平尾さんとの出会いとその後
日本カクタス専門家連盟
二和園(千葉県佐倉市)
向山 幸夫
故 平尾 博 先生 2007年秋・熱川バナナワニ園・清水氏撮影 |
私が平尾博という名前を知ったのは記憶が定かではありませんが、昭和30年頃だったと思います。後に氏が主幹されましたサボテン誌が東京カクタスクラブの機関誌であり、その編集を実兄の平尾秀一氏が担当されていたのですが、確か、4号か5号あたりで、東京カクタスクラブから独立して、サボテンの雑誌として独立しました。
そして、その独立を記念して、新しく輸入されたサボテンの和名を誌上で公募していました。これは何回かありましたが私の記憶に残っているものは、習志野、砂丘城、雷鳥玉、暁裳などですが、その暁裳(ぎょうしょう)の命名で当選されたのが、なんと平尾博氏でした。その時は氏はまだサボテン誌には関わっておらず、奈良県で確か化粧品会社にお勤めだったようです。その暁裳とは学名Espostoa lanata var.mocupensiss で老楽に少し赤刺が混じり、美しいものでした。私もこの和名募集には何回か応募しましたが、すべて落選でしたので、この暁の裳には感心して、こんな素敵な名前を思いつくのはどんな人なんだろうと思ったものでした。それから数年、多忙であった秀一氏に替って博氏が上京してサボテン誌を担当するようになり、大田区から逗子に移り、シャボテン社を設立しました。
私もその頃からサボテンをいじり始め、業者として関東カクタス専門家連盟、日本カクタス専門家連盟へと入れていただき、曲がりなりにもサボテン屋の看板を出すようになりました。
その後、サボテンの会のことでは、平尾会長から、関東支部長や事務局を命じられたりと、正に平尾先生でありましたが、プライベートでは、昭和60年頃5年間に亘り毎週金曜日には一緒にお昼の弁当を食べたりしました。と言いますのは、当時私は油壺のマリンパーク内の植物園にサボテンを納めていましたので、その帰り道に逗子のサボテン社に寄って、昼飯にすると決めてありました。それで、秀一氏から逗子の氏の温室内で彼岸花科の球根についての講義を聞いたり、また、横浜のご自宅へ伺って、コレクションの珪化木を見せていただいたりもしましたが、一番思い出に残っているのは一緒にメキシコへ行って、少し道に迷ったり、車が砂に埋まったりしたことでした。
思えば、平尾博さんとは50年に亘るお付き合いで、その間ずっと、ご指導をいただいたのですが、その薫陶のみならず、まったく個人的な相談などにもお付き合いいただいたのですから、私にとっては、単なる先生と言うのではなく、もっと、身近な先輩であり、兄であり、また父でもありました。私も今後、何年サボテンを続けられるか解りませんが、先生の教えはけっして無駄にはせず、後輩にも精一杯継承して行くつもりでおりますので、どうぞ、安心して、安らかにお眠りください。合掌