗っているのは、何とも残念な現象である。しかも、同じ神を崇め、アブラハムを共通の祖先とする兄弟宗教の間における近親憎悪だけに、人類にとって誠に不幸なことであると言わざるを得ない。
 
 その原因は、様々に分析できようが、一言で言えば、互いに嫌い合っていると言うことである。イスラム世界がキリスト教西欧を嫌っていることについては、前述した。逆に、キリスト教世界がイスラム世界を嫌っていることも述べておかないと、片手落ちであろう。双方の言い分を冷静に聞いて、対話の手がかりを見つけ出していくことが、今後重要になっていくと思われる。
 
 キリスト教世界としての西欧が、イスラムを嫌っている理由は、割に分かりやすい。イスラムは先輩二宗教、すなわちユダヤ教とキリスト教を持っている。すべて一神教である。当然のことながら、先輩の一神教から見れば、後輩のイスラムは邪教に見えるし、同じ神を信じていることさえ、なかなか受け入れがたい。
 
 ところが、後輩のイスラムから見ると、違ってくる。神は一つである以上、ユダヤ教もキリスト教もアブラハムの流れを汲み、同じ神を信じる先輩なのである。だからムスリムは、先輩二教の神もアッラーと呼ぶ。また、唯一の神からの啓示を授かったことで、先輩二教信者を「啓典の民」と呼び、兄弟と見なしてきた。
 
 ユダヤ教徒にとって、旧約聖書が信仰の核であり、またユダヤ人は、神に選ばれた選民であると信じている。7世紀になって、ムハンマドに下された啓示が、自分たちの教えと同じ価値を持つとは考えられない。
 
 キリスト教徒とて同じである。彼らの信仰の根本をなすのは、旧約・新約聖書である。また、人間の原罪を贖うために、神の子としてこの世に遣わされ、十字架刑を経て復活したイエスこそ、自分たちの救いのよすがである。イエスも預言者だが、ムハンマドこそ至高の預言者であると言うイスラムの考えは、絶対に受け入れられない。また、三位一体説を否定するイスラムは、邪教以外の何物でもない。
 
 時代が下って、十字軍時代においても、ヨーロッパはイスラムを敵役にした。そして、相手を敵視するための理屈を無理矢理作りだした。残忍で好戦的であるというムスリムムのイメージは、キリスト教の旗を掲げて戦いを挑むには、丁度良かったのである。そのムスリムが、聖地エルサレムを支配しているという架空の事実を作り上げ、奪回しなければならないとローマ教皇が宣言し、十字軍は始まったのである。
 
 その後、西欧にイスラムへの恐怖感を深めさせたのは、17世紀の、オスマン帝国による第1次ウイーン包囲であった。15世紀に、キリスト教の同胞ビザンツ帝国を、オスマン帝国が滅ぼして以来、トルコ人(オスマン人)は「野獣」「残酷な野蛮人」と言う受け止められ方をしていたようである。そのトルコ人が、キリスト教世界の盟主、神聖ローマ帝国の首都ウイーンを陥落寸前まで追い詰めたのである。泣いている子に、「トルコ人が来る」というと泣き止んだとの言い伝えがある。
 
 21世紀になっても、イスラム敵視の姿勢は変わっていないように見える。2006年ローマ教皇は、ドイツの大学で講演を行い、その中で、イスラムに対する敵意を露わにした。彼は、ビザンツ皇帝の発言を引用し、「ムハンマドが新たにもたらしたのは何だったのだ。それは邪悪と冷酷でしかなかった。例えば、ムハンマドは剣によって教えを広めようとした。」といっている。税金を払えば信仰が許された史実は取り上げず、また、十字軍以来、キリスト教徒が多くのムスリムを殺した事実を無視している。
 
 最近は、2001年の同時多発テロ以来、西欧キリスト教徒のイスラム嫌いは、ますます激しくなったようである。今までは、寛容な多文化主義を表明し、民族差別や宗教差別も少ない「寛容な国」を誇りにしていた西欧諸国であった。そして、多くのムスリム達を、労働力不足を補う自分たちの都合とは言え、移民として受け入れてきた。ムスリムを見る目は、「遠くの国からやってきて、厳しい労働環境で仕事をしてくれる奇特な人たち」であった。
 
 しかし、様々な文化摩擦や、白人青年達の失業問題など、次第に問題視されつつあった最中に起こった同時多発テロは、西欧人の目を急変させた。「ヨーロッパ人の仕事を奪って、失業したら失業手当で遊んで暮らしている邪魔者」として、ムスリム移民を見始めたのである。こうした疎外される環境の中で、ムスリム達は、イスラムの中にしか心の安住の地はないと感じ始め、イスラムのアイデンティティをより強固にしようとし始めている。(「イスラムの怒り」p74~128) 
 
(7)世界平和のための対話と論理構築を
 
 このように、イスラムとキリスト教の間の不信と敵意は、何百年にもわたる歴史的な経緯を経て、双方の潜在意識の中に深く横たわっている。これを解きほぐすのは容易なことではない。しかし、未来における人類の平和社会を築くためにも、双方の意識の底に奥深く潜む、心理的コンプレックスを解消していかなければならないだろう。
 
 そのためには、先ず対話が必要である。その場合求められるのは、寛容さである。自分の宗教の純粋性や優越性だけを主張するのではなく、政治性や妥協を求める姿勢が必要となろう。共通点を出来るだけ多く見つけ、相違点は出来るだけ少数に抑えて、論理構成をするべきであろう。いい加減だと言われるかもしれないが、人類の平和のためである。人類の平和構築のために構成される論理より、尊い神学があるとは思えない。
 
 イスラム世界でもキリスト教世界でも、いずれ劣らぬ複雑な論理構成を組み立ててきている。時には、無理にも思えるような論理を平気で生み出し、人々にそれを強制するようなこともやってきているのである。いずれの宗教においても、また宗教相互間でも、内容が矛盾し、両立できないような教理が、数多く散見されるのがその証拠である。
 
 例えば、キリスト教でも、正統と言われる三位一体のアタナシウス派以外に、色々な神学派がある。イスラムの法学派も、スンニ派で4つに、シーア派でも多数に分かれている。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という兄弟宗教でも、教義の対立があることは何度も述べてきた。
 
 しかし、そのような相違や矛盾を、宗教や教理の欠陥と考えるべきではなかろう。むしろ、そのような矛盾の存在の中でさえ、自分の宗派に敬虔に従うことの出来る、不思議な人間の能力や、複雑性を高く買うべきであろう。そして、異なる教理間における、小異を捨て大同につくと言う立場で、論理形成の努力をするべきであろう。
 
 その次に必要なことは、歴史に学ぶと言うことである。歴史上の事実として、宗教間の争いを止め、平和共存した時代も、数多く存在するのである。その教訓に学び、その平和が何故実現可能であったのか、その理由が分析されねばならない。政治的な理由、経済的な理由、心理的な理由もあろう。妥当に思われる理由、くだらない理由もあろう。しかし、平和であったということ自体が尊いのであって、その理由は極端に言えば何でもいいのである。
 
 幸い、キリスト教世界では、エキュメニズムの運動が誕生している。これは、カトリックとプロテスタント間など、キリスト教陣営だけの連帯を目的に発足したものではある。しかし最近では、キリスト教だけを正しいとする姿勢に反省を加え、他の宗教の存在をも認めようとする傾向が見えるのは心強い。
 
 それに対してイスラム世界でも、ムスリム・ウラマー世界連盟(2004年結成)の動きが注目される。イスラム過激派の動きに対する反省もあって、欧米との摩擦を解消すべく、設立されたものである。スンニ派、シーア派を包み、多くの国からの中道派ウラマーが結束していると聞く。まだ、具体的な成果を生んだというニュースはないが、必ずやイスラム世界における、穏健なコンセンサスが形成されて行くであろう。欧米との摩擦解消を目指しているので、キリスト教との架け橋も築かれるに違いない。
 
3.イスラムの融通無碍
 
 以上、様々な面からイスラムを眺めてきたが、最後に私の率直な感想と、提言を纏めて終わりとしたい。
 
(1)イスラムの背教規定
 
 正直に言って私は、イスラムの最大の欠陥は、ムスリムに信教の自由を認めないことであると思う。と言うよりも、もっと広く思想・信条の自由がないと言うことである。その代表例が「背教規定」である。シャリーアには、「いったんムスリムになった者が転向すると、死刑判決が下される。」という背教規定が存在するのである。
 
 西欧社会でもかっては、非キリスト教徒の存在を許さなかった。また、キリスト教の教理に反する思想や、科学さえも許さなかった。それらは、宗教裁判において断罪されたのである。しかし、長い間の悲惨な経験を経て、思想の自由を獲得した。西欧社会では、こうした「内面(思想・信教)の自由」を「悪魔の自由」と表現し、例え悪魔(自らの思想的敵対者)の思想であっても、それを認める立場を築いてきたのである。
 
 しかし、イスラム世界ではそれを認めていない。だが、これを認めない限り、「内面の自由」が形となった、「表現の自由」や「集会・結社の自由」も認められないこととなる。だから、前述したサルマン・ラシュディーの「悪魔の詩」に対して、イランのホメイニが死刑を宣告するような事態が起こる。(「イスラム原理主義がすべて分かる本」p107)
 
 ラシュディーは、出自はインドであるが、国籍は英国である。そのイギリス人に、他国の指導者が死刑の判決をするなど、全く受け入れられる事ではない。国籍問題の他にも、表現の自由に対する権利侵害が見られる。
 
 確かにこの小説には、預言者ムハンマドへの中傷があり、また、その妻達の名のついた売春婦が次々に登場する。従って、如何に小説であろうとも、イスラムの名誉を毀損したとする見解は否定できないであろう。しかし、それはあくまでも名誉毀損の問題であり、それが死罪にあたるとする見解は、非常識に過ぎる。
 
 また、前述したシャリーア形成過程も、思想・信条の自由と抵触する恐れがある。社会における生活規範、あるいは「人間として生きるべき道」について、エリートグループであるウラマーの解釈に委ね、一般大衆を思考停止に追い込むシステムであるように思われるからである。溌剌とした個々人の創造性に期待することは、イスラム世界だけではなく、世界全体の発展のためにも必要なことであろう。
 
(2)コーランの弾力性
 
 しかしコーランをじっくり読めば、人間の自由や創造性を束縛するような文脈にはなっていないことに気が付く出あろう。例えば、コーランには、「何々をしてはならない。しかし、どうしようもない時には、他の方法で解決せよ。」と言う論理がしばしば出てくる。人間同士の対立や衝突を回避するために、「アッラーの慈悲」を持ち出しているところも多い。また、「神を敬う心は、無理強いされて育つものではない。」という言葉もある。
 
 例えば断食は、ムスリムが果たすべき5つの重要な義務行為(5行)の一つである。それでさえ、病気の者、旅行者などは出来なくてもやむを得ない、という配慮だけでなく、「出来なかった」という不埒な信徒は、貧者に食物を施すと言う、償いの規定まで定められている。しかも、一日の断食が終わって夜になったら、飲食だけでなく性的欲情も満たせと説き聞かせている。そしてアッラーは、決して無理なことは求めなさらぬと繰り返しているのである。
 
 ということは、同じ信者同士といえども、他人の信仰実践を裁くことは、原則的に出来ないのである。絶対的な権威を持つ「神の代理人」を、イスラムでは認めない。だから、どこまでイスラムのルールを守るか、それとも破るかは、結局その信者本人が、死後、最後の審判を経て、天国行きとなるか地獄行きとなるかの、違いとなって現れるだけである。
 
 このように、イスラムでは絶対命令的に見えて、弾力的で融通無碍な所があるのである。その対極にある要素は、1つは「神の定めとしての絶対性」であり、もう1つは、その神自身が「あまねく慈悲深い」存在であり、人間の弱さを知り尽くしているという点である。実際コーランでは、1つの規範に対して「何々をせよ」と命じているところと、「出来なかったら仕方がない」と許しているところが混在している。(「イスラムの怒り」p156~177)
 
(3)イスラム法の多様性
 
 また、イスラムにおける法学派の多様性も、イスラムの弾力性・適応性を示していると言えよう。前述したように、スンナ派にはハナフィー、マーリク、シャーフィイー、ハンバルと、4つの法学派がある。これらはいずれも、コーランとハディース(ムハンマドの言行録)からウラマー(イスラム学者)が、イジュティハード(解釈の営為)を通じて、シャリーア(イスラム法)を生み出す過程で、生じた学派である。
 
 どうして、唯一神の教えが多岐に分かれることになったのか。それは、同じ問題でも、時代や地域によって、変化するからである。ウラマーは概して、社会の習慣には柔軟な姿勢を取り、必要と認められるものについては、合法と認めていったのである。そのため、法学派は限りなく増加する可能性があった。しかし、師匠・弟子の関係などで纏められ、4つに落ち着いたのである。ここにも、イスラムの柔軟な現実対応力が見られる。
 
 更にイジュティハードは、世の中の変化に応じて、生成発展することが求められている。前述したアフガーニーなどの主張にも見られるように、旧来の解釈を継承し、それに安住することは、イスラムの堕落と考えられている。ここにも、イスラムの弾力性を見ることが出来るのである。(「イスラームの歴史1」p92~93)
 
 いずれにせよムハンマド、及びその教えを継承したウラマー達は、複雑な人間心理、特に不完全で間違いを起こしやすい人間の心のひだを読んだ、優れた人間観察者だったと言うべきであろう。勿論、その教えの振幅が大きいことは、欠陥でもあり得る。
 
 「神の教えの絶対性」という1極にこり固まった場合には、残虐行為も平気で出来る過激派にもなり得る。それは多分、イスラム世界を取り巻く敵意に反応して、ムスリムが復讐心を研ぎ澄ます時であろう。他方、友好的な雰囲気を感じれば、ムスリムの融通無碍性が、得たりや応とばかりに発揮されることになろう。相手の気配を読むことが得意な、商人の宗教であるイスラムにとって、それは造作もないことであろう。
 
 それが実現するためには、イスラム世界における屈辱感の歴史的根源をなす、キリスト教世界の態度こそが、最も問われるところである。文明の伝承についての感謝や、植民地化に対する反省を踏まえての、辞を低くした発言と、開発途上のイスラム諸国に対する、各種支援が不可欠であろう。一方イスラム世界も、自分たちの宗教の弾力性を自覚し、思想・信条の自由に、もう一歩踏み込むべきであろう。
 
 つい最近(2011年)も、アメリカ・フロリダ州のキリスト教牧師が、これ見よがしにコーランを焼いた。それに対して、アフガニスタンやパキスタンなどで、反米デモが起こっている。そのような負の連鎖を続けている限り、イスラム文明とキリスト教文明間の深淵は、決して埋まることはない。
 
 これは、人類全体にとっても、極めて不幸なことである。対話と協調の道を選ぶのか、敵意と紛争の道を選ぶのか。人類の叡智にゆだねられている道は、ただ1つのはずである。
                           (2011年4月21日)
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