サボテン今昔 16 
ドイツからのリサーチ“棚橋半蔵”



Beate Wonde (Weber)
Mori-Ogai-Gedenkstaette

Humboldt Universitaet zu Berlin


ベルリン森鴎外記念館
ベアーテ・ヴォンデ

 棚橋をめぐるリサーチの発端は、私の故郷の町グーベンに住むツィンペル博士からの電話にあった。
「私の家族の日本との関わりについて調べているのだが」と話す彼の手がかりといえば、東京で撮影されたという、二人の子供が写った写真(
の曾祖母の遺品であるという)と、家族代々に伝えられた噂——かつて曾祖母アマリー・シュミット(1857329日生まれ)はマクデブルク市庁舎に呼ばれ、日本語で通訳をするように頼まれたという。さらに、祖父が飼っていた二匹の犬はそれぞれ「タナハシ」「ハンゾウ」と名付けられていた。

 おかしな状況に立たされた、と言わざるを得ない。ツィンペル博士は最初、この写真の子供は日本に居たときの祖母だろうと考えていた。
 というのも彼女は、ワーグナーのテノール歌手だった父
183070年までヨーロッパ各国で活躍し、ドレスデンに拠点を置いていたザクセン王国の宮廷オペラ名誉会員でもあった)の非嫡出子でもあったからである。その父につれられて海外に行ったのだと博士は考えたのかもしれないが、1868年以前に、ドイツ人テノール歌手が非嫡出子の娘を連れて日本に行ったというのは、どう考えてもありえない話である。
 しかも、東京の写真館で撮ったものであるならば、それほど昔ではないはずだ。写真の中の少年(ツィンペル博士は幼少時代の曾祖母だと思っていたが
)二人のうち、年長の方は、良家の少年、それも西洋人との混血児といった印象を、私に与える。この写真がどの時代に撮影されたものか、立っている少年が誰かといったことは、今後日本の専門家に訊いてみようと考えている。

 鴎外による「独逸日記」には、彼が留学生していた頃、公使としてベルリンに滞在していた棚橋、すなわち棚橋軍司についての記述がある。

三十日公使館に至る。公使は未だに帰らず。棚橋軍次を見る。乃ち諸事を委託す。( 鴎外全集、岩波書店 1975年 35巻 S.97
二日棚橋軍次の家に晩餐す。其夫人と相見る。伊東侍醫、有賀文學士等與る。 鴎外全集、岩波書店 1975年 35巻 S.176
三日棚橋石君を延きて陸軍省に至る。余等随ふ。ホルド少将 von Hold と語る。元帥メルケル von Merkel, Feldmarchall-Lieutenant に謁す。(同上)
八日
夜九時維納府を發す。徳停にて谷口と別る。谷口はマグデブルク Magdeburg に赴き、棚橋の妻の妹と見合するなり。
鴎外全集、岩波書店 1975年 35巻 S.177

 どうやら鴎外と同氏の間には親密な付き合いがあったようだ。棚橋軍司は鴎外がベルリンに居る間、いろいろと手助けしたこともあったようだし、ウィーンで再会したり、棚橋の義理の姉(ドイツ人)が鴎外の同僚と婚約したこともあったという(残念ながら結婚は成立しなかったようだが)。
 それでは一体、棚橋軍司の妻と、その姉はどんな人物だったのか。その妻は当時、日本人と結婚することにためらいを覚えなかったのだろうか。

  ベルリンの日本大使館に問い合わせてみたところ、次のような返答を頂いた。

棚橋軍次氏について
2007年3月6日
在ドイツ日本大使館
広報文化班

氏名:棚橋 軍次(たなはし ぐんじ)(旧名:太田 軍次)
本籍:愛知県名古屋市
生年月日:1851年(嘉永4年)12月1日生(注:10月と記述されているものもある)
主な略歴
1873年(明治6年)2月5日 外務省出仕、翻訳局勤務
1874年(明治7年)9月10日 免出仕、在ドイツ日本大使館・書記見習
1876年(明治9年)5月9日 同・書記二等見習
1878年(明治11年)11月1日 同・書記一等見習
1879年(明治12年)12月12日 同・外務三等書記生
1885年(明治18年)2月14日 在オーストラリア日本公使館・外務書記官
      同年7月20日 在ドイツ日本大使館
1886年(明治19年)2月16日 在オーストリア日本公使館
1891年(明治24年)7月29日 在オランダ日本公使館・公使館書記官
        (同年8月27日〜1892年6月12日 同・臨時代理公使)
1892年(明治25年)3月29日 帰朝命令
      同年8月31日 帰朝

1894年(明治27年)9月17日 死去(大磯にて病気療養中)

 このような情報を得られてもまだ、棚橋軍司の妻は誰だったのか、半蔵の母であったのか、という疑問は解決しない。
 森鴎外記念館による出版物に、ルドルフ・ハルトマン博士の「ベルリン大学の日本人学生1868-1914」があり、192ページの学籍登録リストには棚橋半蔵の名前も載っている。

棚橋半蔵 
1885
年ベルリン生まれ—没年月日不詳

1904/05
年冬学期より07/08年の冬学期までライプツィヒ大学法学部在籍
   住所 Playwitzerstr. 19/1
1911/12年冬学期より1914年夏学期までベルリン大学法学部に在籍
   住所 ベルリン・シェーネベルク地区Meraner Str. 9

   (1911年のベルリン住民簿には登録されていない)

 半蔵が1885年ベルリンで生まれたとすると、彼は父軍司が大使として活躍していた頃に生まれた子供だといえる。
ベルリンの州立資料室および住民登録課に問い合わせて返答を待つあいだ、私は棚橋半蔵の名前をまったく別の場所で目にした。それは、日本におけるサボテン栽培の歴史を紹介したウェブサイトだった。私は早速、ウェブを管理されている大森さんとコンタクトを取り、ご親切にもさまざまな資料や本をドイツに送っていただいた。そして、そこに登場する法学部の学生、棚橋半蔵は、サボテンを通して日本とドイツを結びつけ、両国の橋渡し役を務めた行動的な男の姿であった。

棚橋半蔵氏(右から3人目・白服の男性) 棚橋氏のロックガーデン
棚橋氏の出版物

 鴎外を追いかけたドイツの恋人エリスが、ジェノバに降り立った以降、どうなったのか不明であるように、半蔵もまた、第一次大戦の開始とともに、消息不明となってしまった。第一次世界大戦中、ドイツの大学に日本人留学生は居なかった。つまり戦争勃発と同時に、敵国の人間である棚橋は、大学を中退せざるを得なかったようだ。それから一体どうなったのだろう。

1921年以降のベルリン住民登録簿には、棚橋の名前が再び登場する。
1921年 外交官。Wilmersdorf, Hektor通り5番地一階 
電話番号:Pfalzburger 2506
1923年にも同様の記述があるが、職業は「商人」になっており、電話番号も変えたようで「Uhlandstr. 9385番」になっている。

 ついでに、同年の登録簿には「商人 タナハシ・マンゾウ」という名も載っているのだが、マンゾウとは一体何者なのだろうか。半蔵を追いかけてベルリンにやって来た兄もしくは弟、それとも単なるスペルミスであろうか。あの写真の、別の男の子がマンゾウなのだろうか。
 1925年の記録では、マンゾウは居らず、半蔵のみとなっている。1927年には、半蔵の職業欄は「農場経営者」となっているが、住所は相変わらずHektor通り5番のままである。30年も同様。1933年、「商人」棚橋半蔵は引っ越しをしたようで、Barbarossa通り42番との記述がある。
 奇妙なのは(もしプリントミスなどでなければの話だが)、彼の名前の下に、さらに四人の名前が記されていたことである。

☆リーズベート、郵便局アシスタント(定年退職)、シェーネベルク、テンペルホーファー通り18
☆パウル、大理石加工職人、ヴァイセンゼー地区、ベルリーナー通り235
☆パウル、進路アドバイザー、ライニケンドルフ地区、レジデンツ通り28
☆ヴィルヘルム、商人、シャルロッテンブルク地区、シュトゥットガルター広場10
 さらにその下に「タナカ・シゲ、公務員、ヴィルマースドルフ地区、ヘルムシュテッター通り30番」との記述がある。1933年のベルリンに日本人が住んでいたとは驚きである。
質問に質問を重ねていたところで、私は州立資料室から次の返答が得られた(2007420日)。1875年〜1960年にかけて住民登録簿を確認した結果である。

棚橋半蔵 1885216日 ベルリンに生まれる。
     19411110日死去(ベルリン・ミッテ区役所Nr.4445
両親    記述なし
職業    商人
結婚    1.東京にて、Marquite久我みちこ(18941228日、東京で生まれる)と結婚。
      2.193983日リガにて秘書シャルロッテ(19131121日、ベルリン・ノイケ
       ルンで生まれる)と再婚。

子供の有無:  記述なし
住居:        日本国 二ノ宮
           1911108日 ベルリン・シェーネベルク、メラーナー通り9
       
1934
515日まで オーブントラウト通り32
        1940
16日シェーネベルク、アイゼナッハ通り36/37
        1942
2月9日プラーガー通り21
           194558日転居。転居先は不明。

 何故、彼が長年住んでいたヘクター通りの住居については何の記述もないのだろう。メラーナー通り、アイゼナッハ通りにも全くヒントが見つからない。これではまるで、棚橋が自ら痕跡を断ったようではないか!
 また、彼の最初の妻には「Marquise」という称号がついているが、彼女は貴族の出身だったのであろうか。二ノ宮には結婚届が存在するのだろうか。そして二人はいつ別れたのか。また、どうして他の町ではなく、二ノ宮なのか。ひょっとすると、彼の家族、親戚が二ノ宮に定住していたのかもしれない。そしてまた何故、棚橋はリトアニアのリガにて再婚したのか。リガといえば、日本のシンドラーと謳われ、多くのユダヤ人を逃がしてやった、あのスギハラという男性を憶い出してしまうのだが。

 さらなる手がかりを求め、今度はベルリン・ミッテ区役所にて死亡証明書の閲覧を求めたが、返事を受け取って私は愕然としてしまった。というのも、棚橋は私が勤務している森鴎外記念館から百メートルほどしか離れていない大学病院「シャリテー」にて死亡したと記されていたからである。19411112日の死亡証明書、No.4445には、下記の事項が記されてあった。

故・棚橋半蔵は日本国籍を所有し、ベルリン日本大使館に公務員として勤務していた。
居住地はベルリン・シェーネベルク、アイゼナッハ通り36番。
19411110915分、ベルリンの大学病院「シャリテー」にて息をひきとる。
同氏は1885216日、ベルリンにて誕生。

父:棚橋軍司。日本で死去。
母:イーダ・フォン・ライプニッツ(旧姓ブラント)ポツダムで死去。
妻:シャルロッテ・アンナ・エマ・タナハシ。

 これらの事項は「シャリテー」管理局によって記入された。

 これによって、棚橋軍司と半蔵の関係がはっきり証明された。半蔵はベルリンで生まれた軍司の息子であった。
 日本大使館に勤務する公務員で、56歳にてこの世を去った棚橋半蔵は、商人として一体どんな役割を果たしたのだろう。
 また住所録に登録されていない理由は何だったのだろうか。

 最初の予想通り、イーダ・ブラントは間違いなく、半蔵の母親であった。
 また、この相談を持ちかけたツィンペル博士の曾祖母、アマリー・シュミットは、マクデブルクに住んでいたブラン ト家のメイドとして働き、彼らが経営するサトウダイコンの加工工場を手伝っていたという。

Magdeburgの地図 Magdeburgの風景

 マクデブルクの資料室には、系図の閲覧を希望していたのだが叶わず、また、現地のプロテスタント教会に問い合わせてみたものの、記録は残っていなかった。
 だが、半蔵がサボテンに興味を持ったのは、おそらく当時のマクデブルクがサボテン栽培をさかんに行っており、半蔵自身、幼少の頃から親しんできたからであったと考えられる。しかし、マクデブルクもベルリンの植物園にも、まったく棚橋に関するヒントが残っていない。

 ブラントという名前を聞いて憶い出すのは、1860年から61年にかけて外交官として日本を視察し、その後日本に親しみ、ドイツ領事として駐在したマックス・フォン・ブラントの名前だが、彼がマクデブルクのブラントと親戚関係にあるのかどうかはわからない。
 ライプニッツ家の末裔、アルブレヒト・フォン・ライプニッツ氏からは、その後、半蔵の母イーダが、軍司の死後、4年後に、東プロイセンの地主であったハンス・フォン・ライプニッツとHelgoland島で再婚したと聞いた。(1898年半蔵は13歳)
 ツィンペル博士の曾祖母、アマリー・シュミットと半蔵の母親は非常に親密な関係にあったという。アマリーは、自分の子供たちの面倒を見なくてはならかったにもかかわらず、ベルリンでイーダ・ライプニッツ(ブラント)と一緒に暮らしていた。
 イーダからアマリーに宛てた、
191613日付のポストカードも、ベルリン・ダーレムの家に、家族代々の書類の中に、大事に保存されている。また、1915年のクリスマスにアマリーが書いた手紙には「今年のクリスマスにはマクデブルクに戻れないと思います。奥様がどうしても私に居て欲しいというので」と書き残されていた。
棚橋半蔵の母イーダに関する追加情報としてツィンペル博士の娘さんが、ドイツ・ヘルゴラント島にていくつか新しい発見をした。それによると、棚橋半蔵の母イーダは、1960年、カール・ロバート・ブラントとその妻アデルハイド・ヴィガートの間にマクデブルクで生まれ、189853日、ヘルゴラント島にてハンス・フォン・ライプニッツと結婚したということである。市役所にはこうした資料が残っていなかったが、結婚式を挙げた土地、ヘルゴラント島の教会の記録には、イーダに関する記録が残っており教会の神父さんが教会の記録を検索して確認)

現段階で分かっていることは以上だが、リサーチは続く。


この記事はドイツ・フンボルト大学関連施設「ベルリン森鴎外記念館」のベアーテ・ヴォンデ様から寄稿頂いたものです。今後も協力して“棚橋半蔵リサーチ”を続けて行きたいと思います。棚橋半蔵、および関連人物について何かご存知の方は下記メールアドレスまでご連絡ください。皆様からの情報をお待ちしております。
 この記事関連の情報をWebシャボテン誌http://www5e.biglobe.ne.jp/~manebin/index.htmlに掲載いたしております。 トップページ左側のコンテンツより「サボテン教室」バックナンバー2007/5月掲載分をご確認下さい。
 又、この記事を頂くきっかけとなった“棚橋半蔵氏の業績”は当サイトのバックナンバー2005/1に掲載してあります。

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