山月記私考


     ―李の詩についての考察―

 山月記の解説書を読むとき、いつも疑問に思うことがある。それは、「人虎伝」との関係である。李徴の即興の詩が、「人虎伝」の中の詩と同じだから、作家中島敦がそれをもとに『山月記』を書いたのは明らかであるのだが、その詩と作中の李徴の作った詩とが切り離されて論じられているのは、どうしてなのだろうか。『山月記』という作品として考えるなら、同一人物つまり李徴の作として考えてみる必要があると思う。
 
自嘲癖の心理的側面
 
「旧詩を吐き終わった李徴は、突然自らをあざけるがごとくに・・・
 (袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を・・・)」
 これから、李徴には昔から自嘲癖があったとされている。では、どういう場面においてそのような心理状態になるのであろうか。この場面では、長短およそ三十編の詩を朗詠した後にこのようになっている。では、その前はどうか。
 「何もこれによって一人前の詩人面をしたいのではない。産を破り・・・」
 前段の部分に注目すると、あらかじめいいわけをしていると考えられる。さらに、「作の巧拙は知らず・・・」とまで述べているが、このあたり、自分がこれから述べる詩について、あらかじめ予防線を張っているのである。李徴の本心を言うと「本当は、詩はよくできたものばかりで、すばらしいものである。自分の才能からして、優れた詩人なのである。世の誰からもそのように評価されて当然である。」と思っているが、しかし、他人の批判を封じるために、先回りして、事前にあらかじめ予防線を張り、事後に他人が感想を言う前に自らを嘲るのである。
 つまり、
   ① 作品の発表 → 他の人の批評
 となるのであるが、
   ② 作品の発表 → 他の人の批評 → 作家の人格否定
 と、捉えるのである。だから、事前にそれを封じるために、
   ③ 予防線  →  作品の発表 → 自嘲 → 他の人の批評はなくなる
     (作の巧拙は知らず)      (自らを嘲る)
 という構図になるのである。李徴の自嘲癖は、他人の批評を一切許さないためのバリアーなのである。このあたり、日本人がプレゼントをする前に謙遜して、「つまらないものですが・・・」などど言って渡すのと構図はよく似ている。(つまり、あらかじめ批判を封じるという点において。)しかし、 批評=人格否定 ととる感覚とは、全く違うわけである。「臆病な自尊心」とは言っているが、ほんのちょっとでも心が傷つくことを恐れる本当に弱い心なのである。
 人間無菌状態で育てば良いというものではない。ある程度の病気やケガも自然治癒能力というものがあって治してくれるものであるから、仕事やスポーツもできるというものである。心の傷も、全く傷つかないようにすれば良いというものでもあるまい。多少心を傷つけられても立ち直る、その程度の訓練は、しておく必要があるというもの。李徴のように、自ら自分の周りにバリアーを築いてしまうと、人間関係が難しくなるというものである。
 
倨傲、尊大な態度
 李徴の倨傲、尊大な態度はどこからくるか。自分が優秀だと思っているからだろうか。それとも、これも他人を遠ざけるバリアーなのだろうか。
一点目の李徴が優秀な人物かどうか、これは「博学才穎、若くして名を虎榜に連ね」とあるから、まず客観的にも間違いないであろう。しかし、同期の合格者や先輩、上司(これも科挙の試験の昔の合格者)に対しても、俗物であるとか、鈍物であるとかの評価は、客観的にはできないだろう。とすると、こちらは、あくまでも李徴の主観的な評価の域を出ない。もちろん、合格者といっても成績に上下はあるのは当然であり、能力の違いも当然ある。ただ、客観的な評価がわかるようなことは小説の中にはでてこない。ならば、李徴の観点(評価基準)から見ての評価ということになる。
 
俗物
 『山月記』の一つのキーワードである。役人の仲間、上司を「俗物」と表現している。これの対極の言葉は「風流人士」である。詩を解すること、文学を愛することが風流人士で、他の人はすべて俗物。たいへん乱暴な分け方であるが、そういうことになるであろう。袁傪が友人だったのは、役人ではあるが、詩を解する(しかし、李徴ほどではない。)のと、役人の道を歩む人生のため、李徴と衝突しなかったからではないか。
ではなぜ 「俗物」=普通の人 とつき合えなかったのか。自分に詩の才能があることを半ば信じていたために、つまらない人達とおつき合いできなかったと述べている。これはたぶん、真実であろう。つまり、 自分に詩の才能がある=自分は他の人と違う存在 という考えである。これが、倨傲や尊大な態度のもとである。
 では、なぜ羞恥心に近いものと言うのか。普通の人とつき合うのが恥ずかしいのか。これは、俗物=鈍物 と普通の人をさげすむ心情にある。普通の人とつき合えば、自分も俗物になる。(本当は詩の能力を除けば、李徴も普通の人である。)普通の人と同じでは恥ずかしい。(西の李徴というくらいだから、唐の皇帝の親戚であろう。)だから、距離を置く。他人を避ける。人を遠ざけるために、尊大な態度をとる。目に見えないバリアーである。
 
求めるものを否定する心
 
 役人になりたいと思って科挙の試験を受け、いざ「江南尉」という役人になると、詩人になりたいと思ってしまう。違うものに目が行ってしまうのである。そして、詩人になるつもりで詩を作っても、自らを嘲って作品を否定してしまう。そして、高い役人の地位にある袁傪をうらやむ。これから考えると、李徴も役人として高い地位を得たかったのではないだろうか。(唐の皇帝の親戚ならなおさらそう思うだろう。)しかし、そのために努力することはしないで、別の道に行ってしまう。また、有名な詩人になりたいと強く思っていても、そのための努力はしないで、「他の人が理解しない」と責任転嫁してしまう。しかし、なぜ、自分がそれほど欲しいと思っているものを否定してしまうのであろうか。それは、自分で得られないからである。得られないから、それはつまらないものだと否定して、自分の心を落ち着ける。その繰り返しである。これは、自分の心に嘘をついているということだが、悲しいかな、李徴はそれに気付いていない。
 
なぜ努力を怠ったか
 
 才能の不足が暴露されるのを恐れて、あえて努力しなかったというが、自分は優れて、詩人になる才能を持っている。だから磨く必要などない。才能さえあれば、優れた詩ができるはずである。ということで、努力しなかったと推察できる。(一般人を相手に考えれば、事実その通りである。しかし、ことは全国レベルの話である。それも、才能のある人を相手にしてのことだから、そうはいかない。)
 才能が不足しているのがわかるとなぜ恐ろしいのか。多少足りなくても、他人に勝る努力で補えば良いではないか、と考える。普通ならそうである。では、なぜそうならないのか。出発点に戻ろう。役人=俗物 とは、自分は違っている。その違っている部分は、詩の才能があるからだ。もし、才能がなければ、人格そのもの、つまり李徴自身の否定になる。だから、才能の不足が明らかになるのは恐ろしい。ただそう考えられるのは、○か×かの話の場合だ。李徴の場合は、ほんの少し不足していても×と考える。傷つきやすい内心、臆病な自尊心ということである。
 そのような心理状態になるのは、他人を馬鹿にするからだ。他人を馬鹿にするには、他人より優れていなければならない。だから、少しでも才能の不足、つまり他人より劣っているのは堪えられないのである。
 
他人に理解されない内心
 
 では、その傷つきやすい内心はなぜ、理解されないか。それは、他人に話すことはないからである。尊大な羞恥心=臆病な自尊心 だから、自分の弱みを他人に話すことなどない。傷つくのを恐れ、尊大な態度をとる。親しい友人には、先手を打って、自嘲してしまうのである。他人に理解してほしいと思っていながら、素直にそれを求める態度になれないのである。
 
李徴の詩に欠けている点
 
 作者は、袁傪を登場させて、どこか非常に微妙な点においてかけているものがあるため、第一流の作品になれない、と述べさせている。李徴が有名な詩人になれない理由はまさにこの点にあるわけで、その欠けているものが、何であるか、いろいろ論争を呼ぶのである。一般的には、他人の批評を受け付けないのであるから、詩は作ったままで、推敲されていない。いわば、荒削りのまま、しかも独りよがりのものと考えられるのが、第一点。二点目は、家族のことも顧みず、尊大な態度で友人や周りの人を傷つけているから、他人の心がわからず、人間愛に欠ける詩になっている。三点目は、有名になることばかり気にかかっていて、試作を手段にしているから、詩作そのものへの情熱がいまひとつ足りないものになっている、などである。まあ、だいたいそうであろが、別の側面も考えてみる。
 
即興の詩
 
 作中に即席の詩が出てくる。虎になってしまった自分の運命を嘆き、袁傪と比べて不運不幸な自分の境遇を詠っている詩である。特に結句の悲しさは、山月記を読む人の心を打つものがある。しかし、この詩の中で、異様な部分、第三句がある。「虎となった今では、この鋭い爪や牙に誰があえて敵となろうか、誰もなれはしない。(意訳)」である。詩全体の流れからすれば、なぜこんな表現をするのだろう。虎となったことに、李徴はどう思っているのだ。悲しい運命でも、俺はお前らより強いんだ。李徴は消滅したとしても、虎として、お前らを襲い食ってしまうぞ、というようなことである。袁傪がいくら高い地位に昇ったって、ここを通れば俺の方が強いぞ、と言わんばかりである。言ってみれば、李徴の負け惜しみが、表現されているのである。
 ここに、人間李徴が表現されていると言ってしまえばそれまでだが、また、技法上、対句として、また袁傪の高位に対して、バランスを取って表現しようとしたまで、とも言えるだろう。
 ただ、このようなバランス感覚、言わば、自己完結、が李徴の作品と考えたらどうだろうか。自嘲癖が、自分の心のバランスを保つためにあるとすれば、また尊大な態度が、羞恥心を隠すためだとすれば、そのバランス感覚が詩作に反映しないはずはない。実はここに、微妙な欠点があるのではないか。
 芸術作品というものは、作品(表現されたもの)と作者の心とで、バランスを取るものではないか。つまり、満たされない作者の心情と表現されたものでバランスがとれるものである。作品も、作者も片方だけ取り上げれば、不安定な存在、でなければならない。李徴は、知らず知らずのうちに内心のバランスをとるうちに、作品の中でもバランスを取ってしまったのである。つまり、自己完結をしてしまった。これが、最大の欠点ではないか。 思えば、家族のことを考えない芸術家、他人の批評など聞かない芸術家など過去にも現在にもいるではないか。そういうことを考えると、もっと根本的な根源的な、作品の中での自己完結が李徴の詩の欠点と考えられるのである。


                                                  2010.11.25      若林