サボテン今昔 16
ドイツからのリサーチ“棚橋半蔵”
Beate Wonde (Weber) Mori-Ogai-Gedenkstaette Humboldt Universitaet zu Berlin ベルリン森鴎外記念館 ベアーテ・ヴォンデ |
棚橋をめぐるリサーチの発端は、私の故郷の町グーベンに住むツィンペル博士からの電話にあった。 おかしな状況に立たされた、と言わざるを得ない。ツィンペル博士は最初、この写真の子供は日本に居たときの祖母だろうと考えていた。
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鴎外による「独逸日記」には、彼が留学生していた頃、公使としてベルリンに滞在していた棚橋、すなわち棚橋軍司についての記述がある。 |
三十日。公使館に至る。公使は未だに帰らず。棚橋軍次を見る。乃ち諸事を委託す。( 鴎外全集、岩波書店 1975年 第35巻 S.97) |
ベルリンの日本大使館に問い合わせてみたところ、次のような返答を頂いた。
棚橋軍次氏について 氏名:棚橋 軍次(たなはし ぐんじ)(旧名:太田 軍次) |
このような情報を得られてもまだ、棚橋軍司の妻は誰だったのか、半蔵の母であったのか、という疑問は解決しない。
森鴎外記念館による出版物に、ルドルフ・ハルトマン博士の「ベルリン大学の日本人学生1868-1914」があり、192ページの学籍登録リストには棚橋半蔵の名前も載っている。
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半蔵が1885年ベルリンで生まれたとすると、彼は父軍司が大使として活躍していた頃に生まれた子供だといえる。
ベルリンの州立資料室および住民登録課に問い合わせて返答を待つあいだ、私は棚橋半蔵の名前をまったく別の場所で目にした。それは、日本におけるサボテン栽培の歴史を紹介したウェブサイトだった。私は早速、ウェブを管理されている大森さんとコンタクトを取り、ご親切にもさまざまな資料や本をドイツに送っていただいた。そして、そこに登場する法学部の学生、棚橋半蔵は、サボテンを通して日本とドイツを結びつけ、両国の橋渡し役を務めた行動的な男の姿であった。
棚橋半蔵氏(右から3人目・白服の男性) | 棚橋氏のロックガーデン |
棚橋氏の出版物 |
鴎外を追いかけたドイツの恋人エリスが、ジェノバに降り立った以降、どうなったのか不明であるように、半蔵もまた、第一次大戦の開始とともに、消息不明となってしまった。第一次世界大戦中、ドイツの大学に日本人留学生は居なかった。つまり戦争勃発と同時に、敵国の人間である棚橋は、大学を中退せざるを得なかったようだ。それから一体どうなったのだろう。
1921年以降のベルリン住民登録簿には、棚橋の名前が再び登場する。
1921年 外交官。Wilmersdorf, Hektor通り5番地一階
電話番号:Pfalzburger 2506番
1923年にも同様の記述があるが、職業は「商人」になっており、電話番号も変えたようで「Uhlandstr. 9385番」になっている。
ついでに、同年の登録簿には「商人 タナハシ・マンゾウ」という名も載っているのだが、マンゾウとは一体何者なのだろうか。半蔵を追いかけてベルリンにやって来た兄もしくは弟、それとも単なるスペルミスであろうか。あの写真の、別の男の子がマンゾウなのだろうか。
1925年の記録では、マンゾウは居らず、半蔵のみとなっている。1927年には、半蔵の職業欄は「農場経営者」となっているが、住所は相変わらずHektor通り5番のままである。30年も同様。1933年、「商人」棚橋半蔵は引っ越しをしたようで、Barbarossa通り42番との記述がある。
奇妙なのは(もしプリントミスなどでなければの話だが)、彼の名前の下に、さらに四人の名前が記されていたことである。
☆リーズベート、郵便局アシスタント(定年退職)、シェーネベルク、テンペルホーファー通り18番
☆パウル、大理石加工職人、ヴァイセンゼー地区、ベルリーナー通り235
☆パウル、進路アドバイザー、ライニケンドルフ地区、レジデンツ通り28番
☆ヴィルヘルム、商人、シャルロッテンブルク地区、シュトゥットガルター広場10番
さらにその下に「タナカ・シゲ、公務員、ヴィルマースドルフ地区、ヘルムシュテッター通り30番」との記述がある。1933年のベルリンに日本人が住んでいたとは驚きである。
質問に質問を重ねていたところで、私は州立資料室から次の返答が得られた(2007年4月20日)。1875年〜1960年にかけて住民登録簿を確認した結果である。
棚橋半蔵 1885年2月16日 ベルリンに生まれる。 1941年11月10日死去(ベルリン・ミッテ区役所Nr.4445) 両親 記述なし 職業 商人 結婚 1.東京にて、Marquite久我みちこ(1894年12月28日、東京で生まれる)と結婚。 2.1939年8月3日リガにて秘書シャルロッテ(1913年11月21日、ベルリン・ノイケ ルンで生まれる)と再婚。 子供の有無: 記述なし 住居: 日本国 二ノ宮 1911年10月8日 ベルリン・シェーネベルク、メラーナー通り9番 1934年5月15日まで オーブントラウト通り32番 1940年1月6日シェーネベルク、アイゼナッハ通り36/37 1942年2月9日プラーガー通り21番 1945年5月8日転居。転居先は不明。 |
何故、彼が長年住んでいたヘクター通りの住居については何の記述もないのだろう。メラーナー通り、アイゼナッハ通りにも全くヒントが見つからない。これではまるで、棚橋が自ら痕跡を断ったようではないか!
また、彼の最初の妻には「Marquise」という称号がついているが、彼女は貴族の出身だったのであろうか。二ノ宮には結婚届が存在するのだろうか。そして二人はいつ別れたのか。また、どうして他の町ではなく、二ノ宮なのか。ひょっとすると、彼の家族、親戚が二ノ宮に定住していたのかもしれない。そしてまた何故、棚橋はリトアニアのリガにて再婚したのか。リガといえば、日本のシンドラーと謳われ、多くのユダヤ人を逃がしてやった、あのスギハラという男性を憶い出してしまうのだが。
さらなる手がかりを求め、今度はベルリン・ミッテ区役所にて死亡証明書の閲覧を求めたが、返事を受け取って私は愕然としてしまった。というのも、棚橋は私が勤務している森鴎外記念館から百メートルほどしか離れていない大学病院「シャリテー」にて死亡したと記されていたからである。1941年11月12日の死亡証明書、No.4445には、下記の事項が記されてあった。
故・棚橋半蔵は日本国籍を所有し、ベルリン日本大使館に公務員として勤務していた。 |
これらの事項は「シャリテー」管理局によって記入された。
これによって、棚橋軍司と半蔵の関係がはっきり証明された。半蔵はベルリンで生まれた軍司の息子であった。
日本大使館に勤務する公務員で、56歳にてこの世を去った棚橋半蔵は、商人として一体どんな役割を果たしたのだろう。
また住所録に登録されていない理由は何だったのだろうか。
最初の予想通り、イーダ・ブラントは間違いなく、半蔵の母親であった。
また、この相談を持ちかけたツィンペル博士の曾祖母、アマリー・シュミットは、マクデブルクに住んでいたブラン ト家のメイドとして働き、彼らが経営するサトウダイコンの加工工場を手伝っていたという。
Magdeburgの地図 | Magdeburgの風景 |
マクデブルクの資料室には、系図の閲覧を希望していたのだが叶わず、また、現地のプロテスタント教会に問い合わせてみたものの、記録は残っていなかった。
だが、半蔵がサボテンに興味を持ったのは、おそらく当時のマクデブルクがサボテン栽培をさかんに行っており、半蔵自身、幼少の頃から親しんできたからであったと考えられる。しかし、マクデブルクもベルリンの植物園にも、まったく棚橋に関するヒントが残っていない。
ブラントという名前を聞いて憶い出すのは、1860年から61年にかけて外交官として日本を視察し、その後日本に親しみ、ドイツ領事として駐在したマックス・フォン・ブラントの名前だが、彼がマクデブルクのブラントと親戚関係にあるのかどうかはわからない。
ライプニッツ家の末裔、アルブレヒト・フォン・ライプニッツ氏からは、その後、半蔵の母イーダが、軍司の死後、4年後に、東プロイセンの地主であったハンス・フォン・ライプニッツとHelgoland島で再婚したと聞いた。(1898年半蔵は13歳)
ツィンペル博士の曾祖母、アマリー・シュミットと半蔵の母親は非常に親密な関係にあったという。アマリーは、自分の子供たちの面倒を見なくてはならかったにもかかわらず、ベルリンでイーダ・ライプニッツ(ブラント)と一緒に暮らしていた。
イーダからアマリーに宛てた、1916年1月3日付のポストカードも、ベルリン・ダーレムの家に、家族代々の書類の中に、大事に保存されている。また、1915年のクリスマスにアマリーが書いた手紙には「今年のクリスマスにはマクデブルクに戻れないと思います。奥様がどうしても私に居て欲しいというので」と書き残されていた。
(棚橋半蔵の母イーダに関する追加情報としてツィンペル博士の娘さんが、ドイツ・ヘルゴラント島にていくつか新しい発見をした。それによると、棚橋半蔵の母イーダは、1960年、カール・ロバート・ブラントとその妻アデルハイド・ヴィガートの間にマクデブルクで生まれ、1898年5月3日、ヘルゴラント島にてハンス・フォン・ライプニッツと結婚したということである。市役所にはこうした資料が残っていなかったが、結婚式を挙げた土地、ヘルゴラント島の教会の記録には、イーダに関する記録が残っており教会の神父さんが教会の記録を検索して確認)
現段階で分かっていることは以上だが、リサーチは続く。
この記事はドイツ・フンボルト大学関連施設「ベルリン森鴎外記念館」のベアーテ・ヴォンデ様から寄稿頂いたものです。今後も協力して“棚橋半蔵リサーチ”を続けて行きたいと思います。棚橋半蔵、および関連人物について何かご存知の方は下記メールアドレスまでご連絡ください。皆様からの情報をお待ちしております。
この記事関連の情報をWebシャボテン誌http://www5e.biglobe.ne.jp/~manebin/index.htmlに掲載いたしております。 トップページ左側のコンテンツより「サボテン教室」バックナンバー2007/5月掲載分をご確認下さい。
又、この記事を頂くきっかけとなった“棚橋半蔵氏の業績”は当サイトのバックナンバー2005/1に掲載してあります。
Webサボテン今昔 事務局 大森緋可子
Hikako Omori <stray-sheep@mtb.biglobe.ne.jp>
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