2009 年5月13日〜5月25日 | ポー ランド一 周13日間 | ユー ラシア旅行社主催 | ||||
ポーランド
共和国
Rzeczpospolita
Polska
ジェチポスポリタ ポルスカ「原野=Pole」 が国名の起源、 本当に原野が多く山が少ない 人口 3千8百万人、面積 31万268㎢ |
GDP5257億j(為替レート
で)、6660億j(購買
力平価で) 一人当たり1万3799j(為替レートで)、1万7481j(購買力平価で) これは日本国民の半分程度 2004年、EU加盟、 ただし、通貨はズロチを使っている。1ズロチ≒30円(09年7月) 農業は、9割が個人経営、国土の42%が農地 ライ麦生産が盛ん、フランス向けのエスカルゴ、日本向けの馬肉も 石炭、非鉄金属資源がある。 パソコン、テレビ生産は、ヨーロッパ需要の3割を満たしている。 |
国民の95%がカトリック信者、国の祝祭日
には、基督教関連が多い ユニークなものに「じいちゃん、ばあちゃんの日」がある。 言語は、西スラブ系列チェコ語などと姉妹関係、ロシア語とは違い、 表記はラテン文字を使う。”z”が表音記号として独特の働きをする。 こんにちは=ジェーン・ドブリェ Dzień dobry ありがとう=ジェンクイェン Dziękuję |
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エルブロン
グ運河クルーズ
エルブロングElbląngからオストルダOstródaまでの運河 途中ブチニッツからジェレニエまでの約9km ブチニlェツBuczyniec;運河−坂−運河−坂−運河 坂−運河−坂−運河;イェレニエJelenie 運河では、普通の船と同じく、プロペラを回して推進します。 坂になると、船を台車に乗せて、その台車を水力が引きます。 この巧妙な仕掛けを作ったのは、オランダ人技師 ヤコブ・ゲオルグ・シュテーンケ(JacobGeorgSteenke) 1860年に開通、第二次世界大戦時に、大きな被害を受けました。 1948年に観光船の運航をもって再開。 |
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水力で台車を牽引する。動力を中継する大きな車輪 |
台車に載った船 ポーランドの高校生も乗船 | |||||
グダニスク Gdańsk
ダンツィヒ(Danzig)
チュートン騎士団(ドイツ騎士団)との確執があり、 ポーランド領になってから、海上貿易で栄え、 16〜17世紀にかけて黄金期を迎えた。 天文学者ヨハネス・ヘヴェリウス(1611〜1687)のような 高名な学者も輩出した。 ソヴィエット連邦の政治支配から独立する改革の核心になった 「連帯」の活動 拠点は、グダニスクの造船所であった。 ここの電気技師、1943年生まれのレフ・ヴァウェンサ(=ワレサ) Lech Wałęsa が後に第二代大統領(1990〜1995)になった。 現在人口46万人、かつて栄えた造船業も、昔日の面影は無いそう。 歴史的建造物が多く、観光都市として、繁盛。 |
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オリーバOliwa大聖堂・ 連帯記念モニュメン
ト パイプオルガンが有名。 バッハの曲、オルガン二台の合奏に感動 |
1970年スライ
キがあり、弾圧の
犠牲となった労働者を顕彰。 「連帯」運動の拠点となり、ソ連からの政治的独立を獲得する大きな礎となった |
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カタジィニー(カタルツィニィ)教会 Św Katarzyny 13 世紀から建立 | モトワヴァMotława運河左端に見えるのが、13世紀建設15世
紀 再建の木製クレィン、現 在博 物 館 |
左;時計塔がある堂々としている市庁舎、周りも歴史的建造物が。 | ||||
マルボルグ城 Zamek
w Malborku ローマ・カトリック公認の騎士修道会であるチュートン騎士団が後にドイツ騎士団と呼ばれる。騎士団が十字軍遠征後行き場を失っていた頃、ハンガリー王 から異 教徒対策に請われててこの地に移る。 後ポー ランド王からバルト海沿岸の警備に請われる。以来ポーランドの関係が生まれる。 1200年代には、商業活動にも参画。 1309年にドイツ騎士団がこの城(1272年建設)を居城にした。 ポーランドが力を増すとともに、騎士団の地盤沈下が進み、 1772年にはプロイセンの領土になった。 床暖房システムがある食堂など、生活するための工夫が見られる。 |
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トルニ Toruń 人口21万人 ヴィスワ川沿い、物産(琥珀、岩塩)をクラクフ、ワルシャワへ運ぶ中継地、旧市街は1997年に 世界遺産に。 | ||||||
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室内は、料金を払えば、写真撮影可能 | 台所;厨房用具に 銅製品が多く使わ れている。 | この本が、人類の世界観を変えた「天球の回転について」 | ||||
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書斎 の隣の部屋、それ ら しい物が展示されている。 | トルニ繁 華街;世界天文年 告知の横断幕が | 学生がいたずらしたコペルニクス像。 トルニ地域博物館 | ||||
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聖ヨハネ大聖堂 モナストリィ (僧院への) 門 | 中世の穀倉 右手にある橋へ行くときの門 | 城門;傾いている | ||||
ヤヴォルJaworの平和教会
カトリックのハプスブルグ家に対するプロテスタントの抵抗運動「30年戦争」(1618〜1648)が終結した 後、プロテスタント派が建てた三教会の一つ。 カトリック側から、「一年以内に」、「木造で」との難題を突きつけられながらも1655 年に見事に完成させ た。 ヤヴォルの他に現存しているのはシヴィドニツアŚwidnicaのみ。 2001年倶に世界遺産に指定された。 木造であるが故の美しさがある。内部の装飾、宗教画も見事に描か れている。ただし、経年損耗による、立ち入り禁止の場所もあった。 |
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ヴ
ロツワフ Wrocław
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人口63万人、ポー
ランド第四の都市 10世紀から街が作られた。1000年に司教区が置かれ、「島」地域に教会群。 14世紀にはボヘミア公国、16世紀ハプスブルグ家、18世紀プロイセン支配 下 第二次世界大戦中に街の3/4が破壊され、現在見事に復興。、国際映画祭も開催された |
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ポーランドの有名な
映画監督ヴォイ
チェフ・イエジィ・ハスのレリーフ 百年記念塔の近く。このあたりには、日本庭園もある。 |
音楽祭の案内ポスター 洗礼者聖ヨハネ教会 | 聖十字架教会 聖十字架教会前広場の像 | ||||
ア
ウシュビッツ・ビルケナウ収容所跡博物館=オシフィエンチム−ブジェジンカ収容所跡博物館
Auschwitz-Birkenau
Oświęncim-Brzezinka |
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元々
は、ポーランド軍の兵舎であったが、政治犯収容のため、1940年6月より第一収容所は使用された。 すぐ後に、ナチ・ ドイツにより「ユダ ヤ人問題」『解決』のために使われた。 1942年7月に完成した第二収容所;300棟以上、最大10万人を収容。ガス室、焼却炉があった。いわば大量殺人工場 であった。ナチドイツ敗戦時 に、 すべてを爆破して証拠 隠滅を謀った。 |
館内は
写真撮影禁止なので、このサイトでは伝えられない。ガス室で使われたガスは意外にも殺虫剤であった。 遺体から取っ て、工業製品の材料にしようとした髪の毛の山、遺品のめがね、靴、鞄など我々の肺腑抉るる品々が展 示されている。 ナチ・ドイツの残虐性を感じたのは、 ドイツ 人が直接「殺人現場」に携わらずに、それらをユダヤ人にや らせたことだ。「許せない!」。 |
所長ル
ドルフ・ヘスは「自分は組織の命ずるままに行動した
ので、自分は無罪だ」という弁解をした。 解説をしてくれた のは、この博物館唯一人の日本 人ガイド中谷剛さんであった。その真面目な言辞から、日本の現状を憂う心情が伝わってきた。 1979年「負の世界遺産」に |
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アウシュビッツ・ビルケナウ収容所(世界遺産)・博物館入り口 | 有名な標語;Arbeit macht Frei. 「働いてこそ自 由が得られる」 | 鉄のレールは、脱走者一人に対して20人を吊した。 犠牲者の写真に見 入る。 |
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高圧電流が流れていた柵 | 主にポーランド人が銃殺された場所。 右隅に写っているのはユダヤ人の団 体 |
ビルケナウ第二収容所。 アンネ・フランクが二ヶ月間収容されていた。 |
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クラクフ
Kraków 人口75万人 教会の密度はローマを超して1位だそう。日本で言えば、京都に相当する文化都市・大学都市・宗
教都市・観光都市。 数学者バナッハがここで活躍。かつて、ポーランドの版図が最大、国の勢いがもっとも盛んであった 14世紀〜17世紀には、首都で あり、 岩塩による収益、交易による税収も大きく経済的にも繁栄した。 |
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200b四方の大広場、奥の建物は織物会館;14世紀設立、 現在は博物館 |
聖マリア教会 13世紀建立 丘の上のヴァヴェル城 緩い坂道を登る |
ヴァヴェル城
内にある大聖堂;
1364年建立。 この日ワレサ元大統領が来訪中で警備の警察官が目立った。 |
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大司教宮殿;ヨハネ・パウロ・Uが教皇になる前に住んでいた。 ポーラ ンド人自慢の人物;現代では筆頭にくるのが、この人。 | 聖ペトロ・パウロ教会;17世紀建立
Uniwersytet Jagiellónski ヤギェウォ大学はコペルニクスも学んだ名門。ポーランド最古の大学。 |
ヤギェウォ大学内記念館で行われる世界天文年関連行事のお知らせ。 | ||||
ヴェ
リチカ
Wieliczka
岩塩坑博物館 13世紀から採掘が始まった。現在は産業博物館になっている。 当時の塩は貴重品で同重量で金と同じ価格であっ たという。このおかげで、ポーランドは中央ヨーロッパの 一大強国に なった。 1978 年世界遺産 |
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我々は千 bを歩く観光コースに参加 博物館入り口、竪坑エレベータで地下へ下りる。 | 当時の生産現場を 人形で再現してい る | 巻き上げ機の動 力は人力か馬力で あった | ||||
坑内で働く人たちは、敬虔なカトリック信者、坑内には宗教関連の浮き 彫りが多数。 | ハンガリーからお輿入れしたキンガ姫がこの岩塩鉱を発見したと言う伝 説 | 聖キンガKinga礼拝堂;地下100mにある最大の空間 (長さ、幅、高さ)=(55m、18m、12m) |
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カルヴァリア・ゼブジドフスカ修道院 Kalwaria・Zebrzdowska 1602年より建設、6㎢の敷地に44の教会群、聖地エルサレムを模し、ゴルゴだの丘を再現して、年に一回 キリ ス トの受難劇が行われる。年間100万人が訪れるという。 1999年世界遺産に登録。 中央が、丘の上に立っている修道院入り口 ここを通って、「ゴルゴだの丘」に向かう。 右写真の祠は、「キリストの墓」 尼さんの後に従う小学生。この国の教育・宗教事情がよくわかる。 |
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総木造の聖マリア教会、1847年建立 | 跪いて、堂内に入る小学生もいた。ブラック・マドンナの祭壇画 |
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Bakowo Zohylina で の食事中に、ポルカ・マズルカを演 奏 | |||||
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チェンストホーヴァ
Częstochowa
訪問したのが、22日、この日、この地の天候は雨。現大統領カチンスキ氏が訪問。 政教間の密接な関係が伺える。 雨が激しく、傘ではなく合羽、それもすっぽりかぶる ものが必要であった。 雨に濡れた衣 服をバスの中で乾かす。 |
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ヤスナ・グーラ僧院
Jasna Góra
100人の修行僧がくらしている「聖パウロ修道会」の僧院。聖ルカが描いたと言われる「黒い聖母」が信仰を集めて いて年 間400万人 もの人々が訪れる。 おりしも、「初聖体拝受式」が執り行われていた。 少年・少女達が神妙な顔をして祭壇に向いていた。 この式は見学するものではないはずなので、見て見ぬふ りをして傍を通り過ぎる。l |
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ヴァルシャ ヴァ(ワルシャワ) Warszawa ポーランドの首都、人口170万人、鉄鋼、電機、自動車産業があり、大学都市、文化 都市でもある。 |
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ワジェンキ公園=Park Łazienkowski にあるショパ ン像 | ワジェンキ公園にある「水上の宮殿」、雨中の撮影、傘が邪魔。 |
ヴァルシャヴァ大学新図書館、古今東西の名著がブロンズ像に | ||||
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コペルニクス像. 後ろの建物はヴァルシャヴァ科学院 | 聖十字教会、ショパンの心臓がある。 | ショパンの心臓は1850年、聖十字教会に納蔵された。 | ||||
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キュリー夫人が住んでいた家。マリア・スクォドフスカ・キュリー | ショパンが1830年まで住 んでいた家。 | 最高裁判所、巨大な青銅像に 支えられている。 | ||||
1944年の「ヴァルシャヴァ蜂起」結局ナチ・ドイツの反撃に、記念 モニュメント | レジスタンスには、地下道が利用された。犠牲になった市民の数は 20 万人前後 |
旧市街広場、様々な様式の家 に囲まれている。 | ||||
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旧市街広場、人魚像がある。 噴水が像の周りを取り囲んでいる。 | 人魚はヴァルシャヴァの象 徴。 | 旧王宮前広場;なにやら集会 があって、にぎわっている。 | ||||
旧市街、16世紀に作られた 城壁と要塞 | ヴァルシャヴァ郊外ジェラゾバ・ヴォーラ
Żelazowa Wola にあるショパンの生家 |
ショパン生誕200周年が2010年に当た る。それを記念するイヴェントが計画され、そのための建物が急いで造られている。 | ||||
文化科学宮
Patac Kultury i
Nauki
ヴァルシャヴァ市街でひときわ目立つ建物。 それは、「文化科学宮」である。 1955年スターリンがポーランドに贈ったものだ。その権威主義的威容ゆえに、もらったポーランド人は、決して喜ばなかった。ヴァルシャヴァの美観 を損ねるとして非難したが、それを大きな声で言える政治的環境はなかった。 「ワルシャワで一番景色のよいところはどこだ?」 「そりゃ、文化科学宮さ」 「ほんと?」 「だって、そこの展望台に行けば、文化科学宮が見えないからね」 ポーランドは、四囲を他国に囲まれていれ、ドイツ・ロシアからの圧迫に苦しめられてきた歴史があった。 ソ連との関係は現代史の一つのドラマだ。政治 的には鍛えられてきた。 |
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