サボテン今昔 No.14 
回想 植物園

今年も秋の行楽シーズンを迎え、方々の植物園は展示会で賑わっていると聞く。

 1945年8月15日、終戦。国破れて山河はあったが設備は壊滅した。温室で偉容を誇っていた雄大なカクタスも姿を消した。虚脱状態から何とか立ち直って再びサボテンに心が向くまでにはかなりの年月を要した。勿論、身近には大きなもの、歴史を感じさせるものは殆ど見られなかった。それだけに、戦禍を免れ、荒廃を最小限に止めることの出来た植物園の存在は貴重であった。栽培家は時に見事な完成株に接することによって希望の火をかき立てられたのである。
 当時奈良にいた私が屡々高槻市の古曽部園芸場に通ったのもそうした心理が慟いたからだと思う。正しくは京都大学農学部附属古曽部園芸場という。見学には何かの規約があったはずだが自由に見学させて貰った。そこで隣接府県の同好者とも顔を合わせた。管理主任の瀬川弥太郎先生に度々応待して頂いた。この園芸場がスタートした戦前のことは全く知らないが、昭和一桁台には玉利幸次郎先生(199292才で他界)が管理されていた。私が子供の頃、軽石砂栽培法というのが喧伝されー世を風靡したことがあるが、その先鞭をつけたのが玉利先生でサボテン栽培には熱心に取り組まれた。そのあとを継いだ瀬川先生の専門分野は観葉植物と聞いていたが、サボテンには並々ならぬ力を注いでおられた。日本カクタス協会の設立、基礎固めに貢献された。先生が戦地から復員された昭和21年当時は各種植物は枯死して目も当てられない惨状だったという。まあまあの状態で残ったのは30坪の地植え温室。中央床には神代、鬼面角、春衣、金毛ライオン、老楽、吹雪柱、竜神木、金城など、その前に快刀乱麻その他。奇想天外も当時生きていた。右側はアロエ類、左側はユーフオルビア各種の地植え。“戦争に負けた日本にこんな室が残っただけでも幸せを感じだ”と瀬川先生は言う。

 別の温室には鉢植えの球形カクタス、コノフィツムの群生株などがあって楽しめたが、圧巻は金鯱の大球だった。日本一を自称するだけあって貫禄十分。私は目下育てている小苗の将来を心に描いた。ここの大金鯱は昭和5年(1930)にメキシコから日本の皇室に献上された千本を越すサボテンの中の一つ。当時の記録によれば直径2尺(60cm)余のものが5個、30cm余のものが123個あり、新宿御苑で開函されたあと数百個が東京帝大小石川植物園に下賜されその一部が京都大学に分譲された、とある。

現在は京都府立植物園で栽培されている “古曽部の金鯱”

 私達が“古曽部の金鯱”として親しんで来た株は由緒も正しかった。今も健在と思う。

 同じ頃、関東方面には古曽部園芸場に匹敵するサボテンの名所はなかった。肩を並べるべき新宿御苑は精彩を欠いていて噂にも上らなかった。戦前厖大な量の輸入球が並んで壮観を極めた鶴仙園の温室も、第一級のコレクションとして全国的に評価の高かった蓮波一美氏の標本室も姿を消していた。一夜の大空襲の犠牲になったのである。戦災を免れた植物を目にすることの出来る少数ない個人のコレクションとして平尾秀一氏のフレームに多くの見学者が訪れた時期がある。今にして思えば金鯱や巨鷲玉はせいぜい20cm程度ではなかったか。それだけ“見られる大きさのものに飢えていたのである。

伊豆サボテン公園 金鯱 伊豆サボテン公園の鳥獣 ・ 土産物売店

 そうした情況のもと、輿望を担う形でデビューしたのが伊豆サボテンセンターである。昭和34年 (195910月開園。早くからサボテン主体の公園の構想を練っていた近藤典生先生(199781才で他界)の夢の実現である。その間の経緯をご本人に語っていただこう。


“大室山”シャボテンセンター建設と発展
 東京農大育種学研究所長 近藤典生

   シャボテンを中心とした多肉植物の自然植物園を伊豆方面につくりたいと考えたのはもう10年近く前になる。私が京都大学より現在の東京農業大学に戻り、育種学研究所を創設し、早速シャボテンの蒐集を再び始めたのはこの考えが基幹となっていた。最初の考えでは温泉地帯で地中に配管をし、土壌温度を上げ、できるだけ多く、否、凡ての種類を露地植えにする企画であった。その後、二、三の土地提供者があったが実現には至らなかった。今回、大室高原の土地所有者、東拓伊豆開発(株)と話がまとまったのは1959 2 月である。大室高原の秀れた自然景観に驚いた。シャボテン・多肉植物栽培に好い条件を具えていることを知った。しかし、予定地は標高320mあり、ここに温泉が引きこまれるには数年を要する。凡てを露地植えすることは不可能と思われたので、当初の計画を変更し露地植えのほか温室も作ることにした。露地植えは自然の熔岩地帯を利用、自然の条件を生かし出来るかぎり多くの種類を植えるようにする。露地植えの最大のねらいはシャボテン・多肉植物の醸す景観を作ることにあり、種類の蒐集は温室内につくる。しかも単に多くの種類が集められているというだけでは満足できない。植え込みには部分部分に色々の意義を持たせたいし、景観もつくりたい。生育も考えねばならぬ。こう考えると従来の温室の形では面白くない。そこで思いついたのがピラミッド型温室である。柔らかい曲線の大室山を背景とした草原にピラミッドが散見される情景は確かに見ものである。現在までに蒐集した植物は概ね植え込みを完了、公開もしている。まだ不充分なものであるが何とか理想に近い皆さんに喜んで頂ける真のシャボテンセンターに育てたい。
 日本国内どこの植物園に行っても、アメリカ・パサディナのハンティントン・ガーデンや、モナコのシャボテン園に匹敵するものはない。そのためか、今回創設されたシャボテンセンターには想像以上の大きな関心が寄せられている。それだけにセンターがもつ意義、果たす役割は多大であろう。ここは私の主管する研究所の所属機関としてスタートした。しかし、もう私や私の研究所のものでもなければ、スポンサーである東拓伊豆開発(株)のものでもない。立派に我が国の一つの文化的設備として公のものであることを私自身がよく知らねばならないとともに、シャボテンに興味を持ち栽培しておられる方々にも、是非そのような認識をもって頂きたい。このシャボテンセンター創設によってシャボテンが単なる流行的な栽培植物でなくなると共に、原産地を遠く離れた国に於いてもこれ等の植物を材料とした意義ある研究がなされることになろうし、栽培植物としての価値も高まることになろう。(後略)』 “シャボテン”N0,261960年3月)より引用(一部省略)


ハンティントン ガーデン モナコ・サボテン園

 近藤博士が細部まで気を配り丁寧に植え込まれた大温室は見事な景観であった。開園式にははるばるメキシコから来日された松田英二博士ほかメキシコの公人、駐日メキシコ大使をはじめ各界名士が参列した。その後の私達の取材に応じて述べられた近藤博士の抱負の中に次のような言葉がある。
「シャボテンが真にわが国に根をおろしたものになるようにひいてはメキシコはじめ諸外国との親善のきずなともなることを念願しているので、皆様の貴重な繁殖品の一部とか、或いはフレームに入り切らぬ程大きくなって管理に困るという様な株を御寄贈願えると幸いである。勿論見返り品は差し上げる。

 先生の構想に沿う動きは初期の数年はたしかに見られた。その後アマチュアとの植物交流の話は余り聞こえて来ないのは残念である。先生が益々多忙になった為かも知れない。センターそのものは多種多様な鳥獣を加える事によってサボテンに関心のない人が訪れても十分に楽しめる施設として賑わっているのは、ご承知の通りである。


 これより先、観光スポットして名を知られた公園が宮崎県日南市にある。小弥太郎(宮崎交通)サボテン公園である。昭和12年(1937)にスタート、その後の30年間で30ヘクタールの斜面を埋めつくすまでに増殖された大型宝剣は100万本に達したという。ここは番外として伊豆サボテンセンター誕生以後10年足らずのうちに続々とサボテン公園が開園した。
 
1962年神奈川県真鶴半島に作られた真鶴サボテンランド(200415日閉園)はメキシコ・シュワルツ園の保有カクタス類を主体とした。また開園に当っては龍膽寺雄、賀来得四郎両氏及び私が参画した。アメリカ・カクタス誌の編集長スコット・ヘーゼルトン氏が愛培していたユーフォルビア・ホリダの大株群が人目を惹いた。1965年には大阪・豊中市の服部緑地に隣接して服部緑地サボテン公園がスタート。面積は約1万坪で主温室は220坪高さ13m。開園式には日本カクタス協会々長池田隆政氏をはじめ府知事、市長、多くの趣味の会々長等が参列した。植栽の内容には万本耕一氏が深く関わった。神戸在住でサボテンの輸入を手がけた実績が買われた。
 
1966年には岐阜県サボテンセンターが名乗りをあげた。熱心なコレクター牧田師一氏個人の経営である。“私はシャボテン以外何もなく、一生をサボテンに捧げ、一人でも多くの人にこの楽しい趣味の魅力を知って頂くように努力しシャボテン界に貢献したい”と語られた。こじんまりした雰囲気であった。
 同じ頃、瀬戸内海の生口島(広島県)の耕三寺にサボテン園が完成した。浄土苑と名づけられ、伊豆のサボテンセンターを模したピラミッド型の温室一杯のサボテン・多肉植物は院主・耕三寺耕三師自らが吟味したもので西日本の日本観光地
100選第一位に輝いた伽藍堂塔と共に訪れる人達に喜びを与えている。
 時を同じくして福岡県筑紫野市の宗教家力久辰斎氏が栽培場を公開した。氏は宗教団体善隣会の教祖として信者に接する一方、九州カクタスクラブ名誉会長としてサボテン界の発展に尽力した。コレクションは常に最高の状態に保たれ信者の心を癒すのに一役買ったのである。
 あらためて顧えれば、伊豆大室山に端を発したサボテン公園の建設の流れは僅か
10年ほどの間にあちこちに波及した。サボテンが大衆にぐっと近づいた時代と総括することが出来る。1970年代になるとサボテン公園構想は韓国にも飛び火した。日本永住の金龍鎮(田中龍雄)氏が自分の大コレクションを祖国に寄贈し、72年にソウル市の中心南山公園に立派な公園がオープンしたのである。建設には私ほか数名の日本人が協力した。 80年代には80年、福岡市植物園、83年、沖縄のひめゆりパークに大規模なサボテン公園が誕生した。更に87年には糸満市にもサボテンを主体にした植物園が建設されたと聞く。

 2001年秋営業を開始した施設は、横浜プリンスホテルが広大な敷地を生かして立ちあげたフラワー・プロムナード。傾斜地には各種植物が植え込まれた幾棟かの温室が建ち並ぶ。サボテン・多肉コーナーは弁慶柱、老楽、金鯱、アロエ、アガベなどがメイン。徳利蘭の大株、見上げる高さのバオバブ、ラメーレイなど普通の趣味家の栽培場では見られないものもある。担当者は誰か知らないがそれなりの努力がうかがわれる。エケベリア・コーナーには名品ラウイーが数株あり、作柄もよい。温室の一角にはチャペルがあり、バージン・ロードも備わっている。さすがはホテルである。(注 上記の施設は今年(20066月にホテルの営業終了とともに消滅した。現在、幾つの植物園にサボテン・多肉植物が栽培されているか定かではないが、時代の変遷とは言え植物園の興亡には一入感慨深いものがある。)