サボテン今昔 No.10 古い話
 
書き出し当時

 お陰様でこの度‘サボテン今昔’を一冊の本に纏める事になりました。
‘古い話’
は日本多肉植物の会・会報‘Succulent333号’にサボテン今昔を書き始めた時の第一回の原稿です。現在、出版に向けて原稿に手を入れておりますので場合によっては、今から10年以上昔のこの原稿はWeb上でのみの発表になるかも分かりません。

 写真左 書き出し当時            写真下 2005年 10月29日 カクタスブライト社カクタスブライト社
 

サキュレント333号
 
戦後50年、節目の年を迎えた。私より10歳も20歳も年長で戦前・戦中のことどもを語れる方々はまだ沢山おられるが、この長い年月サボテン・多肉植物と関わり続けてきた趣味家は、私の知る限り10人程度はなかろうか。
 私がサボテンと出遭ったのは小学校の頃だが、勉強そっちのけでのめり込んだのは中学生の時代であった。詰襟の学生服で何回か東京カクタスクラブの例会に出席したことがある。マル貧の子供のことだから兄と二人で一人前、兄が出ない時だけ出席した。勿論ダントツの若年であったから先輩には随分可愛がられた。
 例会は個人宅の回り持ちだった。日中戦争が長引くにつれ、次第にサボテンどころではない風潮が加速していったが、やめないで頑張っている人達はいた。しかし、例会に出席する人数は漸減したし、ついには人間が集まること自体遠慮しなければならなかった。不穏分子の会合として特高警察、憲兵の目が光っていたのである。暗い時代であった。

 若年の会員は兵隊にとられ、残るは年輩者と子供(私一人)だけ。話題はほとんどが戦局と配給物資のことで、サボテンの話は余り出なかったような気がする。尤も現在でも孫の話や病気の話ばかりしている人もいるから例会はこれでいいのかもしれないが、子供の私にとっては物足りなかった。セリはなかった。たまには業者―紅波園の初代園主渡辺栄次さんや鶴仙園の白石好雄さん―が何点かを販売した。趣味家の出品物は入札である。一点ずつお盆にのせて出席者の間をひと回りする。欲しい人は希望価格をメモに書いてお盆に置き、最高値の人が落手するという静かなものだった。
“天に代りて不義を討つ  忠勇無双のわが兵は……”の斉唱が近づいてくる。愛国婦人会、国防婦人会と染め抜いたタスキをかけた割烹着のおばさん達に囲まれて、国防服という風采のあがらないカーキ色の服を着た青年が今日も一人軍務につこうとしている。太平洋戦争が始まってからは日常的な光景であった。クラブの例会でお目にかかった白石さんも石川太郎さん(サボテン和名学名対照便覧の著者)も相次いで戦地へ赴いた。
 出征兵士を見送る隊列を温室のガラス越しに眺めながら、やがて俺の番だなと思う。そしてその日が来た。兵役に就く直前はそれなりにやるべきことは沢山あったが、間際までサボテンの世話はしていた。これで一巻の終りかと思うと心残りはいろいろあったが、育成途中のサボテンもその一つであった。あとの管理を兄と弟に託したが、その頃から情況は一層きびしくなっている。この非常時にサボテンなどを作っているとは何事か、ガラスの反射はB29爆撃の格好の目標になる、温室なんぞは潰してしまえ、という有形・無形の庄力は耐え難いものになっていった。私の翌年には兄が、その翌年・敗戦の年には弟までが兵役に服することになるのだが、入隊を前にして弟は思案の末、サボテンを隠し、温室を取りこわすことを決意した。温室なしで兄達の大事なコレクションを何とか保存する方法、それは1球ずつ紙に包み天井裏に収容することだった。温室一杯の植物が突如として姿を消すという異常事態には両親も首をかしげたとあとで聞いた。兎も角もこうしてサボテン達は生き残ったのである。

 幸いにして、いち早く復員した兄がサボテンを取り出し復元に努めたが、何しろ酷暑の815日を中心に前後数ヶ月を天井裏で過ごした植物が無傷のはずはない。徒長したり、腐ったりで数は減ったが空襲で全てを失った人達に比べれば遥かに恵まれていた。戦後間もない頃は有数のコレクションとして話題になり、兄、平尾秀一著「原色サボテン」(1956)の出版にも大いに役立ったのである。

私はといえば入隊後は軍務に精励した(これはホントだ)。サボテンを含め浮世のことはすべて忘れた。忘れようと思った。

ある日の演習でサツマイモ畑の中を匍匐(ほふく)前進していた。ふと目を上げると何と綴化がある。孔雀丸の綴化そっくりのイモのツルの綴化である。(その当時、孔雀丸の綴化といえば枝の綴化で肉の薄いものだった。球体の綴化はその後に出現した)この時ばかりは急にわが家の栽培室が思い出された。思わず折りとってポケットに忍ばせたが、兵舎へ戻れば飾って眺めて飽く所もない。それでも捨て切れず、着替の間に隠したが間もなく萎びてしまった。今にして思えばこのころ既に私のサボテン病は不治のものとなっていたらしい。

戦後しばらくはサボテンどころではない日々が続いた。住居も転々とした。ようやくフレームらしきものを持てるようになったのは1953年である。約10年のブランクの間、病原はしっかりと潜伏していた。何でも手に入る時代ではなかったが、事情の許す限り何でも蒐めた。私の何でも屋的傾向は二度の初心者時代に形成されたものとみえる。何でも屋はあくまで何でも屋で、何か特定のものを専門にやっている人には到底敵わない。というわけで個々の植物についてえらそうな口をきくことは何一つ出来ないが、いろいろと体験したことを思いつくままに記して行くつもりである。