舞姫  口語訳
 
 (船の燃料である。)石炭は早くも積み終えてしまった。船室の中等室の机のそばはとても静かで、白熱電球の光の晴れがましいほど明るいのもまったく無意味である。今夜は毎晩ここに集まってくるトランプ仲間もホテルに泊まって船に残っているのは私一人だけなので。
 五年前のことであるが、日頃の望みがかなえられてヨーロッパ行きの役所の命令を受けて、このセイゴンの港まで来た頃は目に見るもの耳に聞くもの一つとして珍しくないものはなく、筆に任せて書き記した紀行文が日ごとに幾千語になったろうか。当時の新聞に載せられて、世の中の人にもてはやされたけれど、今になって思うと、幼稚な考え、身の程を知らない無責任な発言、そうでなくても珍しくもない動物、植物、金属、鉱石、または風俗などをさえ、珍しそうに書いたのを、心ある人はどのように見ただろうか。この度は、旅に出発したとき、日記を書こうと買ったノートもまだ白紙のままであるのは、ドイツでいろいろ勉強した間に、一種のニル・アドミラリー(何ごとにも感動しないこと)の気風になってしまったためであろうか。そうではない、これには別に理由がある。
 たしかに東(日本)に帰る今の私は、西に航海した昔の自分ではない。学問はやはり満足できない所も多いが、浮き世のつらいことも知った。人の心は頼りにならないのは言うまでもない、自分と自分の心までもが変わりやすいのも悟り知った。昨日よしとしたことが、今日はだめだという私の瞬間の感触を、筆に写してだれに見せようか。これが日記が書けない理由なのか、そうではない。これには別に理由がある。
 ああ、ブリンジ―シ―の港を出てから、はやくも二十日余りがたった。世の中の常識ならば初対面のお客に対してさえ交際して旅の退屈なのを慰め合うのが船の旅の習慣であるのに、ちょっとした病気を理由にして部屋の中にだけこもって、同行の人々にも話をすることが少ないのは、人にはわからない恨み(心の苦しみ)ばかりが頭だけを悩ましたのである。この恨み(心の苦しみ)は旅の初めは一切れの雲のように、私の心を連れ去ってスイスの山色をも見せない、イタリアの旧跡にも心をとどめさせない。旅の中ごろは世の中を嫌って自分の身をはかなんで、「腸日ごとに九回す」とも言うような大変な苦痛を私に負わせて、今は心の奥に凝り固まって、一点の翳りとだけなったけれど、本を読むたびに、ものを見るたびに、鏡に映る姿、声に応じる響きのように、限りない昔を懐かしいと思う気持ちを呼び起こして、何度となく私の心を苦しめる。ああ、どのようにして、この恨み(心の苦しみ)を忘れようか。もし他の恨み(心の苦しみ)ならば、詩に書いて歌に詠んだ後は気持ちがすがすがしくなるであろうが、こればかりはあまりに深く私の心に彫りつけられたので、そう(すがすがしくなることは)あるまいと思うけれど、今夜はあたりに人もいない。ボーイが来て消灯するまではまだ時間もあるようなので、さて、その概略を文章にしてみよう。
 
 
 
 私は幼い頃から、厳しい家庭教育を受けたかいがあって、父親を早く失った(小さいときに亡くした)けれど、勉強が荒れてダメになることもなく、江戸時代の藩校に行っていた日も、(時代が変わって)東京に出て東大の予備門に通ったときも、大学の法学部に入った後も、太田豊太郎という名前はいつも一級の最初に記されていた。それが一人っ子の私を力にして生活している母の心は慰められていたのであろう。十九歳の年には学士の称を受け(大学を卒業し)、大学ができてからそのころまでにまたとない名誉であると人にも言われ、某省(中央官庁)に就職して、故郷にいた母を東京に呼び(一緒に住んで)、楽しい年を送ること三年ばかり、役所の長官の信用が格別だったので、ヨーロッパに行って一課の事務を調べてこいとの命令を受け、私の名前をあげるのも、私の家を興すのもいまだと思う心が勇み立って、五十を越えた母に別れるのもそれほどまでも悲しいとは思わないで、はるばると家を離れてベルリンの都に来た。
 私はぼんやりとした立身出世の思いと、自己規制に慣れている勉強する力を持っていて、たちまち、このヨーロッパの新しい大都会の中央に立った。どのように鮮やかに輝く光なのか、私の目を射ようとするのは。どのような色彩なのか、私の心を迷わそうとするのは。菩提樹の下と訳すと、ひっそりと静かな場所であるように思われてしまうけれど、この大道がまっすぐ延びたようなウンテル・デン・リンデンの通りに来て、両側の石畳の歩道を歩いて行く一組一組の男女を見なさい。胸を張って肩がそびえ立つような衛兵が、まだウィルヘルム一世が在位中で、町を望める宮殿の窓に寄りなさり、(街を眺めたころ)であったので、様々の色に飾った礼装をしている。顔の美しい女性がパリにまねた化粧をしている(というように)、あれもこれも目を驚かさないものはないうえに、車道のアスファルトの上を音もしないで走るいろいろの馬車。雲にそびえ立つ高い建物の少しとぎれたところには、晴れている空に夕立のような音を響かせてみなぎり落ちる噴水の水。遠く眺めるとブランデンブルク門を隔てて、緑の木々が枝を交差させている中から、中空に浮かび出ている凱旋塔の女神の像。このたくさんの景色がきわめて短い距離の中に集まっているので、初めてここに来たものが応接にひまがない(目をきょろきょろさせる)のももっともである。そうだけれど、私の胸にはたとえどのような場所にやってきても、うわついた美観に心を動かさないようにしよう、という誓いがあって、常に私を襲ってくる外界の(様々な)ものをさえぎりとどめていた。
 
 
 
 私が呼び鈴のひもを引いて面会の取り次ぎを頼み、役所(政府)の紹介状を出して日本から来た目的を告げたプロシャの役人は、みんな快く私を迎えて、公使館からの手続きさえ無事に済んだならばどのようなことでも、教えるし、伝えることもしましょう、と約束してくれた。喜ばしいことは私が故郷でドイツ語、フランス語を学んだことであった。彼らは初めて私に会ったとき、どこでどのようなときにこのように(外国語を)修得したのか、と尋ねないことはなかった。
 さて、仕事の暇があるたびに、以前から役所の許可を得ていたので、当地の大学(ベルリン大学)に入って政治学を勉強しようと、名前を(大学の名簿に)登録した。一月二月と過ごすうちに、役所の仕事の打ち合わせも済んで、調べることも次第にはかどっていったので、急がなければならないことは報告書に作って送り、そうでないものは写し取っておいて、しまいには幾巻になったろうか。大学の方では、幼稚な心で考えたような、(修了したら)政治家になれるような特別の学科があるはずもない。あれにしようか、これにしようかと迷いながらも、二三の法律家の講義の席に出席するように思い決めて、聴講料を納めて、行って聞いた。
 
 
 
 こうして三年程は夢のように経ってしまったが、時がくれば覆い隠そうとしても覆い隠せないのが人の好みなのであろう。私は父の遺言を守り、母の教えに従って、他人が私を神童であるなどと褒めてくれるのがうれしくて怠らないで学んだ時から、役所の長官がよい働き手を得た、と励ましてくれるのが喜ばしくてとぎれる(休む)ことなく勤めたときまで、ただ受動的で、機械のような人物になって自ら考えることがなかったが、いま二十五歳になって、すでに長くこの自由な大学の風に当たったためであろうか、心の中がなんとなく穏やかでなくなり、奥深く潜んでいた本来の自分が、次第に表に現れてきて、昨日までの(本来の)自分でない自分を攻めているのに似ている。私は今の世の中で勇ましく活躍するような政治家になるのもよろしくなく、またよく法典を暗記して判決を下す法律家(裁判官)になるのもふさわしくないということを悟ったと思った。私がひそかに考えるには、私の母は、私を生きている博学な人にしようとし、私の役所の長官は私を生きた法律のみに詳しく、人間味に乏しいような人物にしようとしたのであろうか。博学な人間はまだ耐えることはできようが、法律だけに詳しいだけでは我慢することができない。今までは、こまごまとした問題にも、きわめて丁寧に返事をしていた私が、このころから役所の長官に送る手紙には、しきりに法律制度の細かいところにこだわるべきではないと論じて、一度法の精神さえ、理解できれば入り乱れたあらゆることは、竹を割るようにたやすく解決するに違いない、などと大きなことを言った。また、大学では法律家の講演をほったらかしにして、歴史・文学に気持ちが移り、次第に面白みがわかるようになった。
 役所の長官は、もともと心の思うままに使うことができる機械を作ろうとしたのではないだろうか、独立の考えを持って、人並みではない顔つきをした男をどうして喜ぶであろうか。危うくなったのは私の当時の地位であった。だが、これだけではまだ、私の地位を覆すには足りなかったのを、日頃ベルリンの留学生の中で、ある勢力のあるグループと私との間に、面白くない関係があって、それらの人々は私をそねみ疑い、またとうとう、偽って私を悪く言うようになった。そうだけれど、これもその理由がなかったのであろうか、いやあったのだ。
 それらの人々は、私が一緒にビールの杯をも挙げないで、また玉突きのキューをもとらないのを、かたくなな心と欲を我慢する力だと考えて、一方ではあざけり、一方ではねたんだのであろう。でも、これは私を知らないのである。ああ、この理由は、私自身さえ知らなかったのを、どうして他人が知るであろうか。私の心はあの合歓という木の葉っぱに似て、ものが触ると縮んで避けようとする。私の心は処女に似ている。私が幼い頃より、年上の人の教えを守って、勉強に努力した道をたどったのも、役人としての勤めの道を歩んだのも、みんな勇気があってよくできたわけではない。我慢して勉強する力と見えたのも、みんな自分自身を欺いて、他人をさえ欺いて、人のたどらせた道をただ一筋にたどっただけである。よそに心が乱れなかったのは、外のものを捨ててかえりみないほどの勇気があったのではない、ただ外のものに恐れて自ら自分の手足を縛っただけである。故郷を出発する前にも、私は役に立つ人物であることを疑わなかった。また私の心がよく我慢できることも深く信じていた。ああ、それも一時のことだった。船が横浜を離れるまでは、わたしは、あっばれ豪傑だと思っていたが、止めようとしても止まらない涙でハンカチを濡らしてしまったのを不審に思っていたが、これがかえって私の本性であったのだ。この心は生まれつきのものであろうか、また早く父を失って、母の手で育てられたことによって生じたのであろうか。
 あの人々のあざけるのはもっともである。そうだけれど、ねたむのは愚かではなかろうか。この弱くてふびんな心を。
 赤く白く顔にどきつい化粧をして、けばけばしい色の服を着て、喫茶店に座って客を引く女を見ては、これについて行く勇気はなく、高い帽子を頭に乗せて、鼻眼鏡をかけて、プロシャでは貴族のまねをして鼻音でしゃべるレーベマンを見ても、彼らについて行って遊ぼうという勇気は起こらない。これらの勇気がないので、あの活発な同郷の人々と交際する方法もない。この交際が疎遠なために、あの人々はただ私をばかにして、私をねたむだけでなく、私を信用せず疑うこととなった。これが私が無実の罪を負って、しばらくの間に言葉では言い尽くせない困難な事態を経験し尽くすなかだちとなったのである。
 
 
 
 ある日の夕暮れであったが、私はティァガルテン(動物園のある公園)を散歩して、大通りのウンテル・デン・リンデンを通り過ぎ、モンビシュー街にある私の下宿に帰ろうと、クロステル街の古い教会の前に来た。私はあの(繁華街の華やかな)明かりの海を渡って来て、この狭くて薄暗い下町に入り、建物の上の手すりに干してあるシーツ・シャツなどをまだしまっていない人家、ほうひげの長い(熱心な)ユダヤ教徒のおじいさんがドアの前にたたずんでいる居酒屋、一つの階段はすぐに高い建物に達し、他の階段は地下室住まいの鍛冶屋の家に通じている貸家などに向かって、凹字のように引っ込んで建てられているこの三百年前の遺跡を眺めるたびに、心がぼーっとなってしばらくたたずんでいたことが、何度あったかわからない。
 今この場所を通り過ぎようとしたとき、閉ざしている教会の扉に寄りかかって、声を飲み込むようにして泣いている一人の少女がいるのを見た。年は十六・七のようである。頭にかぶっているスカーフから漏れて見える髪の色は、薄い金髪で、着ている服は垢がついて汚れているとも見えない。私の足音に驚いてふり返って見た顔は、私に詩人の筆がないのでこれを描写することもできない(ほど美しい)。この青くて清らかで何か聞きたそうに憂いを含んでいる目で、半分ぬれているような長い睫毛に覆われている目はどうして一度振り返って見ただけで、用心深い私の心の底まで突き通ってしまったのか。彼女は思いがけない深い嘆きにあって、前後を省みる暇もなく、ここに立って泣いているのであろうか。私の臆病な心は気の毒に思う気持ちに勝たれて、私は思わずそばにより、「どうして泣いているのですか。この地に煩わしいつながりのない外人はかえって力を貸しやすいこともあるでしょう。」と声をかけてしまったが自分で自分の大胆なことにあきれてしまった。
 彼女は驚いて私の黄色い(人種の)顔を見つめていたが、私の真面目な気持ちが顔色に現れたのであろうか。「あなたは良い人と見える。彼のように酷くはないでしょう。また私の母のように。」
 しばらく涸れていた(止まっていた)涙の泉はまたあふれて可愛らしいほほを流れ落ちた。「私を救ってください、あなた。私が恥知らずな人間になろうとするのを。母は、私が彼のことばに従わないと言って、私をたたいた。父は亡くなった。明日はどうしても、葬式を出さなければならないのに、家には一銭の(お金の)蓄えさえない。」後はすすり泣きの声だけである。私の目はこの少女の震えている項にばかりそそがれていた。「君の家に送っていくから、まずは心を静めなさい。声を人に聞かせなさるな。ここは道路だから。」
 彼女は話をするうちに、夢中で私の肩に寄りかかったが、この時ふと頭を挙げて、また初めて私を会ったように恥ずかしがって私のそばを飛びのいた。
 他人から見られるのを嫌って、急ぎ足で歩いていく少女の後について、教会と道路を隔てて反対側の門を入ると、一部て壊れて欠けている石の階段がある。これを登って行くと四階に腰を曲げてくぐるようなドアがある。少女は錆びて先をねじ曲げてある針金に手をかけて強く引いたところ、中からしわがれたおばあさんの声がした。「エリスが帰りました。」と返事をする間もなく、ドアを乱暴に引き開けたのは、半分白くなっている髪の毛に人相は悪くないけれど貧乏で苦しんでいる様子が顔に記されているおばあさんで、古いラシャの服を着て汚れている上履きを履いている。エリスが私に会釈して入ったのを待ちかねたように、(私を外において)ドアを激しく閉めてしまった。
 私はしばらく呆然として立ったままでいたが、ふとランプの光りに照らされたドアを注意してみると、エルンスト−ワイゲルトと漆を塗ったような感じの字(ペンキ)で書いてあり、下に仕立物師(洋服屋)と注意書きがある。これは、亡くなったという少女の父の名に違いない。ドアの内側では言い争うような声が聞こえたが、また静かになってドアが再び開いた。さっきのおばあさんは丁寧に自分が無礼な振る舞いをしたことをわびて、私を家の中へ迎え入れた。ドアの中は台所で、右側に見える低い窓に真っ白に洗った麻布(カーテン)をかけてある。左手の方には粗末に積み上げたれんが造りのかまどがある。正面に部屋があり、そのドアは半分開いているが、中には白い布を覆ったベッドがある。横たわっているのは亡くなった人に違いない。おばあさんはかまどのそばのドアを開けて、私を(部屋の中へ)導いた。このところはいわゆるマンサルド(屋根裏部屋)の、街に面した一間なので、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がってくる梁を、紙で貼った下の、立ち上がると頭がつかえてしまうような所にベッドがある。(部屋の)中央にある机(テーブル)には美しいテーブルクロスを掛けて、その上に本が二・三冊とアルバムが置いてあって、花瓶にはここには似合わないほどの値段の高い花束が生けてある。そのそばに少女は恥ずかしそうに立っていた。
 彼女はたいへん美しい。牛乳のような(白い肌の)色の顔は、明かりに照らされてほんのりと紅くなっている。手足がほっそりとして、しなやかなのは貧しい家の女に似ていない。おばあさんが部屋を出た後で、少女は少し訛りのある言葉で言った。「許してください。あなたをここまで連れてきた思慮のなさを。あなたは良い人に違いない。私をまさか憎みなさることはないでしょう。明日に迫っているのは父の葬式です。頼りにしていたシャウムベルヒ、あなたは彼を知ってはいないでしょう。彼はビクトリア座の座頭です。彼に雇われるようになってから、早くも二年になるので何のこともなく、私たちを助けてくれるだろうと思ったが、人の困っているのにつけ込んで、身勝手なことを言ってこようとは(思ってもいませんでした)。私を救ってください、あなた。お金はわずかな給料をさいてお返ししましょう、たとえ私は食べなくても。それもできないならば、母の言葉に(従うほかはありません)。」
 彼女は涙ぐんで身を震わせていた。その見上げた目には、人にだめだと言わせない媚態(女のなまめかしい態度)がある。この目の働きはわかっていてするのであろうか、また自らはわかっていないのであろうか。
 私のポケットには二、三マルクの銀貨があったけれど、それで足りるはずもないので、私は時計をはずして机の上に置いた。
 「これで一時の緊急事態(ピンチ)をしのぎなさい。質屋の使いがモンビシュー街三番地に太田と尋ねて来たときには代金を渡しますから。」
 少女は驚いて感動した様子が見せて、私が別れの(あいさつの)ために出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲にそそいだ。
 
 
 
 ああ、(その後の人生の)なんという悪い原因になったろうか。この恩のお礼を言おうとして、自ら私の下宿に来た少女は、(哲学者)ショーペンハウエル(の本)を右にして、シルレル〔シラー〕(の本)を左にして、一日中いすに座って読書をしている私の部屋の窓の下に一輪の名花をを咲かせていた。このときを最初として、私と少女との交際はしだいに頻繁になっていって、同郷の人たちにまで知られてしまった。そこで彼らは早合点にも、私が手当たり次第に踊り子と遊んでいると思ってしまった。私たち二人の間にはまだ幼稚な(お話をする程度の)楽しみだけがあっただけなのに。
 その(人の)名前をあげるといろいろと問題が起こるが、同郷の人の中に事件が起こるのを好む人があって、私がしばしば劇場に出入りして、女優と交際するということを、役所の長官の元へ知らせた。そうでなくてさえ、私がひどく学問の脇道に走っているのを知って憎く思っていた役所の長官は、とうとう理由を公使館に伝えて、私の役人としての地位を奪って(クビにして)、私の留学生としての職を解任した。
 公使がこの命令を伝えるとき私に言ったことは、、もし君がすぐに故郷に帰るならば、旅費を支払うけれど、もしまだ個々に滞在するということならば、国の援助を受けることはできないとのことであった。私は(返事をするまでに)一週間の猶予をお願いして、あれやこれやと思い悩んでいるうちに、私の一生で最も悲痛な気持ちを抱いた二通の手紙に接した。この二通(の手紙)はほぼ同時に出されたものだけれど、一通は母の自筆(の手紙)、もう一通は親族の某が、母が亡くなったことを、私が最も慕っている母の死を伝えてきた手紙であった。私は手紙の中の母のことばを反復することに堪えられない。涙が迫ってきて筆の運びを妨げてしまうからである。
 私とエリスとの交際はこのときまでは他人の目に映るよりは清純であった。彼女は父が貧しかったために十分な教育を受けられず、十五歳の時に踊りの師匠の募集に応じて、この恥ずかしい仕事を教えられ、(教習の)課程が終わった後、ビクトリア座に出て、今はビクトリア座の中で第二位の地位を占めている。そうだけれど、詩人ハックレンデルが今の世の奴隷と言ったように、気の毒なのは踊り子の身の上である。安い給料でつながれて、昼の稽古、夜の舞台ときびしく使われて、劇場の化粧部屋に入ってこそ、紅おしろいで化粧し、美しい衣装もきるけれど、劇場の外では自分一人の衣食も足りないようなので、親や兄弟姉妹を養うものはその苦しみはどのようなものであろうか。そうだから彼女らの仲間で下賤きわまりない仕事に落ちてしまわないのはまれであるといわれている。エリスがこういう運命を逃れたのはおとなしい性格と、剛気のある父の守護とによってである。彼女は幼い頃から本を読むことを好んでいたが、手に入るのは低級なコルポルタージュと言われている貸本屋の小説だけであったのを、私と知り合った頃から私が貸した本を読んで勉強して、次第に趣味を持ち言葉の訛りをもなおし、あまりたたない間に私にくれる手紙にも誤字が少なくなった。こういう有様なので私たち二人の間にはまず師弟の交際が生じたのであった。私の突然の免官を聞いたときには、彼女は顔色を失った。私はエリスが自分の身のことにかかわりがあるということを包み隠したけれど、彼女は私に向かって母にはこのことを秘密になさって下さい、と言った。これは私が学費を(得る途を)失ったのを知って母が私を疎ましく思うのを恐れたからである。
 ああ、詳しくここに描写する必要もないけれど、私が彼女(エリス)を愛する気持ちが急に強くなってとうとう離れがたい仲となったのはこの時であった。私の一生の大事は目の前に横たわって本当に危急存亡の時であるのに、このような行いをしたのを不思議に思い、また非難する人もあると思うけれど、私のエリスを愛する気持ちは、初めて知り合ったときから浅くはなかった。その上に、今私の運命の不運なのを哀れに思い、また別れるのを悲しみて、うつむき沈んでいる顔に鬢(頭の左右の耳より前)の毛が解けてかかっている、その美しくていじらしい姿が、何とも言えないほどのつらく悲しい刺激によって正常ではくなっている私の頭の中を射て、ぼーっとしている間にこのようなことになってしまったのをどうしようか、(どうしようもなかった)。
 
 
 
 公使に約束した日も近づいて私の運命の日は迫ってきた。このままで故郷に帰ったならば、学問は完成せずして、汚名を負ってしまった私の身の浮かぶ瀬はない(出世する道は閉ざされている)であろう。そうだからといってこのままここに留まるとしても、学費を得る手段はない。
 この時私を助けたのは、今私の同行の人の一人である相沢謙吉である。彼は東京にいて既に天方伯爵の秘書官であったが、私の免官の報が官報に出たのを見て、某新聞の編集長を説き伏せて、私を新聞社の通信員にして、ベルリンに留まって政治・学芸のことなどを報道させることとした。
 (新聞)社の報酬は言うに足りないほど(少ない)のだけれど、下宿先を(安いところに)移して、昼食に行く店を(安いところに)変えるならば、かすかな暮らしは成り立つであろう。(などと)とやかく考えを巡らすうちに、誠意を示して助けの綱を私に投げかけてくれたのはエリスであった。彼女はどのように母親を説得したのであろうか。私は彼女ら親子の家に一緒に住むこととなり、エリスと私とはいつからともなく、あるかないかの収入を合わせて(将来の)心配がある中にも楽しい月日を送った。
 朝の(朝食の)コーヒーが済むと、彼女は(踊りの)稽古に行き、稽古のない日には家に留まっいて、私はキョオニッヒ街の間口が狭くて、奥行きばかり長い休息所に出かけて行って、ありとあらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと(新聞記事の)材料を集める。この切り開いてある引き窓から光を採っている部屋で、定職のない若者、多くもないお金を人に貸して自分は遊び暮らしている老人、取引所の仕事の暇を盗んで足を休める商人などと肘を並べて、冷ややかな石のテーブルの上で、忙しそうに筆を走らせる。(そしてウェイトレスの)小女が持ってくる一杯のコーヒーの冷めるのも省みず、空いている新聞で細長い板きれに挟んであるのが何種類となく掛け連ねてある片方の壁に、何度となく行き来する日本人を知らない人
はどのように見たろうか。また一時近くなるころに稽古に行った日には帰り道に立ち寄って私と共に店を出て行くこの普通とは違って軽やかで、手のひらの上で踊りを踊れるようなこの少女を、不思議に思って見送る人もあったであろう。
 私の学問は荒れ果てた。屋根裏の明かりが一つかすかに燃えて、エリスが劇場から帰ってイスにかけて縫い物などするそばの机で、私は新聞の原稿を書いた。昔の法令の一条一条、枯れ葉のような(無味乾燥な)ものを紙の上に書き寄せたのとは違って、今は生き生きとした政界の運動、文学、美術に関わる新しい現象の批評などを、あれこれと結び合わせて力の及ぶ限り、ビョルネよりはハイネを学んで考えを構築して、様々の文を作った。そのうちに引き続いてウィルヘルム一世とフレデリック三世との(二人の皇帝が)亡くなるということがあって、新しい皇帝の即位、(新帝と対立した)ビスマルク侯の進退がどのようになるかなどのことについては、ことさらに詳細な報告をした。それだからこの頃からは思ったよりも忙しくて、多くもない蔵書を開いて、旧業を尋ねる(法律の勉強をする)ことも難しく、大学の学籍はまだ削られないけれど、講義料を納めるのも難しいので、たった一つにした講義さえ、行って聴くことはまれであった(滅多になかった)。
 私の学問は荒んでしまった。だが、私は別に一種の見識を伸ばした。それはどうしてかと言うと、およそ民間のジャーナリズムの広まっていることは、ヨーロッパ諸国の間でドイツに比べられるものはないであろう。何百種の新聞・雑誌にちらほら見える論文にはたいへん高尚なものが多いのを、私は通信員となった日から、以前大学に頻繁に通ったとき修得した真実を見通せる目をもって、読んではまた読んで、写してはまた写すうちに、今まで一筋の道だけを走っていた知識は、自然と総括的になって、同郷の留学生仲間などは夢にも知らない境地に至った。彼らの仲間にはドイツ新聞の社説をさえ、良くは読めないものもいるのに(である)。
 
 
 
 明治二一年の冬が来てしまった。表通りの歩道には砂をまいたり、鋤をふるったりして(雪をどかして)いるが、クロステル街のあたりは道がでこぼこしている所は見えるようであるが、表面は一面に凍って、朝ドアを開くと飢え凍えたスズメが落ちて死んでいるのも哀れである。部屋を暖めてかまどに火を焚き付けても、壁の石を通って、洋服の布を突き通す北ヨーロッパの寒さは、なかなか耐え難いものである。エリスは二三日前の夜、舞台で卒倒したといって、人に助けられて帰ってきたが、それから気分が悪いと言って休み、物を食べるたびに吐くのをつわりと言うものであろうと最初に気づいたのは母であった。ああ、そうでなくてもはっきりしないのは私の身の将来であるのに、もし本当であるならばどのようにしたらよいのだろうか。
 今朝は日曜なので家にいるけれど、気持ちは楽しくない。エリスはベッドで寝るほどではないが、小さいストーブの側にいすを持ってきて(座って)言葉が少ない。この時家の入り口の所に人の声がして、まもなく台所にいたエリスの母は、郵便の書状を持ってきて私に渡した。見ると見覚えがある相沢の筆跡であるのに、郵便切手はプロシャのもので、消印はベルリンになっている。不審に思いつつも、開いて読むと、「急なことだったのであらかじめ知らせる方法がなかったが、昨夜ここに到着なされた天方大臣についてわたしも(ベルリンに)来た。
(天方)伯爵が君に会いたいとおっしゃっているのですぐに来い。君が名誉を回復するのもこの時に違いない。気持ちばかり急いでいるので用件だけを伝える。」と書いてある。(手紙を)読み終わってぼう然としている私の顔つきを見てエリスが言う。「故郷からの手紙でしょうか。まさか、悪い便りではないでしょうね。」彼女は例の新聞社の報酬に関する手紙と思ったのであろう。「いや、気にしないでほしい。君も名前を知っている相沢が、大臣と一緒にここへ来て私を呼んだのだ。急ぐと言っているので、たった今から行こう。」
 かわいい一人っ子を出してやる母もこれほどは気を使わないであろう。大臣にも面会するかも(しれない)と思うからであろう。エリスは病をおして起きあがり、ワイシャツもきわめて白いのを選んで、丁寧にしまっておいたゲエロックという二列ボタンの服を出して着せ、ネクタイまでも私のために自らの手で結んだ。
 「これで見苦しいとは誰もいえないだろう。私の鏡に向いてご覧なさい。どうしてこのように面白くない顔を見せなさるか。私も一緒に行きたいものを。」少し服装を直してみて、「いや、このように服装を改めなさるのを見ると、何となく私の豊太郎どのとは見えない。」また少し考えて、「たとえ地位が上がりお金持ちになりなさる日があっても、私をお見捨てなさらない
でください。私の病気は母のおっしゃるよう(な妊娠)ではなくても。」「なに富貴。」と私は微笑した。
 「政治社会などに出ようとした望みは、絶ってから何年か経ったものを。大臣には会見したくもない。ただ長年別れていた友に会いに行くのだ。」
 エリスの母が呼んだ一等ドロシュケは、車輪の下にきしる音をたてながら、雪道を窓の下まで来た。私は手袋をはめ、少し汚れている外とうで背を覆って手を通さないで、帽子を取ってエリスにキスして高い建物を降りた。彼女は凍っている窓を開けて、乱れた髪を北風に吹かせて私が乗った馬車を見送った。
 私が車を降りたのは、ホテル「カイゼルホオフ」の入り口である。門番に秘書官相沢の部屋の番号を聞いて、長い間踏まなかった大理石の階段を登り、中央の柱にプリュッシュを覆ったソファを据え付け、正面には鏡を立てている控えの部屋に入った。外とうをここで脱いで、廊下を伝って部屋の前まで行ったが、私は少しためらった。同じように大学に在籍していた頃、私が品行方正なのを大変ほめてくれていた相沢が、今日はどの
ような顔つきをして出迎えるだろうか。部屋に入って向かい合ってみると、外見こそ昔に比べると太ってたくましくなっているが、相変わらずの快活の性格、私のまずい行いをそれほどまでに気にしていないと見える。別れた後のあいさつを丁寧に話す暇もなく、案内されて大臣に面会し、委託されたのはドイツ語で書いてある文書で急ぐものを翻訳せよとのことであった。私が文書を受け取って、大臣の部屋を出た時、相沢は後から(追いかけて)きて、私と昼食を共にしたいと言った。
 食卓では彼が多く聞いて、私が多く答えた。彼の人生行路はだいたい平板であったが、不運で不幸なのは私の身の上であった。私が胸の中を開いて話した不幸な経歴を聞いて、彼はしばしば驚いていたが、なかなか私を責めようとはしないで、かえって他の平凡な留学生たちをののしった。そうだけれど、話が終わる時、彼はまじめな顔つきになって注意することには、「この一段のこと(豊太郎とエリスとの恋)は、生まれつきの弱い心から出たことなので、今さら言っても甲斐がない。とはいえ、学識があり、才能のあるものがいつまでも一少女の情けに引きずられて(出世の)目的のない生活をしなければならないのか。今は天方伯爵も、ただドイツ語を利用しようという心だけである。自分(相沢)もまた、(天方)伯が当時の(豊太郎の)免官の理由を知っているために、無理にその先入観を動かそうとはしない。伯の心の中で、曲庇者(道理を曲げて人をかばうもの)などと思われては、親友に利益はなく、自分に損があるばかりである。人を推薦するには、まずその能力を示すほかはない。これを示して伯の信用を求めることだ。また、あの少女との関係は、たとえ彼女に誠意があっても、たとえ交際は深くなったとしても、(お互いの)人材を知っての恋ではない。(男女が近づけば恋愛になるという)慣習という一種の惰性から生じた交際である。決意して断ちなさい。」と。これが、その話(彼の言っていること)の概略である。
 大海原で方角を見失った舟人が、春香に見える山を眺めるようなのは、相沢が私に示してくれた前途の方針である。そうだけれど、この山はまだ深い霧の中にあっていつ行き着くとも、いや、はたして行き着いたとしても、私の心に満足感を与えてくれるかも定かでない。貧しい中にも楽しいのは今の生活。捨てがたいのはエリスの愛。私の弱い心には決心する方法がなかったので、仮に友の言葉に従って、このエリスとの情愛を断とうと約束した。私は守っているところは失いたくないと思って、自分の敵になるものには抵抗するけれども、友に対しては、「いや」とは答えられないのがいつもの状態である。
 (相沢と)別れて(ホテル)を出ると風が顔に激しく当たった。二重のガラス窓をきつく閉めて、大きな陶製の暖炉に火をたいているホテルの食堂を出てきたのであるから、薄い外とうを(貫き)通ってくる午後四時の寒さは、特別に耐え難く、鳥肌がたつと共に、私は心の中に一種の寒さを感じた。
 翻訳は一晩で終わりにしてしまった。ホテル「カイゼルホオフ」へ通うことは、これから次第に頻繁になっていくうちに、最初のうちは伯の言葉も用事だけであったが、後には最近故郷で起こったことなどをあげて私の意見を聞き、折に触れては道中での人々の失敗したことなどの話を告げて、お笑いなさっていた。
 
 
 
 一月ほどたってから。ある日伯は突然私に向かって、「私は明朝ロシアに向かって出発するつもりだ。一緒について来られるか。」と聞いた。私は数日間、あの公務に暇のない相沢を見なかったので、この(天方伯の)問いは不意に私を驚かした。「どうして命令に従わないことがありましょう。」私は、自分の恥を告白しよう。
 この答えはいち早く決断して言ったのではない。私は自分が信じて頼りにする気持ちが生まれた人に、突然ものを問われたときは、とっさの間、その答えの範囲をよく考えることもしないで、すぐに承諾することがある。さて、承諾したうえで、その(仕事を)するのが困難なことに気がついても、無理に(承諾した)当時の気持ちがボーとしていたことをひた隠しに隠し、我慢してこれを実行することがしばしばある。
 この日は翻訳代に旅費までも添えていただいたのを持って帰って、翻訳代をエリスに預けた。これでロシアから帰ってくるまでの生活費をまかなうことができるに違いない。彼女は医者に見せたところ妊娠しているという。貧血症なので、何ヶ月か気づかないでいたようである。座頭からは、あまりに長く休んでいるので籍を除いたと言ってよこした。まだ一月程なのにこのように厳しいのは理由があるからに違いない。(ロシアへの)旅立ちのことには(エリスは)ひどく心を悩ましているとは見えない。偽りのない私の心を厚く信じているので。
 鉄道では遠くもない旅なので、用意といっても(あまり)ない。(自分の)身体に合わせて借りた黒い礼服、新しく買い求めたゴタ版のロシア宮廷の貴族の系譜、二・三種の辞書などを小さいカバンに入れただけである。さすがに心細いことばかり多いこのころなので(私が)出て行く後に残るのももの憂いであろうと(考えて)、また停車場で(エリスが)涙をこぼしなどしたら、うしろめたいだろうと思って翌朝早くエリスを母につけて知人の所へ出してやった。私は旅の支度を整えて、戸を閉め、錠を閉ざして、鍵を入り口に住んでいる靴屋の主人に預けて出かけた。
 ロシア行きについては、どんなことを述べようか。私の通訳としての任務はたちまち私を連れ去って青雲の上(宮廷の中)に落とした。私が大臣の一行に従ってペエテルブルグにいた間に私の周りを取り囲んだのは、パリ(の宮殿の)絶頂のぜいたくを氷雪の中に移した(ような)王城の装飾、やたらに黄蝋の燭光をいくつともなくともしているのに、幾つもの勲章、幾つ
ものエポレットが反射する光、彫ったりちりばめたりして技巧の粋を尽くしたカミンの火に寒さを忘れて使っている宮廷女性の扇のひらめきなどで、この間フランス語を最も円滑に使うものは私であるため、客と主人との間を行ったり来たりして通訳をしたのもまた多くは、私であった。
 この間私はエリスを忘れなかった。いや、彼女は毎日手紙をよこしたので忘れることができなかった。私が出発した日には、いつになく一人で明かりに向かうようなことが憂鬱なので、知人の所で夜になるまで話をして、疲れるのを待って家に帰って、すぐに寝た。次の朝目が覚めたときは、まだ一人で後に残ったことを夢ではないのかと思った。起き出した時の心細さ、このような思いは生計に苦しんで今日の食事がなかった折にもしなかった。これが彼女が第一の手紙の概略である。
 またしばらくたってからの手紙は、非常に思い迫って書いたようであった。手紙を否という字で書き始めてある。いや、君を思う気持ちの深い底を今こそ知った。君は故郷に頼れる一族がないとおっしゃったので、この地に良い生計を立てる仕事があれば、とどまりなさらないことがあろうか。また私の愛をもってつなぎ止めないでは置かない。それもできないで日本にお帰りなさるということならば、親と一緒に私が行くのは簡単だけれど、これほどに多い旅費をどこから得ようか。どんなことをしてもこの地(ベルリン)に留まって、君が出世なさる日を待とうといつも思っていたが、しばらくの間の旅だといって、出発なさってからこの二十日ほど、別れて(寂しい)思いは日増しに増えていくばかりである。
 別れるのは(その時だけの)ただ一瞬の苦しみであると思ったのは考え違いであった。私の身が普通でない(妊娠している)のが次第に目立ってきた。そういうことまでもあるので、たとえ、どんなことがあっても、私を決して捨てないでください。母とはひどく争った。けれど私自身が以前とは違って、決心したのを見て心が折れた。私が日本に行ったときには、ステッチンあたりの農家で遠い親戚があるので、身を寄せようと言っている。あなた(豊太郎)が書いて送ってくださった(手紙の)ように、大臣に重く用いられなさっているので、私の旅費のお金は何とかなるでしょう。今はひたすらあなた(豊太郎)がベルリンに帰りなさる日を待っているだけである。
 ああ、私はこの手紙を見て、初めて私のおかれている状況をはっきりと見ることができた。恥ずかしいのは私の鈍い心である。私は私自身の行為についても、また自分自身に関わらない他人のことについても、決断力があると自ら心に誇っていたが、この決断は順境だけにあって、逆境にはなかった。(特に)私と他人との関係を映そう(考えよう)とするときには、頼りとする胸中の鏡(明快な判断力)は曇っていた。
 大臣はすでに私を厚遇してくれている。けれど、私の近眼はただ自分が尽くしている与えられた仕事だけを見ていた。私はこれに将来の望みをつなぐことは、誓ってまったく思い至らなかった。そうだけれど、今ここで気づいても私の気持ちは、まだ冷然としていた。前に友が勧めたときは、大臣の信用は屋上の鳥のようであったが、今は少しこれを得たのかと思えるが、相沢がこのごろ言葉のはしに、「本国に帰った後も、一緒にこ
のようであれば云々」と言ったのは、大臣がこのようにおっしゃったのを、友人ながら公的なことなのではっきりとは告げなかったのか。今になって思えば、私が軽率にも彼(相沢)に向かってエリスとの関係を絶とうと言ったのを、早くも大臣に告げたのであろうか。
 ああ、ドイツに来た当初に、自ら自分の本性を悟ったと思って、また主体性のない機械のような人物にはならないと誓ったが、これは足を縛って放された鳥が、しばらくの間羽を動かして自由を得たと誇ったのではないだろうか。足の糸は解く方法もない。以前これを操っていたのは、私の某省の官長で、今はこの糸は、ああ哀れ、天方伯の手の中にある。私が大臣の一行と一緒にベルリンに帰ったのは、ちょうど新年の朝であった。停車場に別れを告げて、わが家を目指して車(馬車)を走らせた。ここでは今も大みそかに眠らずに、元旦に眠るのが習慣なので、全部の家が静まっている。寒さは強く、道路上の雪は角のある氷の破片となって、晴れた太陽光に反射して、きらきらと輝いている。車はクロステル街に曲がって、家の入り口で止まった。この時窓を開ける音がしたが、車からは見えなかった。御者にカバンを持たせて階段を上ろうとするときに、エリスが階段をかけ降りてくるのに出会った。エリスは一声叫んで私のうなじ(首)を抱いたのを見て御者はあきれた顔をして、なにかしら髭の中で言っていたが、聞こえなかった。
 「よくぞお帰りなさいました。お帰りにならなければ私の命は絶えてしまうでしょうに。」
 私の心はこの時までも決まらず、望郷の念と出世を求める気持ちとは時として愛情を押しつぶそうとしたが、ただこの瞬間、ぐずぐずためらう気持ちは去って(愛情が勝ち)、私は彼女を抱いて、彼女の頭は私の肩によりかかって、彼女の喜びの涙ははらはらと私の肩の上に落ちた。
 「(荷物は)何階に持っていけばよいでしょう。」と銅鑼をたたいたような音で叫んだ御者は、いち早く登って階段の上に立っている。
 ドアの外に出迎えたエリスの母に、御者をねぎらいなさいと(チップの)銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに伴われ、急いで部屋に入った。(そして)ちらっと見て私は驚いた。机の上には白い木綿、白いレエスなどがうずたかく積み上げてあるので。
 エリスは微笑みながらこれを指して、「どのようにご覧になりますか、この心構えを。」と言いながら一つの木綿切れを取り上げたが、(それを)見ると産着であった。「私の心の楽し
さを思いなさい。産まれてくる子はあなたに似て黒い瞳を持っているでしょうか。この瞳。ああ、夢ばかり見ていたのは穴手の黒い瞳です。生まれて来た日には、あなたの正しい心で、よもや(あなたと異なる)他人の姓を名のらせはしないでしょうね。」 彼女は頭をたれた。「幼稚だとお笑いになるでしょうが、子供が教会で洗礼を受ける日はどんなに嬉しいことでしょう。」 見上げた目には涙が満ちている。
 
 
10
 
 二・三日の間は大臣も旅の疲れがおありだろうと(思って)あえて訪ねなかった。家にばかりこもっていたが、ある日の夕暮れに(大臣の)使いが来て、招かれた。行ってみると待遇が殊更によく、ロシア行きの労を聞き、慰めた後、「(太田君は)わしと一緒に日本に帰る気持ちはないか。君の学問の深さはわしには測れないが、語学だけで世の中の用に足りるだろう。
(ドイツに)滞在することがあまりに長かったので、いろいろと煩わしいつながりがあるのではないかと、相沢に聞いたところ、そのようなことはないと聞いて安心しているとおっしゃった。その様子は、否定することができないものがあった。あらら、と思ったが、さすがに相沢が(言った)言葉を間違っているとは言いにくかった上に、もしこの手に(まで)すがらなければ、本国を失って(日本に帰れなくなり)、名誉挽回の道までも断ち、(自分の)身はこの広漠としているヨーロッパの大都会の人の海(の中)に葬られてしまうか、と思う気持ちが頭の中にわき起こってしまった。ああ、なんという固く守って変わることのない志のない心であろうか。「承知しました」と答えたのは。
 どんなに面の皮が厚いとしても、帰ってエリスに何と言おうか。ホテルを出たときの私の心の錯乱状態は、たとえるのにたとえようもなかった。私は道の東西もわからず、物思いに沈んで(歩いて)行くうちに、行き会う馬車の御者に何度も怒鳴られて驚いて飛び退いた。しばらくしてふと辺りを見ると獣苑のそばに出ていた。倒れるように道路わきのベンチに寄りかかって、焼けるように熱く、ハンマーで打たれるようにガンガン響く頭をベンチの背もたれにもたせかけて、死んだような状態で、何時間過ごしただろうか。激しい寒さが骨にしみ通ると感じて、目が覚めたときは、夜になってから雪は激しく降り、帽子の庇、外套の肩には三センチほども積もっていた。
 もう早くも十一時を過ぎただろうか。モハビット・カルル街へ行っている鉄道馬車のレールも雪に埋もれて、ブランデンブルク門のほとりのガス灯は寂しい光を放っている。立ち上がろうとするが、足が凍えているので(立てない)。両手でさすって、ようやく歩けるほどになった。
 足の運びがはかどらないので、クロステル街まで来たとは、真夜中を過ぎたであろうか。ここまで来た道をどのように歩いたかわからない。一月上旬の夜なので、ウンテル・デン・リンデンの酒家・茶店はまだ人の出入り盛りで、にぎやかだったろうけれど、まったく覚えていない。私の頭の中は、ただただ私は許すことができない罪人であると思う心だけ満ち満ちていた。
 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ていないと思えて、輝くように明るい一つの灯火が暗い空にすかすと、はっきりと見え
るが、降りしきる鷺のような(白い)雪片にたちまち覆われて(見えなくなり)たちまちまた現れて、風にもてあそばれているようである。下の戸口を入ってから疲れを感じて身体中の関節の痛みが堪えられなくなり、はうように階段を登った。台所を通り過ぎて、部屋の戸を開けて入ったところ、机に座って産着を縫っていたエリスは振り返って「あ」と叫んだ。
 「どうなさったのですか。あなたの姿は。」
 驚いたのも当然である。顔が青ざめて死んだ人同然の私の顔色、帽子はいつのまにかなくしてしまい、髪はもつれて絡み合って、何度か道路でつまづいて倒れてしまったことなので、衣服は泥まじりの雪に汚れ、ところどころ避けているので。
 私は答えようとしたが声が出ない。膝がしきりにがくがくして立っていられないので、椅子をつかもうとした(ところ)までは覚えているが、そのまま床に倒れてしまった。
 
 
11
 
 意識が戻ったのは数週間の後であった。熱が激しくてうわごとばかり言ったのを、エリスが丁寧に看病しているうちに、ある日相沢が訪ねてきて、私が彼に隠していた一部始終を詳しく知って、大臣には病気のことだけを告げて、後は良いように言いつくろっておいた。私は初めて(自分の)病床に付き従っているエリスを見て、その変わってしまった姿に驚いた。彼女はこの数週間のうちにひどくやせて、血走った目はくぼんで、灰色のほおはやせておちている。相沢の助けで毎日の生活には困っていなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺したのである。
 後で聞いたところによると、彼女は相沢に会ったとき、私が
相沢に与えた約束を聞いて、またあの夕べに大臣に申し上げた承諾を知って、急に座っていたイスより飛び上がり、顔色がさながら土のようになって、「私の豊太郎さん、これほどまでに私をだましなさったのか。」と叫んで、その場に倒れた。相沢は母を呼んで一緒に助け起こしてベッドに寝させたが、しばらくして目が覚めたときには、目はまっすぐ前を見たまま、そばにいる人をも見分けがつかない。私の名を呼んでひどくののしり、髪をむしってふとんをかみなどし、また急に気がついたように物を探り求めている。母が取って与える物をことごとく放り投げてしまったが、机の上にあった産着を与えたとき、さぐり見て顔に押し当てて、涙を流して泣いた。
 これからは騒ぐことはないけれど、精神の作用はほとんど全くなくなって、その幼稚なこと赤ん坊のようである。医者に見せたところ、過激な心労で急に起こった「パラノイア」という病気なので、治る見込みはないという。ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで聞かない。後ではあの産着一つを身につけて、何度か出しては見て、見てはすすり泣いた。
私の病床を離れないけれど、これさえ正気でいてのことではないと見える。ただ時々思い出したように「薬を、薬を」と言うだけ(である。)
 私の病気は完全に治った。エリスの生きている屍体を抱いて、止めどがない涙を流したのは何度あろうか。大臣に従って帰国の旅に出発するときには、相沢と相談して、エリスの母にほそぼそとした生活ができるのに足りる程度の資本を与えて、哀れな精神病の彼女の胎内に残した子供が生まれたときのことを頼んでおいた。
 ああ、相沢謙吉のような良友は世の中にまたと得ることは難しいだろう。そうだけれど、私の脳裏には一点の彼を憎む気持ちは今日までも残っている。
 
 
 
舞姫 補足
 
◎豊太郎はなぜエリスと結婚しなかったか。
 旅費の問題があるのでエリスを連れて日本に帰れない。ということもあるが、物語全体が、
 
 ドイツに残ってエリスト結婚するか
 
 
 日本に帰って、出世の道を取るか
 
という、どちらかの選択を迫られるという構図になっている。
 
 
◎エリスが発狂してしまうという悲劇の原因はどこにあるか。
 豊太郎の性格が優柔不断で、結果的に所動的・器械的人物から抜け出せなかったため。
 
◎しかし、豊太郎は自我(自分自身の意識)に目覚めて、行動したにもかかわらず、その責任を取らず、結局は逃げてしまった。
 これは、現実逃避で、このような行動からは次善の策は出てこないのである。
 
◎エリスとのことは、肝心なときにはいつも夢の中のようなことを言っている。
・出会ったとき
  「覚えずそばにより・・・」
・「離れがたき仲」となったとき
  「恍惚の間にここに及びし・・・」
・エリスがパラノイアという病気になったとき
  意識不明中
◎重要なことはすべて相沢まかせ
・免官後の身の振り方
    通信員としてもらった。
・名誉回復の手順
・帰国することになったのも、結果として相沢から言ってもらうことになってしまった。
 
◎このような豊太郎の無責任さは、自分の頭の中ではいろいろ悩むが、結果的には何もしないでほったらかしにしてしまう、『こころ』の「先生」と共通するものがある。この原因は豊太郎の性格というより、周囲の勧めに従って、一生懸命努力することだけで育ってきた、自分の頭で考えて、自分の意思で行動するといったことをしないで、人生を歩んできてしまったつけであろう。戦前戦後を通じて、軍や官僚のエリートたちが、重要な問題で幼稚なミスをおかし、日本の国を危機に導いてしまった(または・・・ている)のは、この大田豊太郎のような育ち方をしているからに違いない。この体制はまだ変わらないのであるから、とうぶんの間いろいろな問題が出てくることは避けられないであろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 このページのことは試験にはでません。暇な時に読んでください。(以下は若林説です)
 
小説「舞姫」(豊太郎の不思議な行動)
 
1、豊太郎は初めてエリスに出会って、そのまま声をかけ、エリスの家に行ってしまったのだろうか。臆病な心(内気な性格)の豊太郎を考えると、不思議なことである。
 また遠回りになるのに、なぜわざわざ貧しい人々が大勢住むクロステル街を通って帰宅するのであろうか。古い教会を眺めて、心が恍惚となって、しばらくたたずんでいることが何度となくあったと言っている。三百年前の建物などは、ヨーロッパでは珍しくもなんともないのにである。
 これらの疑問は次のように考えるとすっきりする。
 
 豊太郎はウンテル・デン・リンデンのどこかでエリスに出会った。そして一目ぼれして、後をつけてクロステル街の古い教会の前のあたりの家に消えたのを確かめた。
 豊太郎はエリスが(もっともまだ名前も知らないが)忘れられず、仕事が終るとクロステル街を通って、古い教会の前でしばらく待って、エリスが仕事に出て行く−−ビクトリア座の仕事は夕方からなので−−のを待っているのである。
 しかし、内気な豊太郎は何度となくエリスを見るが声をかけられず、後をついてビクトリア座まで行き、そのそばを通って帰宅する。
 エリスは当然このことを気づいているが、何しろ相手は外国人(しかも東洋人)であるし、身なりから、上流階級の人間と判断して無視するのである。
 ところが、エリスは父が死んで葬儀の費用がなく、ビクトリア座の座頭シャウムベルヒに頼んだところ、「妾になれば金を貸す」と言われ、そうするかどうかで母とけんかをする。
 その時、ふと頭に浮かんだのがあの東洋人、いつも古い教会の前でぼうっとしてたたずんでいる。私に恋をしているような人。
 思わず家を飛び出して、教会の前で泣いていた。そこへ豊太郎がいつものとおりやって来た。


 

後は小説のとおり。
 
 エリスはシャウムベルヒよりも豊太郎を選んだ。だから手もとにあった(客からもらった)花を飾り、(エリスが踊り子であることを説明するために必要な)アルバムを出し、手足が大きく露出する服装に着がえ、(教会の前で話したことがうそではないと示すため)父の遺体のある部屋のドアを半分開けて、豊太郎を迎え入れたのである。
 このように考えると、この物語は非常にすっきりする。
 
2、小説の最後で、エリスの母親にお金を渡しているが、このお金はだれが用意したのか。
 もちろん相沢である。「かすかなる生計(たつき)を営むに足るほどの資本」とあるから、かなりの額であるはず、そんな金がすぐ準備できるはずはないから、彼が日本から用意してきたのであろう。
 相沢は、豊太郎を一方的に新聞社の通信員としたのだから、日本に帰国させる責任がある。彼が豊太郎の旅費を用意してきたとしても(大臣に認められなかった場合も考えて)不思議ではない。きっとそのお金を使ったと考えられる。
 そう考えると、「余が相沢に与へし約束」(つまり豊太郎がエリスと別れるという相沢との約束)もまた別の意味をもってくる。豊太郎がエリスを日本に連れて帰りたいという相談(それも可能になるが)を事前に封じるということになる。
 また相沢が、大臣に認めてもらうよう勧めたり、エリスに冷たく豊太郎がした約束・承諾を言うのも、彼はできるなら「自分の金は使いたくない。」という気持ちがあるからなのである。エリスの母にお金を渡さざるを得なくなっしまったのは、相沢としては失敗であろう。
 

エリスのイメージ
 踊り子というと、クラシックバレーをしている人を思い
浮かべるといいと思う。すらっとして、身長が高く、それ
でいて筋肉質な身体、もちろん豊太郎よりも背が高い。鴎
外はところどころそのような表現をしていると思う。