サボテン今昔7 金冠竜
赤刺
 1962年のある日、賀来得四郎氏(注・戦前からのカクタス愛好家で、戦後いち早く貿易商という立場を生かして植物の輸入を開始した。一般には外貨使用が思うままにならない時代、同氏の手を経て欧米及び南アフリカから導入されたサボテン・多肉植物は、種類数においても数量においても非常に多い。晩年は夫人に先立たれ、自身も失明され、1989年失意のうちに他界された。)が金冠竜を採リに行かないか、という。私にとっては夢のような話である。金冠竜については戦前のシャボテン誌に掲載された津田宗直先生の愛培品の写真と解説によって、その存在を知ってはいたが入手の見込みは全くなく、まさに幻のフェロカクタスであった。正直なところ、メキシコの何処に自生しているかも知らなかった。この極めつきの珍種が見られるという願ってもないチャンス、即座に同行をお願いした。
 戦後17年もたっているとはいえ、当時はまだ日本人の海外渡航は自由化されていなかった。政治家でも芸術家でもスポーツ選手でもない人間は勝手に外国へ行くことはできない。幸い、賀来氏の会社は輸出を手がけており社長や社員が商用で外国へ行くことは可能であったので、第一段階として賀来氏の会社の社員ということにしてもらった。そして渡航手続き…当時は円ドル交換レートは1$=360円、実勢ではドル400円という米ドルが大変強い時代であり外貨の持ち出しは1人$500以内に規制されていた。その上、日本円は1人20,000円以内。これで20日余りの宿泊費と食費を賄わなければならない。黄刺
とにかく準備を整え1963年1月、金冠竜に会える期待と、なけなしの500ドルをしっかりと抱いて羽田を飛び立った。海外旅行どころかヒコーキさえ初めてのことだから珍談は数々あるが、無事ホノルルに着き1泊。当時はまだ太平洋無着陸という便はない。アメリカ西海岸へ直行するのが当たり前の現在と比べてまさに今昔の感がある。

 日付変更線を越えました、というアナウンスがあり、その記念にと機長が色紙をくれたりするので、いやが上にも外国へ来たのだなァ、という気持にさせられる。
 翌日はサンフランシスコ。これまでに若干の取引きのあったドドソン氏DrJ.Dodsonを訪問。ドドソンコレクションとして一世を風靡したハオルチアの珍種群、エケベリアの美種・新種などを見学した。因みに、ここのコレクションの大半は1965年、私達の二度目の訪問の際の交渉の結果、日本に齎された。ハオルチアのコレクタ・ピクタなど、エケベリアのキャベツ型の多く、白兎耳などはその時に導入された。
ドドソン氏は隣接のバークレイ市にわれわれを伴い、カリフォルニア大学の植物園を見学させてくれた。そこの植物についての印象も強烈で語ればキリがないが、私にとっては難物のパタゴニア産の種、マイフェニア笛吹が芝生状に生育していたのが忘れられない。
 次はロスアンジェルス。ここでは有名なジョンソン園の園主Mr.H.Johnson のお世話になった。私だけがジョンソン家に泊めていただく事になり、暇にあかして広い園内の隅々まで心ゆくまで見学できたことは誠に幸せであった。アメリカの趣味家でもやったことはないだろうが、腰高のフレームの蓋300枚あまりを全部めくって見学した。
 ジョンソン氏は大変親切で、われわれの希望を聞いて既に故人となられたゲーツ氏Mr.Gatesの栽培場に車を飛ばしてくれた。ゲーツ氏はアメリカカクタス界のパイオニアの一人で、カリフォルニア半島がまだ開けていない1920年代から大変な努力を払って、バハ・カリフォルニアのカクタス踏査を敢行した人である。
今回われわれを金冠竜の自生地セドロス島へ案内してくれることになっているリンゼイ氏Mr.Lindsayは若かりし頃、ゲーツ氏に従ってセドロス島に渡った経験を持つ唯一の人物なのである。その意味からもゲーツ氏は金冠竜のルーツといえる。リンゼイ氏にとってというより、全サボテン人にとって30何年振りかのセドロス島再訪という記念すべき機会に、私ごときが紛れ込んでいて良いのだろうか、という気がしてくる。

紫禁城 入鹿
Ferocactus duguetii 紫禁城 Machaerocereus eruca 入鹿

ゲーツ翁自身採集の入鹿や、実生から育てられた紫禁城などは栽培されていたが、金冠竜は1本も見当たらなかった。ゲーツ氏の没後、息子さんは後を継がず、夫人は病弱で弟子のタピア青年が植物の管理に当たっていた。ゲーツ氏は生前、サボテンのことは余リタピア氏には教えなかったらしく、自生地についての情報は全く得られなかった。それでもセドロス島行きに先立ち、先人の残り香をかがせて貰ったことは良い思い出となった。

ハンチントン・ガーデン

 





 次に訪問したのは、ハンティントン・ガーデン。ここの地植えのサボテン・多肉植物の見事な景観については、西宮市におられた芳邨勲氏によって3年ばかり以前にカクタス誌とシャボテン誌に紹介され多くのマニアの話題になっていた。もちろん、私にとっても憧れの公園である。想像した以上のすばらしさにまたまた興奮した。

 この後、当時アメリカのジャーナルCactus and Succulent Journalの編集長だった、ヘーゼルトン氏Mr.S.Haseltonの自宅を訪問した。庭先に露地植えにされた数十本のユーフォルビア・ホリダは賀来氏によってそっくり引きとられ、真鶴サボテンランドの開園にあわせて同園に納入された。現在でもその一部を見ることができる。(編集注・2004年に同園は閉園した)

 そして翌日、ジョンソン氏の車で、サンディエゴに向かう。途中サボテン園に寄ってくれたが、内容に関してはよく覚えていない。 日本を出てから既に1週間は経っており、金冠竜に会いたい一心で少しばかり焦っていたのかもしれない。
サンディエゴのホテルには今回の主役リンゼイ博士が迎えに来てくれた。早朝である。車に同乗して国境を越えティフアナに入る。境界は金網一つ
なのに、国が違えばこうも変わるものか、というのが第一印象であった。
しい街サンディゴの隣のティフアナは雑然として、当時の日本に似ていなくもない。
‘初めてアメリカ’ということで、硬くなっていた気分がここに来て
急に楽になったような気がした。

 博士が用意してくれたチャーター機は8人乗りのビーチクラフト。飛行場の役人の前でパスポートなどを広げているのはわれわれ一行だけ。軽装を後悔しながら寒さで震えている私を尻目に皮ジャンを着込んだ役人の手続きが終るまでの長かったこと。やっと終って飛行機に乗り込む。日本人は賀来氏と私。アメリカ側はリンゼイ博士と助手のスローン夫妻、共に研究員(サボテン以外の)ということで私より少し若い。パイロットはメキシコ人。汐を吹く鯨
 さあ、間もなく待望のセドロス島と胸をふくらませながら窓越しに空や海を眺める間もなく、パイロットは下を指さし何やら大声で叫ぶ。唯一スペイン語を解する博士が教えてくれる。鯨だ…と!
機は直ちに急降下をはじめる。子連れで遊泳する鯨の姿がみるみる大きくなってくる。次の瞬間、一転して急上昇。これを数回繰り返されるともういけない。急に吐気がしてくる。クジラはもういい、早くまともに飛んでくれ!と叫ぼうにもスペイン語はわからない。少しの間だが生きた心地はなかった。当時リンゼイ博士が館長を勤めるサンディエゴ自然史博物館の研究課目に鯨も入っていてそのための観測だったとあとで知ったが、とんだおまけであった。
 やがて平常飛行にもどった機は一路セドロス島に向かう。想像していたより大きな島だ。高い山もある。近づくにつれて部落が見える。さあ、どこに下るのだろうか。 機上から見たセドロス島にはかなり立派な山があり、眼下には集落が見えるが、飛行場らしきものは見当らない。それでも機は着陸態勢に入る。何と降りたのは幾らか石コロの混じる砂浜であった。何人かの若者が荷おろしの手伝いをしてくれる。小休止の後、早速小型トラックの荷台に乗って村の中心部を抜ける。赤茶けた地肌には点々と草の緑の見えるのどかな風景である。     
 1月の末というのに小春日和の気持ちよさである。

コケミュア・ポンディー
Cochemiea pondii

 一行の中で唯一の土地勘のあるリンゼイ博士の指示した自生地への途中、私達は左右に目をこらし、サボテンらしいものを見かけると運転席の屋根を叩いて「アルト(止まれ)!」と叫ぶ。赤い花をつけたコケミェアの群生株がある。ポンディーという種類だそうだ。寂漠丸によく似ている。間もなく赤刺のフェロカクタスが目に飛び込んでくる。金冠竜は黄刺とばかり信じていたので別の種類と思ったが、博士の説明によってこれが目指す金冠竜の記念すべき第一発見株と知り早速撮影、採集した。径20cm余り、高さ約30cmの立派な株だが、これまでの思い込みの割には感激しなかったような記憶がある。
 現在でこそ、赤刺の金冠竜はわが国では黄刺以上に人気が高いが、当時一般には金冠竜といえば黄刺というのが当識であり、赤刺変種の存在は全くといってよいほど知られていなかった。
 シャボテン誌29号(昭和12年)で、津田宗直先生は「本種は全仙人掌中屈指の優品で黄金色の雄麗な刺を出し、仙人掌の美と壮との両面を遺憾なく発揮している。(中略)尚本種には別に変種とまではいわれぬが新刺の出初めに基部から半分程紅色を呈するのがある。然しやがて紅色は消えて一様の黄金色になってしまう。」と解説しておられるのがほとんど唯一のニュースソースであってみれば無理もない。
 この場所で見た5〜6株はすべて赤刺であった。幻の金冠竜にめぐり合ったのに、身の震えるほどの興奮を覚えなかったのはイメージが違ったせいである。賀来氏は30年来の夢がこわれた、とまで口に出して落胆の様子。今にして思えば何とも勿体ない話だ。印象に残ったのは枝ぶりの見事な象の木。盆栽のようにうねった枝を地表近くまで伸ばし、傍らの金冠竜との対比がまことによい。

古木と象の木
黄刺の古木 後ろは象の木か?

 リンゼイ博士は何か不満の様子、彼の記憶では昔はもっと沢山あったというのである。私達がそこら中を歩き回ってキョロキョロしているのを見て運転手が博士に言葉をかける。勿論私には話の内容はわからないが、彼がもっと沢山ある場所を知っていると進言したらしい。
 彼の言葉に期待を残し、日はまだ高いが村へ引き返す。ここにはホテルなどはなく、今夜の宿泊の問題もあったからである。最悪の場合を予想し人数分の寝袋まで用意してきたのだ。幸い公民館のような所へ泊まることができ、村長の家で夕食の仕度までしてくれた。思いがけない歓迎ムードに緊張もほぐれるころ、予期しない事態が起こる。政府から派遣されてこの島に来ている漁業関係の役人という男がテキーラ片手に現れたのである。リンゼイ博士の通訳によれば、この島の植物は1種8本以上の持ち出しは一切まかりならん、明日の積み込みの際に調べに行く…というのである。こちらは農林省の特別許可があるといって書類を見せても承知しない。博士はしぶしぶ了承した。話は決った、サァ飲もうということになったが、博士も賀来さんも酒の相手はできない。と言う訳で私の出番となり、テキーラの正しい飲み方などの御指導にあずかり、夜遅く彼は千鳥足で引き揚げていった。 さて翌日。村の北にそびえる山の方角へ向かう。世界中のサボテン関係者が一度も足を踏み入れたことのない金冠竜の自生地は思ったより近かった。 
 10分ばかりも山道を登ったろうか、遂に黄金剌の金冠竜を発見した。それも何本か続けて。1本ごとに歓声をあげて車から飛び降りる私達は運転手に促されて彼のポイントに着く。そこは起伏が多く変化に富んだ場所で、谷間から斜面へ、その上の台地へと大小の黄刺・赤剌の美球がわれわれを待っていてくれた。飛行機のスペースを考え、約40本を採集した。昨夜の役人との約束は?という不安もあり横目で博士の顔をうかがうが平然としている。何か策があるのだろう。
 そもそも今回の探査行は、リンゼイ博士側(サンディエゴ自然史博物館)がすべての段取りを整え、日本側がその経費を負担する、という形で実現した。賀来氏と私にしてみれば、採集品の大部分(博物館側でキープする分は除く)を日本に持ち帰り、越味家に買ってもらって費用を捻出しなければならない。従って本数は多ければ多いほどよい。1種8本では話にならない。 
 勿論リンゼイ博士もそのことは十二分に承知している。悪いようにはしないであろう。今われわれは宝の山のまっただ中にいる。「これは多少剌がよくないが大きいものが好きなあの人に買ってもらおう。これは小振りだが剌はすばらしい、○○さん向き」などと日本の栽培家の顔を思い浮かべながら談笑する余裕も出てきた。さらに幸運だったのは結実期にあたっていたことである。持ち帰った種子は、赤剌個体のもののほうが多かったと記憶する。発芽はよく、多くの実生苗が世に送りだされたが、当初、赤剌の苗の人気は芳しくなく黄剌のものほどには大切にされなかった。結果として数年後には品薄となり、その頃から稀品視されて価格が高騰しはじめたのである。
 予定した作業はすべて完了した。私達は山頂に向かう山道を登る。ほどなく広々とした石コロ混じりの台地に出る。石礫に埋もれた鈎刺のマミラリアが見られた。博士によればグッドリッジM.goodridgiiだという。白肌の美しい、アガベ・セバスティアナAg.sebastianaが太い花梗をあげていた。このアガベを1株持って帰りたいというと、それなら君は飛行機に乗るな、といわれて諦めざるを得なかった。

 迎えの機は2時に来た。積み込みをはじめたが、昨夜、役人風を吹かせて難題を持ちかけた酔っぱらいの姿はない。酔いつぶれて寝ていたとすれば私の手柄である。「役人には3時に出発するといっておいた」リンゼイ博士は機上でウィンクして見せた。   

                            (上の画像をクリックすると拡大されます)

 それから30年、1992年の秋、再びセドロス島を訪れるチャンスがめぐってきた。今回の旅は南北に細長く延びるカリフォルニア半島(メキシコ領バハ・カリフォルニア)を北から南へ縦走し、途中の主要カクタス自生地と太平洋側のセドロス島はもちろん、半島東側のカリフォルニア湾の島々に自生する植物も見てこようという壮大な計画である。

 半島縦断のカクタス見学旅行は、既に1976年九州カクタスクラブの長谷川弘氏(故人)が中心となって達成しているが、周辺の島々までは及んでいない。私の知る限りでは日本人では1977年清水秀男氏(熱川バナナ・ワニ園)が半島全土に加えてカリフォルニア湾内のカルメン島とセラルボ島に上陸を果たしているだけである。 今回の計画は清水氏の訪ねた2島に加えて、フェロカクタス竜鵬玉の自生地として知られるスミス諸島とフェロ・ジョンストニアヌスF.johnstonianusが自生するというアンヘル・デ・ラ・グァルダ島上陸も予定している。前年のメキシコ本土への旅は経験豊かな清水氏とメキシコ在住の関口千之氏が同行してくれた。私は自生地に関しても、移動や宿泊についても何の勉強もせず、ただお客様として加わっていればよかったが、今回は清水氏は同行しない。言葉や車のことは再度関口氏にお願いするとしても関口氏はバハの自生地に関してはほとんどご存知ないらしい。そこで当然ながら事前調査が不可欠である
武倫柱 仙女盃
Pachycereus pringiei 武倫柱
Dudleya brittonii 仙女盃

 バハ・カリフォルニアはメキシコ本土と違って牡丹類や烏羽玉があるわけではない。もちろん花籠・菊水・帝冠はない。有星類も何かを探しているついでに見られるテロカクタスだのコリファンタもない。しかし、ここにはここでしか見られない植物が色々ある。一度は行ってみたいとマニアの心をそそるすばらしい光景がわれわれを待っている。半島の北部を除き、ほぼ全土を覆う武倫柱の偉容、天に向かってそびえ立つ観峰玉の群落、どっしりとしたアガベ・シャウイAg.shawii、神々しいまでに白いダドレヤ仙女盃、象の木やブルラセもいい。だが何といってもお目当てはバハ・カリフォルニア固有のフェロカクタスの各種であろう。ここは刺ものファンにとっては憧れの地である。
 私には強い味方がいる。強刺が好きなことでは抜群で、しかも研究熟心な平野裕氏である。案内人不在の今回の旅行では自生地に関しての内外の文献の記述、清水氏の体験談、それにほんの一部についてではあるが私自身のわずかな経験だけがよりどころとなる。平野氏は何年も前からいずれは強刺類全種の自生地踏破を目標に周到な準備を重ねてこられた。“リンゼイ博士の記事によれば○○はこういう所に生えている。ウンガーさんの本によれば△△はここにある”というようなことはほとんど頭に入っている。その上、原地の地図を取り寄せてコースを調べ場合によれば航空写真を手に入れて、例えばある島の上陸ポイント、踏査可能の斜面まで検討するという熱中ぶり。驚いたことにモトクロスか何かの関係だろうか、普通の観光地図等には載っていないダートルートの情報まで持っているのである。旅行に必要な交通・宿泊事情なども可能な限り調べ上げている。旅行計画の立案は平野氏にお任せして一行は10月1日出発した。プランは万全ではなかった。肝心のセドロス島へのアクセスがブランクだったのである。原地へ行けば何とかなるであろう…と言う見切り発車だった。バハ北端の町ティファナで関口氏と合流して最初の話題もセドロス行きの件だった。 

機上からの景色 塩の山 空港
機上からの風景 塩の山 空港

セドロス島はカリフォルニア半島のほぼ真ん中のセバスティアン・ビスカイの湾の沖合に位置する。一番近い町はティファナから約700 km南のゲレロネグロ。予定通りの日程で行けば到着は6日目である。八方手をつくした結果、何とかわれわれを島に運んでくれる便が確保できた。ただし相当高くつくがこの際仕方がない。
 約束通り小型機はゲレロ・ネグロ空港にいた。30年前の時と比べれば格段に外観・内装がよくパイロットの服装もきちんとしていた。島に近づくにつれて巨大な塩の山が目に入る。製塩業が盛んなのであろう。約30分。今度は砂浜ではなく、施設らしいものはないが一応飛行場の体をなしている広場に着陸。早速2台のタクシーが近寄ってくる。予期せぬことで驚いたが、あれから30年も経っていることだし,人口も3千人から8千人にも増えたというから当然ともいえる。私の古い記憶など役に立たないかもしれない。

 セドロス島にはその後、何人かのサボテン関係者が訪れていて、そのうちの1人が数年前のアメリカのジャーナルに地図つきで自生地のポイントを発表している。今回はそれに基づいて動いてみよう。タクシーといっても超オンボロ、日本ならとうに廃車になっているシロモノである。1台の車に一行が乗り込むと、あぶれたもう1台はすぐ町のほうに去って行く。上空に機影が見えると客拾いに来るのであろうか。
 片側のドアが開かない代わりに窓が閉まらない欠陥車はヨタヨタと走りだす。先ず南のポイント。私以外の同行者にとって自生地の金冠竜との初対面は幻滅だった。イメージとはかけ離れた埃っぽい斜面にポツポツと生えていた黄刺の株は背景に同調するかのように薄汚れていた。ここは駄目だ。北のほうへ行けばもっといい場所があるはずだと運転手と交渉する。そちらの山道は4駆でなければ行けないという。無理もない、この車では平地でさえ危なっかしい、などと同情しても始まらない。
 やりとりの末、この車で行ける所にサボテンが生えている所を知っているとの言を信じて連れて行ってもらうことにする。車は町に向かって走り、すぐ手前を脇道にそれる。違う!私が昔行った所は町を抜けた先だった!と言おうと思ったが、とんだ浦島太郎になる可能性もある。それに時間的制約もある。ここは地元の人を信じよう。
 間もなく車は河原のような石ころ道を行く。運転手はハンドルをとられまいと必死の形相。われわれはパンクのほうが気になる。たとえ新車でも乗用車じゃ絶対無理だ。もういい、後は歩こうと車を停めた所が宝の山であった。金冠竜の自生
 
 あるはあるは!黄刺も赤刺も。ここまで走ってきた道?の左側は斜面になっていて潅木や草も生えているが、斜面に続く平地部分は岩石が多く…と言うより、ほとんどが角(カド)がついた岩石である。斜面寄りには比較的大きな株が見られるが、岩石原のほうはほとんど小苗である。斜面の親木がこぼした種子が流れて岩石の間に発芽したものと思われる。 30年前にはほとんど見られなかった2〜4cmの小苗が点々と見られる。流石は原産地!惚れ惚れする見事な刺が陽光に輝いて美しい。制約のない時代だったらリュック1杯でも連れて帰りたいほどであった。白妙菊?と金冠竜







  シロタエギクのような銀白葉の草に包まれた赤刺の中球は、昔のイメージそのままで格別の懐かしさを覚えた。金冠竜にはシロタエギクがよく似合う。 
 苦労はしたが幸せいっぱいのひと時であった。
 ここで共生するカクタスは榛名、コケミェア・ポンディ、風流丸系の鈎刺マミラリア。アガベのセバスチアナも何株か見られた。このポイントはアメリカのジャーナルには示されていない。時間をかけて探せば島のあちこちにサボテン関係者の知らないポイントがまだまだあるのではなかろうか。

アガベ・セバスティアナ
Agave sebastiana

運転手によれば、住民は金冠竜を食用にするという。刺を焼いて皮をむき砂糖煮にするのだそうだ。そのせいか径20cm以上の大株の数は少なかった。
 石コロの間に点在する美しい小苗もやがては砂糖煮にされる運命かと思うと心が痛む。

 この素晴らしいサボテン達の無事を念じて飛行場に向かう。楽しい思い出をくれた運転手とオンボロ車よ…有難う。


 あれから又15年の月日が過ぎ、日本からの訪問者も多いと聞くが、サボテン達は元気であろうか。何時の日か、同じ感激を体験した方々と、卓を囲みながら語り合いたいものと思っている。(2005年春)
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